オリジナルの my remarks から、「あいさつ」などの私的なコメント等を部分的に省略しています。
Aさん
現代における超自我は確実に弱まっているといえる。今回はそれが従来においては怖い父親であって、今は何がその代わりとなっているのかに注目するのではなく、なぜ超自我が弱まっているのかを考えたい。私が想像するに、エスが弱まっているから、それに呼応して超自我も弱まっているのだと考える。生きるエネルギーを与える欲望としてのエスは、人々の物質的な豊かさによって徐々に弱まっているのではないか。つまり、人々は欲望を抱くほど飢えていない。特別欲しいものなどなく、既に満たされているから、現状維持したいという気持ちの方が強いのかもしれない。故にエスが弱まり、エネルギーが足りず、現代ではうつ病が多く蔓延る社会となっているのではないだろうか。また、強い父親がいなくなったり、すぐにハラスメントだと叫ばれるようになったのは、超自我に反発するエスのエネルギーが弱まっているから、社会が意図的にそうせざるを得なくなったからではないだろうか。
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Bさん
今回の講義を通して、超自我、自我、エスの話が印象に残っている。そして現代ではなぜ、超自我なくなってきているのにうつ病の人が増えているのか疑問に思った。単純に考えれば超自我が少なくなれば、エスの思い通りになることが多くなり、生きるエネルギーが上昇するのだと思う。しかしうつ病の人が増えているのは、現代では逆に超自我の力が強くなっているためではないかと考えた。確かにハラスメントや個人の尊重で他者からの超自我はほとんどなくなっていると思う。しかし自分自身に対する、〇〇しなくては行けない、などの超自我が強くなっているのだと感じた。そして自分自身に対する超自我は他者と関わるなかで、避けられない物だと思う。それらはSNSの発展で入ってくる情報が多くなったことでさらに力を増したと思う。このように現代は、他者からの超自我が少なくなっている以上に、自分自身に対する超自我が強くなっていて、超自我そのものの力は強くなっていると考えた。
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Cさん
この授業に当たって『チャーリーとチョコレート工場』観てみたいと思い2週間前に初めて視聴した。また『ショコラ』についても1年程前に福田先生の授業をきっかけに観たことがあった。
この映画を観て、チャーリーを取り巻く現実(一家の貧しい暮らし、家族の幸せ)に対して、ウォンカが生きているのは夢の世界のように感じた。そのように感じたのは、街の外れにあるチョコレート工場の中の世界、そしてウォンカ自身からだ。チョコレート工場の中では草木から人体まであらゆるものを食べて良いとされていることに加え、普通の人間とは異なり小人のようなウンパルンパが働いている。またウォンカ自身に関しても違和感を覚えた部分が多々あった。昔チョコレート工場で働いていたジョーじいちゃんはもう歳を取って体調も思わしくないのに対し、ウォンカは(元々ジョーじいちゃんよりは若いと推測できるが)工場で人を雇っていた時代から老いていないように見える。夢の世界である工場の中で暮らしているため社会から隔絶され、歳を取らないのだと私は結論づけた。そしてその夢と現実を繋ぐのがチョコレートだ。滝や川として工場内を流れていたチョコレート(液体)は板チョコなど(固体)となって工場の外に出荷される。ここから、一概には言えないかもしれないが、液体であるか個体となっているかが夢と現実の境い目と考えられる。またチョコレートが川を流れているのを見て、初回の授業で視聴した香水のCMを思い出した。現実離れして夢見心地な雰囲気、夢と現実を繋ぐ液体の存在がその共通点だと感じた。対して『ショコラ』に登場するのはアルマンドが飲んだホットチョコレートを除いて主に固体のチョコレートだったと記憶している。ここでのチョコレートは夢と現実を媒介するものではなく価値観の違う人々の心を通わせる材料だったため、同じチョコレートを扱った作品の中でもこのような差異が生じたのではないかと考えた。
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Dさん
