提出された my remarks から、「あいさつ」などの私的なコメントを部分的に省略しています。ただし教育的配慮から、誤字や脱字等はそのままにしています。
Aさん
裸体が時代や文化、イデオロギーによってさまざまな意味を持ってきたということです。特に、20世紀における裸体文化運動やナチュリズム、セクシュアル・レボリューションの流れは、自然回帰と個人の自由を求める人々の意識の変化を象徴していると感じました。裸体は「ありのままの自然」としての姿を表しつつも、歴史や社会情勢の中で異なる解釈やメッセージを帯びてきたことが興味深いです。
例えば、第二次世界大戦後のナチュリズムの広がりは、単なる「裸体主義」を超えて「自然に戻ろう」というメッセージを含んでいました。これは、環境問題が意識され始めた時期とも重なり、外なる自然と内なる自然の調和を目指すという考え方が生まれた背景が理解できます。また、ジョン・レノンとオノ・ヨーコのアルバムジャケットが象徴するように、1960年代の後半には、裸体を通して社会的なメッセージや個人の解放が訴えられるようになりました。この流れは、ウッドストック・フェスティバルなどでの「自然の中での自由な自分」という体験にもつながっていたように思います。この歴史を通して考えると、裸体というものは単なる「裸の身体」以上の意味を持ち、それをどう見せ、どう解釈するかがその時代や社会の価値観を反映しています。衣服の歴史がその時代の社会や価値観を表現するのと同様に、裸体もまた時代のメッセージを伝える強力な手段となってきたのです。現代においても、自由や自己表現を求める動きが続く限り、裸体やファッションが引き続き文化的な象徴となり得ると考えます。
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Bさん
人間が「自然」であるものを意味づけ、cultivateして、いろいろな文化を作ってきた。私たち今もそれらの文化の中で生きており、楽しんだり、苦しんだりもしている。その「いわゆる美しいさ」もそれらの文化の一つだと思う。特にテクノロジーの圧力について、今自分の母国で「容姿焦慮」(自分の容姿への焦り)という近年出てきた言葉が辞書にも入れるほど若者に議論されている。つまり、中国の若者、もちろん、自分も含めて多少容姿への焦りを抱えている。それはティックトックやインスタグラムなどのメディアに流されて加工された写真に潜んでいる文化の価値観に影響されているのは一因となると思う。この文化の価値観自体は良いか悪いかはともかく、知らずにその文化の価値観に振り回されるか、知っている上でその価値観に従うかどうかを自分で判断するか、文化を相対的にとらえるというマインドセットが大事だと思う。ポストヒューマニズムについて、正直これから人間がどうなるのか自分もよくわからないが、私は地球を舞台に例え、人間や動物、植物、微生物など全てのモノが登場人物で、皆で支え合いながら一緒に『私たちの地球』という壮大な劇を演じていると考えている。確かに、今人間が主役のように見えるが、将来主役の座を誰に譲るかもしれないし、地球の幕が閉じる日がくるかもしれない。ただ、何億年後、遥かな星の子供たちが宇宙史を勉強する時、人間は地球に何のメリットもなかったと教えられないように頑張っていきたいと思う。
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Cさん
植物が食害を受けたときに、匂いを放出して周囲の個体の食害に対する防御活性を高めると高校で勉強した時に、今回お話を受けたような、植物もコミュニケーションをしていると言えるのではないか、と友人たちと話したことを思い出した。ぼんやり過ごしていたのでそこで友達と、これで植物愛護活動が始まって食べるものがなくなったりしたらどうするんだろね、などとなんとなく話していただけでそれ以上調べてはいなかったが、私たちが色々と考えたことはなんだかんだ完全に無駄な暇つぶしではなかったんだと思うと、ちょっと嬉しい。こうした植物の働きをただ植物ホルモンや匂い物質の受容とだけとらえることもできるが、そんなことを言ったら私たちがよく『文化』だと言って大切にする言葉や考えだって、体内に生じる微弱な電流に起因するものだというだけとして捉えることもできるし、本当に、どう見るかによって物事はいくらでも捉えようがあるなと思う。ただ、そうやっていくらでも好きに考えることができるからこそ、気をつけなくてはいけない部分もあると思う。多様性という言葉に踊らされて極端な話だけれど通りすがりの殺人が肯定されるべきではないし、守るべき何かしらの基準は必要だと思う。その基準を各時代に合わせて、柔軟にアップデートしていけばいいのではないか。
