オリジナルの my remarks から、「あいさつ」などの私的なコメント等を部分的に省略しています。改行も削除しています。
Aさん
『未来のイヴ』に出てくるエジソンの、人それぞれ感じている世界は違う、という考え方に私は共感する。私は幼い頃から楽器を習っており、同じく楽器の弾ける友達と音の聞こえ方について頻繁に議論しているので、特に聴覚においてエジソンの考えを実感している。
例えば、電車の発車メロディーやスマホの着信音で和音を聞くと、聞いているものは同じはずなのに、人によって強く聞こえる音が違う。また、プロのオーケストラの指揮者は誰がどの音を鳴らしているのかを正確に把握しているが、多くの一般の人にはメロディーラインしか聞こえない。
このように、感じている世界は一人ひとり異なり、それぞれが自分のキネトスコープを覗いている状態である。だから他者と関わらずに自分だけの最高のキネトスコープを作れば良い、というのがソロ充の考え方である。
しかし私は、絶対に見ることのできない他者のキネトスコープを知りたくなる。私が友達と話していて1番盛り上がるのは、好きな食べ物やドラマ、そして音の聞こえ方について議論しお互いの感じ方や考え方の違いを知る時である。他者と関わる醍醐味は、やはり他者性を感じることなのだと私は思う。
………………………………………………………………Bさん
擬似他者や超ソロ社会について、現代の「推し活」文化はその状況や傾向を加速させていると感じる。「推し」とは、インターネットから引用すると、「主にアイドルや俳優について用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のこと」をいう。また、「リアコ」という言葉があるが、これは「アイドルや芸能人、スポーツ選手、アニメや漫画のキャラクターなど、現実では恋愛関係になることが難しい存在に対して、本気で恋愛感情を抱いている状態」である。人々は、今まで恋人に抱いてきた感情やかけてきた時間、お金を「推し」に費やすようになっている。それが報われるかどうかということは関係なく、そこに自分のあらゆるものを捧げることそのものを幸せと感じている。まさに、「推し」は今までの恋人にあたる存在になっており、恋人の存在なくとも、孤独や不幸せを感じずに生きることができるようになっていると感じる。このように、日本の一文化ともなっているこの文化は、超ソロ社会を表象し、またその傾向を加速させているのではないだろうか。
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Cさん
脱他者化という現象が教育の現場にも起きているのではないかと思う。友人から聞いたとある高校の話なのだが、その高校では生徒の受験勉強のスケジュールを先生が決め生徒はそれをこなすだけという、僕にとっては恐ろしいとも思える教育方法を実践しているらしい。この学校や受験勉強に限らず、先生側や学校側が用意したレールの上を生徒に走らせているかのような例は様々な形で教育の現場に存在しているだろう。パッシブラーニングという最近の教育課題もその一つではないかと思う。それらは先生や学校が、他人である生徒たちに自分たちの理想を押し付けているだけなのではないだろうか。教育においてビジネス的な話になると、例えば進学実績は教育ブランドにとってとても大事なものになる。しかし経済的利益のために生徒を利用していいのだろうか。ここは教育の場である。教育とは教育を受ける者が彼ら自身の学びを得なければ意味がないだろう。学習とは、学ぶ者の学ぶものによる、学ぶ者のための成長であるはずだ。不必要に生徒に干渉することは、教育が本来意味する学ぶ者の成長を手助けするという点に反しているのではなかろうか。生徒、先生以前に、そもそも私たち人間は自分と他者でしかない。生徒も先生も、恋人も友達も、先輩や部下も、自分と特定の他者との間にある関係性をざっくり分類し、名前をつけたものにすぎない。個人主義的な考えが広まった世界に生きる私たちなら一度は考えたことがあるように、結局のところ行動に決断を下すのは私、個人しかいないのである。他者はあくまでその決断の一因になることしかできない。教育という、人とかかわり、人と少なくなく影響を与え合う場において、他者とどのようにつながるかは特に重要な問題であろうと思う。このことほ考えたのと同時に、自分と他者とのつながりにおいて重要なことは、その関係の中で自分はどれだけ相手に影響を与えていいのか、または受けていいのかを考えることではないかと思った。
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Dさん
Gattacaという映画を見たことがある。遺伝子操作を行っていない不適正者が差別される世界で、不適正者の主人公が、ある適性者(遺伝子操作されて生まれてきた人)になりすまして宇宙へ行こうとするSF映画だ。遺伝子操作をすることで妊娠前から子どもの外見や能力がデザインされ、優れた子どもが生まれる。「近い未来DNAが我々の全てを決める」と予告編にある。私はそんな未来は想像できない。しかし、人間がどんどん他者性をなくそうとしている、他者性が減っていく未来になる可能性があるという点では頷ける。映画上で親は適性者である弟と主人公を区別して育てる。これはピュグマリオン的欲望と重なる部分があると思う。親が子を疑似他者としてみなすことに関して二つの観点から考えたい。
一つ目は生殖医療の観点だ。動画にもあった通り、親は優秀な精子もしくは卵子を選び妊娠することができる。優秀でない子どもはいらないという差別的な意見が倫理的問題として上がる。生命の営みの中で自然に生まれてくるはずの子どもが、人工的に選ばれ作られるという感覚が否めない。確かに障がいを持って生まれてきて欲しいと思う親はいない。でも障がいを持っているかもしれない子がお腹に宿っているとわかった時、堕ろすかどうか迷う親はいるだろう。子は障がいがあってもなくても愛されるべきだ。しかし、生まれてきたとしても障がいがあるという理由で幸せになれないかもしれない。兄弟にも負担がかかるだろう。親は単に親の人生への影響、負担だけを考えるのではない。人はいつから人間なのか。子は生まれてくる前から人権を持つのか、持たないのか。人工妊娠中絶とも重なる深いテーマだと思う。技術ができたからこれ以上障がいを持っている人間を作らないと言ってもかなり差別的な発言になり、今いる障がいのある方やその家族などをはじめとした多くの方を傷つけることになるだろう。これは障がいだけに当てはまるものでもないと思う。人には多少なりとも得手不得手があり、完璧な人間などいない。整った顔とよく言うが、そもそも整った顔とは何なのだろう。学力にも差がある。成績上位者と下位者。そもそもそんな風にグループわけすることが差別的発言かもしれないと心理学の先生が仰っていた。みんなの言う普通とは何なのだろうかと時々思う。私は完璧主義な所がある。一つの事柄がダメだと全てダメだという錯覚に陥ることがあり、錯覚だとわかっていても苦しい。完璧になれることはないが、近づこうとして自分の未熟さを自覚し、元々高くない自己肯定感がさらに下がるというサイクルを繰り返す。私は完璧に憧れている。しかし、完璧になれないということを知っており、人類が完璧な遺伝子を目ざしたとして本当に完璧な、理想の人物が出来上がるのか疑問だ。Gattacaでは適合者の弟を主人公は水泳の競争において、努力という形で追い越した。適合者を不適合者が抜かせるという点においてこの適合者は完璧、理想ではない。もっと理想を追い求めるとすれば、ゲノム編集にはお金がかかるので現代に幅を利かせている格差問題はさらに広がるだろう。裕福な人=理想な遺伝子=優秀者、貧しい人=遺伝子操作ができない=エリートになれないという悪循環が浸透する可能性も大いにあるだろう。