『チャーリーとチョコレート工場』のウォンカと父親は、私的に、父親とウォンカのやり取りに心の距離が感じられることや、ウォンカが最後にはチャーリーとチャーリーの家族たちとは一緒に食事をとるぐらいの仲になるのに父親とは食事をとらないことなどから、本当にウォンカは父親との関係を良好なものにすることが出来たのかという疑問が残った。そのため、授業での「ウォンカは現実には再生不可能な家族の"夢"を見続けることができた」という解釈にはとても納得した。またその考えを踏まえて、もう一度同じシーンをみて気づいたことや考えたことがいくつかある。まずウォンカの父親の家の周辺は、ウォンカが幼少期のころのシーンでは住宅地が広がり道路もあったのに対し、ウォンカが父親に会いに行ったシーンでは他に家がなく、ひたすら雪で真っ白な世界が広がっていて現実味がないものになっていることである。次にウォンカの父親の家まで行く手段が飛行機や鉄道などではなく、空飛ぶ透明なエレベーターという、ファンタジーすぎる、非現実的な乗り物である点である。これらのことから父親に会いに行くシーンは現実ではなく、ウォンカの夢、幻想だったのではないかと考えられる。さらに、そのことを踏まえて、あれほど甘いものを嫌っていた父親が、自分の仕事場である歯医者の治療室にチョコレート工場を開いたウォンカのスクラップ記事を置き、壁にも記事を貼っていたシーンについて考えると、これはウォンカの、父親に家出した自分のことを気にかけ続けていてほしい、つまり父親に自分を愛してほしいという無意識に抑圧された思いのあらわれだったのではないだろうかと考えられる。父親との再会は全てウォンカの無意識が表に出てきた夢、幻想の世界であり、だからこそやけに現実味のない描かれ方がされ、ウォンカ自身が父親との和解をイメージしきれないがゆえに、ぎこちなさの残る、手袋をした、硬い表情のままの抱擁になったのではないだろうか。また、最後のチャーリーたちと夕食を共にするシーンで、ウォンカはわずかに迷いながら、祖父二人(父親なるもの)が座る方ではなく、祖母二人(母親なるもの)の間の席に座る。そしてあれほど父親との抱擁はぎこちなかったのに、ウォンカからするピーナッツの香りが好きだと言ってくれた(これは、甘いものを好む自分を肯定してくれたととれる)チャーリーの祖母とは笑顔で抱擁を交わす。これらのことから、結局、ウォンカは夢の中、幻想の中では父親を受け入れることができ、不可能な家族の再生を夢見ることができたが、現実では父親なるものを受け入れることは出来ておらず、母親なるものを求めた。つまり、エディプスコンプレックスを克服することはできず、逃げ続けることになったのではないかと私は解釈した。
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Eさん
私は、今回の授業をきっかけに「チャーリーとチョコレート工場」を、初めて”全編”視聴した。こんな言い方をしたのは、過去に一度、途中まで視聴して断念したからである。
当時の私は小学校低学年くらいの年齢だったと思う。チョコレート工場に招かれた少年少女たちが欲望のままに行動し、次々に"裁き"を受ける光景に耐えられなかった。これは形だけを見れば、悪い行いをした子どもをウィリー・ウォンカというヒーローが退治する、勧善懲悪的なストーリーと捉えることもできるだろう。幼少期から桃太郎やウルトラマンといった物語に触れて育った私には、勧善懲悪は正義だという刷り込みがされていたと言える。それにも関わらず、私はウィリー・ウォンカの振り翳した正義に耐えることはできなかった。
当時の私は、一緒に視聴していた両親にこう言い放った。
「怖いから見たくない」
実に子どもらしい、単純明快な意見である。時を経て同じシーンを見た私は、やはり内から湧き上がる「怖い」に怯みそうになった。しかし、パッケージされたフィルムは不変だが、私は可変、進化する生き物である。少女の可愛らしい「怖い」を大学生の私が振り返って、噛み砕いてみたいと思う。
授業で登場した言葉を用いるのならば、チョコレート工場で破壊、飲食を続ける子どもたちは、自らのエスを解放し、欲望のままに動く、超自我の機能していない状態である。幼い私は「おやつを食べすぎてはだめ」「物を壊してはだめ」と所謂父親的な命令を刷り込まれている。現代社会において、妥当な躾であろう。しかし、本当は食べたくて、壊したくて仕方がないのだ。画面の向こうにいる少年少女は、そんな私の欲望を代わりに叶えてくれる、欲望の代理人である。お菓子をたくさん食べられて幸せだろうな、物を壊しても怒られないなんてすごい。分かりやすく描かれた衝動は、幼い少女を感情移入させる。
そこから一転。彼らは自らの罪を問われることになる。ご丁寧に歌のプレゼントつきで。特にオーガスタスの食らった裁きは、チョコレートの池で溺れているところを収穫用の管で吸い込まれ、自らがチョコレートにされてしまうというものだった。これは、欲望のままに生きれば、優しい母(的な存在)と引き離され、自由の効かない世界へ連れて行かれることの暗示であり、それを幼いながらに感じとったことが、恐怖心に繋がったのではないだろうか。
「やりたいことをやりたいだけすると、どうなるか分かるよね?」
画面の中から、そんな風に語りかけられた気さえする。その瞬間、この映画は私にとっての超自我になった。欲望を解放するとどうなってしまうのかを徹底的に教えつけられたのである。私は、この逃げられないほど強い父親的命令に息苦しさを感じ、怖くなったのだろう。
