天神崎の保全を振り返って
当会の理事であった故玉井済夫さんが、相談役であった時期の『天神崎だより』第 125 号(2022 年)に、本会の歴史をまとめておられますので、ここに掲載します。
当会の理事であった故玉井済夫さんが、相談役であった時期の『天神崎だより』第 125 号(2022 年)に、本会の歴史をまとめておられますので、ここに掲載します。
子どもの頃
小学校の時は、ミミズを掘って近くの会津川にハゼ釣りによく行った。中学校になると釣り友達が できて、海へ釣りに行くようになった。川口でゴカイを掘り、池の小さなエビを掬って餌にした。市内 から子どもでも自転車で行ける天神崎にも行き始めた。干潮時に大きく広がる平らな磯、たくさんの 潮だまり、田辺湾の広大な景色などが、楽しく嬉しかった。磯で釣りをしていると、いつまでも飽きる ことがなく、時間も忘れるほどだった。潮だまりでは、顎にひげのあるオジサンという名の美しい魚を 釣った。初めて見る魚にわくわくした。磯の先で釣りをした時には、手のひら大のイガミ(ブダイ)が 2 匹も釣れて、大変興奮した。夕暮れとなり、もう帰ろうと思って後ろを見ると、潮が満ちていて磯全体 が海になっていた。磯の高いところが点々とあったが、どう歩いて戻ればいいかが分からなかった。 魚籠とさおをもって、ズボンを上にめくり、足場を探りながら少しずつ歩いた。やっと岸に着くとパンツ まですっかり水浸しになっていた。この時、潮の干満のことを身をもって知った。家に帰ると、母はお かずができた、と喜んだが、私は満潮時の磯の恐ろしさを繰り返し話した。
教員となって
私は大学で生物学を学び、最初は大阪府立阪南高校で教員となった(1964 年)。その時に、レイ チェル・カーソンの「サイレント スプリング」(沈黙の春、1962 年)を読み、DDT などの化学物質が 自然界(生物)に大きな影響を与えていることを知った。私はこの本に刺激されて、授業で生徒たち にもその話をした。このことは自然環境に対する私の関心を高めることになった。その後、郷里の田 辺市に帰り(1972 年)、田辺高校で教員となった。田辺高校には後藤伸先生(生物)がおられて、非 常に熱心に紀南の山間部(熊野)の自然調査を続けておられた。私もその仲間に入れてもらって、 一緒に調査を続けることになり、私は両生類の生態調査を主テーマとした。仲間の皆さんと共に活 動しながら、県内各地の自然調査やその保全を進めようという事になり、和歌山県自然環境研究 会を組織して、自然調査・保護・自然解説(教育活動)等に取り組むことになった。
学校では生物の授業と生物部の指導にも力をいれ、理科教育と自然保護教育を実践した。生徒 たちにはできるだけ生物に触れる機会を増やそうとして、夏の宿題にはいろんな生物を観察して描 くことを課した。海岸の生物については、天神崎でウニ・ナマコ・エビ・カニ・フジツボ・イソギンチャク・ 海藻類‥‥などを描かせた。暑い夏の磯で生物を描くのはかなりハードなことだったが、教科書で 習うこと以外に、自身で直接生物に触れる機会を増やし、生命への関心を高め自然の仕組みを知 ることを願った。
外山八郎先生から
後藤先生と私は田辺高校にいたが、近くの田辺商業高校(現在は神島高校)に外山八郎先生が おられた。外山先生は商業科目を担当されて、学校ではカウンセラーの役も持ち、生徒指導にも力 を入れていた。いつも穏やかな話しぶりで、大変きちんとされていて、クリスチャンであった。その外 山先生が、1974 年 1 月の寒い日の放課後、田辺高校の生物教室に来られた。外山先生は、田辺 商業高校の同僚の先生から聞いた話として、天神崎の海岸林(丘陵地)に別荘群の建設計画があ ると言う。それで、私たちに意見を求められた。後藤先生は即座に、困ったことだ、と言われ、その 理由を述べられた。陸域の森林(海岸林)がなくなることに加えて、それによって周辺の磯の自然が 損なわれ、田辺湾への影響についても話された。その後の天神崎保全活動においては、「森・磯・ 海が一体となった生態系を維持しよう」という目標を掲げてきた。外山先生は、自然に関心の深かっ た紀伊民報(田辺市)の小山周次郎社長とも相談し、翌月の 2 月 9 日、天神崎の自然の保全を願 う市民有志と共に最初の会合を開いた。その会の名称を「天神崎の自然を大切にする会」としたの もクリスチャンであった外山先生の意見だった。「守る」という言葉には、“敵から守る”という意味が 含まれ、別荘の建設やそれを進める方々を敵とするのではない、と強調された。こうして「天神崎の 自然を大切にする会」(会長:小山周次郎)が出発した。はじめにしたことは、天神崎の保全を願うた めの市民署名で、市内の町内会・老人会・婦人会・子供会はじめ、各種の多くの団体や個人に訴え て署名を進めた。短い期間(約 1 ヶ月)に 16,000 名の署名(当時の田辺市の人口は約 60.000 人)が集まり、その署名簿を添えて田辺市長と和歌山県知事に要望書を提出した(1974 年)。当 時、天神崎は「南部田辺白浜海岸県立自然公園」であったため、県が保全策を進めることが期待さ れた。しかし、県の自然保護条例(当時)によると、県立自然公園の第 1 種地なら対応できるが、天 神崎の海岸林は第 3 種地(普通地域)であるため、県の保全対策の対象にはならなかった。市も県 も保全策はないという回答であったため、大切にする会としてはまことに困り、今後どう進めるかに ついて模索した。
