今年(2026年)は、外山八郎が1996年に亡くなられて30年目になります。地元田辺では、外山さんと直接つき合いのあった方が今なお多くおられるようですが、会の役員の中では、かなり少ない人数になってきています。『50周年記念誌』の中で、玉井済夫さんが「天神崎の保全運動を振り返って」の中で、「外山八郎について」と「あとがき」の中で書かれているものを、ここに掲載します。
(1) 外山八郎
〈生い立ちと生活〉
外山八郎の父は南部町(現在 みなべ町)に住んでいて、八郎は 1913 年(大正 2 年)に南部町で生まれた。5 才から家族は東京で生活をして学校も東京だった。兄弟が非常に多く、兄の五郎は大岡昇平さん(作家)と親友で、大岡さんはよく外山の家に遊びに来て、八郎とも知り合った。その時のことを大岡さんは、「少年」(自伝)に書いている。東京の外山家は新宿区で、当時はかなり自然が残っていて、雑木林もあり散策もできた。
東京帝国大学法学部を卒業して三菱海上火災保険(株)に就職した(1937 年)。その年に肺結核を発病して退職し、白浜温泉(白浜町)で療養した。よくなってきたため東亜研究所(東京)へ勤めたが、結核が再発したため、父が家を持っていた田辺市の天神崎へ来て、療養した。天神崎の森を散策し、磯を歩いて過ごした。発病してから10 年ほど後に、結核は快方に向かった。
食生活には大変注意し、家庭菜園で「のぶさん(奥さん)」と共に野菜を育て、山羊を飼ってその乳を飲んでいた。外食は全くしないで、いつも手弁当で、家で焼いた黒パン(その中には 10 種類余りの野菜・果物・山芋・海藻などを刻んだものが入っている)と野菜で、ブロッコリー・キャベツ・レタスなどがたくさん入っていた。ご飯は玄米食だった。
〈田辺商業高等学校(現 神島高校)について〉
1948 年(昭和 23 年)に、新制高等学校になった田辺高等学校(商業科)の非常勤勤務となり、1956 年に商業科は独立校として田辺商業高等学校(現 神島高校)になり、そこで教諭として定年まで勤めた。授業は 「商業法規」 などを担当し、生徒にわかりやすく教えたそうである。そして、2006 年に校名が変わり、神島高等学校になった。校章は、神島(国指定天然記念物、南方熊楠が研究し保全)に自生するハカマカズラの葉をデザインしたものである。
〈渚の埋め立て〉
田辺商業高校は校地(運動場)を出ると田辺湾の奥にある渚であり、その砂浜は運動クラブにとって格好のトレーニングの場であった。外山もこの渚でカウンセラーとして生徒と話をしていた。毎年、一年生全員の遠泳(3,000 m)の行事があり、この砂浜を出発して沖にある神島を回って泳いだ。学校を挙げての行事で、先生方の有志も参加した。この砂浜は同校にとっては校地外であるが、貴重な教育活動の場であった。
ところが田辺市の方針で、この砂浜は埋め立てられることになり、国(運輸省)も了解し、補助も内示された(1970 年)。それを知った同校の生徒会は「海が消える」と言って埋め立て反対の決議をして市に訴えた(1973 年)。職員の多くも同じ考えであった。しかし、市の計画・方針は変わらず、埋め立て工事が始まった(1976 年)。生徒たちや先生方が、これを知るのが遅かったのである。生徒・職員にも、外山にも予想外の早さで事が進行し、学校にとってはまことに苦い経験であった。外山は、「生きた自然の中で学ぶとき、一面的な尺度で人間に優劣をつけたり、一喜一憂している愚かさを反省させられる」と言う。後になって、外山はこの経験を天神崎の保全運動に生かそうとした。
(2)外山の自然観と教育観
外山は自然や生物に対して常に興味や関心を持っていたわけではない。それでも、自然の大切さはいつも考えていた。戦後の経済発展により、自然環境がなくなっていき、子どもたちの成長過程において自然が遠のき、自然と触れあうことが少なくなり、いわゆる「勉強」への方向が強まり、「偏差値」が重んじられた。子どもらしい成長を阻害している、と思っていた。自然を残して、子どもたちがその中で成長することが、「教育の原点」だと考えたのである。
学校ではカウンセラー(生徒指導)として課題を抱えた生徒に対応していた。生徒の中には、教科書を持ってこない、授業中は態度が悪く授業を妨害する、学校施設を傷めたり暴力を振るう者もあり、謹慎や停学などの処分を受ける者もいた。そういう生徒と話をするのに、よく海辺や森の木立,景色のいい丘など選んでいた。そこで何度も話をした。生徒の日常の姿を非難したり、怒ったりはしない。むしろ校則や規則、社会通念などを疑い、子どもの成長過程を重んじようとした。外山を避けようとしていた生徒が、やがてだんだんに外山の言葉を自分に重ね、立ち直っていく生徒もあった。こういう時、外山は、生徒が立ち直ることになったのは、この周囲の自然の力であり、「自然の持つ教育の力」だと信じた。それが自然を大事にする考えと繋がり、天神崎保全への熱い思いになった、と言う。
