提出された my remarks から、「あいさつ」などの私的なコメントを部分的に省略しています。ただし教育的配慮から、誤字や脱字等はそのままにしています。
Aさん
先生は、映画館は非日常の空間において多くの人が大量に同一のメッセージを書き込まれる場所であると言っていたが、テレビにもこのような側面があったのではないかと考える。テレビは録画予約して後から見ることもあるが、基本的には同じ時間に多くの人が同じものを見るという点で映画に準ずる効果を持っていたのではないかと考える。空間の点に関して言えば、少なくとも家族で同一空間にいる状態で見る場合が多かったように思う。しかし、現代ではSNSが普及し映画だけでなく家でテレビを見ている人も減少している。映画が個人でいつでもどこでも見られるようになったのに対して、テレビはそもそもの視聴者が減少しているように感じる。映画に限らずテレビも以前のような形で見られることが減っていったことで、想像の共同体への人々の帰属意識が薄まり、それに代わるように普及していったSNSを利用する人が増えたことで仮想の共同体が存在感を増すようになっていたのだと思った。
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Bさん
同じノンバーバルコミュニケーションでも、無声映画は多義的であり、LINEのスタンプを代表とした現代のコミュニケーションツールは一義的であるという話があったが、現代のコミュニケーションツールは一義的にするべくして一義的になっているのだと私は考える。メールやチャットなどの現代の非対面のコミュニケーションツールは、声色や表情から読み取れる情報がゼロに等しいため、それらの想像次第で、むしろどのような受け取り方もできる非常に多義的なコミュニケーションツールだろう。その多義的ゆえに受け取り方は様々になってしまう。だから、その結果として意思疎通に齟齬が生じやすくなるのだろう。そこであえて、LINEスタンプのような一義的に近いコミュニケーションツールを導入することで、コミュニケーションにすれ違いを発生させないようにしているのだと私は考える。映画のような芸術作品では、鑑賞者に与える情報を少なくすることで、たとえ製作者の意図と異なる受け取り方をしたとしても、鑑賞者に自由な受け取り方をしてほしいというケースは多く存在する。しかし、日常生活の中でのコミュニケーションではできるだけ自分の意志や意図を完全に伝えようとする。自身の意志や意図を自分の意図した通りに受け取ってもらうための、現代のコミュニケーションツールの形だと私は考えている。
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Cさん
メディアテクノロジーの映画に関する話の時にでてきた、ラインのスタンプは記号的でノイズを表現できる無声映画とは逆の特性をもつためコミュニケーションがマシン化していくというところに強く共感した。私はラインなどのように文字でメッセージを取り合うのが苦手なため会話が長くなる前にスタンプを押して会話を終わりにしてしまうし、スタンプで事足りる内容ならば返信をそれだけにしてしまう。スタンプの柔らかい雰囲気のおかげで険悪になることなく無難に会話を終わらせることができる。また、最近は細かい状況に対応した多様なスタンプが販売されていたり、通知を送らずにメッセージにスタンプのようなものをつけることが可能になったりしている。そのためラインなどのスタンプにより文字媒体でメッセージを送る必要性が弱まりコミュニケーションはさらにマシン化していくと考えられる。
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Dさん
映画と夢には、場面転換を自分でコントロールできず、外部からの刺激に対して無防備であるという共通点がある。夢では、場面の意味が時として成り立っていないこともあるが、この点で映画との進行プロセスには差異が見られる。どちらも主体と客体の境界が曖昧で、視点によって異なる解釈が可能であることもまた共通点と言える。
映画は監督や作り手の意図が強く反映され、視聴者がその視点に導かれる一方、夢は無意識の領域で起こるもので、明確な「作り手」が存在しない。映画ではどのキャラクターに焦点を当てるかで物語の見え方が変わり、その選択には監督の意図が介在する。しかし、夢の場合、誰の視点で見ているのかすら、定まらないことも多く、視点の曖昧さが夢独自の性質を作っている。この点で、夢は完全に無意識的であり、他者と同じ夢を共有することは不可能だ。これに対し、映画は同じ内容を多くの人々と共有できるため、共通の理解や議論がしやすい点が異なると言える。
