提出された my remarks から、「あいさつ」などの私的なコメントを部分的に省略しています。ただし教育的配慮から、誤字や脱字等はそのままにしています。
Aさん
液状化する身体イメージ、身体のデジタル化という話について、私は『僕のヒーローアカデミア』という漫画を思い出した。この作品では〈個性〉と言われる特殊能力をみんな持っているのだが、敵のボスが自分の〈個性〉のコピーをこれまた敵側の少年に与えるという場面がある。その際、少年は液体で満たされた硬質ガラスの容器に入れられ、その与えられる力に耐えうる体に作り替えられるのだが、その容器は多くの電子ケーブルにつながれていた。つまり体本体にケーブルをつなげたり機械で内部をいじったりするのではなく、子宮と羊水の中とも言えるような環境の中、電気信号を介して身体が作り変えられていたのだ。また、人の〈個性〉を与えられるということは与える側と与えられる側が混ざり合い液状化した状態になると言えるのではないだろうか。
この場面を振り返ると、私は違和感を持たずに読んでいたということに違和感を持った。その敵は強大な力を与えられ、それに耐えうる身体になるよう電子記号を用いて肉体改造されている。つまり、身体を人工的に作り替えられ、新たに生まれ直したようなものである。しかし、私はその人物のことをサイボーグ、作られた人とは認識せず、力が与えられる前と本質的な違いはない一人の人間であると捉えていた。つまり、その人がデジタル情報により作り変えられようと同じ人間として認識していたのだ。人間が人間によって人体改造されてもその人のことを自然な人間と捉え続け嫌悪感等を感じないということには、授業で取り上げられたような身体機能や趣味嗜好の数値化ということがすでに私たちの生活の中に溶け込んでいるからなのではないかと考えた。
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Bさん
身体的なイメージだけでなく、現在はそれを取り巻く社会の枠組みでさえも液状化しているというお話があった。一昔前までは、”多様性”という新しい響きを持ったある種魔法の言葉に惹かれ、閉塞感で溢れた時代から新しい時代が始まるであろうと感じていた。しかし、現在の風潮が一概に悪であるというわけでは全くないが、ある程度これまでに”保たれてきたもの”を保つための何かダムのようなものまでも、高速に液状化する現代の波の中で壊されてしまっているように感じる時もある。液状化を許容し発展していくことと、それを強要することまた、それに対して弱腰になることは異なると感じるのである。
また、”自分は何者であるのか”という問いを立てること自体最近のことであって、アイデンティティが流動化した現在だからこその問いである。その一方で、現代の私たちは0-1で構成されており、高度に発達したテクノロジーがそれを読み解いて、アイデンティティを提示してくれるというお話について、これまでは自らもその渦中の中に身を置いていたためなんとも思わなかったが、改めて客観視するととてもおかしな構図であるとも感じた。適職検査、性格診断、マッチングアプリ等においても、自分の中で流動化してしまったアイデンティティを、機械によって0-1で処理された情報に基づいて設定し、疑うことなく信じ込む。自身の中で考え抜いた上、どうしても掴めなくなった自己像は、機械にとってはただの数字の羅列なのである。人間のアイデンティティは本当にそのような薄っぺらいものなのであろうか。テクノロジーによって人間の根幹を成すものに対して、機械が優位に立つ構図、自身の頭で考えるという段階さえ放棄して機械に”決めてもらう”時代が来るのだろうか。
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Cさん
身体が電子信号に変換され、アイデンティティが液状化する。私達は代替可能なゼロとイチの羅列に成り代わり、自分が自分であるという境界が溶けて解けていく。そんな時代の潮流が講義内では述べられていた。かつては身分や所属集団によって強固に自らを定義できたが、これからは自分のアイデンティティを自分自身で見つけていかなくてはいけない。そういったことが、講義内では言われていた。では、かつての人々は身分や所属集団によって自らを強固に定義することを良しとしていたのだろうか? ファンタジーにおいて、「身分を鼻にかけた特権階級」というのは定番の悪役像だ。庶民を見下す嫌な貴族、権力を盾に平民を脅かす悪代官、民衆を抑圧し支配する支配者。そういった悪役たちに対して、主人公は決まって言い放つのだ。「お前は身分が高いだけで、何一つ優れた所などありはしない」と。身分や立場をアイデンティティとして扱うことは、時代に関わらず嫌悪されてきたことではないのだろうか。分かりやすい悪役像として確立されるほどに、忌み嫌われた行為なのではないだろうか。私達が求めたアイデンティティとは、自己と他者との境界とは、きっと身分や所属集団によって決まるカタログスペックではないのだと思う。私達が本当に欲しているのは、どんな家族の下に生まれ、どんな学校に通い、どんな会社に就職するか、なんて冷めきった数値ではない。家族とどんな関係を結び、クラスメイトとどんな日常を過ごし、会社の人とどんな話をするか。身分や所属集団が強固に示す価値などではなく、自分が所属集団とどういったアプローチで関わるのか、どういった関係性の中で生きているのか。そういった流動的な所に価値を見出すのではないか。身体のデジタル化という時代の潮流は確かにある。けれど、私達が求めていたアイデンティティや自分というのは、初めから数字の羅列に変換できない「何か」ではなかったのだろうか。
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Dさん
住む場所や仕事などが決まっていて、アイデンティティが固定化されていた昔と違って、今はそれらを自由に選択できるようになったことで、アイデンティティが流動化され、自分とは何者なのかという問いを持つようになったと授業では述べられていた。私は、そのような時代において、自分とは何者なのかという問いに答え、さらに、自分を固定化とまでは言わなくても、ふわふわと浮いて飛び散っていってしまわないように、ある程度一つ所に留めておけるようにするためにはどうしたらいいのだろうかと考えてみた。そして「人とのつながり」を認識することがそれを可能にするのではないだろうかと思った。家族や恋人、友人といった自分の周囲の人に対して、自分が何をして、また逆にその人たちに何をされたのかということによって、私たちは自分とその人たちを「糸」でつなげていくことが可能になるだろう。そしてそのつながった先にいる相手を認識することによって、その人に相対している自分という存在を確かめることが可能になり、自分とは何者なのかという問いにひとつ答えを出せるのではないだろか。そこで確かめられる自分という存在は必ずしも毎回同じカタチをとるとは限らず、様々なカタチで現れるだろう。しかし、それら全てが自分であると私は思う。また、つながった相手との関係が様々に変化することによって、自分と相手をつなぐ「糸」は、太くなったり、細くなったり、時には切れたりすることもあり、決して完全な固定はできないだろう。しかし、自分次第でその「糸」を限りなく太くしていくことは可能なのではないだろうか。太い「糸」で強くつながることができれば、私はやがてゆるやかに固定され、それにともなって安心も得ることができるのではないだろうか。
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Eさん
講義ではアイデンティティが浮遊する時代だから、さまざまなものが変化する時代だから自分が誰なのかを知りたくなると仰っていたが、もうすでに自分を知りたいというフェーズは終わったのではないかと私は考える。ポストモダンが近代の枠組みを液状化させ、我々もそれに適応するフェーズに入ったのだと思うのだ。枠組みが破壊された現代は、自身が確立されている方がむしろ生きにくい世の中だと思う。自身を柔軟に変化させられなければ時代に取り残されてしまう。流動的な社会に身を任せて生きていこうという、開き直りの段階に私たちはいると思うのだ。私たちZ世代と呼ばれる人々は、物事に受動的だと言われているが、それは私たちが開き直りの段階にいることの証左だと私は考える。流れに身を任せるから受動的になるのは当然の帰結であり、このことに対して私たちは負い目を感じていない。だから私は、周囲が流動的であるから自分が誰なのかを知りたくなるのではなく、流動的であることで私たちもアイデンティティの確立に対して開き直って、流れに身を任せることが容易にできるようになったのだと思った。
Aさん
スマホを持ち始めた中学校一年生ぐらいのころ、私は友人や家族と思い出を共有するためにSNSに写真を投稿することがあった。最初のうちはその写真にいいね!がつくと嬉しかった。しかし、だんだんといいね!ばかりが気になるようになり、当初は思い出の共有のためだった写真の投稿が、いいね!を貰うための写真の投稿に変わっていった。つまり、より多くのいいね!を貰える自分をSNSのなかに作り上げていこうとしたのである。そうしていいね!乞食になっていくなかで、あるとき、私はふと現実にいる自分とSNSのなかに作られた自分の乖離に気づいた。現実の私=SNSの私であり、どちらも同一の私であると思っていたが、しかし実際には、ヴァーチャルな世界の私は現実の私とイコールではなく、私のドッペルゲンガーだったのである。またSNSの中の自分が私のドッペルゲンガーであることに気づくと同時に、いいね!乞食になっているのは、そのドッペルゲンガーに現実の私が振り回されて、従属させられているからであるということにも気がついた。そのとき私が抱いたのは虚しさだった。自らの意思で私は行動していると思っていたのに、それがいつのまにやら私は自分が作った私によって行動させられていたなんて、なんともマヌケだと思った。自分が自由に扱えるもう一人の《私》という存在は、確かに全能感を与えることもあるかもしれないが、そのもう一人の《私》に支配されていると気づいたときには、虚しさを与えることもあるのではないだろうか。現在の私はSNSに一枚たりとも写真をあげないようにしている。写真をあげなければいいねを気にすることもなく、SNSのなかにいるもう一人の《私》としてのドッペルゲンガーを見ることもないから、そいつへの従属を感じて虚しくなることもないのだ。
