「かりと」様??
細根天満宮の祭神、菅原道真公は誰もが知っている学問全般の神様だ。山の神様は字のままだろう。その右に何の脈絡も説明も無く鎮座している円柱状の石碑「かりと」様。この謎の神様の正体を追ってみた。
細根天満宮の祭神、菅原道真公は誰もが知っている学問全般の神様だ。山の神様は字のままだろう。その右に何の脈絡も説明も無く鎮座している円柱状の石碑「かりと」様。この謎の神様の正体を追ってみた。
1.インターネットの情報から推測する「かりと」様
「「かりと」様」と書いたのは「かりと」が元々神様の名前ではなくて、物を指す固有名詞であると思われるからだ。
インターネットで調べてみたところ国際日本文化研究センター の怪異・妖怪伝承データベースのページでかりと様に関する記載を発見したので、以下に引用する。妖怪て。
「地中から現れた「かりと」を村人が掘り出そうとしたところ急に歯が痛くなったので、石碑を立てて祀った。かりと様といい、歯痛に効果がある。歯痛のため不覚を取った今川の武将の墓とも、具足を埋めたところともいう」
「かりと様の石碑から、大きな火の霊が毎日のように出たが、2、3年前からはもう出なくなった。」
※具足……武具の事。
「かりと」がひらがな表記であることも興味深かった。私は専門家ではないから往古の日本語事情を知らないが、音が先にあり、漢字をあてる必要がなかったのだろうか?漢字があったが、口語で伝えられるうちに漢字を忘却したのだろうか?同じ読みで「狩戸」という姓ならあるが、これは「狩猟」と場所を表す「戸」であると思われるため、伝承と合わない。調べる限り例が無く由来が全く不明であるところを見ると、ごく狭い範囲で使用されている村民の言葉なのだろうか?地方語は明治時代の言語の標準化の流れで失われたものが多くある。「かりと」は全く未知の物体ではなく、現代においては違う名称で呼ばれているものかもしれない。
かつて緑区の塚や古墳には「触れると瘧(おこり。マラリアのこと)になる」という言い伝えが存在するものが多くあった。これは荒らされたくない場所を守るための古代人の知恵だろう。触れると瘧になる古墳。掘り出そうとすると歯痛に襲われるかりと。これらの伝承には、類似性が認められるように思う。また、今川の武将の武具を埋めたという伝承とも符合する。
しかし、ふと現地にあった「タケノコ採るな」の看板が頭を過った。かりと様の周辺は見事な竹林であり、タケノコもたくさん生えている。タケノコは地中から現れるもので、地面から頭を出すか出ないかくらいの時期が食べ頃だ。そんなタケノコを村民が見つけたら掘り出そうと思うだろう。しかしそこが村民のタケノコ収穫スポットになり不特定多数の人間に踏み荒らされると困る人間も多分いる。
「かりと」がタケノコだったらどうしよう。
別に良いんだけど、かりと様が「タケノコ採るな」の古人スタイルだなんてなんか嫌だ。
※千代倉記念館で聞いた話では小山園の時代はこの山全体が日本庭園のような風景であり、竹林ではなかったと思うとのこと。実際当時の小山園を描いた絵に竹は描かれていない。竹は後から生えてきたのだ。となると、かりとはタケノコではない。よかった。
※現地にあったタケノコ。現在の細根山には筍があちこちに生えており、「タケノコ採取禁止」の看板がある。
少し脱線したがまとめると、
◇「地中から現れた「かりと」」
自ら地中から出てくるものか、時間が経つと地表に露出しうるもの。または大雨や災害等で地形が変わって露出したのかもしれない。タケノコではない。
◇「村人が掘り出そうとしたところ急に歯が痛くなったので、石碑を立てて祀った」
◇「歯痛のため不覚を取った今川の武将の墓とも、具足を埋めたところともいう」
村人が掘り起こそうと思うものだが、掘り起こされると困るもの。武将の墓や武具であればお金に換えられるかもしれないから、盗掘を試みる者がいても不思議ではない。荒らされると困るので石碑を立て、掘り起こそうとすれば歯痛になると伝えた。緑区の多くの古墳にある「触れると瘧になる」という伝承と類似性が認められる。