つまり、映画と夢は、視覚的な体験という点では似ているが、制作者の存在と意図、共有の可能性、論理の一貫性などにおいて本質的な違いがある。それでも、映画と夢はどちらも現実からの逃避や深層心理への接触を許す装置であり、私たちにとって特別な役割を果たしていると言える。
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Eさん
映画は夢と似ており、その特性を利用することで人々の無意識に干渉し、集合的無意識を共有することができるという点が印象的だった。その特性のために、戦時中には映画がプロパガンダとして、国という「想像の共同体」を創り上げ、さらに強化する役割を果たしていた。しかし、現代では映画というメディアの形が変化し、想像の共同体は「仮想の共同体」へと移行しつつある。加えて、映画だけでなく、他の文化圏の物事を国家という枠組みで解釈させるような、市民への文化的干渉も弱まってきている。その結果、国際交流やグローバル化が一層現実味を帯び、多様な仮想の共同体が国境を越えて形成されている。こうした変化の中では、人々は依然として国民というアイデンティティを持ちながらも、その意識は徐々に薄れつつあるように感じられる。かつて、特に戦時中には「国民」というアイデンティティが一人ひとりの核となっていたが、それが薄れた現代では、自らのアイデンティティを自分で見つけ出さなければならない。このように、以前講義で取り扱われた、「現代では、人は自らのアイデンティティを自分で見つけ出さねばならない。」という考えを仮想の共同体という観点からも補強できると思った。
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Fさん
この講義では、映画館やテレビといったメディアの変遷と、それに伴う共同体意識の変化について考えた。今回の講義を通して私は、映画やテレビがかつてのような「想像の共同体」を生み出す役割を果たしていたことを踏まえた上で、現代のメディア環境においてはむしろ新たな形で共同体が形成されているという点に気付かされた。確かに、かつての映画館やテレビのように、同じ時間・空間で多くの人々が同一のメッセージを共有するという経験は少なくなった。しかし、SNSや動画配信サービスは、それを補完するvirtual共同体を作り出している。SNSや動画配信サービスは、物理的な同一空間にいなくても同じコンテンツに関心を持つ人々が瞬時に繋がり、感想や解釈を共有できる場を提供できる。これにより、個人が自らのペースでコンテンツを消費しつつも、オンライン上でコミュニティに参加し、意見を交換し合うという新しい形の集団体験が可能になっている。例えば、映画やドラマが公開された後にTwitterをはじめとしたSNSで即座に感想が広まり、視聴者がリアルタイムで交流を持つことで、瞬間的な共有体験が発生する。これは一種の共同体形成であり、従来の物理的な共同体とは異なるが、その強力な影響力は無視できない。また、映画やテレビとはちがい、視聴者が能動的に参加し意見を表明できるという点がSNSの共同体における重要な特徴である。単なる受動的な鑑賞者ではなく、視聴者が発信する立場にもなれる現代のメディア環境では、コミュニティはより流動的かつ参加型になり従来の一方向的な情報の受容とは異なる形での「想像の共同体」が形成されていると考えられる。したがって、映画やテレビが果たした役割が消失したというよりは、その役割が進化し、現代の技術によって新たな形式で共同体が構築されていると言える。これはネガティブに捉えるべきものではなく、メディア消費の多様化に伴う新たな可能性を示しているのではないだろうかと考えた。
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Gさん