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Bさん
SNS等のツールによって自分のドッペルゲンガーをコントロールすることができるということが述べられていたが、その自由度はそこまで高くないように思える。SNSで自分のドッペルゲンガーをコントロールする上では、「リアリティ」が必要になってくるからだ。講義内では、毎週外で友達と遊んでいる自身の姿をインターネットに投稿している学生に対して「キツい」という言葉で教授の感想が述べられていた。教授のみならず、多くの人が同様に「キツい」と感じるだろう。それはその投稿に「リアリティ」が無いからだ。現実感が無く嘘っぽい、あからさまに演出されたドッペルゲンガーは「キツい」のだ。自分を良く見せようという虚栄心が透けて見えるから「キツい」と周りに思われるのだ。だから、誰もが覆い隠す。やり過ぎない程度の脚色で、常識の範囲を出ない味付けで、自分の人生を少しだけ「盛る」のだ。自身のドッペルゲンガーをコントロールする上で、そのコントロール具合は「リアリティ」の範囲を逸脱しないように調整する必要がある。では、そうしてそんなことをするのだろうか。自由自在に自分のドッペルゲンガーをコントロールできるのに、どうして「リアリティ」などにこだわる必要があるのか。「リアリティ」の無いドッペルゲンガーを、どうして私達は「キツい」と感じるのか。それは、私達が少なからずドッペルゲンガーではない「本来の自分」を意識しているからではないだろうか。充実した休日の様子を投稿をSNSに載せようと、美少女のアバターに乗り移ろうと、過激な思想を裏アカに呟いても、やはり「本来の自分」からは逃れられないのではないだろうか。スマートフォンの電源ボタンを押すだけで、暗い液晶画面には自分の顔が映る。そいつは休日とあらば昼まで寝ていて、美少女などとは程遠い不細工で、普段は周りの目を気にして当たり障りの無いことばかりを言っている。そんな「本来の自分」から過剰に乖離することへの忌避感が、潜在的にあるのではないだろうか。
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Cさん
アバターというドッペルゲンガーは、時に単なるなりたいもう1人の自分の投影、内なる他者という次元を超えることがある。オンラインゲームにおけるアバターやVtuberのライブ2Dモデルは2次元的で、液晶画面を境に、身体としての自分とは物理的に切り離された場所で平面的に表現される。自分の見る視界がアバターの視界そのものになることもなければ、アバターの触覚が自分の触覚に通じることもない。それは、人間がドッペルゲンガーとしてのアバターの支配者であるために必要な、"不可能"の要素である。しかし、この"不可能"の要素が"可能"になったアバターがある。メタバース世界におけるアバターだ。3次元のインターネット仮想空間であるメタバース、そこはゲームという世界観にも液晶画面という平面にも囚われない。人々は、経済活動までもが行われるその第二の社会に、アバターを介して入り込む。VRゴーグルをつけた時、アバターは自分自身の肉体と一体化し、身体と感覚ごとその世界に没入する。下を向けば自分の脚が見え、手を前に出せば視界に自分の指先が映る。後ろを振り向けば景色が変わり、誰かと話せばアバターと目が合う感覚がする。自身の視覚、聴覚、触覚、ときに嗅覚までもが、仮想世界にいるアバターと一体化し、ひとつの塊となり、アバターは自分自身となる。内なる他者であり、現実の様々な制約から解き放たれた欲望の表現であったはずのアバターが、自分と切り離された全く別の存在ではなく、身体と感覚に完全にリンクした、隔絶することのできない"自分自身"に限りなく近い存在になる。現実の自分は支配者ではいられなくなり、ドッペルゲンガーに、欲望に、アバターに吸い込まれてゆく。そこでは何にも縛られず、本来なりたい自分として、欲望のままに、その身体と感覚を切り離すことなく、あまりに分かりやすい現実との境界を感じないまま、生活することが出来るのだから。その時、ドッペルゲンガーは人を支配することに成功する。人の欲望が肥大化すればするほど、それをアバターが叶えれば叶えるほど、欲望を現実にする快感を知ってしまったために、人はアバターへ囚われていく。いつか人が本体を忘れ、ドッペルゲンガーとして生きることになる、なんてことが起きてしまうのだろうか。
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Dさん
講義内であった、「人間は自分で自由にすることのできるもう一人の私としてのドッペルゲンガーに従属するようになりつつある」という懸念に対し、確かにこのムーブメントは抗うことが出来ない時代の流れであると思った。よって私は、アバターやドッペルゲンガーが生む「もう一人の私」を完全に受け入れ、その分裂を否定せず活用する新たな自己観を構築するしかないと考えた。従来の「一貫した自我」という概念を手放し、仮想空間での自分と現実の自分を共存させる柔軟な価値観が必要になるだろう。現実社会では、多面的な役割を持つことが当たり前であるように、仮想空間での別人格も「もう一つの現実」として受け止めるべきなのかもしれない。そのためには、アバターを単なる道具ではなく「もう一人の主体」として扱い、その存在に責任を持つ倫理観が必要だと考える。アバターの行動や表現を軽視するのではなく、現実の自分と同じように真剣に向き合い、そこから得られる新たな気づきを現実の生活に反映させる。このような新しい自己観を育むことで、アバターへの依存や疎外感を克服し、むしろそれを成長の一環とする社会の枠組みを作れるのではないだろうか。
Aさん
私は今回の授業を聞いて、『かがみの孤城』と『ふちなしのかがみ』という辻村深月の二つの小説を思い浮かべた。
『かがみの孤城』は、ある日不登校の中学生の女の子が持っていた鏡が光り、その鏡の向こうに広がる城で6人の中学生と共に願いが叶う部屋の鍵を探すという物語である。この物語では鏡を媒介として城のある異世界と現実を行き来する。現実での彼女はいじめられたことをきっかけに不登校になっていたが、城の中での彼女は仲間たちと楽しそうに過ごしていた。このことはコミュニティによる違いと受け取ることもできるかもしれないが、鏡の中の城での自分、現実とは異なる自分というメディアを通して自己肯定することができるようになっていく様子が描かれていたのではないかと思う。
また、『ふちなしのかがみ』は条件を満たした鏡を背にして立ち、深夜零時ちょうどに振り返ると自分の未来が一瞬鏡に映るという占いに手を出す女性の物語である。女性は自分と好きな人の子供と思われる女の子が鏡に見えたことをきっかけに、夢でも彼との幸せな生活を見るようになる。しかし、現実での彼に彼女がいることを知ったことで、夢の中の夫婦生活も破綻し始める。彼との生活がうまくいかなくなってしまうことに焦りと苛立ちを覚える彼女には、そのうち占いの儀式をしなくても鏡の中に女の子が見えるようになり、その子が段々とこちらに近づいてくる様子が見えるようになるのだ。そして、未来を変えるには鏡から出てきたその子を殺せばいいという情報を彼女が知り、最終的にはその女の子を手にかけるのである。この話の主体は、初めは女性自身であったものの、徐々に鏡の女の子やそれに伴う夢へと移行していっていると捉えることができると思う。また、鏡に映った未来を見たことで自己を肯定するようになったものの、現実世界の情報が入ることで、つまりメディアが除去されることで自己が保てなくなっていく様子が描かれているのではないかと思った。
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Bさん
私がこの講義を聞いて疑問に思ったのは、果たして現代人は外部のメディアによって自己肯定できるようになったのかということである。
現代版メディアの例として挙げられていたレタッチアプリに関して考えてみた。私が高校生、いわゆるJKだった頃、インスタに投稿するものといえばもっぱらプリクラであった。プリクラとは異次元級に顔が美化されるツールであるが、「盛る」ために必死に髪を整えポーズを決めて挑む。そして恐ろしいのは、スマホに読み込んだプリクラのデータをさらにアプリで加工することだった。リップの色から人中の長さまでレタッチして完璧な《私》にする。そうして初めてSNSに発信するのであった。
当時を思い出すと、まさに「麻痺」していたという表現が正しいと思う。完璧にかわいい私、イケてるインスタ、友達からの賞賛。しかし、ふと鏡を見た時、ただのカメラで写真を撮られた時、一瞬で現実に引き戻されるのであった。さらに言えば、絶望であった。メディアによって形作られた自分像があるからこそ、現実の姿との乖離が苦しかった。
大学生となり加工ツールを使わなくなった今、私は本当の意味で自己肯定できるようになってきていると感じる。少なくとも高校時代よりは自分の顔が好きだ。現実から離れれば離れるほどむしろ自分が嫌いになることを知っているため、もうプリクラも撮らないし目が大きくなるカメラで写真を撮ったりもしない。外部メディアと一体化することは、自己肯定どころかむしろ自己否定へとつながっていってしまうと私は思う。
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Cさん