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Dさん
本講義をきいて、後半に出てきた植物の知性に関して、人間などの動物とは違う知性をもっているのでないか、植物自身が自分の生活を最適化するのではないかとちょうど最近考える機会があったので、興味深かった。というのも、私は塾講師のアルバイトをしているのだが、小3の理科の授業中に「植物は脳がないのに、生きているとはいえますか?」という質問をうけ、小3が理解できるまで言語化できず、自分自身の考えも本当に正しいものなのかわからず、モヤモヤした経験があったからである。植物独自の知性の存在は気になるので、教授が推薦していた本に対しても興味がわいた。
私は哲学や思想に関して、あまり興味もないのですが、ポストヒューマニズムの話については気になった。私は今からポストヒューマニズムの考えが人類全体に普及し、実際に人間中心主義から脱却するのは不可能な話であると思っている。しかし唯一、人間が共存を図る必要のある存在が近年現れたのではないかとも思っている。それこそ「AI」である。傲慢で驕っている人間が本気で思考を巡られ共存を迫るときは、危機感、劣等感を覚えるときのみである。AIは唯一人間以上の能力を保持できる存在なのではないかと思う。実際、計算やデータ処理などは人間以上である。しかしながらAIが「人間の能力以上の存在」になる可能性はある一方で、それが必ずしも人間の独自の価値や独自性を凌駕することにはならないとも思う。むしろ、AIの進化が進むほどに、人間は自らの役割や価値についての再評価を求められることになるではないだろうか。
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Eさん
ポストヒューマニズムの話の際に植物は脳がないのに、合理的なメカニズムで助け合っていて、それは人間の知性とは異なる知性が働いているからだという話をしていましたが、私もこの話を聞いて、いかに今まで無意識の中で人間中心主義で物事を判断していたか理解しました。
雨を止ませるためにロケットを打ち上げる国や、石油などの化石燃料を使うことで地球温暖化を進めてしまうことなどといった自然に対して支配する立ち位置で世界の先進国は接してきたと思います。この立ち位置を変えようとすることは不可能だと思います。このような過激な思想はないと考えていた自分ですら違和感なく、無意識のうちに自然と自分を区別してしまっている部分がありました。
まず生活空間が自然とはかけ離れた場所にいることから自然との共存という意識が薄れてしまっているのが1番の問題であるのでしょう。古代や中世の人々は今よりも自然と共に生きてきていたので、命の大切さを身をもって知っていたり、自然は制御できるようなものではないことを理解していたと思います。ただ現在の人々はその部分の感情に欠落が生じてしまっていると思います。今、生きている人々はヴィーガンや環境保護活動といった過去の自然と共に生きていた時代にはいなかった人々が生まれています。この講義を聞いて思ったのはヴィーガンや環境保護といった行動が逆に私は人間中心主義的考え方なのではないかと思いました。
ポストヒューマニズムな世界を進歩的、楽観的に見ることも大事なことであるし、進歩していくことで未来に解決策があることもあるので進化し続けることも大切だとは考えますが、悲観的に見た時に自然の法則との付き合い方を考えることでさらに自然と向き合った新たな人が生きる世の中に変わるのではないかと思います。古代のように自然と共存することは不可能ですが、まずは日常的に自然を支配的な立場ではなく、古代の時の人々の自然との距離感を感じられるような動きが生まれれば少しずつ新しい考え方が生まれてくるのではないかと思いました。
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Fさん
私は過去の経験から「生まれて来なければよかった」という考えを抱いたことがある。そうした背景もあって私自身子どもを持つことには非常に消極的だ。特に、親は子どもを産むか産まないかを選択できる一方で、子どもは自らその選択ができない。人生のあらゆる側面を背負い責任を持つ覚悟があるのなら子どもを持つことも一つの選択だが、子を持つことが幸せと直結するだろうといった安易な考えには疑問を持ち続けていた。このような私の感情は、反出生主義の一側面とも言えるのかもしれないと講義を聞いて考えた。また、植物には知性があるといった考えを聞いた時に当初は荒唐無稽だと考えたが、人間が理解できないものを否定すること自体が人間主義そのものだと気付かされた。意識しなくとも私の中には人間主義的な考えが潜んでいるのかもしれないと思い、視野の狭さを痛感させられた。人間主義というテーマに関連して私は「人間が神を想像する時に人の形を思い浮かべること」も人間主義の一例だと考えた。人間が理解しやすいように神を擬人化するのはまさに人間の価値観を中心に据えているからではないか。