今回の講義では、テレビや映画館といった私達の身近に存在するメディアが作り出す想像の共同体の変遷について学んだ。その中で私は、アイドルのライブ会場でも想像の共同体が発生しうるのでは無いかと感じた。アイドルのライブ会場には、そのアイドルのファンが、アイドルを見に来るという同じ目的を持ち、大勢集まる。そして、私が特にその共同対の存在を実感したのは、ライブ中の決まった部分で歓声が湧く瞬間だ。歓声が湧く瞬間は、ファン達が「可愛い」や「かっこいい」と同時に感じている瞬間であり、そこには共通した感情が存在している。そのため、その瞬間、会場には「そのグループのファン」というまとまりが特に意識されるように思える。また、現代にはSNSが普及し、物理的に見えないミクロな共同体が発生していると講義の中で出てきた。そして、推し活という事柄に注目すると、このミクロな共同体が想像の共同体がライブで発生しうるのに関係しているのではないかと感じた。推し活では主にTwitterなどを用い、グッズの交換やイベントで会う予定などをたてる。その際、アイドルに対する好きという気持ちが一致したミクロな共同体が形成される。そして、それがリアルの世界に持ち越され、ライブ会場での想像の共同体の発生に繋がっていると今回の講義を通じて考えた。
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Hさん
授業では仮想の共同体が強くなってきたのに対して、想像の共同体は存在が難しくなり、終わりつつあるという話だった。それに対して私は概ね納得できるが部分的にそうは思わないと感じる部分もあった。確かに近年SNS上での繋がりはますます強くなり、SNSに居場所を求めようとする人も増えていることから仮想の共同体は強くなっていると言えるだろうし、愛国主義的な思想が避けられていて想像の共同体が弱まりつつあることも納得できる。しかし、私は想像の共同体が弱まりつつはあっても終わりつつあるとは思わない。というのも、普段は自分が日本という国に属しているという意識を持って生きていなくても、オリンピックやワールドカップなどのような国別で戦う大きな大会があるとき、たいていの人は自然と同じ日本人の選手に注目を向けて応援し始めるからである。これは日本という国に属しているという意識が人々の意識の根底には存在していることの表れなのではないかと私は思う。事実、この間のパリオリンピックで普段はスポーツなんて見ないし、特に愛国主義的でもない私の家族がテレビで中継があると自然とそれを見始めて同じ日本人の選手を応援し始めていた。他にも例を挙げるとするならば、日本からアメリカに移り住んだ日本人の中にアメリカで活躍する日本人の大谷選手を熱烈に応援しているファンがいることが挙げられる。これは、日本という国を捨てて他の国に移り住んだとしてもどこかで自らのルーツが日本にあるという意識があり、同じ日本という国に所属する大谷選手を共通の想像の共同体の一員として認識して、親近感を覚えているからであるといえるのではないだろうか。また、より小さな規模の想像の共同体でいえば、早慶戦が挙げられる。普段から自分は早大生だという意識を持っていなくても早慶戦が始まるとなんとなく早稲田を応援して、勝ったと聞けば嬉しくなるのは、早稲田に所属しているという意識が普段は意識の前方には出ていなくても後方にたしかに存在していて、それが前に出てくるからであると言えないだろうか。つまり、想像の共同体は終わりつつあるように思えるが、普段意識しないだけで実際には意識の深層にしっかりと存在していて消えることはなく、何かの折にそれが表層に出てくるという形で存続し続けるのではないかと私は思う。
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Iさん
授業の中で提起されていた「仮想の共同体」という概念に興味を持った。SNSの繋がり、すなわち仮想の共同体は私たちの生活の一部となったと言っても過言ではない。対して想像の共同体について、神尾先生は「存続が難しい、終わりつつある」とおっしゃっていた。今回の私のmy remarksではこの点について考えてみたいと思う。
私の主張は、「人は想像の共同体から離れることはかなり難しい、ないし不可能。つまり想像の共同体は不滅である。」というものだ。「不滅」と言い切ると少々暴論にも聞こえてしまうかと思うが、授業を踏まえて私が考えることを述べる。