そういう生徒の一人に石橋啓佐さんがいた。外山とは何度も接したが、うまくいかず高校を退学し、東京で仕事についた。それでも外山は彼の就職の世話をし、手紙を書いたりした。その後、彼は田辺に帰り、介護の仕事に就いた。外山に恩返しをしたいと思い、天神崎の理事にもなった。外山が最後の床にいた時は、外山から目を離さず介護を続けた。
別荘群建設予定地の取得ができて二年後に、外山は「草の根運動による天神崎保全 13年の歩み」という演題で講演している。この講演では、自分の経歴や健康回復、高校教師・カウンセラーの経験、天神崎保全運動との出会い、別荘群建築会社とのやりとりなど、多くの方々の温かい支援などに触れながら、その中で自然観や教育観について語られている。
(3)信仰 ・・・ 日本基督教団田辺教会(田辺市上屋敷町 )
運動初期の 12 年間が最も苦しい期間で、その間、別荘予定地の地権者との交渉が難題であった。それは尋常なことではなく、激昂した地権者に、いつも静かにていねいに応対し話しをして、今後の対応を説明された。納得されたわけではない。それは「筆舌し難い」ことであり、その苦しさを背負った。「一人で」と言っても過言ではなかろう。
フランスの神学者であるジャン・カルヴァンは、キリスト教宗教改革初期の指導者であった。カルヴァンは、「ジェネーブ教会信仰問答」を出版した(1545 年)。この書(フランス語)はヨーロッパ各国で翻訳出版された。日本では、ずっと後になって、学生であった外山八郎が翻訳出版した(1837 年)。その外山の出版によって、日本では広く普及されることになり、非常に高い評価を得ている。
外山は、田辺に来てからは、自宅に信者が来て聖書を読む家庭集会をずっと続けた。天神崎の運動が始まってからも、日曜日の午前中は日本基督教団田辺教会で礼拝があり、天神崎の活動は他の方々にお願いしていた。
キリスト教に強く支えられていた外山は、神様から『この荷物をしょって行け』と命じられたと言う。別荘予定地の全てが取得できた時は、神との約束を果たしたことになる。この時には、12 年間の募金額は累計 2 億 5 千万円を超えていた。
多屋好一郎は、外山と同じキリスト教会に所属していて、外山と行動を共にすることが多く、地権者との交渉にも同席することが多かった。市内でガラス店を経営していて、明るい方で、常にいろんな面で外山を支えていた。
あとがき
保全運動の初期の頃は、田辺市の中央公民館の一室で、関係者の打ち合わせや相談をしていた。まだ事務局はなく、外山自身が事務局だった。この公民館の建物は今も健在であるが、民間の管理となっている。
外山は、実に多くの方々と交渉やお願い・相談・打ち合わせなどをした。別荘群建築を計画していた地権者だけでなく、行政(県・市)・身近な方々・全国各地の支援者など・・・・。よくこれだけの方々に会い、ことの詳細を間違いなく進めてきたものだ、と思う。小山周次郎[天神崎の自然を大切にする会ができたときの会長]は、地権者との話し合いに外山と共に何度か同席している。小山は、「運動が成功したのは、外山先生の熱意と人柄による。」と述懐している。ことの成就は、大抵は、道理に準じる筋道に寄るが、あるいは「人による」とも言われる。ある方は外山を評して、「外山は人間的に純粋で、子どもに大人の着物を着せたようだ」と言っている。
外山は 1996 年(平成 8 年)1 月 19 日に亡くなった(82 才)。本会は「外山八郎をしのぶ会」を紀南文化会館で開催して、外山をしのび、ご冥福を祈り、長年にわたって続けられた辛苦・苦難に感謝した。多 くの人々がお別れに来た。皆さんの中には、外山の生き方(行き方)に異論のあった方もいると思う。しかし、多くの皆さんは外山を信じて何も言わずに共に行動した。
【中略】
本書では保全運動を振り返りながら、外山八郎像も述べた。外山を説明しなければ、この運動が分からない、と思う。しかし、運動の経過と外山については、いずれもそれらを記すことは、筆者には至難の業である。参考にした既存の図書・資料は巻末に記した。筆者の力不足には、どうか容赦願いたい。