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Gさん
この講義では、「裸体という自然は同一であるにもかかわらず、そこに様々なイデオロギーが書き込まれた」というテーゼを、歴史をさかのぼって確かめてきた。そしてそのことは、現代でも例外ではない。過去と同様、われわれは、顔、肉体、精神などのさまざまな構成要素をもつわれわれの身体に対して、「美しい/醜い」「善/悪」「優れている/劣っている」「正しい/誤っている」などの価値判断を下し続けている。そして、われわれはこうした二項対立における特権的な位置(挙げた例における前者の位置)を占めたいと奮闘し続けている。「多様性」を掲げ、「こうした枠組みにとらわれない新しい生き方を!」と叫ぶこと自体も、その生き方に「正しい」という承認を得たいがために叫んでいるのだ。
「自然」の上に二項対立を設定し、意味付けを行っていくことが「文化」なのだとしたら、「文化」は人々をある方向へ促すためのパワーを持っているといえよう。そのパワーの原動力は、われわれの「正しいと思われたい」「美しいと思われたい」「カッコいいと思われたい」「強いと思われたい」という本能だ。(書き手である私は、「正しいと思われたい」という原動力にしたがって必死にmy remarksを書いています。)
このパワーは、歴史をさかのぼればナチズムにつながったし、現代においてもありとあらゆる差別の発展につながる悪名高いものである。では、このパワーに真にアンチするものは何だろうか。それはけっして、盗んだバイクで走りだすような不良しぐさではない。なぜならそれは反体制的であることを正しさとする点で正しさにとらわれているため。
私はその答えが、最後のチャプターで取り上げられた「反出生主義」なのではないかと考える。何かを意味付けし、何かに意味付けされることの拒絶の行きつく先は、「存在しないこと」なのではないか。
ただ、「存在」と「非ー存在」はけっして1か0かではなく、グラデーションで表されるものである気がする。
Aさん
裸体文化運動を通じて「自然」とは何かを再考しました。裸体は一見、ありのままの自然を表しているようで、実際には社会や文化の影響を受けた複雑な象徴であると感じた。例えば、外なる自然(身体の解放)を強調する裸体文化運動が内なる自然(欲望や本能)を抑制する要素を含んでいたことには驚いた。裸体の解放が純粋な自然回帰というわけではなく、社会や歴史的な背景を含んでいる点が印象的だった。また、裸体が政治的・文化的に利用されることで、象徴としての意味が時代によって変容していくことも興味深かった。私は裸体を含む「自然」とは単なるありのままの姿ではなく、私たちの価値観や文化の窓によって規定されたものであると思った。
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Bさん
今回の講義で人間の世界は本当に面倒でワクワクさせてくれると感じた。
現代を批判し自然回帰のため、健康のために裸体文化運動が起こり、それを政治的に利用しようとする輩が現れる。
今回で言うとナチだが、自分の目的のためなら人間の裸でさえもここまで利用できるのか。この事実だけを小学生に話したら大笑いされそうな内容だが、そこに怖さもある。
どこか何も知らぬものであればスッと信じてしまいそうなものに本当に忌むべきもの、優生学や人種差別は潜んでいる。
もちろんナチの歴史は二度と繰り返してはならないけれど、裸体すら政治的に利用されていた、そういう人間の欲には頭が上がらないと思ってしまう。
また、外なる自然の中にあるのに内なる自然が抑圧されていた過去について。性欲を掻き立てるような言動はダメで、服を脱ぐところを人に見られてはいけない、言葉が正しいか自信がないが、すごく「ムッツリ」しているように感じた。「裸体は素晴らしい!裸体こそ自然だ!しかし性欲はそうではなく、表に出してはいけないし、それを誘うような行動はNGだ!」
やっぱりとてもムッツリしている。人の裸体を見て反応してしまう、あれこれ考えてしまう部分、すなわち性欲も含めて自然な人間だし、人間が自然な状態にあえて戻るのであれば、その部分も含めないと矛盾が生まれてしまうのは自明だろう。異性の裸を見て「俺は別に興奮しねーし、え?お前興奮してんの?エロ!お前エロいな!」と騒いでいる男子小学生そのものな気がしてしまう。たいていそう言うことを言う奴の方が意識している節もある。