授業でも触れられていたように、グローバル化した現代において、海外に出ることはさほど困難ではない。「こんな国はもう嫌だ」と思えば他に行く先はいくらでもある。しかし、国や地域を出たからといって「想像の共同体から完全に解き放たれた」ということができるのだろうか。私の答えはNoだ。なぜなら、私たちは生まれ育った環境によってある程度の価値観や常識を形作られてしまっており、それらは無意識のうちに私たちに作用するからだ。例えば、私は今回の神尾先生の授業を聞いて、中国でGmailが使えないということに驚いた。なぜ驚いたのか。それは、私がこれまでの人生の中で、日本や欧米でGmailを使えることを知っていて、「当たり前」と思っていたからだ。もし日本でもGmailが使えないなら、または私が中国出身であったなら、この事実に驚くことはない。また、日本文化をよく知らない外国人観光客が自分の目の前にいて、何の悪意もなく土足で畳に上がろうとしていたらどうだろう。おそらく、多くの日本人は止めに入る。日本文化の中で育ってきた私たちは、特に注意書きがなくとも、土足で畳に上がることは「普通は」望ましくないと認識しているからだ。
このように私たちは無意識に日本や家族、自身の所属する団体などと価値観をともにしている部分がある。だからこそ海外に出たとき日本との違いに驚いたり、日本文化が汚される(と感じるような)ことを防ごうとしたりそれに憤ったりするのだ。「日本文化なんて興味もこだわりもない」という人でも、普段自分が靴を脱いで生活している部屋に土足で入ってこられたらきっと笑顔ではいられないだろうし、海外で遊牧民の食事を出されたならそれを食べるには相当な勇気が要るだろう。これらは全て私たちの「前提」や「コンフォートゾーン」から外れた事柄であるためだ。神尾先生がおっしゃっていた「地域・文化的な無意識」というものにも通じる。
つまり私たちは「田舎を出る」「海外に移住する」といった意識の上で想像の共同体を出ることはできても、無意識のうちに自身の文化圏、想像の共同体に依存していると考えられる。以上のことから、仮想の共同体がメジャーになった現代でも、想像の共同体は私たちの根底に残り続け、滅びることはないと考える。
Aさん
1895年が大事であると強調していた。たしかに、授業を聞いた限りではフロイトが無意識の有意性を語った以外にも、様々な分野で1895年周辺で今までは無視されていた(あまり意味のないものだと思われていた)ものに目を向ける新しい流れができ、大事な年であることは間違いないように思われる。
授業ではフロイトを中心にして、1895年周辺にできた新しい流れを説明しているので、フロイトが全ての(新しい流れの)起点に立っているように感じる。そこで、この様々な分野における新しい流れが、フロイト(の研究)を起点に、様々な分野にそれが持ち込まれることで連続的に起こったものであるのか、それとも様々な分野でたまたま1895年を境に偶然に起こったものであるのか気になった。
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Bさん
フロイト、モレルリ、コナン・ドイルは共に医者であり、表面化した症状、状態から背後に隠されたものを探るという共通点が存在したという話が興味深かった。モレルリ、コナン・ドイルに至っては医学界ではなく、それぞれ美術作品鑑定、小説の中の探偵にそれらの特徴が表れていた。つまり、医学界にとどまらず社会全体として、細部に着目してその背景や全体を捉えようとする風潮が台頭してきたと考えることができる。一方でニーチェの「ツァラトゥストラ」では、脳は肉体の道具にすぎないため、理性や意識ではなく身体や無意識の価値が高まっているとある。細部からその背後を捉える前者と、身体や無意識の価値を訴える後者では結局同様にディテールを重視しているのではないかと感じた。ニーチェの「身体」は一見「細部」ではないように感じるが、それまでの時代の「身体」を軽視していた風潮を考えると、「身体」も「細部」であったと考えることができる。そう考えると、醜くくて、人々が見ることを避けていたリビドーのような存在にフロイトが注目した点にも非常に納得がいった。
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Cさん
フロイトもホームズもモレルリも、見えているのに見ていない細部、ディテールに着目し、そこに表れている無意識の部分から真相を見つけるという話があったが、この話を聞いて最近見たテレビ番組の内容を思い出した。その番組では大物バンドと小学生バンドが演奏する音だけを聞いてどちらが大物バンドの演奏か当てるという企画が行われていた。なんとなく聴くと何が違うのか分からないが、細かく聴いていくと、小学生の方は原曲通りにそのまま演奏しているのに対し、正解の方はリズムが所々崩れたり、ギターの雑音が入っていたりして、逆にそれが臨場感を演出していた。おそらくこれは無意識に行われているものだと思うが、この無意識のノイズこそが演奏を“本物”にしているのだということを感じた。近年は人工知能の発達により人間の存在意義が問われているが、人間が持つこの無意識のノイズを人工知能が再現するのは難しいのではないかと思う。意識的な完璧さだけを求めるのであれば人工知能に全て任せておけば良いが、コントロールできない無意識のノイズこそが個性や面白さが生まれる部分であり、そこに人間の価値があるのではないだろうか。