最近、テレビや電車で美容整形の広告をよく見る。高校生に二重整形を勧めたり、中高年にシワ改善を勧めたりするなど様々なものがあるが、こういったものを見ていると少し違和感を感じる。若い人に対しては、こういう顔であるべきだ、というような理想の顔を示し、大人たちに対しては、できるだけ若く見えるようにするべきだ、と説く。こういった広告が人々の欲望を掻き立てているという側面も大いにあると思うが、むしろ私たちの欲望が広告に反映されているとも考えられるだろう。たしかに、ある程度外見を気にする必要はあると思うし、可愛くありたい、かっこよくありたい、若くありたいというのもよくわかる。しかし、外見的価値が損なわれることによって、その人自体の価値が損なわれてしまうかのように思うのはいかがかと思う。特に、老いるということに関してはそれほど気にする必要はないのではないだろうか。歳をとるというのは大抵の場合、悪いことのように言われる。しかし、歳をとったというのは、その分多くの経験をしたということである。経験というのは、つまり精神的な成長である。老いというものを内面的成長の現れと思えるようになれば、それほどシワとかシミとかに神経質にならなくてもよくなるのではないだろうか。性格は顔に出るというような言葉があるように、人間の内面は外見に現れるというのは結構正しいことだと思う。だからこそ、私たちは鏡を見るとき、顔や髪型、服装だけを見ているのではなく、自分の内面つまり自分自身を見ている。つまり、外見的に若くありたいという願望は、自身の内面が年相応に成長していないという焦りのようなものを表しているのかもしれない。
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Dさん
最近、「自撮り」と「他撮り」という言葉が盛んに使われているようと思う。自撮りしたときの自分と、他人から撮られたときの自分。一般的には他撮りされたときの自分のほうがヴィジュアルが良くないとされる。よって、「~すれば他撮りでも盛れる!」といった文言で踊らされる若者たちが後を絶たない、うってつけのルッキズム市場ができあがるというわけだ。写真はたちの悪い鏡だ。やれ広角だの魚眼だの、フィルターだの美白効果だので、在りたい私を、実際にそこにいるかのように表現することができる。しかし、"盛れた私"は現実にはいない。というより、確かめることはできない。鏡で見る私、自撮りの私、他撮りの私……もっと言えば、鏡ごと、カメラごとに写り方(映り方)も変わるだろう。なんにせよ、そこにいるのは「フィルターをかけたキラキラの私!」では確実にないだろうが、どれが本当の私なのか、知る術はない。だからこそ、「他撮り」の醜い私を、「自撮り」の盛れた私に近づけるために、日々自分を磨くのである。これは私自身も例外ではなく、人から写真を撮られることを少し怖がる自分が、美しい虚像になりたい自分が、確かにここにいる。しかし、最近になって新たな知見を得た。ある日突然、とあるYouTuberの動画が、アルゴリズムの荒波を越えてオススメという海岸に現れたのだ。タイトルは「【写真写り悪い人必見】無加工他撮りで事故ったときに見る動画」だ。バカらしいと思うかもしれない。実際に、私も文字を打ちながらバカらしいと思っているが、一旦話を聞いてほしい。その動画の中で話されたのは「一番可愛いと思った自分を本物の自分と思って信じたらいい」とのことだった。瞬間、私は「なるほど」と目を瞠った。何が本当か分からないのであれば、自分を信じたいものを信じればいい。暴論かもしれないが、掘れども掘れどもたどり着かない地底を探すより、漕げども漕げどもたどり着かない水平線を目指すより、よっぽど健全じゃあないかと思ってしまったのだ。鏡の中の自分を信じたっていいし、写真の自分を信じたっていい。メディアの従僕となった自分を信じたっていいのだと。「自撮りが善、他撮りが悪」の二元論から抜け出し、「自分が信じるもの」の一元論へ。これでは、思考の停止だと、諦めだと、思われてしまうかもしれない。けれども、考え続けて壊れるよりも、盲目という逃げの一手を選べるほうが、現代ではハッピーかもしれない。
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Eさん
スマホには、自分の欲望が詰まっている。加工が施された写真、自分の好みに偏ったコンテンツ、目にしていたい情報、聞いていたい音楽、どれも簡単にその手のひらサイズの中に保存し、嫌いなものは削除して、自分の欲望のためだけのオリジナル端末へ作り変えてきた。スマホは元より欲望だけを映すメディアであったわけではない。そうしたのは、スマホを目的語にしていたころの私自身である。初めてスマホの画面を開いたとき、そこは果てしない情報の海だった。次から次へと、脈絡を気にせず処理しきれないほどの情報が飛び込んでくる。ひどい疲労感だ。周りが持っているから、と両親にねだり手に入れたはずのそれは、ただただ私におびただしい量の情報を浴びせるだけのものだった。しかし、時間が経って自分が使用者として成長し始めると、端末は体に馴染んでいった。検索したワード、お気に入りに登録したコンテンツ、いいねを押した写真、ミュートにした言葉、興味がないと突っぱねた情報、様々な使用者としての行為が、スマホを自分だけのモノへ変化させていった。いつの間にか、端末は自分の在りたい世界そのものになっていた。そうして私は今も、自分で作り変えてきた欲望の端末から離れることができない。私が何時間もかけて自分のために創造した小さな世界なのだから、敵国からの侵攻を防ぐように、外部から入り込もうとする見たくない情報を無視するのも当然のことかもしれない。私は私が作り変えた自分のための小さな世界を、あの端末に見ている。そして、その世界に生かされている。
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Fさん
今回の授業を受けて、『ヘルタースケルター』という作品の主人公りりこに思い至った。彼女は、元のままなのは骨と目ん玉と爪と髪とアソコぐらいと言われているほど全身を整形していて、その整形によって手に入れた美しい容姿で、芸能人として人気を得ている。授業を踏まえて言い換えれば、りりこは美容整形というメディアによって、自己肯定感を得ているといえるだろう。そんな彼女の日課は、全身がうつる大きな鏡の前で、裸体になって自分の美しさを確認することであり、時には某ディズニー作品の有名なセリフ「鏡よ鏡 この世で一番美しいのはだあれ?」なんてセリフを唱えながら、うっとりと自分の鏡像を見つめている。美容整形というメディアだけではなく、さらに鏡というメディアを通して、より自らの自己肯定感を高めさせているといえるこの瞬間は、ナルシシズムの頂点に達していると言えるのではないだろうか。しかし、ナルキッソスになって、順風満帆のように思えた彼女の人生にも暗雲が立ち込め始める。全身整形による後遺症の影響で、アザが顔や体に出てくるようになるのだ。美しくつくったはずの自らの身体に醜いアザができる様子をみた彼女は、鏡の前で発狂し、やがて精神的におかしくなっていってしまう。そしてついにとうとう全身つくりものであることが世間にすべて知られてしまい、記者会見をすることが決まったあと、彼女は控え室に片目とおびただしい量の血の跡を残して消える。この片目をえぐりとって置いていった理由として、私は、欠けた視界になることでもう全身をみることができないようにしたかったからではないだろうかと考えた。つまり、鏡による支配から逃げたかったのではないだろうかということである。ドリアン・グレイが自らの肖像画にナイフを突き立てることで真に自立・自律したように、彼女は自らの目をえぐりとることでそれを成し遂げたかったのではないだろうか。今の時代、メディアを通して自己肯定感を高めることをやめるのは不可能だと思う。また、それは必ずしも悪いことではないとも思う。しかし、行き過ぎたメディアへの執着はやがて自分の身を滅ぼすことにつながることもあるのかも知れない。そしてそうなったときには、ドリアン・グレイやりりこがしたように、自らの強い意志でメディアへの従属状態から自分を解き放つことができれば、助かることができるのかもしれないと思った。
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Gさん
主体だったはずの人がいつのまにかスマホのサーバントになっているという話を聞いて、すぐにBeReal.(通称:ビリア)というSNSが頭に浮かんだ。これはインスタのストーリーにも近いが、より「リアルな今の自分」を共有するためのSNSである。ビリアの主な機能はカメラと、他人の投稿へのリアクションのみであり、その場でその瞬間に撮った写真を1日2回まで投稿することができる。しかしここで、我々をサーバントたらしめる仕様が2つある。1つは通知である。1日1回、毎日ランダムな時間にやってくるものであり、通知が来てから2分以内に写真を撮って投稿すればその日のうちに撮ることができる写真の数が増える、というものだ。そして2つ目は、自身が投稿しない限り他人の投稿が見れないという仕様である。授業中だろうと、電車の座席に座っていようと、家でだらけていようと通知が来たら周りも気にせずとりあえず写真を撮る。そんな人々を見かけたことがきっとあるはずだ。そして、ビリアがインスタに次いでここ数年流行し始めたのは、冒頭にも述べた「リアルな今の自分」の共有にあると思う。インスタのように過去の写真・動画を投稿したり、加工したりすることができない分、より「リアル」な自分の姿を生活をSNSを通して肯定してもらうことができる。我々はビリアの忠実なサーバントになることで自己肯定感を、自立性を保つことができるのだ。
Aさん
私は今回の授業を聞いて、『かがみの孤城』と『ふちなしのかがみ』という辻村深月の二つの小説を思い浮かべた。
『かがみの孤城』は、ある日不登校の中学生の女の子が持っていた鏡が光り、その鏡の向こうに広がる城で6人の中学生と共に願いが叶う部屋の鍵を探すという物語である。この物語では鏡を媒介として城のある異世界と現実を行き来する。現実での彼女はいじめられたことをきっかけに不登校になっていたが、城の中での彼女は仲間たちと楽しそうに過ごしていた。このことはコミュニティによる違いと受け取ることもできるかもしれないが、鏡の中の城での自分、現実とは異なる自分というメディアを通して自己肯定することができるようになっていく様子が描かれていたのではないかと思う。