これらの事から、私は「かりと」は何らかの自然現象によって地表に露出した棺や埋葬品の類ではないか?と推測した。
2.有識者の考える「かりと」様
後日、国立国会図書館から前述の引用文の出典である昭和32年発行の『旅と伝説』5巻4号通巻52号の複写を取り寄せた。
昔の民俗学者達は雑誌を情報収集の掲示板として使用していた。かりと様についても冒頭から「『かりと』とは如伺なる意味の文字なるや皆様のご敎示を仰がんとして、此一文を草する次第です」なので、結局由来はわからなかったようだ。筆者の堀田氏は同項でかりとを巡る自らの考察と当時のどかな農村であった細根の村人達に聞いた話を紹介している。以下は要約である。
◆当時の「かりと様」
かりと様は桑畑の真ん中にあり、村人達から「かりと様」「歯神様」「歯痛止神様」などと呼ばれ、祈れば歯の病気全てに効果があると尊崇されていた。1957年時点でも参詣者が多かった。「かりと様」の呼び方が最も一般的であった。
◆堀田氏の考える「かりと」
誰かの小説の中で「石棺」と書いて「かりと」という仮名がつけてあったことを記憶しているが、石棺を指として「かりと」と言ったのであれば大体首肯できる。「かり」とは「身まかり」(死ぬ事)の「かり」で、「と」は場所を表す「戸」であり、これらを合わせ用い、「死んだ所」を表して「かりと」と言ったのではないか。
◆円柱状の石を持ってきた人の子孫から聞いた話
今(1957年)から7、80年前(1887年~1897年頃)、石碑のある土堤に「かりと」が現れてきた。村の中の物好きな人がこれを掘り出そうとすると急に歯痛に襲われたため、中止した。他の人が掘っても同様に歯痛に襲われた。村人はこれは物の怪の仕業だとして、その場所に岡崎から石を持ってきて石碑を立てた。
◆今川の武将の墓or武具説
【その1】
桶狭間の合戦の際、歯痛のためこの地で無念の最期を遂げた今川の武将を村人たちが憐れみ、墓を建てて祀った。そのため歯痛の時に詣れば全快する。
【その2】
桶狭間合戦において、武将の歯痛ではなく、戦に勝ち目が無く自殺した一党の死体を埋めた場所。
【その3】
槍岳(槍ヶ岳ではない。どこの山を指すのかは不明。此地より東方と記載あり)の戦いに敗れ、到底勝算が無く、みすみす武具を奪われるのは惜しいと考えてこの地まで逃げ延び、武具を埋めて再び槍岳に行って討ち死にした。つまり武具を埋めた場所。
◆元昭正眞命の武具説
村の御嶽講信者が石碑の下に武具があるか死体があるか占ってみたところ、武具と出た。さらにその武具が今川義元軍のものか誰の物か占うと、元昭正眞命のものであると告げられた。そのため写真(本文献の写真)にあるように、この石碑の後ろの木柱(現存しない)に元昭正眞命墓標と記し、裏面には昭和3年4月18日吉辰建立と記してある。この名前の命がいたかどうか筆者は知らない。この墓標を建てると同時に南隣に2mほどの堂が建立されて、中には春埜山大白坊大権現、八百姫大明神明治神宮、元昭正眞命、秋葉大権現が祀ってあるが、石碑との関連性は不明。
◆その他怪奇現象
大きな火の玉が石碑のところから毎日のように出ていたが、2、3年前(1954~1955年)からは全く出なくなった。
石碑の建立時期は説によって大きく異なる。「今川の武将の墓or武具説」が正しければ桶狭間合戦のあった1560年代からそう離れていない頃に建立されたのだろうし、「円柱状の石を持ってきた人の子孫から聞いた話」が正しければ1887年~1897年頃の建立ということになる。どの説も一部正しくて一部誤っているのかもしれないし、全ての説が誤りかもしれない。石碑のみが新しく、「かりと」は古い物かもしれない。しかし、「かりと」を「かりと」と呼んでいるのは、大きな手掛かりであるように思う。石碑を建立した者が石碑の下に何があるのか全く知らなかったのであれば、それをわざわざ「かりと」とは呼ばないだろう。個人的にはやはり墓や埋葬品に関連する物である説を推したい。ただ、堀田氏は「墓石としては形態が變だ。別に臺石も無し、裏面に建設年月日も無く、たゞの圓い石の棒だ」と述べている。