二つ目はいい子症候群だ。現代には、言われたことには真面目に取り組むが、主体性がなく顔色を伺うような若者が多いそうだ。これは親の過剰な期待、理想、価値観の押し付けが原因だという。ここにピュグマリオン的欲望の現代における強まりを見ることができる。親が子どもを他者と見なすことが困難になっているが故に、これらの押しつけが起こるのだろう。一方、DINKsの人達は、子=作ったものを作るというピュグマリオン的欲望がない。しかしDINKsは子どもがいる夫婦に比べ離婚率が5倍高い。その理由としては再考の理由(子どもの卒業まで待つなど)がないこと、経済的に自立していること、生活がマンネリ化しがちであることが挙げられる。私はDINKsにおいて繋がりたいい時にくっ付き、離れたい時に離れるというファストフレンドの関係と重なるものがあるように思った。個人主義が進む現代でおいて結婚率や出産率が低下するのは必然かもしれないと以前にも述べたが、社会の中で、子どもは要らず、あくまで自分の生き方に主眼を置く人と、ピュグマリオン的欲望により、子どもを他者と見なすことが困難になってしまう人の二極化が進んでいると言えるのではないかと考える。
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Eさん
講義を受けるまでは、友人関係を構築するにあたって他者性がなければつまらないだろうと思っていた。自分とは違う考えがあった方がお互い得るものは多いからだ。しかし講義が進むにつれて、普段の自分は本当に他者性を求めてコミュニケーションをとっているのか疑うようになった。もちろん、今までを振り返ってみると自分と考え方や性格が大きく違う友人もたくさんいる。しかし、私がいつも自分から近づくのは共感し合えそうな相手だ。共感し合えるというのは同じものを共有していて、肯定してくれると言う点では他者性が低いつながりだと言える。また、相手の他者性を小さくしようとする動きとは逆に、自分が相手に対し他者性を小さくするという逆ピュグマリオン的行動をとっていることに気がついた。多くの人が相手が予測し、求めているであろう反応をとることがあるはずだ。そのような振る舞いは、内面は違えど少なくとも相手にとっての自分が未知で恐ろしい他者にならないように自己を変容させている。相手にとって心地よい存在になろうとするとき、私たちは自分の他者性を排除しようとする傾向があるのではないか。ピュグマリオン的欲望が問題になる裏で、自身をガラテア化しようとし、自己を擦り減らして最終的には見失ってしまう人も少なからずいるのだろうと思った。ひたすらに友人の言うことを聞くよきガラテアになろうとすると、かえって自分の存在価値がherに登場するような完璧なガラテアであるAIに奪われてしまうであろうことは皮肉なことだと感じた。
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Fさん
ピュグマリオン的な考え方を持つ人間はこの社会に多いのだと思う。実際、私もそうであるなと感じることがあるし、この考え方を知ってたから友達のあの子もそういう考え方をしてそうだなと思うことがある。理想を他人に押し付けてしまうのは全てが悪ではないかも知れないけど、結果的に良い方向に行くことは少ないと思う。昔、マルチタレントの芦田愛菜が『「その人のことを信じようと思います」って結構使うと思うんですけど、それってどういう意味か考えた時に、その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とするその人の人物像に期待してしまっていることなのかなと感じます。
だからこそ人は「裏切られた」とか「期待していたのに」とか言うけれど、それはその人が裏切ったわけではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけ。
その見えなかった部分が見えた時に、「それもその人なんだ」と受け止められる揺るがない自分がいるというのが【信じること】なのかなって思います。
でも、揺るがない自分の軸を持つのってすごく難しいじゃないですか。だからこそ人は「信じる」って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかと思いました』と語っていました。こうした考えはピュグマリオン的な考え方から脱して社会とうまく付き合うための考え方なのかなとこの授業を学んで思いました。
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Gさん
19世紀以降から、ピグマリオン的欲望に満ちた男性は女性の他者性にぶつかると説明されていた。それ以前は多くの文学作品では、女性を男性が思い描く理想の女性像に作り上げていくという内容の作品が多かった。しかし、女性という立場が強くなった影響でそれが不可能になり男性は想像力と創造力を使い、女性を人形などを理想として存在させるようなものが多くなった。
これはまさに現代の時代の流れにもよくあてはまる。男女平等参画社会など、性別による線引きをなくそうという流れが強まっている。大学が開催するサークル講習会でも、新歓時期に向けた諸注意として、男女の区別をしないようにと教えられるらしい。性的マイノリティーへの配慮という点も大きいだろうが、男女の立場の不均等が改善されてきている。
また、現代は技術の進歩によって、恋愛の相手を求めなくても済むようになってきている。性的欲求は、AVや専用の器具、マッチングアプリ、恋愛ゲームなどを駆使すれば、満たすことができる。ソロ充として生活することが十分に可能なのである。自分の周りにも、彼女を作ることへの疑問を真剣に抱いている人もいた。自分は正直その気持ちは微塵も理解できないが、新しい価値観や恋愛様式が生まれていく時代なのかなと実感した。そのような未知のものに、まっさきに否定的な態度をとってはいけないということも授業を通して感じました。
Aさん
発酵の話で出てきた『もやしもん』『沼地のある森を抜けて』『ぐるりのこと』はどれも中学生の時に読んだことがあるものだったので、内容を思い出しながらそれを新たな角度から見ることができて興味深かったです。菌の世界の話である発酵を人間の世界に置き換えると、出会ってすぐの時はそれぞれの人が持っていた個の意識と他者性、それからウォールを手放してだんだんと溶け合っていくことだということがわかりました。ウォールなしの空間として早慶戦が挙げられていましたが、身近な例でもそれを実感することができました。
5月6月になると都内でもお祭りが開催され始めます。そのお祭り(特にお神輿)では全くの赤の他人同士が、担ぎ手として一つのお神輿を支え、担ぎます。これはまさにウォールなしの世界と言えるのではないかと考えました。しかし一方で、大きなお祭りでは神輿を担ぐ順番を争って喧嘩が起きたりします。これは「群れ」であった人々が一瞬で「個人」になる瞬間であると思います。ただこれは『ぐるりのこと』で取り上げられていた「群れへの回帰性と個への志向性のようなもの」が同時に存在しているとは言い難いし、群れの暴走(ここでは個人の暴走?)を食い止められているわけでもないので、少し違うものかなと感じました。
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Bさん
