徳重熊野社。創始は室町時代初期と思われる。祭神は伊弉諾尊・伊副利連命。もともとはイブクマノ神社の名であると言われており、弘化4年の鳴海村絵図には「伊吹の神社」「クマノ社」の記入がある。当神社の所在地である神の倉の旧字には「伊副ヶ根」「祝いヶ根」等があり、この伝承に基づいた字名であると思われる。2025年3月8日撮影。
聖観音堂。名古屋市のホームページには「正観音堂」と表記されている。天保4年に建立され、昭和61年に現在の場所に移された。道標を兼ねており、「右あすけ道」「左くまのごんげん路」と書かれている。「あすけ道」は白土道のことで、「くまのごんげん路」は熊野社の参道を指す。令和6年に堂が建て替えられた。2025年3月8日撮影。
「明治三十七八年役戦勝記念」と書かれた燈篭。日露戦争に勝利した日本では当時戦勝を記念する碑が各地で建立された。この燈篭もその一つだろう。2025年3月8日撮影。
中世以降、御師や山伏の妻となった熊野比丘尼が熊野信仰の布教に携わった。参道の左手奥に比丘尼屋敷跡があるとのことだったが、結局場所はわからなかった。2025年3月8日撮影。
忠霊碑。忠霊碑とは戦死者の慰霊碑で、日露戦争以降日本全国に普及した。こちらは太平洋戦争のもの。2025年3月8日撮影。
参道の西側は樹林が鬱蒼と茂っている。かつてこの周辺の山は熊野山と呼ばれており、「熊の前」という地名は「熊野山前」を略したもの。徳重熊野社は桜の名所でもあり、春には境内のあちこちに桜が咲き乱れる。2025年3月8日撮影。
ここから約100段の長い階段が続く。2025年3月8日撮影。
階段の脇に末社がある。左から中山神社、山の子神社、熱田神宮、秋葉神社。末社前の燈篭は皇紀2600年記念(1940年。神武天皇の即位から2600年)として徳重警防團員一同より奉納されたもの。2025年3月8日撮影。
2025年3月8日撮影。
階段の中腹に手水舎がある。もともと手水舎として設けられたものかはわからないが、柄杓が置かれていたので当ホームページでは手水舎と呼ぶことにする。2025年3月8日撮影。
この手水舎は天然の湧水である。名古屋市の令和2年度の調査結果によると、「この緑地帯に滲み込んだ雨水が地下水となって南方向に流れ、その一部が本殿の約20m手前の斜面に湧き出ているものと思われる」とのこと。2025年3月8日撮影。
本殿前のラストスパート。2025年3月8日撮影。
本殿。2025年3月8日撮影。
手水舎。2025年3月8日撮影。
社務所。2025年3月8日撮影。
古札納所。2025年3月8日撮影。
熊野社御造営奉賛碑。本殿前の手水舎もだが、熊野社には昭和47年に造営記念として奉納されたものが多い。2025年3月8日撮影。
龗神社。「龗」とは龍神のこと。水や雨を司る神である。2025年3月8日撮影。
熊野社の由緒。熊野神社は沿海性の傾向があると言われている。現在は海と何ら関りの無いように見える当地であるが、かつて熊野社の祭礼は船で渡したとの記録がある。また、その祭礼で神楽を舞った際、船から黒末川(扇川)に舞扇を落としたことが扇川の命名の由来とされる。2025年3月8日撮影。
本殿の裏に回ると毘沙門天像への道がある。徒歩15分と書かれていたので特に何も考えずに進んだが……
2025年3月8日撮影。
まさかここから登山が始まるとは思っていなかった。2025年3月8日撮影。
管理者の目印だろう。2025年3月8日撮影。
2025年3月8日撮影。
写真ではわかりにくいが急勾配もあるので歩きやすい靴で散策する事をお勧めする。木の根で足を引っかけないように注意。2025年3月8日撮影。
2025年3月8日撮影。
これは登った後に上から撮影したもの。普段運動をしない人間にとっては最大の難所であった。2025年3月8日撮影。
2025年3月8日撮影。
何用の標石だろうか?2025年3月8日撮影。
アップダウンを何度か繰り返し、尾根道に辿り着いた。2025年3月8日撮影。
尾根道の終わりに毘沙門天像がある。2025年3月8日撮影。
この毘沙門天像は大正10年に建立されたもの。道は険しいが一見する価値のある荘厳な佇まいである。そして像の正面には……
2025年3月8日撮影。
なんと階段があった。綺麗なオチがついてしまった……。2025年3月8日撮影。
毘沙門天像に直接繋がる参道(階段)の入り口は住宅街の中にある。2025年3月8日撮影。
熊野緑地には前出の中部電力の標石の他にも、現役なのかわからない標石が散見される。見つけたものを撮影した。その数なんと21個(見逃しもあると思う)。撮影日時は全て2025年3月20日。