2019年度秋学期に開講された「複合文化学の見取図」では、「「2019秋_見取図_授業で話したこと+α」を読み、今まで複合文化学について自分なりに考えてきたことをふまえて、複合文化学について思うところを書きなさい」、という課題を出しました。
この課題に対して提出された回答のうち、複合文化学科の特徴をよくとらえていると思われるものを紹介します。
なお、回答者本人の了解は得ています。
私は理系受験で複合文化学科に入ったが、入学して授業を受けるまでは、例えば社会や文化を研究する際に数式を用いたりするといった、いわゆる文理融合を想像していた。しかし、授業を受けてみると、数学や物理といった理系の要素はほとんど無く、哲学、芸術、漫画など、様々な分野をただ広く浅く勉強しているような不安感があった。いろいろな分野のお話を聞くことはできているけれど、ただ浅いだけで終わってしまいそうな気がしていた。しかし、今回の授業の中の、特にスティーブ・ジョブズのお話で、点と点を繋ぐということは、前もって予想できることではなく、後から振り返った時にいつの間にか繋がっていた、というようなものだという言葉があったが、ここから私が思ったことは、広く浅く知識を集めることは悪いことではないのだということだ。神尾先生が「研究対象群を自分で編む」とおっしゃったように、幅広い知識を身につけた上で、その知識を自分で取捨選択しながら自分だけの「発明」をしていく、それが複合文化学なのではないかと思った。 また、自分は高校時代理系ということで社会科目をあまり勉強しておらず、ゆえに歴史や文化の知識がまわりの人より乏しいことがコンプレックスだったが、別の視点から考えるならば、いままで自分と研究対象を明確に分け、もっと言うならば「自分」と「勉強」を切り離して考えてきた自分が、複合文化学科に入り、まわりの物事を見る自分自身を見つめるようになったことで、新たに得られるものもあるのではないかと、そんなふうに考えられるようになった気がした。
先日東進衛星予備校主催の「大学進学フェスタ」で勤務したのですが、多くの受験生や保護者に「複合文化学科とはどのような学科なのですか?」と聞かれました。その際私は、去年受けた講義の具体例を挙げたりして、「複合文化学科は社会の中の様々な現象を色々な角度から分析し、考察する学科です。」と答えたのですが、正直そのような回答で正確に内容が伝わったのか、そもそもなぜ複合文化学科が教育学部に所属しているのか、ということに疑問を抱いていました。早稲田大学の教育学部は多くの範囲を網羅しており、様々な分野を幅広く学べますが、複合文化学科はその特徴が最も顕著に表れている学科だと思います。今まで私は社会問題について、(例えば男女の不平等の問題など)「許せない」というように感情的に反応するのみでしたが、複合文化学科で2年近く学び、問題の背景にある社会構造などを分析し、自分の感情を一旦差し置いて俯瞰的に分析できるようになったと感じます。
今回の授業を聞いて、私が最も共感し、重要だと感じたポイントは、縦割り的な考え方を一掃し、複合的に物事を考える「コネクトドッズ」を行うことにより創造性を豊かにすることが、とても重要であるという点である。例えば、現代社会では、どの企業でも業務を複数の課に分担しているので、企業内での連携や風通しが悪くなり、さらには、自分の所属している課の業務しか知らないという事態が起こっている。これでは、凝り固まった既成の考え方しかできず、新しい創造的な考え方をすることができない人間しか生まれない。新しい創造的な考え方が必要とされる今日では、そういった人間は必要とされない。そこで、柔軟で新しい考え方をできる必要とされる人間になるために、ゼミや複合文化学科の必修授業や第一外国語の授業を通して、複合文化学という縦割り的思考を排除した総合的思考を促す学問を学び、自分の経験値や思考を深めていこうと思う。
僕が今までこの学科で約一年半、テーマ演習や道具箱などの様々な授業を受けた上で考える複合文化学とは、「正解はひとつしかない」「正解はこれだ」といった思想を持つのではなく、その時代,その土地ごとの様々な文化的差異を認め、それを踏まえて物事を多面的な角度から見ることだと考えています。つまり、文化の多様性を食や言語などさまざまな具体的事象から学び、その考えを深めていくことが複合文化学科で行なっていることだと思います。神尾先生が今回の授業でおっしゃっていた脳内縦割り行政の打破は、これに近いものがあるのではないかと思いました。また、複合文化学科はなぜ教育学部にあるのかという、学部と結びつけた考えを僕は今まで持ったことがなかったのですごく新鮮でした。人に今の価値観とは異なる別の価値観や考え方を持ってもらうために必要なプロセスが教育であり、そのために複合文化学科は絶対に教育学部になければならないということも納得がいきました。僕は高校生の時、とある教育学部の先生のお話を聞いたことがあるのですが、そこで先生は「早稲田大学の教育学部において教育とは学校での教育・指導に限ったものではなく、職場や家庭など様々な場面で人に教える、つまり指導する側に立たことをいう」とおっしゃっており、今回の授業の話と通じるところがあって、何か自分の中で一つに結びついた気がします。