人間関係とぬかどこについての話に興味を惹かれた。ぬかどこは人間が個であることをやめ、他者と無防備に繋がる場所のようなものであるという解釈にとても共感した。私にはぬかどこは、人参やきゅうりといった様々な野菜が一つのバケツの中でぬかを通して繋がって、しかもお互いに自分のエキス、旨みを共有しひとつのものになっているように感じる。しかしそのような関係が現実の人間の世界で起きることは稀であると考える。人間は常に他者と自分の間に見えない壁(ウォール)を作っているため、それを超えた関係というのはなかなかに難しいものである。教授が例に挙げられた、スポーツ観戦時に知らない隣の人と肩を組んで応援しているということは確かにあり、それは良いことであると思う。しかし一方でネガティブな意味でのウォールなき世界は戦争や外国人排斥運動などによる一体感であるという話に少し恐怖を感じた。やはり人間は「敵」であったり、「少数派」といった立場を作り出し自分が優位に立ちたいものである。そこでの一体感というのはぬかどこのようにお互いにいい影響を与えるのではなく、他者を排斥し悪い方向へと進み続けていくものであり、決してゴールはない。だからこそその事実にいち早く気づいて、他を差別化することなく、自己意識から解放された状態で様々な人間が一つのかたまりとして互いに作用することができたら、本当にぬかどこのような世界を作ることができるのだろう。
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Cさん
共同体と集合体の最後のまとめでは、人々の実感においては対面的・伝統的である共同体=国家から、ZQNのような集合体へと変化していくのではないか、と締められているがこれは参照されているレヴィストロースの3万人の社会と500人の社会という引用に非常に合致しているように思う。都市社会学では、都市という社会は近代以降生まれた特異なものとされ、地縁や血縁などに縛られたゲマインシャフト的な社会からシフトした、工業化の進展と共に人々が集住したゲゼルシャフト的社会と見なすことが出来る。大戦以降の人口爆発と共に、都市の人口は過密状態になり、人々は前近代的な500人の社会では無意識下にあった「群れへの志向性と個への志向性」が、3万人の都市社会で表層化することになる。さらに、20世紀後半にインターネットやSNSといったテクノロジーの進展と共に、それらのジレンマはより社会的に表面化し、人々はつながりの桎梏に囚われるようになったという構造が見出せるように思う。つまり、①500人の社会=前近代(共同体や集合体以前の社会)、②3万人の社会=伝統的な共同体=国家(及び都市)、③20世紀以降加速したつながりの時代=集合体という対比構造である。
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Dさん
ZQNのように集合体の一要素になってしまった方が楽だろうなというふうに思うことがある。元来の意味でのつながりを求めるには、長い時間を要するし、じれったいし、何より、その場の会話や空気感に合わせて自分も変化していく必要がある。 例えばうまく会話になじめなかった、というのを感じた時、打ち解けている人を見ると皆タバコをたしなんでいたとしよう。その時に、自分はどういう行動を取るべきなのか。 自分がタバコを吸ったことがないせいで周りにうまくなじめないのだとしたら、はたしてタバコを吸ってしまうのだろうか。あくまで今まで吸ったことはなく、吸うこと自体体に悪いものだと分かっていたとしても。そうした、自分のプラスにはならなそうな変容を求められる、もしくは自分で求めるように心理的な狭窄をしている、というのが、元来的なつながり、の一種の面ではないだろうか。これが行き過ぎた場合、皆がしているから、という安易な、かつ束縛のような理由でクスリをやってしまう、というようなことも起こり得てしまうのではなかろうか。
このように考えると、インターネット、あるいはSNS上でやり取りし、自分が変容することを必ずしも求められない繋がり、集合体、を求める方が良いのではないだろうか。その方が簡便だし、自分が望まないことをする必要はない。ZQNのような一体感すら持ち合わせて、みんなでひとつのものにつながれた方が良いのではないかと考えたりした。
ただ、ここには他者性が存在していないのではないか、などと考えたりもした。そして、このSNS上でのつながりの感覚を現実に当てはめてしまった場合、それは特異な現象が起こりそうだとも考えた。 SNS上でやり取りする友人は、自分が気に入った人たちと基本的にやり取りをするわけだから、自分たちのノリが分かり、踏み込んでいいお互いのラインがわかり、そして何よりも否定されることがない。 一概にそうとは言い切れないが、自分を真っ向から否定したり意見の対立が起こった人間とは、以後SNS上では徐々にやり取りが減っていくのではないだろうか。 こうすると、自分が囲まれたい、仲良くなりたい理想像というものを自分の中で作り上げ、SNS上で無意識のうちに理想像だけのつながりを作っているのではないだろうか。 そうすると、そこに他者性が存在することは許せなくなってくる可能性がある。
これが現実に当てはまると、特異なことが起こる。他者なはずの相手を、いつの間にか、この人は自分にとって理想の友達だ、と判断して自分のそばに置くようにする。こうすると、他者性がなくなってきてしまう。そうすると、自分を否定せず無条件に肯定し、支えてくれる存在として、一種のメイドか何かの便利な存在として相手を見なすようになってくる。こうした時、相手との間にいさかいがあっても、それを他者性の出現と見なし、友達関係を切ってしまう、などということもあり得るのではないだろうか。
こう考えると、現実で起こりえたはずの元来的なつながりというものは、徐々にSNS上、ひいては現実世界まで、便利な理想の友達像、それとのつながりとなってきているのではなかろうかと思う。確かにつながりが自己目的化している面もあるとは思うが、理想の相手を求める欲求というものが、SNS、そして現実のつながりに侵食している、という方向性の解釈もできるのではないかと考えた。
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Eさん
ピュグマリオンのトピックに興味を持った。何でも知ってそうな教養のある女性を結婚相手に選ばず、自分の思うように教え込むことができるような女性を相手にする男の話を聞いて、ちょっとドン引きするようなイメージを持つのと同時に、若干の人間くささや親近感のようなものを感じた。理想の恋人像を自分の手で作り上げたいという欲求は決して珍しいものではないと思う。特定のアイドルや漫画・アニメのキャラクターを偏狂的に推すような人はSNSなどで大量に観測することができるし、僕もどちらかといえばそのタイプである。「アイドル」という存在は、自分からは見ることができるが、相手から自分は見られにくい。マナーやエチケットを意識したり、ここぞという場面でかっこつけたりすることが求められるインタラクティブな恋愛関係とは違って、アイドルを推すこと(いわゆる「推し活」)は、自分自身の醜い部分や恥ずかしい部分を隠すことなく、自分の欲望と向き合うことができる。しかし、「相手から愛されたいという欲望」は、実際の恋愛によってしか満たされないように思える。そして僕は、このタイプの欲望には共感できると同時に不可解なものである気がする。恋人と手をつないでいる大学生を目にして、恋人がいない自分に対して劣等感を抱くことがある。だけど、現実世界で作る恋人とメタバース空間で作る恋人にいったいどれくらいの相違があるのだろうか、と考えることもある。両者は全く別物であるかのように見えて、僕の網膜が彼ら(彼女ら)の像を結んでいるという点では、どちらも変わらない。音声も、どちらも僕の網膜を震えさせ、僕の感覚神経を刺激しているという意味において変わらない。ただ、現実世界ではプログラムでは生み出せないような突拍子もないことを言ってくるような不確定性があるだけである。そして、現実世界を現実らしくたらしめるこの不確定性も、テクノロジーは克服する未来が到来してもおかしくないと考える。