授業で紹介があった通り、この映画はウォンカと父親が和解する形をとる。ウォンカを抑圧していた存在との和解、それはつまり、私が怖いと感じた圧力も、決して驚異ではなかったということだと考えられる。このシーンで、私も当時の恐怖と和解し、肩の力を抜くことができた。教訓が散りばめられた本作は、そのビジュアルイメージに反して、極めて道徳的だろう。それと同時に、人の無意識を触発する強いメッセージ性を秘めており、その点から、今日に至るまで愛され続けているのだと思った。今回、恐怖を乗り越える機会をいただけたことに感謝したい。
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Fさん
私が今回の授業で印象に残ったのは、象徴界と現実界についての話だ。私が高校三年生に上がって初めての、塾の現代文の授業で、言葉は世界を分節化していて、記号を付ける役割があると習った。これがまさに私が生きている世界が象徴界であるということだろう。また、私は、「知っていることの多さ」は、「世界をどれだけ細かく分割できるのか」と言い換えられると気づかされ、それが非常に興味深かった。そうすると、今までのあらゆる授業で学んだすべてが、私の世界の見方を変えてきたと言えるのではないかと思った。加えて、転移と逆転移も印象的だった。特に、精神科医と患者の話の中で、精神科医と父が全く違うと多数の人間が思っていても、彼女にとってはそうでないというのが、物事をどのようにみなすかの違いであるとおっしゃっていたのが面白かった。微々たる差異の場合、人によって認識の仕方が違うという発想が浮かびそうだが、今回の例のような、あまりにも違いすぎる話だと、全く思いつかなかった。この私の述べた「微々たる」と「あまりにも違う」も結局私の尺度、認識でしかない点も踏まえ、この世界に絶対というものは存在しえないのだなとも感じた。
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Gさん
神尾先生がフロイトの言うエディプスコンプレックスの克服を父と母を脱し現代にも当てはめて考えられると解釈したことや、チャーリーとチョコレート工場に超自我とエスを当てはめ解釈していた様子から、第一回の講義で「フロイトとラカンの精神分析を思考を行うためのツール、トリガーにする」とおっしゃっていた意味がやっと理解できた。そして、大学の勉強は中学校や高校の何倍も面白いと感じた。
最近見た映画に『万引き家族』があるが、たとえばそこに登場する治と信代の夫婦は、超自我ではなくエスに従って生きていた。『万引き家族』になぞらえて考えると、超自我を無視しエスの空間で生き続けていたら、その生活はいずれ破滅するのではないだろうか。超自我に従わなければ社会の一員になることができず、社会の一員になれないと社会の一員である人々に徹底的に潰されてしまうからだ。
Aさん
私が最も興味をひかれたのは、「放出されない感情は回帰する」という話の中の、放出されなかった感情は心のごみ箱に入って燃やされずにずっと残っている、という点についてです。私は一度トラウマになったすべてがずっと無意識下に残り続けるわけではなく、時間がたってから放出できることもあるのではないかと思います。私は小学生のころ卒業間際に中学受験仲間からいじめを受けた経験があり、中学生まではトラウマとして残っていたように感じますが、高校生になって親友に打ち明けることが出来てからは、今はこうしてmy remarksにもかけるほど、あの経験によって私は強くなったと思うことが出来るようになりました。(それが防衛機制だと言われたら反論はできませんが)トラウマとしてごみ箱にしまったままになってしまうものもあるかもしれませんが、時がたてばプラスになり、ごみを燃やせる日も来るかもしれないと思います。講義の中で挙げられたおもらしをしてしまった人だって、今はそれを笑い話にしているかもしれません。
ただこうして反論しておきながらも私のライン漫画のお気に入りはいじめっこの生徒に対して教師だったりいじめられっ子本人が鉄槌を下すというもので、まだトラウマなのかもしれません。
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Bさん
私が今回の授業で一番印象に残ったのは、欲求と欲望についての話である。私はこの内容を受けて、最近聞いたラジオで芸人さんがしていた食べ物についてのフリートークを思い出した。その内容は以下の通りである。
松茸を美味しいと感じるのは、松茸が高くて希少価値が高いという要素が深く関係していると思う。もし松茸がもっと安価で、椎茸が今の松茸と同じくらいの高価で希少価値が高かった場合、椎茸のあの独特な風味を「これこそが高級な味!」と捉えて今以上に美味しく感じていただろう。自分たちの味覚は、希少価値や値段、流行というものから切り離すことができない。もしそれらの概念が全くない状態で生きることができたら、自分は何を一番おいしいと感じるのだろう?