募金活動
大切にする会の会員は、行政(市・県)が解決できないのであれば、この運動はこれで終ろうという 意見と、何とか打開策を探って保全しようという意見に分かれた。そうした中で、別荘予定地を買い 取ろうという案が示されたが、それに対しては賛否の対立した議論が続き、まとまらなかった。その 議論が続いた結果「大切にする会」とは別に、土地の取得を進めるための会を、やむを得ないことと して別に作る j 事になった。それが「天神崎保全市民協議会」(代表:多屋好一郎、事務局長:外山 八郎)であった。これが市民地主運動の始まりである(1977 年)。土地の買い取り募金といっても億 単位が目標となるので、これには市民の中からも批判された。それでも、その方法が唯一のことと 信じて、外山先生や多屋好一郎さんたちは苦しいながらも、賛同者と共に募金活動を進める事にな った。
募金活動に賛同する有志や外山先生を慕う方々が集まって、田辺出身で全国各地にいる方々に 手紙を出して、土地を買い取る資金の寄付をお願いし始めた。自分たちで経費を負担しながら何日も封筒書きの仕事を続けた。そして、市民協議会のタスキをつけて、市内での街頭募金や各団体に も呼び掛けて募金への協力をお願いし、資金を募った。そうしながらも、市長や市議会、県知事に は何とか協力や支援が願えないかと、いろんなお願いを繰り返した。天神崎の海岸林を県立自然 公園第 3 種地ではなく、第 1 種地に格上げしてほしいということも願った。こうした中、運動が始ま った翌年(1975 年)から市民に呼び掛けて天神崎自然観察教室を始めた。そして、(財)日本自然 保護協会がこの運動への支援をしてくれることになり、保全活動の基礎として天神崎の自然調査を することになった。この調査は、後藤先生を中心として和歌山県自然環境研究会が担当して、海岸 林と磯の調査をし、調査報告書を作成した。子どもたちのために自然観察の手引書も作った。
募金活動への支援
こうした募金活動は、1895 年に英国で始まったナショナル・トラスト活動と同じであることが分か り、当時はこういう活動が日本では珍しかったため、各種の報道関係の取材が続いて全国的に知ら れることになった。そして、切々と訴える外山先生の言葉に、全国各地の方々が聞き入り共鳴され て、温かいご理解による寄付金が次々と寄せられた。さらに、応援や支援をしていただく団体・個人 が増えてきて、組織的な支援や定期的な支援をいただく事にもなった。特に「天神崎の土地買い取 り運動を支援する和歌山音楽家音楽愛好家の会」が設立されて、音楽会の開催などを中心に支援 活動が続いた。困難を極めた募金活動であったが、同時に、外山先生たちは別荘建設の計画をし ている方々との話し合いを続けていた。その建設会社との交渉はまことに厳しく難しいことで、何度 話し合っても前進することにはならなかった。募金により土地の取得を目指していることも、すぐには 理解していただけなかったが、土地の取得を願って話し続けられた。こうして外山先生の苦心・苦労 は、いくつもの局面に対峙しながら進んでいった。それはまことに大きな困難であり、筆舌に尽くし難 いことであった。
別荘予定地の取得と行政の支援
外山先生は繰り返し丁寧な説明や折衝を続けて、別荘予定地は本会が取得する方向への理解 をいただき、数回に分けて取得して、1985 年に完了した。この時は、会をあげての大きな喜びとな り、地権者はじめご寄付いただいた皆さんに心から感謝した。そして、「天神崎の自然を大切にする 会」と「天神崎保全市民協議会」の二つの会は、「天神崎保全市民協議会」を解消し、その後は「天 神崎の自然を大切にする会」として活動を続けることになった。また、土地取得の関係もあって財団 法人として県知事から認可をもらった(1986 年)。続けて別荘予定地以外の天神崎丘陵地の森林 の取得を目指した。この経過の中で、県としても天神崎への支援が始まり、保全地の確保のため田 辺市への助成金を出し、田辺市も資金を負担して土地の取得を続けた。また、こういう団体に対す る国の税制度も変わり、公益増進法人(通称ナショナル・トラスト法人)として認めることになり、本会 はその第 1 号になった(1987 年)。ずっと後になっては、法律改正により本会は公益財団法人とし て認可された(2010 年)。
未来に向かって
天神崎の運動は、初期の 10 年間余の時期が最も苦しい日々であった。財団法人となって以後 は、組織的にも確立し、理事・監事・評議員・事務局により運営をすることになった。土地取得や各 種の事業運営のための資金面では苦しい状況は変わらないが、会員はじめご寄付いただく皆様方 のご支援により、何とか運営を続けている。会員数は一時 2,000 名を超えていたが、今は 700 名 ほどに減っている。
地球のごく一部である天神崎ですが、「未来の子どもたちのために」という合言葉で、豊かな自然 環境を大切にしながら活動を続けています。今、天神崎でいろんな生物に触れてはしゃいでいる子 どもたちの姿は、この運動の大きな成果であり、同時に、私たちにとって力強い激励でもあります。 これまでの皆様方のご支援には心から感謝しています。明日のために、遠い未来のために、今後と も皆様方の温かいご支援を心からお願い申し上げます。 (文:本会相談役)
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