また、『ふちなしのかがみ』は条件を満たした鏡を背にして立ち、深夜零時ちょうどに振り返ると自分の未来が一瞬鏡に映るという占いに手を出す女性の物語である。女性は自分と好きな人の子供と思われる女の子が鏡に見えたことをきっかけに、夢でも彼との幸せな生活を見るようになる。しかし、現実での彼に彼女がいることを知ったことで、夢の中の夫婦生活も破綻し始める。彼との生活がうまくいかなくなってしまうことに焦りと苛立ちを覚える彼女には、そのうち占いの儀式をしなくても鏡の中に女の子が見えるようになり、その子が段々とこちらに近づいてくる様子が見えるようになるのだ。そして、未来を変えるには鏡から出てきたその子を殺せばいいという情報を彼女が知り、最終的にはその女の子を手にかけるのである。この話の主体は、初めは女性自身であったものの、徐々に鏡の女の子やそれに伴う夢へと移行していっていると捉えることができると思う。また、鏡に映った未来を見たことで自己を肯定するようになったものの、現実世界の情報が入ることで、つまりメディアが除去されることで自己が保てなくなっていく様子が描かれているのではないかと思った。
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Bさん
私がこの講義を聞いて疑問に思ったのは、果たして現代人は外部のメディアによって自己肯定できるようになったのかということである。
現代版メディアの例として挙げられていたレタッチアプリに関して考えてみた。私が高校生、いわゆるJKだった頃、インスタに投稿するものといえばもっぱらプリクラであった。プリクラとは異次元級に顔が美化されるツールであるが、「盛る」ために必死に髪を整えポーズを決めて挑む。そして恐ろしいのは、スマホに読み込んだプリクラのデータをさらにアプリで加工することだった。リップの色から人中の長さまでレタッチして完璧な《私》にする。そうして初めてSNSに発信するのであった。
当時を思い出すと、まさに「麻痺」していたという表現が正しいと思う。完璧にかわいい私、イケてるインスタ、友達からの賞賛。しかし、ふと鏡を見た時、ただのカメラで写真を撮られた時、一瞬で現実に引き戻されるのであった。さらに言えば、絶望であった。メディアによって形作られた自分像があるからこそ、現実の姿との乖離が苦しかった。
大学生となり加工ツールを使わなくなった今、私は本当の意味で自己肯定できるようになってきていると感じる。少なくとも高校時代よりは自分の顔が好きだ。現実から離れれば離れるほどむしろ自分が嫌いになることを知っているため、もうプリクラも撮らないし目が大きくなるカメラで写真を撮ったりもしない。外部メディアと一体化することは、自己肯定どころかむしろ自己否定へとつながっていってしまうと私は思う。
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Cさん
最近、テレビや電車で美容整形の広告をよく見る。高校生に二重整形を勧めたり、中高年にシワ改善を勧めたりするなど様々なものがあるが、こういったものを見ていると少し違和感を感じる。若い人に対しては、こういう顔であるべきだ、というような理想の顔を示し、大人たちに対しては、できるだけ若く見えるようにするべきだ、と説く。こういった広告が人々の欲望を掻き立てているという側面も大いにあると思うが、むしろ私たちの欲望が広告に反映されているとも考えられるだろう。たしかに、ある程度外見を気にする必要はあると思うし、可愛くありたい、かっこよくありたい、若くありたいというのもよくわかる。しかし、外見的価値が損なわれることによって、その人自体の価値が損なわれてしまうかのように思うのはいかがかと思う。特に、老いるということに関してはそれほど気にする必要はないのではないだろうか。歳をとるというのは大抵の場合、悪いことのように言われる。しかし、歳をとったというのは、その分多くの経験をしたということである。経験というのは、つまり精神的な成長である。老いというものを内面的成長の現れと思えるようになれば、それほどシワとかシミとかに神経質にならなくてもよくなるのではないだろうか。性格は顔に出るというような言葉があるように、人間の内面は外見に現れるというのは結構正しいことだと思う。だからこそ、私たちは鏡を見るとき、顔や髪型、服装だけを見ているのではなく、自分の内面つまり自分自身を見ている。つまり、外見的に若くありたいという願望は、自身の内面が年相応に成長していないという焦りのようなものを表しているのかもしれない。
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Dさん
最近、「自撮り」と「他撮り」という言葉が盛んに使われているようと思う。自撮りしたときの自分と、他人から撮られたときの自分。一般的には他撮りされたときの自分のほうがヴィジュアルが良くないとされる。よって、「~すれば他撮りでも盛れる!」といった文言で踊らされる若者たちが後を絶たない、うってつけのルッキズム市場ができあがるというわけだ。写真はたちの悪い鏡だ。やれ広角だの魚眼だの、フィルターだの美白効果だので、在りたい私を、実際にそこにいるかのように表現することができる。しかし、"盛れた私"は現実にはいない。というより、確かめることはできない。鏡で見る私、自撮りの私、他撮りの私……もっと言えば、鏡ごと、カメラごとに写り方(映り方)も変わるだろう。なんにせよ、そこにいるのは「フィルターをかけたキラキラの私!」では確実にないだろうが、どれが本当の私なのか、知る術はない。だからこそ、「他撮り」の醜い私を、「自撮り」の盛れた私に近づけるために、日々自分を磨くのである。これは私自身も例外ではなく、人から写真を撮られることを少し怖がる自分が、美しい虚像になりたい自分が、確かにここにいる。しかし、最近になって新たな知見を得た。ある日突然、とあるYouTuberの動画が、アルゴリズムの荒波を越えてオススメという海岸に現れたのだ。タイトルは「【写真写り悪い人必見】無加工他撮りで事故ったときに見る動画」だ。バカらしいと思うかもしれない。実際に、私も文字を打ちながらバカらしいと思っているが、一旦話を聞いてほしい。その動画の中で話されたのは「一番可愛いと思った自分を本物の自分と思って信じたらいい」とのことだった。瞬間、私は「なるほど」と目を瞠った。何が本当か分からないのであれば、自分を信じたいものを信じればいい。暴論かもしれないが、掘れども掘れどもたどり着かない地底を探すより、漕げども漕げどもたどり着かない水平線を目指すより、よっぽど健全じゃあないかと思ってしまったのだ。鏡の中の自分を信じたっていいし、写真の自分を信じたっていい。メディアの従僕となった自分を信じたっていいのだと。「自撮りが善、他撮りが悪」の二元論から抜け出し、「自分が信じるもの」の一元論へ。これでは、思考の停止だと、諦めだと、思われてしまうかもしれない。けれども、考え続けて壊れるよりも、盲目という逃げの一手を選べるほうが、現代ではハッピーかもしれない。
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Eさん
スマホには、自分の欲望が詰まっている。加工が施された写真、自分の好みに偏ったコンテンツ、目にしていたい情報、聞いていたい音楽、どれも簡単にその手のひらサイズの中に保存し、嫌いなものは削除して、自分の欲望のためだけのオリジナル端末へ作り変えてきた。スマホは元より欲望だけを映すメディアであったわけではない。そうしたのは、スマホを目的語にしていたころの私自身である。初めてスマホの画面を開いたとき、そこは果てしない情報の海だった。次から次へと、脈絡を気にせず処理しきれないほどの情報が飛び込んでくる。ひどい疲労感だ。周りが持っているから、と両親にねだり手に入れたはずのそれは、ただただ私におびただしい量の情報を浴びせるだけのものだった。しかし、時間が経って自分が使用者として成長し始めると、端末は体に馴染んでいった。検索したワード、お気に入りに登録したコンテンツ、いいねを押した写真、ミュートにした言葉、興味がないと突っぱねた情報、様々な使用者としての行為が、スマホを自分だけのモノへ変化させていった。いつの間にか、端末は自分の在りたい世界そのものになっていた。そうして私は今も、自分で作り変えてきた欲望の端末から離れることができない。私が何時間もかけて自分のために創造した小さな世界なのだから、敵国からの侵攻を防ぐように、外部から入り込もうとする見たくない情報を無視するのも当然のことかもしれない。私は私が作り変えた自分のための小さな世界を、あの端末に見ている。そして、その世界に生かされている。
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Fさん
今回の授業を受けて、『ヘルタースケルター』という作品の主人公りりこに思い至った。彼女は、元のままなのは骨と目ん玉と爪と髪とアソコぐらいと言われているほど全身を整形していて、その整形によって手に入れた美しい容姿で、芸能人として人気を得ている。授業を踏まえて言い換えれば、りりこは美容整形というメディアによって、自己肯定感を得ているといえるだろう。そんな彼女の日課は、全身がうつる大きな鏡の前で、裸体になって自分の美しさを確認することであり、時には某ディズニー作品の有名なセリフ「鏡よ鏡 この世で一番美しいのはだあれ?」なんてセリフを唱えながら、うっとりと自分の鏡像を見つめている。美容整形というメディアだけではなく、さらに鏡というメディアを通して、より自らの自己肯定感を高めさせているといえるこの瞬間は、ナルシシズムの頂点に達していると言えるのではないだろうか。しかし、ナルキッソスになって、順風満帆のように思えた彼女の人生にも暗雲が立ち込め始める。全身整形による後遺症の影響で、アザが顔や体に出てくるようになるのだ。美しくつくったはずの自らの身体に醜いアザができる様子をみた彼女は、鏡の前で発狂し、やがて精神的におかしくなっていってしまう。そしてついにとうとう全身つくりものであることが世間にすべて知られてしまい、記者会見をすることが決まったあと、彼女は控え室に片目とおびただしい量の血の跡を残して消える。この片目をえぐりとって置いていった理由として、私は、欠けた視界になることでもう全身をみることができないようにしたかったからではないだろうかと考えた。つまり、鏡による支配から逃げたかったのではないだろうかということである。ドリアン・グレイが自らの肖像画にナイフを突き立てることで真に自立・自律したように、彼女は自らの目をえぐりとることでそれを成し遂げたかったのではないだろうか。今の時代、メディアを通して自己肯定感を高めることをやめるのは不可能だと思う。また、それは必ずしも悪いことではないとも思う。しかし、行き過ぎたメディアへの執着はやがて自分の身を滅ぼすことにつながることもあるのかも知れない。そしてそうなったときには、ドリアン・グレイやりりこがしたように、自らの強い意志でメディアへの従属状態から自分を解き放つことができれば、助かることができるのかもしれないと思った。