この内容を受けて自分が考えたことは、美味しさや食の好みというものは欲求と欲望のどちらに分類されるのだろうか?ということである。
食欲と一括りに言っても、生きるために栄養を摂りたいという思いは欲求に分類されるものだが、高価で皆が食べたがっている食べ物を食べたいという思いは欲望に分類されると思う。しかし食の好みや美味しいものを食べたいという思いは、どちらに分類するのか難しいと感じた。実際に、欲望を持たないはずの愛犬にも食の好みというものがあると感じる。
私個人の見解としては、美味しさや食の好みというのは本来学習の必要のないものであり、欲求に分類されるが、人間においては欲望の要素を強く持っているものなのではないかと思った。そして私たちは、その欲望としての要素の影響を強く受けすぎて、本来の欲求としての食の好みを見失いがちなのではないかと思った。
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Cさん
欲望とは、欲求と異なり、他者と比較して充足感を得るものである。また、どんな分野においても、発展の源となるパワーは人間の欲望から生じる。故に、欲望は文化を彩るといえる。
以上のことから私は次のようなことを考えた。
人間にはこの社会において、人と異なる自分でありたいという欲望と、人と同じでありたいという欲望の、一見矛盾した2つの欲望を持っているように感じられる。
他者と比較して、自分が成績、性格、センスなどあらゆる面でより優れていると周囲から思われることで、前者の欲望は達成される。その一方で、コミュニティに「馴染む」といった言葉があるように、空気を読むことや、みんなと同じであることで後者の欲望は達成される。
特に例を挙げていうと、ファッションに関しては、流行りというものが存在するが、これはより他者よりもオシャレでありたいという前者寄りの目的をもとに、みんながオシャレだという流行の服を着るという後者寄りの行動を起こしている。この矛盾した欲望と行動は非常に興味深いと感じた。
しかし、よく考えればファッションに関しては人と異なることだけが良いとは決して言えないため、厳密にはこの例は正しくないかもしれない。
オシャレとは「人と異なる自分を表現すること」とする人もいれば、オシャレとはすなわち「みんなと同じ流行にのれること」とする人ももちろんいると考えられるからだ。
人と異なる自分でありたいという欲望は、リスクも大きいが、得られるリターンも大きいように感じられる。たとえば、人と違うことで有名人になることが出来るかもしれないが、人と違う点を誹謗中傷されるかもしれない。一方、みんなと同じでありたいという欲望はリスクが少なく、リターンも少ないと考えられる。こちらは限りなくリスクは小さいが、得られるものは自分が社会からはみ出たような人間ではないという安心感だろうか。また、こちらの欲望は社会からの圧力として非常に強力な力で現れることがある。その点強制された欲望とも言えるかもしれない。
どちらにせよ、人とは決して切り離せない欲望であり、文化を彩る要因になっているというのも納得できる。
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Dさん
私たちは小さな池の大きな魚になりたいのであり、たとえそれより大きな魚になれたとしてもクジラがうようよいる大海を泳ぐのは嫌なのである、という話と、絶対的魅力よりも相対的魅力の方を多くの人が選択するという話から、高校時代の模試を思い出した。皆、模試の結果が返ってくると、自分が何を正解して、何を間違えたかよりも、偏差値だったり、順位だったりといった、自分が他の人と比べてどの位置にいるかを表す数値をしきりに確認していたように思う。多くの人の模試を受ける最終的な目標は大学受験合格であるが、模試を受けている人全員が同じ大学を受けるわけでもないため、自分がどの位置にいるかを気にしてもあまり意味が無いのに、それでも気になってしまうのが人間の性であり、周りよりも優位でありたいというまさに他者を前提とした欲望の現れであると思った。また欲望の三角形について学び、現代で最も「媒介者・ライバル・他者」の位置において大きな力を持っているのは、やはりSNSだろうと思った。ある動画で、最近はネイルやマツパ、ヘアカラー、ヘアトリートメント、脱毛、美容医療といった美しさへの課金がどんどん当たり前のことになって、人々の美容の基準が昔に比べて高くなっている気がすると言っている女性をみた。SNSが発達した現代では、そういった美しさを求める人々の姿が画面ひとつでたくさん見られるため、その他者たちの欲望に刺激されて、また美しさを求めて課金する人が増え、さらにその人たちに刺激されてまた美しさを求めて課金する人が増えるといったような循環になり、それに応じてやって当たり前の美しさへの課金が増え、美容の基準が高まっているのではないかと思う。しかし、人々の美容の基準が高まり、美容にかけるお金が増えたとしても、平均給与が昔に比べてものすごく上がったりしている訳ではないため、その分のお金を仕事とは別で稼ごうとし、それがパパ活等の援助交際の一因になっているのではないだろうかと思った。欲望をもつことは悪いことではないけれど、歯止めのきかない欲望が社会的な問題の一因になることはあると思った。