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Dさん
私が今回の講義で1番興味を持ったのは、心霊現象研究である。私は今回の講義で初めて、エジソンが心霊現象を信じていたというのを知った。私はエジソンの伝記を何度か読んだことがあるが、そんな話はこれまで目にしたことがなかった。現代人には、心霊現象に疑問を抱き、信じていない人が多いように思う。よって、伝記の作者はあえて書かなかったのではないだろうかと推測した。もし上記のような内容を伝記に盛り込んだとしたら、一部の人の目には、エジソンは心霊現象などというばかげたことを信じている人だと映ってしまうだろう。基本的に伝記は過去の偉人の素晴らしい功績を残すために書かれるので、伝記ではそのような内容を省いたのだろうと思った。
19世紀の人々は、「幽霊が目に見えないから存在しないというわけではなく、まだ自分が気づいていない事実がそこにあるから見えていないだけかもしれない。だからそれを感知する方法を研究しよう。」という考えのもとに心霊現象研究を行っていた。このような、自分が見えている世界が必ずしも正解ではない、という考え方は、現代人にも必要なのではないだろうか。現代では、メディアの印象操作が問題視されている。印象操作をするメディアはもちろんよくないが、そのメディアの情報を真に受けて、自分の頭で何も考えずに信じこんでしまう視聴者側にも問題があるように思う。特定のメディアだけを見て、「これが絶対的な正解だ!」と決めつけるのではなく、その裏にまだ自分には見えていない別の事実が存在する可能性も考慮できるようになるべきだと感じた。
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Eさん
大きい理性と小さい理性の話が面白かった。大きい理性とは肉体で、小さい理性は脳や知性のことである。私は今まで脳が身体を動かしていると考えていたが、ニーチェの考えによると、脳は肉体の道具に過ぎない。スポーツや言語を身に付けるときを考えると腑に落ちた。
また、心霊現象研究の話を聞いて、高校生の時に受けた物理の授業を思い出した。
人間は可視光線と呼ばれる電磁波のみを感知することができ、それらを脳で処理することで風景として認識している。特に印象に残っているのは、「人間が感知できない電磁波を持っているだけで、幽霊は実際に存在しているのではないか」という先生の小話である。これについての科学的な正当性はないのかもしれないが、もし本当だと仮定すると、心霊現象もほとんどの人の眼の中に入っているが人間が感じることができないという点でフロイトやシャーロックホームズの「見えていたり聞こえたりしているのに意識されないために処理されないノイズ的なもの」と同じだと感じたし、多くの学者が興味を持ったのが腑に落ちた。
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Fさん
この授業のオンデマンド講座を観た後、「キートンの探偵学入門」を視聴した。このmy remarksでは、映画を観て感じたことをこの授業および春学期の神尾先生の道具箱の授業と関連付けて述べたい。
映画の前半部(現実)ではのキートンは、探偵を目指すも罪を着せられ、失敗続きで踏んだり蹴ったりである。一方、映写室で眠りにおち、夢で映画の世界に入り込んだキートンは、名探偵シャーロックホームズとなり、その身に迫る危険を回避したり自転車と同じ速さで走ったりと、超人的な能力を発揮しながら事件を解決していく。ここから私は、この映画では現実(意識下)と夢の中(無意識下)の対比が描かれていると解釈した。夢の中ではキートンの理想、憧れの自分像が表現されており、意識下では実現できず抑圧していたもの、さらに言えば抑圧を「余儀なくされていた」ものが回帰し夢に現れたと考えられる。