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Gさん
主体だったはずの人がいつのまにかスマホのサーバントになっているという話を聞いて、すぐにBeReal.(通称:ビリア)というSNSが頭に浮かんだ。これはインスタのストーリーにも近いが、より「リアルな今の自分」を共有するためのSNSである。ビリアの主な機能はカメラと、他人の投稿へのリアクションのみであり、その場でその瞬間に撮った写真を1日2回まで投稿することができる。しかしここで、我々をサーバントたらしめる仕様が2つある。1つは通知である。1日1回、毎日ランダムな時間にやってくるものであり、通知が来てから2分以内に写真を撮って投稿すればその日のうちに撮ることができる写真の数が増える、というものだ。そして2つ目は、自身が投稿しない限り他人の投稿が見れないという仕様である。授業中だろうと、電車の座席に座っていようと、家でだらけていようと通知が来たら周りも気にせずとりあえず写真を撮る。そんな人々を見かけたことがきっとあるはずだ。そして、ビリアがインスタに次いでここ数年流行し始めたのは、冒頭にも述べた「リアルな今の自分」の共有にあると思う。インスタのように過去の写真・動画を投稿したり、加工したりすることができない分、より「リアル」な自分の姿を生活をSNSを通して肯定してもらうことができる。我々はビリアの忠実なサーバントになることで自己肯定感を、自立性を保つことができるのだ。
Aさん
教育や様々な歌でそれぞれの個性の尊重が謳われる現代で、若者は自分の個性にレッテルを欲しがっているという話が印象に残っている。確かに「みんな違ってみんないい」という価値観は小学校では国語や道徳を通して、またはそれこそ「世界に一つだけの花」などの音楽を聴いて、違うのは良いことなのだ、自分らしさが大事なのだと教わってきた。しかしその裏では、みんなと違うことは良くないこと、排除の対象になり得ることであるということを私たちは学校という集団生活の中で身をもって体験している。個性が大切と教わりながら、個性が人と違いすぎているとうまく生きていけない。この対照的な価値観を同時に教わるのが義務教育なのである。
そのような個性の両面性を学んできたからこそ、若者と分類される10代~20代の人々は自分の個性も何かの分類にあてはめたがるのではないかと思った。自分の個性は主張したい、尊重してほしい、でも人と違いすぎるとうまく生きていけない。そこで生まれたのが個性に名前を付けて分類することなのではないかと考える。雑誌の個性診断に限らず、最近ではMBTI診断が流行っている。これらを通して、自分の個性はこういうものであると主張できると同時にあくまで分類された中の一つの個性に過ぎないのだと主張することで自分自身を守っているのではないかと思った。
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Bさん
中学生の頃、各クラスに学級目標があり、私たちのクラスは「カレーライス〜十人十色〜」という学級目標になった。カレーライスの中に入っている玉ねぎやにんじん、ジャガイモやお肉などその一つ一つが私たちで、お互いに違うところを認め合いながら「個性」を大切にしよう、という意図の目標だった。今回の「個性」の話、特に『正直個性論』の引用を読んでこの学級目標を思い出した。本の中ではおでんの「だし汁」がよく染みた「味わい」を個性だと例えられていて、その考えを斬新に感じたし納得もした。中学生の頃の私はカレーの中の具材の一つになろうと必死だった。周りとの「差異」に基づく自分らしさを見つけるのに必死で、周りと自分を比べて気分が落ち込むこともあった。私が思うに、現代では「多様性」という言葉が広まりすぎて「個性の尊重」があまりに重要視され、それゆえに逆に自分らしさを見失ったり、個性を見つけようと躍起になった人が心苦しさを感じたりするようになっているのではないか。多様性が認められるようになった反面、個性を持たなければならないという圧力のようなものを感じることがある。「みんな持っている個性というものを自分も持たなければ」という、一種の同調圧力のようなものが、現代には少なからずあるのではないかと思った。
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Cさん
かつて、私には一人の友人がいた。彼は変わったやつだった。高校時代という青春真っ盛りの時期にも関わらず、部活や学校行事といったものには興味を示さず、家で勉強ばかりしているような男だった。「東大」に行くのだと言って、高校一年の頃から勉強にばかり注力するような変わり者だ。だが、彼が勉強面で一際高い能力を持っていたかと言うと、そうでもない。とりわけ頭がキレるというわけでも、飛び抜けたIQを持っているわけでもない。何より、母子家庭出身故に貧しく、塾や予備校で受験勉強の訓練を積むことができなかった。異様に勉強熱心ながらも、秀才と呼ぶには能力的には凡庸。彼はそんな男だった。高校時代、私が彼と顔を合わせる機会は多くなかった。同じ高校に通っていたわけでもなし、会うのは年に一度か二度。その少ない機会で彼が話すのは、決まって勉強のことだった。模試では調子が悪かったとか、過去問が思ったより簡単だったとか、そんな、私にとっては退屈な話だ。「東大」に行くのだという彼の大言壮語も、私は軽く聞き流していた。いざ出願期間になれば、現実的な大学に出願届を出すだろう、と高を括っていたのだ。私の予想は的中した。彼は埼玉大学に出願し、無事合格。その報を聞いた時、私は大金星だと思った。塾や予備校にも通わず、国公立大学に現役合格。これ以上無い成果ではないか。彼自身もその結果に満足している。そう、私は錯覚していた。大学一年生の初夏、彼は大学を中退して浪人をすると言い出した。私は耳を疑った。今の大学に一体何の不満があるというのか。そう、彼を問い詰めた私に返って来たのは、ひどく言い訳じみた言葉の数々だった。曰く、実験の班に嫌なやつがいるとか。曰く、講義が思ったより退屈だとか。曰く、キャンパスが遠くて通学が大変だとか。大学中退を決めるには浅すぎる理由の数々を、私は一つ一つ否定していった。実験の班なんてすぐに変わる。講義が退屈なのは大学生の常だ。通学の問題も、キャンパスの近くで一人暮らしを始めれば解決する。大体、お前の家に二度も受験費用を捻出するだけの金銭的余裕があるのか。今の大学にもう一度合格できる保障も無いだろう。既に埼玉大学に払った学費はどうするつもりなのか。お前は親に無駄な金を払わせることになっても良いのか。すらすらと私の喉を通る糾弾じみた言葉に、論理的な破綻は無かったと思う。特に親へ負担がかかるという指摘は彼にも堪えたらしかったが、彼が今の大学に通い続けると口にすることはなかった。その後も何回か顔を合わせて話す機会があったが、私は彼の方針を変えることはできなかった。「今の大学よりも良い大学に鞍替えする」という彼の方針は、ついぞ変わらないまま、次第に私達は疎遠となった。実際に彼が大学を辞めたのかどうか、私は知らない。ただ、今にして思えば、彼は「個性」が欲しかったのではないかと思う。「東大生」という個性だ。「高学歴」という個性かもしれない。そういう、自分を代表する属性のようなものを欲しがって、それを「大学」に求めたのではないだろうか。「東大に通っている自分」になりたかったから、「埼玉大学に通っている自分」では満足できなかった。「大学名」という分かりやすい装飾品で自分を着飾って、「これが自分の個性だ!」と思いたかったのではないだろうか。「学歴」なんて安っぽいカタログスペックに「個性」を求めた彼は、周囲には愚かで滑稽に見えるかもしれない。しかし、彼を実際に見た私からすれば、あれは愚かだとか滑稽だとか、そんな生易しい話ではない。カルト宗教にハマって堕落していく狂信者を思わせる悲惨さである。講義内で、個性とは鍋の「具」ではなく「出汁」のようなものだと言われていた。しかし、お気に入りの「具」を入れるまで「出汁」の味を認識できない人もいる。現代社会、「何者かにならなければいけない」という強迫観念は強まっているように思う。特に私達のような若い世代は「何者にもなれないまま大人になる」ことを恐れ過ぎるきらいがあるのではないか。そんな恐れを抱く若者に贈る言葉が「あなたはあなたのままで良い」なんて、チープな表現しか無いのが心苦しい。
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Dさん
現在では、あらゆるところで「私は私を変えられる」という消費者の意識を利用したマーケティングを目にする。例えば、自己啓発本や美容整形の広告などである。それらは商業的利益のために、「なりたい自分になりたい」という消費者の欲望を掻き立て、その欲望を叶えてくれるかのような広告を打ち出す。そのようなマーケティングにおいては、なりたい私に変わることが可能だということ、変わることが良いことだと謳われる。このマーケティングが増えるなかで、自分自身を変えることができるという意識は確かに強まった。しかし、実際に容易に変えられるようになったかというと、必ずしもそうではない。自分を変えることは思った以上に難しく、変えられると思っていた自分と容易に変えることができない現実との間に乖離を感じることがある。さらにはSNSの普及によって、自分磨きに成功し、個性を獲得した他者とのギャップを感じやすくなった。このようにして、「私の価値なんて何もない」と自己喪失に陥る若者も少なくないだろう。そんなノイローゼ状態のときに自己を肯定してくれる言葉を、私はSNSでよく目にした。それは、「生きているだけで偉い」というものだ。変われなくてもいい、個性がなくてもいい、生きているだけ充分であるというメッセージを持ったこの言葉は、多くの人を慰めてきただろう。変わりたくても変われない自分から一時的に解放してくれるメッセージ性の強い言葉だ。しかし、よく考えてみると「生きていて偉い」の主語は「みんな」であり、「私」とは正反対である。「生きていて偉い」という言葉は、個性がある「私」もない「私」もひっくるめて、みんな平等に偉いというメッセージを帯びており、個性至上主義の救済措置として機能していると言えるのではないか。