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Eさん
講義内で最も興味を惹かれた内容は欲求と欲望の違いについてのものだった。欲求は満たされることで限界を迎えるが、欲望には限りが無い。食欲は満腹になることで満たされるが、外見へのコンプレックスから来る変身願望はある種永遠に満たされることは無いものだ。人はどこまでも美しく在ろうとし、化粧や整形手術等の技術は際限無く進化している。美への探求は一例に過ぎないが、人間の欲望は留まることを知らず、だからこそ人間の文明は際限なく発展してきた。欲望には果てが無いからこそ、欲望が達成される充足感を持続させることができる。満たされるという終わりが無いからこそ、人は生きる意味を失わずに人生を続けていけるのではないだろうか。欲求は満たされてしまえば終わる。その先に続きは無い。満足した状態を死ぬまで現状維持し続けるだけの人生に、人は生きる意味を見出せないのではないかと思う。人生は辛く苦しい。人間の技術ではどうしようもない不幸はやはり存在する。満たされた現状を維持し続けることを目標にした日々では、ふりかかる不幸に絶望してしまう。終わり無く目指し続けることのできる目標、果ての無い欲望は人間が生きるために必要なのではないだろうか。
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Fさん
欲望とは他者との比較によって相対的に作られるものだという説明には、非常に納得した。私が早稲田大学を目指した理由も、クラスのみんなが目指して憧れている大学だからという浅はかなものだったため、神尾先生の「ミクロな世界でマウンティングするのはバカっぽい」との言葉にドキッとした。思えば、なんでも他人と比較する癖をなくすこと、バトルステージから降りることは、私の人生のテーマかもしれないと思うほどに悩まされてきた。どうすれば人と比べないで生きられるか調べた際には、「競争を否定するより競争のベクトルを増やす」「自分のことに集中する」「自分にとっての幸せの形を知る」等々様々な意見が出てきたが、頭では理解できても心はそううまく動いてくれないままだった。しかし今回、神尾先生の生きたSNSのない時代を想像し、「他者の欲望に依存しない」との言葉を聞き、現在私は自分が知らなくても良いような情報まで知り過ぎてしまうことで、他人と比べてしまっているのではないかと考えた。まずはSNSを生活の基本軸から取り払い(20歳の女子大生にはなかなか勇気がいるけれど)、他人ではなく自分自身を真っ向から見てあげるようにしようと思った。
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Gさん
欲求と欲望の違いについて初めて考えました。欲求が容易に満たされるようになった現代社会において、他者との比較が前提にある欲望は非常に大きな問題になっていると思います。例えばブータンのこんな話を聞いたことがあります。ブータンはもともと世界一の幸福の国として知られていました。しかし、SNSの普及につれてブータン国民が他国の暮らしを知ってしまい、幸福認知度が下がってしまったそうです。SNSは本来自分の世界では関わることのなかった人や世界について知ることができます。それはその人にとっていい影響となる場合もありますが、悪影響を与える場合も多々あります。SNSは人間の欲望を利用し、さらに掻き立てるようなものです。私たちの現代社会はいまやSNSなしでは考えられません。SNSの普及に伴いさらに促進した現代の大量消費社会の行き着く先は一体どのようなものなのでしょうか。そのような大きな視点で考えずとも、改めて自分とSNSの向き方について考えるべきだと感じました。
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Hさん
今回の授業では欲求と欲望についての話しが、とても興味深かった。授業内で欲望とは他者との比較だと言うことを聞いて、私は受験生の時に予備校の先生がおっしゃっていた話しを思い出していた。それは人の幸せは自分の不幸では無いのだということである。私はこれを聞いた時に、素晴らしい考えというよりかは、とても美しい考えなのだと思えた。自分ではその時どうしてこのように考えたか理解できなかったが、今回の授業で明確に当時の心境を把握できた。
この先生が言っていた考えは、人間の当たり前に存在している欲望とはかけ離れている思考方法だからこそ、美しく思えたのだ。就活でも受験でも、皆んなが行きたいと思っていて、自分が行ったら羨ましがられるから、という理由で志望している人のことを、私は少々下品に思えてしまう。ここには前回の授業であったような、欲望の婉曲表現が十分に用意されていないからだと考えている。つまりは、欲望も人々からタブー視されていると、私は今回の授業で結論づけたのだ。
