天神崎の地名の由来
本会発行の『天神崎の自然を大切にする運動 50周年記念誌』に掲載の「天神崎の地名の由来」を掲げます。
本会発行の『天神崎の自然を大切にする運動 50周年記念誌』に掲載の「天神崎の地名の由来」を掲げます。
天神崎は、田辺市の市街地西にある小さな半島の名で、田辺湾と芳養湾を分ける境となっている。
満潮時には島となる丸山という小さな山と半島との間に広がる岩礁は「千畳敷」とも言われ、市民の近在の人々の「のんき」、磯遊び、魚釣りの場として親しまれていた。平らな岩場のすき間や引き潮から取り残された潮だまりのあちこちに、海の小さな生物が観察される。
この素晴らしい自然景観が破壊される危機が起こった。半島部の高級別荘地開発計画である。その開発から自然を守ろうと元高校教諭であった故外山八郎氏を中心に「天神崎の自然を大切にする会」を発足させ、ナショナル・トラスト運動が始まった。その運動が日本での先駆けとして、全国的な注目を浴びたことは記憶に新しい。この会は、今は専務理事の玉井済夫氏の手に受け継がれ、活発に啓蒙(けいもう)活動を続けられている。
天神崎という地名は、きちんとした記録はないものの、半島基部にある「能満寺」の寺域にある天神社に由来するもので、天神社と一体化した。能満寺の山号が「天神山」であることからその天神社、能満寺の先(崎)という意味で命名されたものと考えられる。
江戸時代の元禄3(1690)年の『田辺領寺社改帳』(『田辺市史』第7巻)、能満寺の延宝3(1675)年に「天神之社壇」へ山崩れの恐れが出たと記録されている。また「天神の棟札は大永6年」とあることから、天神の社祠(しゃし)があったことに間違いはない。
大永6(1526)年とは室町時代後期に当たる。このころ、天神が祀(まつ)られたのだろう。一説によれば、天神社は江戸時代の元和年間(1615~24)に田辺城下より移転したといわれていることから、江戸初期には現地に同社は存在していたようである。
能満寺には天神社僧があるという記録がある。神仏混交時代のなごりとしての能満寺は、当初天神社の守り神である「神宮寺」であったのかもしれない。天神社は、今も天満宮主催の児童生徒たちの書道展が開催されていることから、祭神は学問の神様、菅原道真と思われる。
この記事は、「紀南の地名(二)」(紀南地名と風土研究会)に収められているものに、部分的に修正を加えています。研究会の事務局から許可を頂いた上で、掲載しています。
出典:「紀南の地名(二)」(紀南地名と風土研究会・紀伊民報)、2008(平成20)年