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Eさん
講義内でSUPER BEAVERの『らしさ』が引用されていた。私が注目したいのは1番の歌詞、「理解されない宝物から 理解されるための建前へ」という部分である。人間が年齢を重ねるにつれて他人の目を気にするようになった結果、模範的で、社会に受け入れられ易い姿勢に変化していくことを歌っていると私は解釈した。これはまさしく「皆に見せる私」と「皆に見せる私を創る私」の2人の私が存在することを示している。「理解されない宝物」を持っていた時は、他人の目を気にすることがなく、無理に誰かに見せるための「私」を創る必要がない。この時の「私」は何者かにならなければという焦燥感に駆られることもなく、最も素直で純粋な「私」でいられるのではないだろうか。しかし社会生活を営んでいく中で、そうした素直で純粋な「私」は薄れていく。小さいころ魅力的に感じた物事や夢といった「理解されない宝物」を捨て、「理解されるための建前」を持ち出すようになる。これは、社会に自分の中身や外見をチューニングしていくような行為と言えるのではないか。就活では、よく「あなたという人間は?」と問い詰められる。しかしここでも結局「面接官が好みそうな私」を演じるので、「理解されない宝物」は必要がなく、「理解される建前」を持ち出すことになる。これからサラリーマンとして生きることになるであろう私に、「らしさ」や「個性」が必要とされる場面はやってくるのだろうか。
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Fさん
髪を染めてみたいと言った私に「髪を染めることでしか自分を表現できないのって思う。」と言った友達がいる。映画のTシャツを着ている私に「着ている洋服で自己を演出しているんだね。」と言った友達がいる。髪をボブカットにした私に「(あるインフルエンサー)に憧れているの?サブカルぶっているね。」と言った友達がいる。髪や洋服、アクセサリー。聞いている音楽。見ている映画、ドラマ、小説。身に着けているモノ、鑑賞するモノ、あらゆるすべてのモノが自分を飾り立てるファッションとなり、個性は自分から生み出すものではなく、受容するモノで形成され、測られるようになってしまった側面があると思う。センスが良いと思われたいから、映画評論家が絶賛していた映画を見る。変な人に思われたいから、カルト的名作と評されている漫画を読む。個性主義の煽りを受け、個性のレッテルが欲しい人によって、受容物全般が個性を差異化するための道具になり、消費されている。そうした環境に晒され続けていると、自分が何を好むのか、という美意識はどんどん脆くなっていく。本来は心の底から、ただひたすら純粋に好いていたモノが、他者からの目線を意識して“身に着けた”のでは、という疑念に囚われていく。信じていたものが信じられなくなり、自分自身のことがよりわからなくなった。何を身に着けるのか、何を好むのかではなく、受容物を受容した際に生まれる解釈、まさしく“受容者がテクストを読むときに立ちあがってくる意味”こそが、おでんでいうところの“出汁”であり、“個性”が現れる面であるはずなのに、と思う。
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Gさん
現代では個性を分類されたものに当てはめる、受動的に個性を獲得する、と言及しており、最近よく話題に上がるMBTI診断などはまさにこれだと思った。MBTI診断は全人類の性格を16パターンで区分するもので、授業で扱っていたものよりもパターンが少ない。たった16の分類で性格診断ができるものかと、私自身も星座占い程度にMBTI診断について考えていたのだが、思いのほか周りにMBTI診断の結果を信じている人が多く、SNSのステータスメッセージに掲載している人さえいた。そこで私は、個性という可視化できないものを分類として可視化することによって、同じ分類の人同士でつながれる、自分らしさの檻から抜け出して他者とつながることができる個性がMBTI診断なのではないかと考えた。今回の講義を聴き、MBTI診断などの個性を分類する性格診断の登場は、個性とは一人ひとり違うものでなければならないという2000年代の価値観を覆すものであり、個性にとらわれすぎる必要はないという時代柄を表象するものだと思った。
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Hさん
私は浪人生時代、様々なことについてじっくりと考えることができた。大学受験の現代文の文章では、現代の政治や社会のあり方などについて批判的に述べているものが多かった。それらに関してはもちろん、自分はそこにどう関わっていきたいかや自分自身のことなどについて勉強の合間に考えていた。受験のことだけを考えて、勉強に専念するべきだったかもしれないとも思うが、あの一年間は非常に私にとって大切な期間だったと思う。浪人生というのはほぼニートみたいなもので、自分は何者でもないということを嫌でも受け入れなけらばならない。しかしこの、自分は何者でもないということを受け入れて、空っぽの自分を認めるという行程が大切なのではないかと思う。私たち現代の若者が今、MBTIや「個性」診断などにすぐ飛びついてしまうのは、この行程が非常に辛いものだからだろう。インスタントに属性や見た目で他の人と差を作れば、まるで自分が何者かであるかのような気分になれる。そもそも、私たち若者はバイトやサークルに追われてじっくりとものを考えるということ自体があまりできていないのではないか。私が浪人生の期間を経て学んだのは、学歴でも知識でもなく、自分らしさ神話の忘却だと思う。
Aさん
教育や様々な歌でそれぞれの個性の尊重が謳われる現代で、若者は自分の個性にレッテルを欲しがっているという話が印象に残っている。確かに「みんな違ってみんないい」という価値観は小学校では国語や道徳を通して、またはそれこそ「世界に一つだけの花」などの音楽を聴いて、違うのは良いことなのだ、自分らしさが大事なのだと教わってきた。しかしその裏では、みんなと違うことは良くないこと、排除の対象になり得ることであるということを私たちは学校という集団生活の中で身をもって体験している。個性が大切と教わりながら、個性が人と違いすぎているとうまく生きていけない。この対照的な価値観を同時に教わるのが義務教育なのである。
そのような個性の両面性を学んできたからこそ、若者と分類される10代~20代の人々は自分の個性も何かの分類にあてはめたがるのではないかと思った。自分の個性は主張したい、尊重してほしい、でも人と違いすぎるとうまく生きていけない。そこで生まれたのが個性に名前を付けて分類することなのではないかと考える。雑誌の個性診断に限らず、最近ではMBTI診断が流行っている。これらを通して、自分の個性はこういうものであると主張できると同時にあくまで分類された中の一つの個性に過ぎないのだと主張することで自分自身を守っているのではないかと思った。
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Bさん
中学生の頃、各クラスに学級目標があり、私たちのクラスは「カレーライス〜十人十色〜」という学級目標になった。カレーライスの中に入っている玉ねぎやにんじん、ジャガイモやお肉などその一つ一つが私たちで、お互いに違うところを認め合いながら「個性」を大切にしよう、という意図の目標だった。今回の「個性」の話、特に『正直個性論』の引用を読んでこの学級目標を思い出した。本の中ではおでんの「だし汁」がよく染みた「味わい」を個性だと例えられていて、その考えを斬新に感じたし納得もした。中学生の頃の私はカレーの中の具材の一つになろうと必死だった。周りとの「差異」に基づく自分らしさを見つけるのに必死で、周りと自分を比べて気分が落ち込むこともあった。私が思うに、現代では「多様性」という言葉が広まりすぎて「個性の尊重」があまりに重要視され、それゆえに逆に自分らしさを見失ったり、個性を見つけようと躍起になった人が心苦しさを感じたりするようになっているのではないか。多様性が認められるようになった反面、個性を持たなければならないという圧力のようなものを感じることがある。「みんな持っている個性というものを自分も持たなければ」という、一種の同調圧力のようなものが、現代には少なからずあるのではないかと思った。
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Cさん