しかしこれが現代だったらどうだろう。性欲は皆持っているが、それを常日頃から表に出そうとはしない。女の子を口説くときもそれを懐に忍ばせるようにして話をする。
逆にその気を前面に出してしまうと気持ち悪がられて失敗する。今回の講義を聞いていて、人間は性欲に対して昔から恥ずかしいものだという意識はあったのだということに驚いたのだが、すなわちそれは自身の性欲を隠そうとする思考があったことも示すのではないだろうか。ならば性欲を隠すことは遺伝子的に組み込まれたことなのか、それとも人間の作ったこの社会がそうさせているだけなのか、果たして性欲を隠すことは自然なのか。先ほど性欲も含めて自然な人間で、人間が自然な状態にあえて戻るのであれば、その部分も含めないと矛盾が生まれてしまうと記述したが、本当にそれも矛盾しているのか。性欲も、それを隠そうとするのも人間の自然ならこの議論に終わりがあるのかもわからない。
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Cさん
第二回までの講義で取り扱ってきた題材はどれも視覚的な表現に寄っていて、身体を構成する要素のうちから、ビジュアルだけが切り離されて議論の対象になっているように感じた。触れる・触れられる感覚や匂い、味、声を含む体の立てる音といった、広く遠くの多数に伝える手段を持たなかった諸感覚は、作品の形で共有する事が難しかったために、俎上に上ることが少なかったのだろうか。しかし、例えば先天的に目の見えない人が認識する裸体は、ひとえにこれらの集合であるだろう。そうした中で、「力と美への道」における体操やベルリンの夜の踊りは、その経緯や思想は異なっても、自らを通して、絵画や写真からは得られない肉体への理解に近づける点で、画期的だと感じた。また、古代・動物性へ回帰する指向性に共通が見られる。裸身での体操は自然の中で行われるのであり、退廃や酩酊、死、傷病に狂気はどれも人間から一時的に文化を剥いで、動物に戻す働きを持つと思われる。
個人的には松本大洋の漫画「ピンポン」において、主人公の一人である月本誠が試合中に負傷・流血し、そして血をなめとってその鉄っぽい味を感じたことを契機に、機械のようなプレイスタイルを脱ぎ捨て、感情を開放するに至ったシーンを思い出した。
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Dさん
私は日本史が大好きで特に20世紀前半が面白いと思っているので、今回の講義の中であった社会状況が裸体を用いた絵画やダンスで表現されていたことが一番印象に残った。中高の日本史の教科書では、ビゴーなどの風刺画などがその時代の状況を表す手段として使われていると学んできたが、裸体を通じて主張を訴える方法ははじめて知った。[…]
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Eさん
芸術としての裸体と消費財としての裸体の違いについて思い出したニュースがあった。2023年3月、フロリダ州の学校で教材として扱われたダビデ像を「ポルノだ」と保護者が非難したというものだ。これは芸術と消費財を履き違えてしまっている。明確な線引きがあるものではなく連続的な捉え方だからこういうことも起こりうるだろう。裸体文化運動をめぐる一連の流れがこんなにも流動的なのはその影響もあるのではないかと考える。
Aさん
私たちは普段完全に遠近法が成り立つ世界で生きているわけではなく、重要度が高いものが際立って見えているということに、こうして言われてみるまで気づかなかったことがショックだった。「質量を持つ全ての物質は物理と化学で捉えられる」というイメージが先行しすぎて、普段自分が見ている景色も全て自然法則で説明可能なもののように思ってしまっていたようだ。眼の周りにある筋肉の収縮でピントを合わせているだけとも取れるが、そのピントを合わせる対象の優先順位だとか色の見え方だとかは全く目に見えない心のはたらきで決まるものであって、むしろ遠近法を完全に取り入れたものの見方をするには非常に意識的に自分の視野のピントをどこにも合わせないようにするなどが必要だ。とすれば、遠近法が完全に成り立ち全てのものが明瞭に見える世界というのはむしろ人間中心の視点から見れば不自然と言える気もする。これでは屁理屈めいた感じになってしまうが、それぞれの価値観が違うのだから何をもって自然とするかも難しく思えてきてしまった。