夢というと、春学期の道具箱の授業で扱われた香水のCMや映画チャーリーとチョコレート工場を思い出す。これらの映画の中での夢は、船や列車で街を破壊しながら愛する女性のもとを訪れる、絶縁していた家族と和解する、というように実現不可能でありながらも強い欲望を映し出すものとして機能していた。一般的な夢の中には「正夢」と呼ばれるものもあるが、上記の作品においては、夢に現れるということが「実現不可能、反実」であることを強調しているのではないかと私は考えた。
そしてキートンのこの映画においては、最後のシーンもまたポイントとなるのではないかと感じた。夢から覚めたキートンは自分が夢に見ていたものと実際の映画の結末の落差に愕然とし、現実世界にある幸せに気がつかない。この場面で、キートンの意識の対象は映画に移っており、現実世界には意識が向いていない。夢を見ている状態とは異なるものの、これもまた無意識と呼ぶことができるだろう。
これらは、「人間の心の内や重要なことは無意識の部分にこそ現れる」というフロイトの主張をよく表したものだと考えられる。ドイルをはじめとした医学者やエジソンのような科学者、クリムトら芸術家たちは、フロイトのように理論化はしないまでも、無意識や物事の背後に潜んでいるものの存在、またその重要性に気づいていたのではないかと感じた。
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Gさん
意識よりも無意識が人間の大半を占めている。むしろ、私達が意識している部分は氷山の一角に過ぎず、本当に重要なことは無意識の領域に滲み出るということが、講義を通して語られていた。自由連想法では患者に自由に思ったことを話させ、無意識に口をついて出た言葉から、患者の精神状態を正しく測ることができるらしい。これは、私達が意識的に語る言葉は「建前」で、無意識に現れるのが「本音」だということだろうか。であれば、「自分は無意識にこんなことをしていたな」「無意識の内にこんなことを思っていたな」という風に意識した時はどうなるのだろうか。例えば、自由連想法によって「私は無意識の内に幼少期の交通事故をトラウマにしている」と診断されたとする。それから「自分は交通事故がトラウマだ」と意識して生活したとする。車通りの少ない道を通勤に選び、神経質なまでに交通ルールを順守して過ごし、少しでもトラウマを和らげることを試みた時、自分は交通事故がトラウマだという認識は「建前」と「本音」のどちらなのだろうか。講義内では、無意識の中に重要なものがあることが強調されていた。では、無意識の中にある重要なものを意識した時、それは重要なままなのか、意識した時点で重要でない何かに成り下がってしまうのか。もしも前者ならば、無意識の領域にある重要な事柄を意識の領域へと移していくこともできるのではないか。講義内では、無意識が主人であるという表現が使われていた。無意識の中にある重要なことを一つずつ意識していき、意識が自分の主人になるということはないのだろうか。
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Hさん
今回の授業を受け、「歌とパフォーマンスには今までの生き様と性格、人間性が全部でます」という言葉を思い出した。これは現在YouTubeで配信されている、ガールズグループオーディションプロジェクト「No No Girls」でボイストレーナーの方が放った一言である。審査員の前でパフォーマンスを披露した参加者が、発表当日に風邪を引いて満足いくパフォーマンスができずに泣いてしまったことを受けての言葉だった。私はこの言葉を、「今までの人生で貴方が一生懸命に頑張ってきた歌の魅力は、風邪ひとつで無くなるものではありませんよ。貴方の積み重ねてきた努力はちゃんと見えていますよ。」という意味の賛辞の言葉のように聞こえた。しかし、今回授業を経て、この言葉が少しだけ違う響き方で聞こえてきた。「どれだけ練習しても、取り繕ったとしても、貴方がどのように生きてきたのか、何を大切にし、何をぞんざいにしてきたのかというところは、貴方のパフォーマンスによって筒抜けになる。意識せずとも、身体には貴方の人生が染み付いているのだ。」と。それは確かな事実であり、警告のようでもある。瞬間、私は怖くなった。本当は知られたくない、秘密にしておきたい自身の中身を、身体は勝手に語っているというのだから。私も、私の身体に勝手に語られているのだろうか。きっと語られているのだろう。そうなると、まるで自分の中に突然敵が現れたような、明確な他者に侵略されているような気分で、気味が悪くて仕方がない。