Aさん
私が今回の授業の中で、実証主義に対して、神尾先生が仰っていた、五感で確認できるものが正しいという根拠はあるのかという話が印象に残りました。私は、数字を過信しすぎたり、目に見えないものに対して、「〜な訳がない」と否定してしまったりすることが多いからです。また、CHANELの広告映像について、睡眠や海や川などの液体、列車や船が音を立てて進む様子という観点から分析されていましたが、製作者はどのような意図を持って作っていたのだろうかと考えました。もちろん、香水を買いたいと思わせるのが、1番の目的であることは間違いないでしょうが、製作者の中では、例えば、液体と男女の流動性がはっきりと結びつけられていたのだろうかという点に疑問を抱きました。加えて、広告映像について分析をするという行為自体を興味深く感じました。なぜなら、以前、YouTubeか何かで、CHANELの香水の広告映像を見たときに、抽象的なCMという印象を受け、男性をメロメロにする香りだと言いたいのかなとぼんやりと思ったことがありましたが、今回のように映像に出てくるものに細かく着目し、それが示す意味を深く考えたことはなかったからです。ほかに性的なものを包み隠して表現した広告映像があるのならば、見て、分析してみたいと思いました。
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Bさん
今回の講義を聞きながら思い出したのは、少し前に見たNHKの「もやもやパラダイム」という番組の「弔い」がテーマの回である。この番組は、日本では当たり前になっている物事を、世界の他の国ではどうなっているのかを学ぶことで見つめ直してみよう、という内容のものである。そこで、日本の葬式は静かに厳かに行われるが、ジャマイカの葬式は歌やダンスが行われるほど陽気な雰囲気であり、亡くなった方のグッズまで制作されるという話があった。私はその番組を見た時、日本は死をタブー視しているから静かに厳かに葬式をするけれど、ジャマイカでは日本ほど死がタブー視されていないからこの違いが生まれたのかなと感じた。しかし、この例を今回の授業を踏まえて考えてみると、日本もジャマイカも死をタブー視しているという点では一緒だが、その覆い隠し方が分化しており、それこそが文化なのだと感じた。
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Cさん
私は「トイレ」という言葉を使うことを好まない。普段はその言葉を「お手洗い」で代用している。周りの人間がその言葉を使うのは気にならないが、自分がする行為として「トイレ」の単語が出てくることが気に入らない。「トイレ」は俗な世界で使われる言葉という意識があり、その言葉が自分の口から出ると、どこか引っかかるのだ。私のこれは、ファッションのこだわりに近いのではないかと思っている。この服にはこのアクセサリーを合わせたい、そんな選り好みをしている。私の言葉選びはファッションなのだ。昨年度、「複合文化学の建築物」において、神尾先生の自然論を聞いた。そこでは、"裸体という自然"の対称として衣服を身に着ける文化が取り上げられていたと思う。私はこれに概ね同意しており、ファッションは、自然との距離を置く、人間の象徴の一つだと考えている。そのため、今回汚いものに蓋をする、包み隠す=文化という説も腑に落ちた。嫌悪感を覚えるものを隠すことと、好みを選択することは違う話のように聞こえるかもしれない。しかし、どちらも自然な状態から意図的に脱し、文化に繋がっている点で近いものを持っていると思う。
話は少し変わるが、心というレイヤーの話もしたいと思う。私は、親に迷惑をかけたくないという理由で、所謂反抗期の時期に親に反発しないよう心を抑圧していた。刹那、胸の奥で膨らんだ感情に自ら針を向ける。忽ちしぼんだ感情は、痛いと泣いていたように思う。そこまでしてどうして人間ぶっているのだろうか。はっきりした答えは出ないが、きっと、そうしないと、生命として強くあれないからではないかと思う。
昨年度、フレンチロックミュージカル「赤と黒」という作品を観劇した。近世、優秀な頭脳をもち、成り上がりを狙う貧民の青年が、愛した女性への感情に翻弄されて破滅していく物語である。劇中、様々な曲が披露されたが、その中でも「愛が無ければもっと 高く飛べる 高く飛べる」という歌詞が印象に残っている。確かに、愛だとか心みたいな解明しきれない爆弾を抱えながら生きれば、上昇志向を持った人間には障害になるのやもしれない。しかし、これは例えだが、人間が空を飛びたいと願わなければ飛行機は飛ばなかっただろう。ここに、圧倒的矛盾がある。人間が弱肉強食を現状一旦制したのは、心をもったからだ。人間は心をもってして頂点に上り詰めた。そして、心に苛まれてその成長を鈍足にしている。この矛盾こそが、人間の心が動物にとって異質なものである最たる理由だと私は思う。私も、思春期のあの日、心を殺して高く飛ぼうとしていたのかもしれない。