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Bさん
18世紀やそれ以前に発明された百科事典は、当時の時代にとって重要な順番に沿って書かれており、ヒエラルキーのような形をとっているのに対し、現代人にとっておなじみであるウィキペディアはフラットであり、書かれる項目に優劣や貴賤はないという指摘に興味を持った。ウィキペディアはインターネット上のプラットフォームであるという性質上、一般人が新たに項目を書き足したり書き換えたりできるということが、紙媒体の百科事典と性質を画する重要な要素となっていることは言うまでもない。しかし、ウィキペディアをウィキペディアたらしめた原因はインターネットの他にもあると思う。それは、現代が人間の欲望に焦点を当てるようになったからだと考える。市民革命によって、絶対王政の崩壊と同時に神ではなく人間に焦点が当てられるようになったということ、近代資本制の普及により、商品が売れるためには人々の需要を把握することが商人に求められるようになったことがその背景にあるだろう。ウィキペディアの項目は、分け隔てない世界中の人々の関心に沿って作られる、まさに欲望のカタログなのではないか。
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Cさん
今回の授業では「愛のアレゴリー」についての解説が一番印象に残った。絵の中のそれぞれの対象に一つの意味があり、絵の読み取り方に一義的な「正解」があるという話を聞き、私を含めた多くの若者(若者だけではないかもしれないが)が、抽象的な絵や一見何を伝えようとしているかわからない絵に対しての免疫がなくなっているように感じた。読み取り方に「正解」のある絵に対して心地よく感じるのは、簡単に言ってしまえば「よくわからないもの」を「わかるもの」に落とし込むための言語化作業や疑いの眼差しを向ける作業を自分自身が行う必要がないことに由来するのではないかと私は思う。
私はまだ学生であり、ほんの数年前まで考え方が点数として数値化された世界で生きてきた。読み取り方には「正解」があるという観念が未だに抜けておらず、私は一義的な読み取り方がある「愛のアレゴリー」に対し、心地よさを覚えたのかもしれない。
また現世の環境がわかりやすいもので溢れすぎていることも原因なのだと思う。テレビやスマホからもたらされる情報は「わかりやすい」コンテンツばかりである。より効率的に、より早く、より多くの情報を読み取るためによりわかりやすい情報で社会は溢れている。その結果、自分自身で抽象的なものやわかりづらいものから想像し、創造することの楽しさを忘れ、その能力が低下してしまったように思う。だからこそ一義的な正解がある「愛のアレゴリー」にみな惹かれ、過去のmy remarksでも頻繁に触れられていたのだと思う。
私はそんな若者の中でも特に正解を求める傾向が強いように感じる。映画や劇を見に行ってもあの行動はこういう心理に基づくものであろうという「答え」を求めることが多く、小説であればミステリーであったり、ドラマであれば推理や考察系のドラマが好きであったりと全ての表現作品に「答え」を求めてしまっているように感じた。
私のような人間は増えているように感じる。ヒットしたり話題になる映画やドラマは一義的な読み取り方に「正解」がある作品が多く、行動心理的にうまく利用されていることに対して苛立ちを覚えるが、しかし趣向はなかなか変えらずにいる。一義的な情報はつまらないかもしれないが楽なのである。
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Dさん
芸術の観点から時代背景と裸体に対するイメージの変容が考察できるということを俯瞰的に考える機会となった講義だった。ルネサンス期では近代医学の発達の影響もあり解剖や科学の側面から裸体が捉えられていった変化も興味深いと感じた。特に芸術のなかでも「自然科学的」なあり方が現れていると感じたのは、デューラー『横たわる女性を描く画家』の構図だった。裸の女性と方眼紙のようなものを通して描いている男性画家の構図からはもちろん当時の遠近法を用いた裸体への忠実心が伺える。そこでさらにこの作品には、真横から特に隔たりもなく観ている観賞者としての私たちも、このシーンの一部として芸術活動の自然をのぞき見しているような感覚に陥った。実体としての裸体と創作過程としてグリッド線越しに描く画家は、自然なものとしての裸体を芸術として昇格、もしくは芸術として形作る工程を明かしている作品だと思った。画家の創造活動を描いた作品としてクールベ『画家のアトリエ』も紹介され、こちらでは見るものと見られるものに加えて社会的な縮図的側面が含まれていると考察されていることも知った。この作品では『横たわる女性を描く画家』と違い、裸体を描く行為そのものに疑問を投げかけているように思えた。裸体が脱神話化を経たからこそ裸体を描く行為に対して賛否両論が持たれている描写を描くことが許されたのではないかと考える。