かつて、私には一人の友人がいた。彼は変わったやつだった。高校時代という青春真っ盛りの時期にも関わらず、部活や学校行事といったものには興味を示さず、家で勉強ばかりしているような男だった。「東大」に行くのだと言って、高校一年の頃から勉強にばかり注力するような変わり者だ。だが、彼が勉強面で一際高い能力を持っていたかと言うと、そうでもない。とりわけ頭がキレるというわけでも、飛び抜けたIQを持っているわけでもない。何より、母子家庭出身故に貧しく、塾や予備校で受験勉強の訓練を積むことができなかった。異様に勉強熱心ながらも、秀才と呼ぶには能力的には凡庸。彼はそんな男だった。高校時代、私が彼と顔を合わせる機会は多くなかった。同じ高校に通っていたわけでもなし、会うのは年に一度か二度。その少ない機会で彼が話すのは、決まって勉強のことだった。模試では調子が悪かったとか、過去問が思ったより簡単だったとか、そんな、私にとっては退屈な話だ。「東大」に行くのだという彼の大言壮語も、私は軽く聞き流していた。いざ出願期間になれば、現実的な大学に出願届を出すだろう、と高を括っていたのだ。私の予想は的中した。彼は埼玉大学に出願し、無事合格。その報を聞いた時、私は大金星だと思った。塾や予備校にも通わず、国公立大学に現役合格。これ以上無い成果ではないか。彼自身もその結果に満足している。そう、私は錯覚していた。大学一年生の初夏、彼は大学を中退して浪人をすると言い出した。私は耳を疑った。今の大学に一体何の不満があるというのか。そう、彼を問い詰めた私に返って来たのは、ひどく言い訳じみた言葉の数々だった。曰く、実験の班に嫌なやつがいるとか。曰く、講義が思ったより退屈だとか。曰く、キャンパスが遠くて通学が大変だとか。大学中退を決めるには浅すぎる理由の数々を、私は一つ一つ否定していった。実験の班なんてすぐに変わる。講義が退屈なのは大学生の常だ。通学の問題も、キャンパスの近くで一人暮らしを始めれば解決する。大体、お前の家に二度も受験費用を捻出するだけの金銭的余裕があるのか。今の大学にもう一度合格できる保障も無いだろう。既に埼玉大学に払った学費はどうするつもりなのか。お前は親に無駄な金を払わせることになっても良いのか。すらすらと私の喉を通る糾弾じみた言葉に、論理的な破綻は無かったと思う。特に親へ負担がかかるという指摘は彼にも堪えたらしかったが、彼が今の大学に通い続けると口にすることはなかった。その後も何回か顔を合わせて話す機会があったが、私は彼の方針を変えることはできなかった。「今の大学よりも良い大学に鞍替えする」という彼の方針は、ついぞ変わらないまま、次第に私達は疎遠となった。実際に彼が大学を辞めたのかどうか、私は知らない。ただ、今にして思えば、彼は「個性」が欲しかったのではないかと思う。「東大生」という個性だ。「高学歴」という個性かもしれない。そういう、自分を代表する属性のようなものを欲しがって、それを「大学」に求めたのではないだろうか。「東大に通っている自分」になりたかったから、「埼玉大学に通っている自分」では満足できなかった。「大学名」という分かりやすい装飾品で自分を着飾って、「これが自分の個性だ!」と思いたかったのではないだろうか。「学歴」なんて安っぽいカタログスペックに「個性」を求めた彼は、周囲には愚かで滑稽に見えるかもしれない。しかし、彼を実際に見た私からすれば、あれは愚かだとか滑稽だとか、そんな生易しい話ではない。カルト宗教にハマって堕落していく狂信者を思わせる悲惨さである。講義内で、個性とは鍋の「具」ではなく「出汁」のようなものだと言われていた。しかし、お気に入りの「具」を入れるまで「出汁」の味を認識できない人もいる。現代社会、「何者かにならなければいけない」という強迫観念は強まっているように思う。特に私達のような若い世代は「何者にもなれないまま大人になる」ことを恐れ過ぎるきらいがあるのではないか。そんな恐れを抱く若者に贈る言葉が「あなたはあなたのままで良い」なんて、チープな表現しか無いのが心苦しい。
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Dさん
現在では、あらゆるところで「私は私を変えられる」という消費者の意識を利用したマーケティングを目にする。例えば、自己啓発本や美容整形の広告などである。それらは商業的利益のために、「なりたい自分になりたい」という消費者の欲望を掻き立て、その欲望を叶えてくれるかのような広告を打ち出す。そのようなマーケティングにおいては、なりたい私に変わることが可能だということ、変わることが良いことだと謳われる。このマーケティングが増えるなかで、自分自身を変えることができるという意識は確かに強まった。しかし、実際に容易に変えられるようになったかというと、必ずしもそうではない。自分を変えることは思った以上に難しく、変えられると思っていた自分と容易に変えることができない現実との間に乖離を感じることがある。さらにはSNSの普及によって、自分磨きに成功し、個性を獲得した他者とのギャップを感じやすくなった。このようにして、「私の価値なんて何もない」と自己喪失に陥る若者も少なくないだろう。そんなノイローゼ状態のときに自己を肯定してくれる言葉を、私はSNSでよく目にした。それは、「生きているだけで偉い」というものだ。変われなくてもいい、個性がなくてもいい、生きているだけ充分であるというメッセージを持ったこの言葉は、多くの人を慰めてきただろう。変わりたくても変われない自分から一時的に解放してくれるメッセージ性の強い言葉だ。しかし、よく考えてみると「生きていて偉い」の主語は「みんな」であり、「私」とは正反対である。「生きていて偉い」という言葉は、個性がある「私」もない「私」もひっくるめて、みんな平等に偉いというメッセージを帯びており、個性至上主義の救済措置として機能していると言えるのではないか。
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Eさん
講義内でSUPER BEAVERの『らしさ』が引用されていた。私が注目したいのは1番の歌詞、「理解されない宝物から 理解されるための建前へ」という部分である。人間が年齢を重ねるにつれて他人の目を気にするようになった結果、模範的で、社会に受け入れられ易い姿勢に変化していくことを歌っていると私は解釈した。これはまさしく「皆に見せる私」と「皆に見せる私を創る私」の2人の私が存在することを示している。「理解されない宝物」を持っていた時は、他人の目を気にすることがなく、無理に誰かに見せるための「私」を創る必要がない。この時の「私」は何者かにならなければという焦燥感に駆られることもなく、最も素直で純粋な「私」でいられるのではないだろうか。しかし社会生活を営んでいく中で、そうした素直で純粋な「私」は薄れていく。小さいころ魅力的に感じた物事や夢といった「理解されない宝物」を捨て、「理解されるための建前」を持ち出すようになる。これは、社会に自分の中身や外見をチューニングしていくような行為と言えるのではないか。就活では、よく「あなたという人間は?」と問い詰められる。しかしここでも結局「面接官が好みそうな私」を演じるので、「理解されない宝物」は必要がなく、「理解される建前」を持ち出すことになる。これからサラリーマンとして生きることになるであろう私に、「らしさ」や「個性」が必要とされる場面はやってくるのだろうか。
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Fさん
髪を染めてみたいと言った私に「髪を染めることでしか自分を表現できないのって思う。」と言った友達がいる。映画のTシャツを着ている私に「着ている洋服で自己を演出しているんだね。」と言った友達がいる。髪をボブカットにした私に「(あるインフルエンサー)に憧れているの?サブカルぶっているね。」と言った友達がいる。髪や洋服、アクセサリー。聞いている音楽。見ている映画、ドラマ、小説。身に着けているモノ、鑑賞するモノ、あらゆるすべてのモノが自分を飾り立てるファッションとなり、個性は自分から生み出すものではなく、受容するモノで形成され、測られるようになってしまった側面があると思う。センスが良いと思われたいから、映画評論家が絶賛していた映画を見る。変な人に思われたいから、カルト的名作と評されている漫画を読む。個性主義の煽りを受け、個性のレッテルが欲しい人によって、受容物全般が個性を差異化するための道具になり、消費されている。そうした環境に晒され続けていると、自分が何を好むのか、という美意識はどんどん脆くなっていく。本来は心の底から、ただひたすら純粋に好いていたモノが、他者からの目線を意識して“身に着けた”のでは、という疑念に囚われていく。信じていたものが信じられなくなり、自分自身のことがよりわからなくなった。何を身に着けるのか、何を好むのかではなく、受容物を受容した際に生まれる解釈、まさしく“受容者がテクストを読むときに立ちあがってくる意味”こそが、おでんでいうところの“出汁”であり、“個性”が現れる面であるはずなのに、と思う。
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Gさん
現代では個性を分類されたものに当てはめる、受動的に個性を獲得する、と言及しており、最近よく話題に上がるMBTI診断などはまさにこれだと思った。MBTI診断は全人類の性格を16パターンで区分するもので、授業で扱っていたものよりもパターンが少ない。たった16の分類で性格診断ができるものかと、私自身も星座占い程度にMBTI診断について考えていたのだが、思いのほか周りにMBTI診断の結果を信じている人が多く、SNSのステータスメッセージに掲載している人さえいた。そこで私は、個性という可視化できないものを分類として可視化することによって、同じ分類の人同士でつながれる、自分らしさの檻から抜け出して他者とつながることができる個性がMBTI診断なのではないかと考えた。今回の講義を聴き、MBTI診断などの個性を分類する性格診断の登場は、個性とは一人ひとり違うものでなければならないという2000年代の価値観を覆すものであり、個性にとらわれすぎる必要はないという時代柄を表象するものだと思った。
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Hさん
私は浪人生時代、様々なことについてじっくりと考えることができた。大学受験の現代文の文章では、現代の政治や社会のあり方などについて批判的に述べているものが多かった。それらに関してはもちろん、自分はそこにどう関わっていきたいかや自分自身のことなどについて勉強の合間に考えていた。受験のことだけを考えて、勉強に専念するべきだったかもしれないとも思うが、あの一年間は非常に私にとって大切な期間だったと思う。浪人生というのはほぼニートみたいなもので、自分は何者でもないということを嫌でも受け入れなけらばならない。しかしこの、自分は何者でもないということを受け入れて、空っぽの自分を認めるという行程が大切なのではないかと思う。私たち現代の若者が今、MBTIや「個性」診断などにすぐ飛びついてしまうのは、この行程が非常に辛いものだからだろう。インスタントに属性や見た目で他の人と差を作れば、まるで自分が何者かであるかのような気分になれる。そもそも、私たち若者はバイトやサークルに追われてじっくりとものを考えるということ自体があまりできていないのではないか。私が浪人生の期間を経て学んだのは、学歴でも知識でもなく、自分らしさ神話の忘却だと思う。
Aさん