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Fさん
ピュグマリオンの神話と類似しているものとして私は「初音ミクと結婚した男性」のことが頭に浮かんだ。アニメや漫画などの架空のキャラクターに対して性的指向を抱くことをフィクトセクシュアルと言う。ピュグマリオンとフィクトセクシュアルに共通していることは人間でない物体に対して恋愛感情を抱いていること、「自分好みの自分を拒絶しない最高に美しい女性と結ばれている」ことなどが挙げられると思う。しかし彼らには相違点もある。時代やアニメと彫刻という対象の違いは言わずもがなだ。フィクトセクシュアルは神話上ものではないため、現実に恋愛対象が人間化して現れるということもない。加えて、フィクトセクシュアルのほとんどは、恋愛対象と脳内で会話をすることができるが、常に人間側にとって都合が良い解釈ができるるというわけではなく、対象が怒ったりすることもあれば拗ねることもある。つまりピュグマリオンが愛した彫刻は他者性がゼロであったのに対して、フィクトセクシュアルの恋愛対象は他者性がゼロではないという違いがある。また、ピュグマリオンは自分で彫刻、掘り理想像を作ったのに対して、フィクトセクシュアルの人々は、自分でない他者が作った、漫画やアニメなどを通して出会ったものに対して、恋愛感情を抱いているという違いもある。対象を自分で作ったのか否かという違い故に他者性にズレが生じていると解釈することもできると思う。しかし、決してフィクトセクシュアルとその恋愛対象との関係は、ヴェルナーとエミーリエのように教育する者、される者というものではない。どちらかと言えば、フィクトセクシュアルにおける関係はピュグマリオンと彫刻における関係性に近いと思うが、前述したようにずれがあるため、現代における新しい変化だと言えると思う。
教育する者とされる者という関係において他者性が生じていくという話で、親と子どもの関係が思い浮かんだ。ミトコンドリアが後から体内に入ってきたように、精子が母親の体内に入り、子どもとして一つの生命を宿し、成長していく。子どもとはいえど母親との他者性は初めからゼロではないと思う。しかし他者性は初め、かなり小さい。成長するに従って徐々に大きくなっていく。共に時間を過ごせば過ごすほど、他者性が明確になっていくから、いつまでも子どもを自分の保護下においておきたいと思う親にとっては皮肉なものであると思う。また、他者性が反乱へ繫がるとあるが、親子の関係において、それは反抗と言い換えることができるのではないか。その過程を踏んだ上で、法や道徳に反しない一つの人格が確立されるなら私は反抗は悪いものではないと考える。しかし、特に中高生は揺れる時期にあるからこそ家庭内や学校での教育や関係性が重要になってくるのだと思う。人は他者との関係や学びを通して自分のあり方を変容させていくからだ。反抗期を終えた子どもはもはや子どもではなく、親との間に大きな他者性が生じている。その子どもがいずれ親となり、子との他者性の中で同じ営みが繰り返されていくとすれば、他者性の広がりは人類が子孫を残していく上で不可分のものであると思う。
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Gさん
自分好みの好きな人を育てられる、というのは確かに理想的で、自分にぴったりの人を探すよりも効率的なのかもしれないけれど、完全に自分の理想を満たした人を育てられるとしても、私だったらつまらなくなってしまう。私は何か思いもしなかったような一面が見えたり、完璧なようにみえてもどこか抜けていたりといった意外性、いわゆるギャップがある人に惹かれやすい。ギャップがある人が理想ならギャップがある人を育てればいいといったらそうともいえるのかもしれないけれどちょっと違う。自分でカスタマイズした見た目、性格、ギャップだったら自分の想像の域を脱することはほぼないだろうし、いつまでも自分と自分が育てた人との自分がつくりあげた世界にいるのは、それこそただの幻想にすぎないだろう。自分と似た人といるのも心地よくて好きだけど、自分と違った人と一緒にいるのも、私がひとりでいたらきっとしないような事を一緒にできたり、私の考え方に新しい影響を与えてくれたり、良いことがいっぱいある。自分が成長していくためには、「自分好み」ではなくても色んな人と関わるべきだと思う。
また、自分の描く理想に囚われ続ける、という点において、源氏物語の光の君は可哀想な人だなと思う。どれだけ藤壺の君を想って、血縁関係にあるそっくりさんを探し育てようとしても、事あるごとに藤壺の君との違いを思い知らされて、届かないからより一層藤壺の君への想いを募らせるという負のループに陥っている。そして源氏物語においていちばん辛い思いをしたのは紫の上だろう。光の君は、紫の上の事を愛しているようで、紫の上のことは見ていない。紫の上に自分の理想(の人)を重ねてみているだけだ。
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Hさん
ピュグマリオ―ン神話の話を聞いて、このような「理想的な他者の構築」は、男女の関係において、双方向性が失われつつある大きな要因なのではないかと感じた。前回、そして前々回の授業でも先生がお話されていた「友人関係の虚点化」であるが、これにも似た現象で、従来ならば男女の恋愛関係は双方向的な愛情によって成り立っていたものが、一方が、相手との意思の伝達を置き去りにして、ひたすらに理想を追い求めることで、結果的には、現在話題になっている「頂き女子」のように、その理想とした相手から一方的に搾取されるようなことにもなり得るような危うい関係が、若年から中年まで、広範囲で見受けられる。この現象は、インターネット普及に伴う関係構築の容易さに加えて、ホストクラブやキャバクラといった「理想的なリアクッションを取る、理想的な異性」をどん欲に追い求められる環境が、より浸透していることが要因なのではないかと感じている。
Aさん
社会問題に興味がある私は前回の授業を聞いて、私たちがこれまで過ごしてきた学校生活と私たちの親世代が過ごしてきた学校生活とでは前者の方が過ごしにくくなっており、またそれが原因で不登校の生徒が増えていると考えた。今回の授業を通してこの考えがより強まった。
私は土井先生の記述に書かれているようなことの実体験をしたことがある。母親に友達関係についての相談をした時、相手がこう思うかもしれないということについてなんでそんな深い所まで考えるの、と言われたことがある。私にとっては普通のことだったが、母親にとっては普通のことではなかったことにギャップを感じた。自分は知らないうちに学校での日々の生活を穏便に過ごすために相手から反感を買わないように常に心がけていたんだ、と思うと納得がいった。土井先生もおっしゃるように、親世代よりも高度で繊細で気配りを持った人間関係を営んでいる私たちは、対人関係において色々と考えなければならないことも多いし、相手が色々と考えてることを察知したらもするし、そういった面で対人関係に以前よりも体力精神力を使うようになったため、それに疲れてしまう人が次々と出てきて、不登校の生徒が増えてしまったのではないかと考えた。私たちの親世代の頃ように気楽に付き合えるのが本当の友達であると思うので、今後は私も気楽に付き合える友達を多く作っていきたいと思う。
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Bさん