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Eさん
ルネサンスから近代、現代にかけて裸体の受け入れられ方や表象は少しずつ変化し、それが当時の絵に如実現れていることがわかった。特に近世から現代にかけ、シーレやベーコン、フロイトといった画家たちが理想化された裸体ではなく、グロテスクさを誇張した作品を描いたという点が非常に印象的だった。裸体をあえて醜く描くことで、裸体が単なる美の象徴でなく、欲望や人間の弱さを含んだリアルな存在として捉えられるようになったのではないかと感じた。現代においても、SNSではフィルターや加工ツールを使用した「理想的な美」を強調する投稿が多くみられる。シワやシミのない綺麗な肌や痩せた体が賞賛されている一方で、ボディポジティブ運動のような自然な身体や欠点を隠さない表現が支持される傾向もあるように思う。自然な身体の受け入れ方というのは、現代でも様々な表現者により模索され続けているように思った。
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Fさん
講義の中で、20世紀以降の裸体画を形容するキーワードとして、「グロテスクな身体」が挙げられた。グロテスクという言葉の意味を改めてWikipediaで調べると、色々と面白い由来や、本来の意味合いについて語られていたが、今日に一般的な、私自身も馴染み深い使われ方の場合は、やはり「奇妙・奇怪・醜怪・不調和・不気味・奇抜なものを指す総称的な形容詞として、風変わりで歪んだ形を指して使われるようになってきている。日本語ではこの意味の場合グロ、グロいなどとも略される。」らしい。
気になるのは、何か題材を克明に描いて、グロテスクな表現が生まれている場合にも、グロテスクな印象を抱かせることを目的に表現が行われる場合においても、モチーフにとられるものとして、身体、それも人間のものが圧倒的な割合を占めるように感じられることだ。考えてみれば、グロテスクな風景画、静物画なんて見たことがない気がする。しかし絵画に関しては全くの素人で、断定できるような知識量は望むべくもない。なので、乱暴ではあるが、グーグルの検索窓にいくつかそれらしいワードの組合わせを放り込んで見た。が、やはりそれらしき作品はヒットしなかった。その代わり人物や身体の部位を取り扱った作品が大量にヒットした。少なくとも、人間が「グロテスク」を感じる表現には、ほとんどといっていいほど人間の身体が関わっていると言えそうである。
どうして身体なのか、自身の体をはじめ普段から密接に関わり、正常な状態への認識や慣れが育つからこそ、異化効果の働きやすいモチーフであることはまず考えられる。しかし、それだけだと該当するものは他にも多くありそうだ。次に思いついたのは、誰しもが経験する自身の体の変化、とりわけ、第二次性徴などに際して自身の体に対して感じる違和感や不快感などがトリガーになっている説だ。これについても、その年頃を経験していない子供たちに、一般にグロテスクとされる表現や作品に実際に触れてもらい、感想を聞き取る調査を相当なサンプル数行わなければならないだろう。それでは無意識への恐怖だろうか、奇妙でどこか間違っているが、それでも一見して、私あるいは私たちだと感じ取れる像と向き合うことによって、自分の知覚しない自分の存在に意識が向けられる瞬間に不気味さを覚える、だとか。
自然科学的まなざしについて説明されていた際に、全てが平等でフラットというワードに反応して、スーパーフラットを提唱する村上隆を思い出した。村上の「DOB君」シリーズもまた、身体的なパーツが奔放に絡み合って発展していく、ある種グロテスクな作品だ。立体の作品「マイ ロンサム カウボーイ」に関しては、パッと見たコメディ調の面白さに気を取られていたかもしれないが、作者の裸体をとらえる視点としては、どういった立場に立って制作されたものなのか、改めて気になった。
Aさん