余談だが、今回この動画を見て、神尾先生に伝えてみたくなった感想が、上とはまた別にあった。ただ、それは性に関することなので、大勢に公開されているこの場でそれを言えば、明確な“セクハラ”になると思い断念した。私は汚いものを包み隠すのは社会の秩序のためだ、そういうものだから、と呑み込むしかなかったし、それに対して諦観的(受け入れる姿勢)だった。しかし、今回は、なぜ社会という神に私は抑圧されなければいけないのか、自由に意見してはならないのか、とわずかに憤りを感じた。では、文化は無い方が良いか、動物になりたいかと言われても、肯くことは容易ではない。なぜなら、私が今こうしてわだかまりを抱えているのも、人間故だからである。
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Dさん
今回の講義を受け、言われてみれば確かに排泄・死・セックスに関してタブー化されていて、無意識のうちに話題を避けていることを実感した。今このmy remarksを書いているときも、最初は排泄・死・性と書いてしまい、無意識のうちにタブーを包み隠そうとしている自分がいることに気づきハッとした。そもそもなぜ排泄・死・セックスなど、人工的で行為そのものを削除できない動物じみた行為がタブー化しているのか気になったので調べたいと思う。講義の中で可視化や定量化ができない心的リアリティを精神分析は扱う、というお話があった。私は、人間は物質的な現実よりもむしろ心的リアリティに従って行動していると感じることが多いので、エビデンスの時代と言われていることが衝撃だった。だが改めて考えてみると、私自身、数字ではっきり示せるものや目に見えるものは簡単に信じてしまい、可視化・定量化できない感情などは疑ってしまうことが多くある。例えば、高校時代の話だが塾の広告などで、進学実績が○%と具体的な数字が記述してあるものは信用していた。また、喧嘩している人たちを見た時、片方が泣いていると、泣いていない方が悪者だと思い込んでしまうことがある。実際のところはどうか分からなくてもやはり目に見えるものを正しいと思ってしまう。物的な現実の奥にある心情を見落とさないためにも精神分析のように心的リアリティの方に重きを置くものはエビデンスの時代において存在感のあるものになるのではないかと感じた。
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Eさん
今回の授業で1番面白いと感じたのはバタイユが指摘した死 汚物 セックスがタブー化されているということについてです。最初はこれらに対して動物的かつ自然性の行為、事象という印象が強く文化とは対照的であるように思われたからです。
また実証主義はエビデンスがないからという理由で心的リアリティを批判するとありました。しかし、心的リアリティの存在を裏付けるエビデンスがないのと同様に、存在しないということを裏付けるエビデンスも存在しないのではないかと思いました。今は存在を証明するエビデンスがなくてもそれがいつか現れる可能性が完全にないとは言い切れないと思います。エビデンスがまだないからと言って心的リアリティの存在を否定するのは早まった決断とも言えるのではないかと思いました。
疑問点としては研究やレポートにおける心的リアリティの扱い方についてです。わたし自信たとえばレポートを書く際などにはエビデンスのあるものだけを書くようにしています。レポートや研究は誰が見ても理解できる、客観的なものである必要があるからです。しかしそうすると、エビデンスのない感情などについて言及することはできません。レポートなどにおいてはエビデンスのない心的リアリティについて言及することは可能なのか、また可能であるならどのように示すことが正しいのか疑問です。
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Fさん
今回最後の動画で神尾先生が仰っていた問いが、私にとっては興味深いと感じた。
もし来世があるとしたら、動物となって何も考えないで苦しみを知らずに生きていくか、人間となって悩みながらも数多の選択肢を吟味しながら、自分なりに生きていくのか。私は後者を選ぶ。なぜなら、このような問いをたてて、選択することができるのも私が人間であるからだ。このように自分の脳を使って悩み、考え、行動を起こすことは、とてつもない労力が必要で、面倒で、時に苦しい思いをすることもあるが、自ら決めて、何かを達成することこそ生きる上で最も面白いことだと私は考える。そのため、何度生まれ変わっても人間になりたい。
また、人間以外の動物は遺伝子、本能に沿った身体的な行動にエネルギーを費やすという話を聞いて、それはまるでロボットのようだと感じた。決められたプログラムに則り、電気などのエネルギーを与えられ、指示されたプログラム通りに動く。そのように考えると、人間は肝心のプログラムが壊れてしまったといえるだろう。指示を失った人間というロボットは、自ら考えるようになり、今では地球上の生物で圧倒的な力を持った存在となっている。もしも、人間が今後自ら考えて行動を起こすことの出来るAIロボットを作成することができたならば、それは人間が新たに人間を創造したといえるのではないだろうか。また、そのあとには一体どんなことが起こるのだろうか。講義を通してやや関係ないかもしれないが、このような想像ができて面白く感じられた。