私は友達が多い方の人間であると自負しています。だからこそ、教授のオンデマンドを見るのが恐いと感じます。友達が多いことがある種のステータスとなっていて数を示すことが目的となっていることや、自己の今後のつながりを作るためとしての素材としての友達の存在など、認めたくはないが、事実そうなってしまっている現実のなかで生きている自分には、少し聞くのがつらい内容でした。私は気配りが得意な方ですし、誰とでも話すことが得意な方です。つながりをつくり、友達を増やしていく、つながりはいいものでしかないと、自分自身に言い聞かせて、ここまでの約20年間生きてきました。つながりを拒絶し、友達が少ない人のことを、口には出しませんが、内心下に見たり、馬鹿にしたりしていた節もあると思います。それは、友達を数としてしか認識しておらず、友達の人数の多さ、フォロワーの多さで無意識のうちに、勝ち負けをつけていたような気がします。成績の良さや模試での順位、大学に合格不合格のような勝ち負けのように、友達の人数も勝ち負けで判断される、その人の価値を形作るステータスの一つに成り下がってしまった気がします。私個人の考えではありますが、大学生における彼女、彼氏の存在も同じもののようである気がします。彼女がいるかが一つのステータスなのであり、保持しているものが正しく勝ちなのであり、いない人を見下して彼女が彼女がいない人は、友達がいないことを肯定する本を読んで安心する人がいるように、自身が安心できるようにお一人様が正しいとする意見が書いてある本やブログを探す。特に同じ学歴の中で過ごしているので、学歴というステータスが効果を発揮せず、職業や給料、家庭など実質的なステータスを持っていない人が多い、大学生はこの傾向が顕著であるように思います。先生がよく口に出されるマッチングアプリは簡単に一つのステータスが買えるお手軽ショッピングのように私は思っています。
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Cさん
私は講義内における『君の名は』についての部分で、新海監督はつながりを良いものとして提示したかったのではなく、私たちは様々なものとつながっているという事実それ自体を強調したかったのだと述べている点に関して関心を抱いた。『君の名は』では、組紐作りや、神と人間を結ぶ儀式である「口噛み酒」といった伝統を持つ糸守町を舞台となっている。身体が入れ替わった主人公同士が出会うシーンは、片割れ同士が結び付けられる糸守町の伝統行事のアナロジーになっている。以上のように、作品を通じて「つながり」が重要テーマになっていることが分かるが、つながりを全面的に肯定している作品ではないということが、作品の後半パートから読み取れる。主人公同士は晴れて再開を果たすことができるが、二人が結び付きあうことを望むあまり、東京じゅうに大雨が降りだしてしまうというエンドを迎える。
私は、世間一般的には「世界よりも二人の絆を選んだ」と美談のように語られやすいこの結末について、「つながりを美化しすぎてはいけない」という視点を強調したい。近代以降、人間は「個人」として扱われるようになった。「個人」という単語は英語で”individual”と綴られ、ラテン語における「in-(否定)+divido(分ける)+-uum(こと)」が語源となっている。
個人はその内部への他者の介在を許さない固有の人格を持った存在として扱われる。しかし、実際のところは、人間絶えず細胞の新陳代謝を行っている。どれほどの信ぴょう性があるか分からないが、人間の細胞は約7年周期ですべて入れ替わるといわれている。僕がこの講義を受ける前に食べる「なすから弁当」も私の体内に取り込まれるから、僕は部分的になすから弁当に支配されていると言っても過言ではない。
昨今、人間を独立し固有の自我を持った存在(individual的な存在)として捉えるのではなく、世界とつながった存在として捉えるという在り方が強調される。Adoの楽曲『うっせえわ』のように、他人を突き返して一匹狼的に振舞おうとするあり方はかえって「痛々しい」と言われたりする。
こうした認識の変遷には、大量にもたらされる情報を瞬時に処理し分別しなければ生きていけない現代社会の存在が背後にあるように思う。大学生活を例にとっても、楽に取れる単位を探したり、友達から過去問をもらったり、就職活動の早期選考を見つけたりするという営みをこなすのには、高い情報処理能力が求められる。情報の波にのまれず、上手にそれを乗りこなすためには、記号によって簡便化するのが便利だ。最近になって大学生の間で流行っているのが「MBTI」である。これは人の性格を16種類に分類するもので、それを自らのアイデンティティとしてインスタグラムのプロフィールに載せる大学生は多い。自分のことを簡潔に知ってもらうために、たった16通りしかないMBTIは非常に便利である。もしこれが10000種類ほどあるとしたら、情報処理が間に合わなくなってしまうだろう。一匹狼的な振る舞いが最近では痛々しく見えるのも、単純に記号化しきれない存在としての自己を打ち出しても、相手にとっては面倒なだけなのである。
つながりを求めすぎてしまうと、自分自身や相手の存在をかえって記号的にしかとらえられなくなってしまう。そうならないためにも、つながりの一部を切断して、一つの物事を深く見るような勇気が、豊かな人生を送るうえで不可欠であるように思う。
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Dさん
自己と他者の境界は明確に存在しているものではなく、どこで線引きするかという個人の解釈にすぎないのではないかと考えた。私は今まで自分がひとつの独立した生命であり、個であるということを疑わなかった。しかし地球をひとつの生命体として捉える見方を知ってはっとした。私の体も無数の細胞の集合体であり、それらが形作る私も地球という生命の一部であり、地球も太陽系の一部である。私がいちいち自分の細胞ひとつひとつを区別していないように、地球の視点からすれば人間一人一人の差など無いに等しい。現在私が規定している「自己」からすれば他の人間も動物も自然も自分とは全く異なった存在である。しかしマクロな視点で見れば、それらは地球という生命を回し続けている細胞でありそこに大した差はない。そう思うと自分はなんて矮小な存在なのかと悔しくなるような気もする。だが地球さえもより大きい視点で捉えればちっぽけな存在なのだと思うと、私を形作る細胞も私も地球もみな等しくちっぽけであり壮大だと感じ、愉快に思った。
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Eさん
人間の外部には見えるもの、見えないものが無数に存在し広がっているということ、そしてそれらと共存することが不可欠ということに私は共感した。ふと、この共感の源泉をたどってみると、私が中学生のころ、先生がともだちと共生する大切さを教えてくれていた。ちょうどこの講義のような例を使って。言葉を覚えることも、考え方を学ぶことも、食べて寝て生きることも、すべて他者がかかわっていて、離れることができないこの世界では共生をするほかないのだと思う。都会のマンションに一人で生きていくといっても、その部屋、家具、食料などすべては人が作ったものであるし、たとえ森の中で暮らそうとしても、動物や虫、微生物などとかかわりあって暮らさなければいけない。当然、自分より他者のほうが多いので、他者を撲滅することもできないし、干渉しつづけることもできない。それならば、事実を認めて、それぞれの生き方を尊重するのがいいのではないかと思う。講義の中の「カビ」の話題で、カビ自体が悪いのではなく、人間たちが自然に背いて暮らしているのが悪いという意見があったが、理解できるものであった。しかし、既得権益というのは手放すのは極めて難しく、自然に帰る、現実的ではない。ただ、これ以上の自然との隔絶をすれば、社会は悪くなる一方だと思う。実際、環境問題がそれを示している。だから、21世紀に共生という他者とのつながりが見直されてきているのは、当然のことに思えた。