第一回目は、古典古代から現代までの裸体という集合的表象への人々の認識について、歴史的背景と関連付けながら講義がなされた。初めはお守り代わりであった”裸体”は、神の属性を表す理想化された美しい”裸体”を経て、克服されるべき・隠すべき卑しい”裸体”へと変化した。一つの対象に対してこんなにも意味付けが180度変わることは自分にとって衝撃であった。それは同時にこれから遂げられ得る無限な変化を意味するからだ。先生の定義に従うと、対象が人間の思考を通過するとそれは表象として浮かび上がる。ならば、不変のはずの「対象」への表象が変化したのは、思考が変化したからといえるだろう。まさに世界の考え方が神中心から人間中心へと移行したと同時に”裸体”の表象も真逆に変化したのだ。私たちの意味付けによって、この世界のあらゆるものがポジティブにもネガティブにもなり得ることに気付いた。つまり、我々が暮らしている世界は所与のものではなく自分達の思考を通して造り上げ、これからも絶えずその営みが続いていくという事である。これほどに大きな意味を持つ人間の思考であるが、私は所詮考え方とは人それぞれだと高をくくっていた。当講義の中で”裸体”という集合的表象の認識について触れながら、時代時代において考え方に大きく傾向があるという点について再認識した。そしてこの考え方とは常に世界を形作るものであると知った。私たちは今、自分で考えているように見えても令和の時代考え方の主流に流されているだけなのかもしれない。
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Bさん
「表象」などの用語は理解されていないまま使われているという意見にはっとさせられた。たしかに、自分もあまり理解していない小難しい言葉を使っていることがあり、そのようなときは大抵、自分で考えたわけでもない意見をさも自分の意見のように述べている場合が多いと感じた。学問の世界でよく使われる小難しい言葉を使うことは、自分の頭で考えずともそれっぽい意見を生むのに便利なため、できるだけ平易で日常的な言葉で意見を述べることで、自分の頭で意見を生み出せるようにしたいと感じた。
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Cさん
中世における裸体のネガティブな意味づけ、すなわち人間の自然性の否定や、信仰(精神)が身体より優位に位置付けられていたことは、当時のキリスト教の権威の強さを物語っていて、興味深かった。自然な姿の否定はそのまま、人間がいかに不完全であるかの強調とも捉えられると思う。ちょうど先日、「チ。ー地球の運動についてー」という作品を読んで、教会が強かった時代に地動説を唱えたり、活版印刷を用いてそれを広めようとしたりした人々や、その世界の中で生きる人々について色々考えていたところだったので、ちょうどこの授業でこういったお話が聞けてなんだか一人で盛り上がってしまった。人間の自然を否定することで、その否定された自然な姿で生きるしかない人間の、現世ではなくいつか復活する日を思った神への祈りはより一層熱心なものになっただろう。ネタバレになってしまうのであまり触れられないが、チ。を読んで時代背景や場所、環境が考え方に影響を与える部分は非常に大きく、さまざまなこれまで起こってきたことはただ歴史的事実としてあるだけで、それらが本当に何がいいとか悪いとかは簡単には言えないし、いっていいのかもよく分からないな、と思った。
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Dさん
裸体は、「衣服を身に着けていない姿」、「生まれたままの姿」であると仮定する。では、衣服を身に着けてはいないが、赤子のように髪の毛を短く整え、体毛を剃り、それらしいポーズを取った、大人の身体が裸体に相応しいのかと考えてみると、「裸体を自然とみなす」という前提を受けれている以上、すぐに答えることはできないと思う。大人が赤子のふりをすることは不自然とも言えるからだ。また、衣服を身につけるという点についても、ヤドカリのように、巻き貝の死骸から貝殻を借りて生きる種が自然界に存在することを考えれば、衣服を身にまとうことは即不自然であるという定義を受け入れることも、裸体という言葉の本質を見失ってしまうように思える。講義の中で語られた、「衣服は身につける者の社会的な地位を表す」という旨の話を考慮に入れれば、体毛の処理やポージングなども社会的地位を表すか、社会的地位を産出するものだと考えることができるかもしれない。そして、そのような社会的地位に無関心を示すことが自然であると考えることができるかもしれない。おそらく、ヤドカリの貝殻には社会的なものは何もないだろう。
「裸体は自然である」、「自然は社会的地位に対する無関心である」という前提から導き出される結論は、「裸体は社会的地位に対する無関心である」となる。しかし、この結論は、「衣服を身に着けている、かつ裸体である」という命題が真となる可能性を排除できない。これを明らかな矛盾と見做すべきかどうかは私にはわからないと思った。