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Gさん
動物は精巧に作られたロボットである、という部分が印象に残った。動物は遺伝子というプログラムに忠実に動き、そのプログラム以上のことは行わない。本能という形で定められたスペックを綺麗に百パーセント発揮している。人間はそうではない。行動原理が本能という形に収まらず、百二十パーセント、もしくは百五十パーセントのオーバースペックを抱えてしまっている。この二十パーセント五十パーセントやの部分は、悩みであり選択であり思考。人間らしいと私達が表現する内的な働きなのではないだろうか。本能が壊れている、という講義中の表現にも納得がいく。また、講義では実証主義についても言及されていたが、動物は実証主義で完全に説明できるのではないかと思った。動物の本能にオーバースペックは無い。空腹指数に従って食事を、巡ってきた発情期のタイミングに合わせて繁殖を、一日の活動時間に応じて睡眠を、本能という定量化された物差しだけで行動原理を把握できる。食事という行動には、空腹というエビデンスを用意できる。しかし、人間はそうもいかない。お腹が減っていなくても何かを食べることはあるし、満腹なのに食事をした理由はその当人にしか分からない。その他人から見えない部分を講義ではサイキックリアリティと呼んでいた。目に見えず、エビデンスを用意できない。そういった不可視の心の働きは誰にでも存在するのだろう。これはある意味恐ろしいことではないだろうか。今隣にいる人間は私の首を絞め殺そうと考えているかもしれない。不可視なのだから、そういう可能性はある。けれど、私達は普段からそんなことは考えていない。「こいつが私の首を絞めてきたらどうしよう」なんてことは心配しない。サイキックリアリティは私達にとって不可視の領域だが、未知の領域ではない。何かしらの判断基準のようなものが存在していて、不可視で定量化できないながらも、私達人間が他者と共有できる何かがあるのではないだろうか。それがあるからこそ、私は「こいつは私を殺したりしない」と思える。目に見えず、定量化できず、エビデンスを用意できない。それでも、私達が判断材料として使えるもの。その正体は何なのだろうか?
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Hさん
今回の講義を聴いて、タブーを隠すことでそれが文化になっているというのが驚きだった。タブーを避けるということで言えば、レヴィ・ストロースのインセストタブーが思い浮かび、これは近親者との婚約を避ける、つまり遺伝的に近しいものが性交をすることで異状がおきる、すなわちタブーを避け、もしくはそのタブーをむしろ美徳とするような様々な文化があるというのはフロイトが性というタブーを避けることが文化に繋がっているといったのと似ているように感じた。そういう意味でタブーと文化に深い繋がりがあり、他者との繋がりを強いられる性が精神分析の対象になったという神尾先生の説明はかなりの納得感があった。
ただ、これはあくまで主観的な意見ではあるが、動物と人間を区別するときに、人間が思考できるからだというのは少し納得出来ないところがあった。自分は言語を使えることがすなわち思考できることであると考えるが、シジュウカラという動物は言語を話すことができるということが言われており、ということはシジュウカラは少なくとも思考できるということになるのではないか、そしてまだ私たちが分からないだけで、今動物と言われているものが言語を介し、思考しているのではないかと個人的には考える。正直自分としては人間が特別であるという考え方にはあまり賛成できないところがあります。
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Iさん
私は、精神分析は性についてばかり扱うため、人間はそんな性欲にまみれた存在じゃない!と反抗的な姿勢で少し距離を置いていた。が、講義を受けて、精神分析が挙げられた三つのタブーの中でとりわけセックスに注目する理由が他の人間の存在を前提としているからとしていることを聞き、自分の中で精神分析に対して抱いていた違和感が解消された。人間を形成する他者とのかかわりの究極がセックスであり、それに付随するものを性と関連付けて考えることは理にかなっていると思った。また当初の精神分析へのイメージから自分の感性にもタブーが根深く絡んでいることを実感し、そして、このタブーが他者と関わっていくうちに刷り込まれたものなのか、おのずから身に着けるものなのかが気になった。どちらにせよ排泄・死・セックスは他者との交流を妨げるものとして現れ、それを人は避けるようになったのだと思った。しかし、この三つの中でセックスだけが他の二つのタブーとは違い、自分たちに与えられるものが不利益なものばかりではないため異質なもののように感じた。