今年の夏休みに東京を離れ気仙沼ニッティングという編み物の小さな会社でインターンをしていた。ちなみに私は編み物に詳しくもないし何かを編んだ経験すら無い。編み物の知識を持たない私がここでインターンの仕事をこなせるのかとても不安だったが、その不安は杞憂に終わった。毎日編み物の仕事に携わっていると嫌でも編み物についての必要な知識は得られるし、どちらかというと仕事をするにあたって必要なのは「今ここで何が必要とされていて、どう動くべきか、何をすべきか」を常に考えて行動することだった。このことに気づいたとき、私は1年半早稲田で学んでいた複合文化学の一部を理解した気がした。もちろん大学で実践的で専門的な学問を学び身につけることは大きな強みであり、社会に出て即戦力になるため重要な要素でもある。だが私は、就活を乗り越えさらには社会で上手にやっていくためには必ずしも専門性はいらないと考える。数年後私は大学を卒業しどこかの企業へ就職するだろう。そこで私は会社で働いていれば誰でも自然とそこでこなす仕事や仕事にまつわる事柄を覚えていくだろう。その仕事を覚えこなす上で大事なのは、「今ここで何が必要とされていて、どう動くべきか、何をすべきか」と夏休みのインターンの時に考えたように、多面的に仕事に対して考えて適切なアプローチをすることだと私は感じる。それができる人が社会人として求められる。そしてその能力は複合文化学によって高められるのではないだろか。あらゆる学問の視点から物事を考え分析する複合文化学の方法や思考を身につけることで、実際に生活を送る中でも些細なことから重要なことまで状況や物事を多面的にアプローチする力がつく。複合文化学とはそういうものだと私は考えている。
この学科に入学したての頃は、複合文化は単純に色々な地域の文化を学ぶのかなと思っていたが全くと言っていいほどそうではなく、社会学やら哲学やらハテナが浮かぶようなものがたくさん出てきた。今回の講義で、複文は脳内の縦割り行政を壊すとあったが、もしかしたらこれは今の時代社会に出て一番求められることなのではないかと思った。外山滋比古氏の『思考の整理学』や『乱読のセレンディピティ』でも同じような内容が記されていたように思う。一つの専門分野だけを極めるだけ、もしくは知識を詰め込んだだけではAIに取り変わってしまう。そうならないためには様々な分野に触れて知識を「熟成」させることが重要である。このようなことを述べていた。授業で出てきたテクスト、コンテクストにも関係すると思うが、一見関係ないことを学んで何日か経つとふと新しい考えが浮かぶ場合がある。この過程の練習を複合文化でやっているのだと思った。その集大成が卒業論文であり、0の状態からそれまでの自分の知識を練り交ぜて新しいものを生み出すことがゴールなのだと知った。元々新しいアイデアを出したりするのが苦手や私だが、この学科に入ったからには自分だけの創造性を手に入れたいと思う。
発見ではなく発明である、という言葉が私には、複合文化学というものを理解しあらわすのにとても分かりやすかった。もともとあるものを研究したり、もともとあるものを結び付けるのではなく、自ら結び付けて発明する。この学びはまさに自由自在で、フリーなものであり、複合文化学の授業でよく言われる「正解なき世界」を導くものであると理解した。しかし、自由というものは簡単に思えるが、まず最初にどこへ行ったらいいのか、何をしたらいいのか、迷ってしまうという側面もある。これが複合文化学の難しさであると今回の授業を受けて自分なりに感じ、これからの複合文化学で意識していこうと思った部分でもある。■また、よく知り合いに学部の名前を聞かれて「教育学部」と答えると、「先生を目指しているんだね。」といわれ、実際はそうではないのになんとも説明できないという難点も今回の授業で克服できたような気がした。自ら点と点を結び付け発明し、その個人的なものを他人に見せ同調者を増やす<アミからセイザへ>、こういった行為に「教育」というものが見いだせる。教師になり、子供たちに教える、ということを決して目指しているわけではなくそれが絶対ではない。この発明、同調者、客観的、などのワードを理解すると同時に、複合文化学科が教育学部であるわけも理解し納得することができた。
複合文化学は、とても重要な学問だと考えます。一言で説明することは難しいですが、複合文化学は、認識論的要素と絡めながら〈テクスト〉の分析の方法論を学び、文化現象を分析して人々の価値観、潜在意識などを探求する学問だと思っていました。それは、今まで生きてきた中で学校で習ったこと、家庭で習ったこと、社会で習ったこと、全てを一緒に考え、全ての垣根を越えることです。国語や数学などアカデミックな言葉で飾られたものではなく、ふとした時に気がついたこと、思ったこと、なんでも材料として扱い、ひたすらに探求していきます。■福田先生が、食に関するお話の時に「当たり前のことはみんな書かないから、本にも書かれていないんだよね」、と仰っていました。まさに、複合文化学はその〈当たり前〉を可視化させ、学問と自分自身を結びつける過程を重要視します。■またこれはかなり個人的な意見だと思いますが、学ぶ楽しさをしみじみと実感できる学問でもあります。