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Fさん
蟲師の、「奴らは決して友人じゃない。ただの奇妙な隣人だ。」というセリフから、ちょうど私も寄生獣を連想した。
地球外生命体に寄生された新一が、人間、自分の周りの人を守るために、右手に寄生したミギーの協力を得て戦うというのが大筋のストーリーであるが、ミギーという「奇妙な隣人」との交流の中で、それぞれの生き物がそれぞれに生きているだけなのだと気付かされる。人間に寄生し食い殺すミギーは、人間側から見れば悪魔のような存在だが彼らはあくまで自分が生きるため、種の繁栄のために人間を食べているに過ぎない。ミギーたちの登場で、人間は食物連鎖や生物間の関わりに新たな立ち位置で組み込まれ直し、人間がそれ単体で生きているわけではないことを再認識させられる。ただ、私は驕り高ぶった人間というものも嫌いではあるが、自分もそのうちの一人に過ぎないのに、さも自分はよく分かっているとでもいうようにそれを指摘してくる人たちにはもっとうんざりする。その点においてこの作品中でもミギーが、「恥ずかしげもなく「地球のために」という人間が嫌いだ…」というように、自分や自分の言動が周りに与えることについて本当に自覚的であるかが大事だと思う。
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Gさん
授業中に例に出された蟲師は個人的にも読んだことがあったが、改めて話を聞くうちに蟲の形をとって示されていたのは、接触を避けられない異質な存在としての他者であったという見方に気付かされた。おそらくは生存本能に由来する、「自分でないもの」が持つ不気味さはしかし、家族やともだちには比較的感じにくい。それはそうした人々が部分的な自分自身だからではないかと考えた。家族には自分のルーツがあるし、自己と他者の境界が曖昧な胎児・幼児の時間を共に過ごす。そのうちに自己を外界から区切る膜が出来上がる過程でその中に包摂されるのではないだろうか。いわゆる幼馴染の友達も同様に思える。その例にないのが膜の発達しきった後に作られるともだちだろう。そこには既に二者各々の膜が存在する。それを通過させる営みはともだちの獲得というより、外部存在の受容、自己同化だと思う。そうした自己の一部としてのともだちに「ともだちだよね」といった確認を取るのはある意味で自分の四肢が自分のものかを疑うようなことであるので、気持ち悪さを感じる。その気持ち悪さが、ともだちかどうかの判断材料として最も有効ではないかと考えた。
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Hさん
Final Phaseの話を聞いて、私は今の音楽シーンを思い浮かべた。
2015年あたりまでは、その時代を生きてきた人が皆知っているヒットソングがあり、その楽曲の素晴らしさを共有しているという感覚があったように思う。
しかし、それ以降(特に令和に入ってから)は、ネット上であらゆるアーティストの音楽が発信され、昔以上に一人一人が自分好みの音楽を聴くようになったため、同じ時代をいき、同じものを共有しているという感覚が薄くなってしまったと感じている。それゆえ、決して今の時代(令和)の音楽がつまらないものというわけではないのに、「昔の音楽って良かったよな」「平成って素敵な時代だったな」と昔を懐かしむことがよくある。
社会に沢山の情報や音楽が溢れているということは決して悪いことではないと思うが、個人的には、「他の人と同じ世界・時代を生きている」「他の人と繋がっている」という感覚がどんどん薄れていくような気がして、少し寂しいと感じてしまう。そういった点で考えても、世界中・日本中の人々皆が見聞きした・経験したもの(ex.流行した音楽、コロナウイルスの拡大など)が人々の連帯感を強めることは多いのだろうなと思う。
Aさん
私は幼い頃から正解を求めてしまうタイプで、正解のない事柄に取り組むことがとても苦手だった。学校の授業でも自分の意見を自由に述べたり感想を言い合ったりする授業では回答に詰まり、結局毎回同じような「いい子ちゃんの解答」をしてしまっていた。今でも俯瞰で見ると、自分は正解にとらわれていると感じる事がよくある。しかし、脱正解主義のお話には深く共感し、私自身この大学生活を通して自分の中での「最適解」を目指すようにし、脱正解主義を身につけられるようにしたい。
また、ともだちとのつながりについて、SNSの普及で友達との関係性で苦慮する面が増えたと感じ、そして先生がおっしゃっていた、他者とのつながりを求める人の増加にはとても共感した。私は他者の目をとても気にしてしまうこともありSNSが苦手だ。メッセージを送る際は文面にとても気を遣ってしまうし、「友達」の数が可視化され、常にだれがだれと遊んだかが共有される状況に怖さを感じてしまう。また、グループラインの既読数やinstagramの投稿の閲覧者数が表示されると、大勢の他者に見られている事実と他者からの自分への評価を気にして怖くなってしまう。それでも私がSNSに依存してしまうのは、私の中に友達と繋がっていたい、認めてもらいたいという思いがあるからだろう。そしてかつSNSで友達と接する上で、苦労するし時間も奪われるのだ。SNSの色々な利点のうちに、友達とのコミュニケーションのツールが増えたことがあるだろうが、逆に増えたことで、友達とのコミュニケーションの難しさも感じる。友達とのつながりを大事にする現代人にとってSNSは負担にもなっていると感じた。
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Bさん
私は典型的なインターネットに心を支配されているタイプの人間なんだなと改めて感じた。私は日常的にSNS内での繋がりを感じていないと落ち着かない。そのことを再認識させるような授業であった。その人が今日何しているのかすぐ見れる”喜び”や返信が来ない”不安”と共に生きている。だがそんな日常は当たり前すぎてインターネット(SNS)に恐怖を覚えるようなことはなかった。これもまた縦割り思考の一環というか決めつけてしまっている事柄の一つだろうと思う。また、私がルフィ達に憧れる理由も改めて分かった。そもそもルフィのような生き方をすることは難しい。あんなに言いたいことを面と向かって真っ直ぐに言えないし嫌いな奴にパンチを打てる訳でもない。そして全力で思いをぶつけた時に全力で思いをぶつけてくれる存在は中々いない。本質的に難しいとされていることを楽しそうに一生懸命にしているところが彼らに惹かれる理由ではないだろうかと考えた。また、ルフィと仲間達の関係は不可逆的なものかどうかということについても考えるようになった。「ルフィが他者に対して常に全力で向き合う」から「他者もルフィと全力で向き合う」のか。これはルフィに限ったことではないが難しいところである。そもそも自分以外の誰かに本気になるというのはすごく勇気のいることだし悲しい思いをする可能性も十分にあることである。それでもどこかのタイミングで一歩踏み込んだ行為をしなければ人間関係に置いて一つ上のステージに上がることはほとんど不可能だと思う。毎日挨拶を交わすだけでは親友にはなれない。「ご飯に誘う」「恋愛相談をする」「人の悪口を話す」などのちょっとハードルの高い行いを積み重ねなければ友情は築けない。だがその行為の中で相手が不快に感じたり面倒に思われることもありうる。このリスクなしに人間関係は磨けれない訳だが現代人はそのリスクを負うことを嫌っていると思う。形式上の友達と形式上の遊びをする日常に満足している人が多いように思われるが、ひょっとしたらその基準さえも縦割り思考的なものに影響されて変化しているのかもしれない。今回の授業は私の中での友達について深く考えるとても良い機会になったので嬉しく思う。
