「作町」はもともと「横町(よこちょう)」と呼ばれており、時代ははっきりしないが、「作町」となって、「横丁」は別称として残った。さらに古い時代は「佐久間町」と呼ばれていたそう。「横町」は鳴海城の横の意味で、「佐久間町」は鳴海城主の佐久間氏に因む。
殆ど現存しないが、当時の街の賑わいが想像できるような史跡についての記載が非常に多かったので、その中の一部を簡単に紹介する。
【熱田港船改所出張所】
熱田港で扇川の入港・出港を管理していたが、鳴海の船の利用が多いので、明治六年に鳴海に出張所を作る事が許された。
【郵便差出箱】
緑区最古の郵便差出箱。
【御茶壺道中跡】
ずいずいずっころばしにも歌われる御茶壺道中は、江戸より茶坊主三人がお茶壺を携行して宇治に至り、茶を収めて江戸へ下った行事。御茶壺道中の鳴海宿の通過が夜半に当たっていて、ここで役人が提灯を立てて待ち、「ご苦労千万」と言って歓迎したという場所。
【郷蔵】
「作町郷蔵」「西の端郷蔵」とも。郷蔵とは江戸時代郷村に設置した公共用の穀物倉庫のこと。扇川の土場から船積するのに便利だったそう。
【土場】
船着き場。
【高札場】
寛永十年に作町に高札が建てられ、後に曲尺之手→本町札の辻に移った。高札場のあった場所には札の辻の地名が残っている場合も多く、鳴海では東海道と鳴海駅から北へ通ずる多治見街道の交差する東北側に高札場があったので、「高札場」「札の辻」と呼んでいた。
【中立楼】
明治・大正時代の鳴海の料理屋。のちに「中たつ」となる。昭和初年まで営業。
【鳴海郵便局】
明治六年に「鳴海駅郵便取扱所」設置。配達エリアは鳴海、大高、有松、豊明、天白、南区の笠寺以南。明治八年より「鳴海郵便局」となる。明治四十二年に局舎を新築、昭和二十四年まで使われていた。
【鳴海電報電話局】
電信は明治三十三年、電話は明治四十二年に鳴海郵便局において開始。昭和二十四年鳴海郵便局内に「鳴海電報電話局」を開局。昭和三十八年京田に移転。
【坊ヶ墓】
西小路の北側に坊主の墓があった。「字作町」の旧字でもある。大正時代に住宅地になったが、近くに住む住人たちが費用を出し合い石の地蔵と鞘堂を設置。昭和四十八年に撤去。
【旅籠屋】
鳴海宿の旅籠屋は本町、作町、根古屋に限られた。作町には鳴海最後の旅籠屋「輪違屋」があり、昭和四十年代まで営業。昭和五十一年に取り壊された。
【曲尺之手】
「かねのて」と読む。現存。道をクランク状に曲げ、敵が攻めにくいようにした。菊屋茂富の前。