私が学びに対して楽しさを感じる時は、既存の知識と新規の知識を結び付けられた瞬間です。その知識のフィールドが離れていればいるほど(例えば、精神分析と家庭教育学など)、その時の感動は大きなものとなります。■複合文化学で学んだことは、デートで映画を見ている時、一人で読書をしている時、家族とバラエティ番組を見ている時、いつも頭の片隅にあり、顔を出してきます。面白かったなあ、つまらないなあ、で終わるのではなく、そこから学びと繋げ、自分なりに(その場限りのものだとしても)分析をしてしまいます。生涯学習とも言えるかもしれません。■ですが、同時に複合文化学を中途半端に学ぶとなると、それは先生の言う、「底の浅いジェネラリスト」になりかねませんし、そもそも予備知識として高校生までの学びがなければ浅い考察しかできない上、学びに楽しさを見いだすことのできる可能性はかなり低いと思います。そのため厳しいことを言うと、〈最低卒業単位数のためだけに大学に来て勉学をおろそかにするが、要領のいい〉学生には、楽であると同時に何も学ばない4年間となるでしょう。複合文化学は、向き不向きが激しい学問とも言えるかもしれません。■ただ私は(ご存知だと思いますが)複合文化学が好きです。文学部や国語国文学科に行かなくてよかったとすら思います。それは、複合文化学で身につけた知識を文学に応用する、ということが楽しいからです。自分の基盤となるものを文学として、そこから文学を見つめるよりも、異なった基盤で文学と向き合う方が自分に合っていると思います。■複合文化学は、学ぶ楽しさを見出すことができ、18年間蓄えてきた知識と経験全てを武器にしながら、また更に武器を増やし、それに加えて既存の武器を磨き続けていくことができる学問であると感じました。
私は、今まで複合文化学というものを「何でもアリな所」というように考えていた。どんなジャンルのことも理解の対象にできるというようなイメージだった。しかし、その理解というのは、誰の目から見ても理解される客観的なものより、自分の好きなものをただ書き連ねるような自己満足レポートを書いていたと思う。また、複合文化学では研究対象を編み出す必要があることを知った。つまり、複数のテクストから生み出す必要があるということだ。そしてその編み出されたコンテクストを客観的にしてゆくことで研究が進むということだろうか。テクストは文字だけにあらず、様々な分野から編めることを考えると、複合文化学はやはり自由なものだと感じた。しかし、それは初めに述べたように「何でもアリ」なわけではなく、理解という目的に対して、研究対象を編み出して客観的にしていかなければならないのだと分かった。複合文化学において、最も大事なことは研究対象を編み出すことだと私は思った。
親や友達に複合文化学科って何を学んでるのかという質問を今まで沢山されてきたけど、深く何について学んでるか考えたことなかったので、スペイン語(第1外国語)を学んでると返答していた。複合文化学科を受けた理由は、文化に興味があったからであったけれど、2年前の私にとって文化とは、例えば東南アジアの食文化であるエスニック料理や、ブラジルの国民的ダンスであるサンバなどの娯楽だと考えていた。そのような異国の文化(サブカルチャー)に触れることがいわゆる趣味であったためである。単に、旅行好きなだけと言われても過言ではない。しかし、いざ複合文化学の必修授業を受けてみると、難しい単語ばかり出てきて、サブカルチャーを学ぶ、触れると思っていたので、想像と全く違った。今は抽象的なことばかり学んでるから、分からなくてしょうがないとぶっちゃけ思っていた。しかし、今の今になっても肝心な文化学科である意味を捉えられず、誰にでも伝わりやすいスペイン語を学ぶ学科と説明してしまっている。週3で勉強しているのだから間違いではないが。なので、今日の話が、私のこの一年半の疑問に終止符を打った。まだ自分の腑に落ちるほど理解したわけではないけど、ようやく、複合文化学科に入ったからこそ身につけなければならないことの一部分を頭の片隅に置くことができた。そして、今まで発見しか自分がしてきてないことに気づいた。せっかくこの学科に入ったのだから私は発明をしたい。今日のオデキの例文を聞いてて、行動が早いということは全てにおいて評価されている。物事において全てプラスマイナスの部分があるというが、マイナスな部分はせっかちという単語だけに収められ、そしてこのせっかちという性格は世の中(ビジネス)を渡る上で害悪にはならない。私はその逆で、行動が遅い。少しオブラートに包むと、マイペースである。この特徴(オデキ)は、マイナスのイメージしか持たれない。プラスの部分は、性格が穏やかで優しいなどと供述されるだけで、ビジネスに生きることはない。私自身、長年マイペースと言われてきたことがコンプレックスである。ここで、私はマイペースというマイナスのイメージを抱かれているオデキを繋いでいくことによって、なんとか性格が穏やかというビジネスで役に立たないこと以外のプラスのアミを創り出したいと考えた。まだこれはプランである。今まで楽観的に授業を受けてきた私には、まだアミを作り出す能力はないが、この課題を卒業するまでに達成したい。