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Cさん
わたしは友達をつくるのが苦手だ。なぜなら、それはわたしが利己的な人間であるからだと思う。誰かと昼食を食べる際に、行きたいお店が合わなかったら、「一人になりたいなあ」と思ってしまうことがあるほど協調性がなく、利己的であると自覚している。そして、自分の考えを相手に伝えようとしても、それは誤解されたり、馬鹿にされたりするリスクを常にはらんでいるから、臆病な面があるのだと思う。逆に、わたしはインターネットやSNSが好きである。なぜなら、自分の身を危険にさらさないで、匿名で思っていることを言えたり、情報収集できるからである。インターネットは心の中のブラックな気持ちをアイデンティファイされないまま匿名で表明できるという講義内でのフレーズを聞いて、かなり共感できる側面があった。わたしのように友達が少なくてもインターネット等で他人の考えに触れたりするのが好きなのは、自分自身の独断で身の回りで起きることのすべてを判断し決定できるほど強くないからであると思う。「誰かとつながりたい」という欲求は、不安や未知を怖がる動物の生存本能であると思う。例えば、自分が集団内で全員から陰口を言われているかもしれないと考えるのは、それだけでも恐ろしい。だから、自分が変に思われていないことを知るために、つながりを求める。こうした意味で、わたしたちは自分の指針となってくれる「正解」を求めてしまうのかもしれない。わたしは明快に正解が求まる受験勉強が好きだった。だから今回の「脱正解主義」は、私にとっては不安である。脱正解主義的思考を身に着けるには、わたし自身に内在する過度な自己保存本能を抑えて、利他的な精神をもって他者とつながりを求めていくことが不可欠なのかもしれないと思った。
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Dさん
授業の目的の章でお話されていた”正解”についての授業内容に非常に関心を抱きました。私は現在、就職活動をしていてどの選択肢が正解なのかを考えていたのですが、正解を探すという考えから最適解を探すことが大切であるという考えを改めて感じました。
また、私はサークルにて演劇をしており脚本を書いています。その過程で、他者との関係性というものを現実に近い形で表現するということを大切にしています。その中で、他者とのつながりを考えてみると、授業の中でお話されていた他者へ関心があるのではなく、他者からの見られ方に関心があるということに非常に共感しました。SNSに限らず、友達というものに対してカテゴライズしているように感じます。例えば、自分に安心感を与えてくれる人、自分のテンションが上がる話をしてくれる人などのように捉えていることが多いと考えています。そもそも”ともだち”の定義というものが難しいと思います。例えば、LINEで連絡先を持っているか確認する際に『友達だったっけ?』みたいな会話をして交換することが多いのですが、文章だけみると非常に残酷な確認であると感じます。この文章が残酷であると感じる理由として、日頃友達であるかどうかの確認をしないからだと思います。確認することがないからこそ友達の定義というものは不明確であると思います。
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Eさん
私の小学生の頃を思い出した。私はスマホを買ってもらったのが早く、5年生のころにはすでに持っていた。小学生のころ、いつも遊んでいた三人組がいた。とても仲が良くて、お泊り会なども頻繁に開催していた。でも徐々に何か違和感を感じてきていた。クリスマス会、仮装大会、客観的に見たら、とても楽しそうなことをいつもしているのに、心から楽しめていない自分がいた。その三人とは、交換ノートをしていて、毎回「ずっと親友だよ」と書いていた。でも何か表面的なことのように感じていた。私は人見知りだったので、友達も多くなく、心からの居場所というものを見つけられずにいた。その時にちょうどはまっていたのが、SNSでともだちをつくることができるアプリだった。気が付いたら、だんだんと、現実よりもネットの友達のほうが気になってしまっていた。でも、中学生、高校生と年を重ねるにつれて、心から楽しいと思える親友が増えていき、気が付いたら、SNSは、ほとんどやっていなかった。今回の授業を受けて、確かにそういうことだなと感じた。親友だと口では言っていても、親友と感じないことだってあるし、SNSに逃げても本当の欲求は満たされない、友達って難しいものだなと感じた。あいまいな文章になってしまったが、これからはなぜそういう現象が起きてくるのか、他者について、もっと具体的に考えていきたい。
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Fさん
まず、1.2.ともだちの動画で紹介されていた作品の中に多様な「友達」の形があったことを受け、私にとっての「友達」や「つながり」の定義を考えた。私にとって「友達」とは長い時間や期間をかけて仲良くなったスローフレンドを指し、他者と仲良くなる上で共に過ごした時間や期間を大切に思っている。よって、「つながり」とはリアルで会うか・SNSのみでやり取りするかに関わらず、その人との歴史や物語を指すのであり、時間軸の上に成り立つものであると考える。だから、SNSで一度話しただけの人やレンタル友達といった一時的な関係はそもそも「つながり」には含まれないと私は思う。
ではなぜ私の思う「つながり」に含まれないファストフレンドに、大きな需要があるのかを考えた。私が思いついたのは、スローフレンドへの発展を期待しているから、ファストフレンドをアクセサリー的に必要としているから、目的のために必要だから、の3つだ。人が人生で出会える人数には限りがあるから、SNS等できっかけを作ることは大きな意味があり、スローフレンドへの発展の可能性は大いにあると思う。また、1人でいるのが恥ずかしい、友達が多いと思われたい、という思いから、実際に仲が良いかは関係なくアクセサリー的にファストフレンドを必要とすることも多いだろう。そして、入学式やライブといった目的のために、1人では不安だからファストフレンドに一緒に来て欲しいと思う人も多い。このように考えると、ファストフレンドにはメリットが多いと分かった。
次に、SNSの役割について考えた。動画で先生が仰っていた、SNSによりファストフレンドを作りやすくなり真の友達への意識が高まったということに納得すると共に、SNSにはファストフレンドを作る手段以外の側面よあるのではないかと思った。私は誰とでも気軽にSNSのアカウントを交換することに少し抵抗を感じる。その理由は、自分の所有物であるアカウントによく知らない他者を入れたくないという気持ちがあるからだ。一般的にInstagramは顔見知り程度の人と交換しLINEはある程度仲良くなった人と交換するものだと言われているが、私は自分のことを公開するInstagramはパーソナルスペースであると感じており、LINEだけでなくInstagramでもあまり知らない人と交換するのは控えたいと思ってしまう。そんな私にとってSNSは、「スローフレンドリスト」である。つまり、SNSでの会話記録はその人との歴史(私にとっての「つながり」)の証である。SNSはファストフレンドの始まりであると共に、スローフレンドの記録でもあるのだ。