同じ時代に、同じような教育や文化の中で生きているうちに人々の間の差異は小さくなり、集合的表象が浮かび上がってくるというお話があったが、それはSNSが普及し、その重要度が上がったことによって今後さらに加速していくのではないかと考えた。私たちはSNSによって、今の世の中でなにが流行っているのか、高い評価を受けているのかを簡単に知ることができるようになった。それは外見だったり、面白さといった性格だったりと様々だが、日々そのような情報を取り込む私たちは無意識のうちに、そのような世間的に評価の高い「理想の姿」という集団的表象に近づこうと努力を重ねているように思う。そして、それについていけない人々は「時代遅れ」だと揶揄されることすらある。今の時代を、ひとりひとり違う世界を見ることしかできないという個別的表象の孤独感を克服した、と捉えることもできるのかもしれないが、集合的表象がSNSによって強制化されつつある時代だと言うこともできるのではないだろうか。これこそ、唯一無二の自分、個性なんてものはどこにもないのではないだろうか、という現代人の多くが抱えているであろう悩みに繋がっているのではないだろうか。
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Bさん
脳内表象OSにより見える世界が異なることへの孤独感からの脱出は、共通の言葉でそれを表現することによる錯覚の他に、孤独ということへの共感によってされるようになって来ていると思う。「誰もわかってくれない」「誰も理解してくれない」という孤独感そのものへの共感である。独りであることに気付いた者同士が、その孤独を共通項にして集まった時、それは依存に近く、繋がりは強固に見えて脆い。「私たちみんな独りだよね」という言葉は、共感のきっかけでありながら呪いのような効果も持つ。何かの拍子に、見える世界が同じ人がいるかもしれないと感じた誰かが出てくれば、それは喜びの出来事ではなく裏切りとして彼らの目に映ってしまうからだ。これは孤独からの脱出の疑似体験であり、実際は自分をより孤独に縛り付ける行為かもしれない。
インターネットの世界は、誰かの独り言を見つけられる場所であると思っている。といっても、この広いネットの海から誰かに見つけてほしいという思いが滲み出た独り言だ。孤独を共通項にして集まる人々は、このネットの世界で出会うことが多い。孤独そのものへの共感、そこから得られる独りでは無いという感覚は、とても現代的なものであると感じた。
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Cさん
私は、共感覚という厄介な性質を持っています。物や文字、音に対して"色"が見えるという呪いです。たとえば、私は「M」という文字に紺色のような色が見えます。Mという文字がたとえ黒いペンで書かれようが、赤い文字で印刷されようが、紺色のようなイメージが見えます。私がこの性質をもつことに気がついたのは、中学生になってからでした。数学の授業中、教科書上の数字の"色"が可愛いと友だちに共有しようとしたとき、友だちは私と同じ色が見えるだろうか、説明したところで理解してくれるだろうか、変な奴だと思われないだろうかと、自分の異質さに思い至りました。私のイメージが共有しようのないものだと気づいた瞬間、私は世界にひとりぼっちになった気分になり、自分は異物であるという思考が離れなくなります。故に私は、自身のことをエイリアンだと思っていました。
しかし、今回の授業で、ひとりひとりの脳内表象OSが異なると教えていただきました。つまり、私だけがエイリアンなのではなく、この世界のひとりひとりがエイリアンだったのです。私は勝手に、私以外の人々を人間だと思っていましたが、実際は、エイリアンたちが集まっただけの共同体だったようです。それは、私にとって希望のように思えました。この先一人で生きていかなければいけない地獄を、この世界の多くの人が一緒に味わっていると思うと、酷く安心したのです。
余談ですが、神尾先生は授業内で「刺さる」「刺さった」という、いわゆる安易な若者言葉について言及しました。そこで、授業後に「刺さった」はどうして「刺さった」なのか、友人と話してみました。「刺さった」と言い始めた人は、何かが刺さる衝撃を知っている人なのではないか……たとえば、包丁といった刃物に刺された経験があるのではないか、と私は投げかけました。これに対して返ってきた答えは「エクスカリバーに刺されたのかもしれない」の一言です。この表現に私は衝撃を受けました。有り体に言えば"刺さった"んです。エクスカリバーはアーサー王伝説に登場する想像上の剣です。だから、誰もエクスカリバーに刺されたことはないはずです。
試しに日常の中で「まるでエクスカリバーを刺されたようだ!」と言ったらどうなるでしょうか。相手もエクスカリバーを刺された経験があったら、その衝撃も伝わるかもしれませんが、おそらく無いと考えられるので、伝わりきらない表現になると思います。「それは痛いの?辛いの?そもそもエクスカリバーって何?」と相手が混乱するかもしれません。そこで、何が刺さったのか言わずに「刺さった」とだけ曖昧に伝えてみます。一体何が刺さったのか、包丁かもしれない、エクスカリバーかもしれない、針かもしれないし、そもそも物理的なものではないかもしれません。しかし、何かが刺さったその衝撃は伝わるでしょう。何が刺さったのかを伏せることで、よりどんな場面でも、誰に対しても使いやすい表現になるのかもしれません。
とどのつまり、私たちが使う「刺さった」は実は全く同じものではありません。チグハグなんです。されど意思疎通に問題はありません。相手の使った言葉の本当の意味なんて理解することはできないのに、それでいて誰かとつながろうとするなんて、人間は、つながって増殖するウイルスと変わらないのかもしれないと思ってしまいました。私は誰にも理解されない、誰のことも理解できない世界で、それでもつながろうと手を伸ばして生きることが辛いです。結局私たちは、このだだっ広い世界でひとりぼっちで生きているのです。
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Dさん
テクストの話を聞き、自分自身もテクストから作品を作り上げていたことを思い出した。高校の国語の時間に森鴎外の『舞姫』を読んだ時のことなのだが、エリスに感情移入をし過ぎてしまい家に帰ってから涙が止まらず、こんな最低な物語は教科書に載せるべきではないという趣旨の文章を課題の感想用紙につらつらと書いて提出した。そしてその感想文が返された時、そこに書かれていた先生からのコメントもまた作品だったように思う。そこには、小説はあくまでフィクションであり、そこから何かを学んで自分の人生の糧にすることができたり、先に失敗パターンを見せてくれることで自分の振る舞いを正すことができる、と書かれていて、あなたが良い読書体験をしてくれて嬉しく思うとの言葉も付け加えられていた。私はそのコメントにとても救われたし、もし感想文という形にせず自分の中だけに留めていたら先生の作品にも触れられず、自分の狭い世界の中で最低な気分のままでいたかもしれない。だからこそ私は、もし何かのテクストから作品を産んだら、恥ずかしがらず誰かに見せるべきだと思う。
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Eさん
何かと正解とされる受け取り方を強いられてきた私たちにとって、与えられたテクストを自由に解釈するということ自体がとても困難なことになっていると最近特に感じる。特に、音楽に対して強く感じ、その結果、最近の邦ロックは全部同じように聞こえるのである。なんとなく「エモい」楽曲が正義とされる現代、エモいコード進行や声質、SNSのBGM映えするような楽曲ばかり流行している。その時代の正解のようなものに当てはめて、大量生産された楽曲を受容する私たちは、その価値を深く考えることなく頭の表層で価値判断し、ただただ消費しているように感じる。時代ごとの流行自体を否定するわけでは一切ない。しかし、SNSが発展した現在だからこそ、音楽の大量生産大量消費、そして恣意的な経済的側面での利用、そしてその容認が安易に行われる現代への危機感は少なからず感じるようになった。
先生が講義内で仰った「流行語は守備範囲が広いからそれ以上考えなくなる」という言葉がまさにその通りだと感じる。語に限らず、頭の深層まで利用し思考することを放棄した私のような現代人も、誤った大きな情報に左右されない、強靭な価値判断能力を身につけられるようにしたい。
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Fさん
私は俗に言う心の広い人間、寛容な人間であると自負している。一般的にこれらの言葉は褒め言葉として良い意味で使われ、心が広い=優しいといったイメージがあるだろう。しかし、私の場合はそんな優しいものではなく、むしろ冷酷とも言えるのではないかと感じることがある。それは、私は自分の理解の及ばない考えや行動に対しても、自分とは全く違う人間なのだと、理解することを瞬時に諦めることで受け入れることを可能にしているからだ。私は今回の授業を聞いて、これは人によって見える世界が違えば、感じることもとる行動も違う、つまり人それぞれ異なった脳内表象OSを持っており、自分のとは大きく異なる人もいるのだと、何となく理解していたからなのだと気付くことができた。
そして私は、自分と違う意見を述べる人に対して怒りを露にする、SNSでよく見かけるような人は、自分の常識の中に無理矢理その人を当てはめようとしているのだと考えていたのだが、これは相手の持っている脳内表象OSが自分のものと同じであると思い込んでいるが故に起きてしまっているのだと考え直した。そこで、人は皆異なる脳内表象OSを持っており、それが似ている人もいれば全く違う人も中にはいるのだと理解できる人が増えれば、もう少し生きやすい社会になるのではないかと考えた。
そしてまた、本当の優しさとは、理解することを諦めてそういう人として受け入れることではなく、理解しようとする、つまり相手の脳内表象OSを通じて見える世界はどんなものなのか、同じものがどう見えているのかを知ろうとすることであり、そうすることで自分の視野も広がっていくのだと感じた。