気になるのは元昭正眞命についての記載である。春埜山大白坊大権現、八百姫大明神明治神宮、秋葉大権現はそれぞれ「春埜山の天狗」、「八尾比丘尼」、「火之迦具土大神(火防の神)」だが、元昭正眞命とは何者なのか調べてみてもわからない。また、文献には「(かりと様の)南隣に2mほどの堂が建立されて~春埜山大白坊大権現、八百姫大明神明治神宮、元昭正眞命、秋葉大権現が祀ってある」という内容が明記されているが、この「南隣の堂」はどこにあったのだろう?現在の細根や細根山にそれらしい堂は無い。尾張名所図解「細根山」にも見当たらない。細根天満宮の末社の事かとも思ったが、今でこそかりと様は天満宮境内に鎮座しているものの、本文献に「(かりと様が)三尺道路傍の桑畑の眞中にふさき堂と共に淋しく立って居る」との記載があるため、かりと様も「南隣の堂」も当初天満宮の境内には無かったと思われる。ちなみに『東海道鳴海宿』(榊原邦彦 中日出版 2019.3)によると細根天満宮にかつて存在した末社は下記の通りである。「南隣の堂」に祀られていたものとは秋葉社以外一致しない。
尾張名所図解「細根山」。写真は現地の看板のもの。かつての末社の位置が記されている。
【細根天満宮の末社】
秋葉社
1758年の勧請。本社の右側に鎮座。
愛宕社
1732年に再建立、創建はもっと古い。細根山の頂の四望台の右手にあった。
稲荷社
1771年の勧請。天神社のすぐ右側にあり、『神社明細帳』に稲荷社と神明社の2社のみ載る。
栄子稲荷(社名を刻んだ燈篭のみ現存)
1797年の勧請。寂照庵の上に「いなり」とあるところか?
西行法師
1778年に西行法師の像を修理、1823年に雨乞いをした。
住吉社
摂津国の住吉社を勧請し、毎年お札を取り寄せた。最古の記録は1742年で、下郷家が江戸に酒を船積するようになってから海上安全を祈り勧請したと思われる。
人丸社
柿本人麿を祀った。最古の記録は1758年。
弁天社
妙音池の中島に祀った。池は平成12年に埋め立てた。
松尾社
1761年に勧請、毎年お札を京都の松尾社から送ってもらった。酒造神。
山神社(現在かりと様の隣にある山の神様との関係性不明)
最古の記録は1800年。字細根南部の孫平山に鎮座。
これらの情報から、「南隣の堂」は天満宮の末社という扱いではなかっただろう。
また「南隣の堂」と同一のものと思われる「ふさき堂」の正体もいまいちはっきりしない。「ふさき」と名の付く寺院や神社は石垣島の冨崎観音堂か千葉県の冨崎神社くらいしか思いつかないが、これを勧請する事があり得るのだろうか?
なお、古地図を確認すると1888年~1960年の地図では細根天満宮の南東に寺の記号があるのが確認できる(1968年以降の地図では無くなっているため、伊勢湾台風で倒壊したか?)が、これは位置的には寂照庵の事かと思う。四社も祀られていた堂であったのに、天満宮とこの寂照庵と思われる寺院の記号以外に、それらしきものは地図には見あたらない。
『旅と伝説』の「かりと」の項の出典は昭和32年の細根の老人たちの雑談である。我々よりもかりと様に近い時代を生きた彼らはより解像度の高い情報を知っていただろう。他に文書化された資料が無いのであればかりと様についてこれ以上に詳しい情報を得る事は不可能かもしれないが、進展があれば追記しようと思う。
参考文献
三元社 編 萩原正徳 編『旅と伝説 第5年第4号(通巻52号)』 三元社 1932.4
榊原邦彦『緑区史跡巡り (名古屋史跡巡り 1)』 中日出版 2021.10
国際日本文化研究センター『怪異・妖怪伝承データベース』 2025.05.05閲覧
榊原邦彦『東海道鳴海宿』 中日出版 2019.3
谷 謙二(2017) 「今昔マップ旧版地形図タイル画像配信・閲覧サービス」の開発.GIS-理論と応用,25(1),1-10. 2025.05.05閲覧
榊原邦彦 『緑区の歴史』 愛知県郷土資料刊行会 1984.11