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Gさん
最近、科目の枠、つまり縦割りを超えての学習が始まっていることを実感している。心理学でのパーソナルスペースに関する話が他の授業で出てきたり、理工の授業で扱ったゴミ箱の穴の形に関する話が総合的な学習の時間でも挙がったと話す学生を見たりした。この授業と他の授業や自分の周りに起こった事象との関連も多くあった。例えばこれは新歓の議題だったのだが、アイルランドの立場に立って障害者権利条約に特殊教育を明記すべきか考える時、アイルランドはインクルーシブ教育を進めたいと思っており、経済成長もしているため、特殊教育を明記すべきでないと考えることができる。しかし、他国の実情も踏まえた時、明記すべきでないとすると同意を得られない可能性が高いため譲歩して明記すると考えることもできる。さらに譲歩する時どのような条件をつけるかというような議論が繰り返される。今挙げた問いにはすべて正解がない。よって他者と話し合い、議論する上で最適解を導くことが大事だと思う。
先日読売新聞が人口減抑制に関する記事を取り上げており、「近年の出生率の急減は世界的な現象であり、その国の経済状況や社会福祉制度とは関係ない」ことや先進国において結婚、出産が「『理想の人生』から『個人の選択』」に変わったことに言及した記事に目が行った。これは授業で取り上げられていた他者の話にも繋がる部分があるのではないかと考える。個人主義が進む現代において出生率の低下は必然だと言えるかもしれないと思った。
関心がないだろうと思いつつ他者が自分に対してどのように感じたのか考えることがある。自分の行動の一つ一つが他者との関係において作用するという意識があるからだ。私は高校の部活での同期は皆友達だと思っていたが、それと友達は別と考える人もいて驚いたことがある。それも個人の自由であるが、友達の定義の差は年齢と共に広がっていくものではないかと思う。これは谷川俊太郎の詩「ともだち」と重松清「きみの友だち」におけるともだちの定義の差において明確だ。この二つは対象年齢が異なる。友達と友達ではない人を明確に区別する考え方は寂しいと感じ友達の形骸化に繋がりそうだと感じたが、逆に友達か友達でないかわからない人とばかり仲良くするとなると、その方が形骸化した友達との繋がりかもしれないと思った。
メディアと表象の話はプラトンの洞窟の比喩の話にとても似ていると思った。囚人が影絵を本当のものだと思い、本当の世界を知らないのと同じように私たちもメディアを通してでしか世界を認識できていない。最近読んでいる「ガザとは何か」という本ではイスラエルはジェノサイドを行っているが日本のメディアはパレスチナで何が起きているのか報道していないということが繰り返し述べられている。私はそれらついて詳しくなく、漠然とした印象しか抱いていなかった。そのためこの本を通して初めて知ったことがたくさんある。過去のテレビの報道とは違うなと感じることもある。しかし、あえて言うなら私はこの本というメディアを通してイスラエルやパレスチナなどの対象を見ているためそれは表象に過ぎないかもしれないということだ。本当ではないかもしれないし、偏っているかもしれない。今後は他の本、新聞なども読んでいきたい。
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Hさん
今回の講義を聞き、自身の経験と当てはめて考えることで「誰かと繋がっていたい」という人間の欲求や無意識に友達を求めていることに深く共感できた。
毎日、当たり前にしているInstagramのストーリーを見るという行為は「誰が今何をしている」と常に把握をすることで、「何かしらの形で繋がっていたい」というまさに人間の欲望の表れなのだと改めて知ることが出来た。
また、私は一時期Instagramをアンインストールしていたが、その時を思い返すと、外界と完全にシャットアウトされた気分になったのを覚えている。SNS上での会って喋ったこともない人との関係は簡単に切れたものの、仲の良い子達が今どのようなことをしているのかわからないという虚無感や孤独を感じた。このように、SNSは他者との繋がりを感じさせ、喜びや安心感を与える精神安定剤のような機能を果たす。その一方、限度を知らない人間の欲求を利用することでSNS依存症へと陥らせ、人間そのものの在り方を変えてしまうという危険性も持つ。自身のSNS行動を振り返ることで、根底にある自分の心理や欲求は何なのかを考え慎重にSNSと向き合っていきたい。
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Iさん
告白やラストフレンズの例を通し、インターネットの普及やSNSの発達に伴って漫画や小説、ドラマの内容が変化していることを学んだが、その逆にテレビの内容などがどのようなSNSが流行っていくかを決めていく可能性も考えられるのではないかと感じた。最近ではBeRealというありのままを写すというコンセプトのSNSが流行っているが、それは、顔やスタイルを加工することや自分を着飾るという行為を、指摘し非難するようなテレビ番組の数が増えてきたことに起因するのではないかと考える。
私自身が大学に入学してからは、高校までの友達関係よりもどこか課題やテストの情報獲得のため、つまり利益のための友達作りをしたりされたりすることが増えたように感じている。これは多様な人々が沢山集まり接点が少なくなりがちな大学という場所がそうさせるのか、それとも私たちの年代だからなのか、今日の社会がそうさせるのか、テレビなどに影響されているのか、疑問に思った。
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Jさん
最後の方に出てきた「真の友だち」を今作るのが困難になったので憧れるようになったが、そもそも真の友達とはなんなのかがわからないから虚点化しているという話がすごく腑に落ちた。私はワンピースを何年も読んできて、自分も同じように友達を大切にしようと思って生きてきたけど、それが100%相手も同じ気持ちなことは少ないし、かといって見返りを求めるのはおかしいとも感じていた。じゃあ友達ってなんなのかと考えた時に、SNSを無視して考えることができないと思う。インスタで「親しい友達」に入っているかとか、長電話できるかとか、逆にLINEじゃなくて会って話したくなるかどうか、というように考えてしまう。SNSがない時代はそんなこと考えてなかったから窮屈に感じてしまうけど、どうだったかも忘れてしまった。かといって私一人だけ辞めるのもどうにも勇気が出ないから最初から始めなければ良かったと思う。今もSNSをほとんどしていない友人を「SNSしてなくてかっこいい」と思ってしまう自分に呆れてしまう。フォロワー数とかいいね数でなんでも可視化されるようになったのを好む風潮は、もしかしたら正解を求めているのと似ているのかもしれないと感じた。多くの人が支持していたり、「いいね」を押されたものは、「正解」とか「最適解」に見えてしまう。今まで必ず正解があったし正解を求められていたから、潜在的に正解を求めてしまうのかなと思った。SNSは、24時間どこでも世界中の人と繋がれるから、真夜中に起きている時に一緒に別の場所で起きている仲間を見つけられるようになった。でも、今回の講義を聞いて、そうやって埋めた寂しさは実際には埋まってなくて、穴に蓋をしただけのような状態で、「真の友達」とか「仲間」のような虚点を探していたのかもしれないと思った。