芭蕉さんは、平泉で「盛者必衰のはかなさ」を描いたんだね。三代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏。彼らが大きな城を築き収めていた土地も、今やくさむらになっている。一方で、もともと山や川はずっと変化していない。自然の永続性を前にして、人の営みは本当につかの間のことだ。
この様子は杜甫の「春望」に重なって、芭蕉さんは涙を流した。
「夏草や兵どもが夢のあと」
夏草が茂っているのを見て、この地で散っていった兵士たちのことを想像しながら詠んだんだね。
あと、ここでも、「夢」が出てくるね。夢ははかないものの例えとしてよく使われるのかな。
和歌でも「夢」という言葉はよく出てくるね。例えば、「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを」という小野小町の和歌は有名だね。「あなたのことを思いながら寝たから夢の中で会えたのかしら。夢だとわかっていたら、目覚めなかったのに」という恋の歌だ。
この小町の和歌のように、夢の中、つまり非現実のときだけは、好きな人に会えるという考えから生まれた和歌はとても多い。「恋わびてうちぬるなかに行きかよふ夢のただぢはうつつならなむ(恋に悩んでうたた寝したときに行き来した、あなたの元へ続く真っ直ぐな道が本当にあったらいいのにな)」「うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき(うたた寝で好きな人にあったときから、夢というものに期待しちゃっているわ、私)」などがある。
夢では好きな人に会えるということをひねって、「夢にだに見で明かしつる暁の恋こそ恋のかぎりなりけれ(夢にさえ見ないで明けてしまった暁の恋こそ、この上ない恋なんだよな)」と詠んだ和泉式部や、「住の江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人目よぐらむ(住の江の岸に近づく(よる)波ではないが、夜の夢のなかでさえも、あなたは人目を気にして会ってくれないんだね)」と詠んだ藤原敏行は、最高だ。
さらにいうと、夢と現実の境目をあいまいにとらえた荘子の「胡蝶の夢」という話も面白い。この考え方からは、「世の中は夢かうつつかうつつとも夢ともしらぬありてなければ」という素敵な歌も生まれているよ。興味があったら調べてみて。
「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」
卯の花を見て、義経に忠誠を誓って戦い抜いた白髪の武将「兼房」を思って詠んだんだね。三句目の「白毛かな」は、「春望」の「白頭掻けば更に短く」から連想されていますね。
「夏草や」と「卯の花に」の関係を考えてみましょう。ただ単に、師弟の俳句だから並べて書いてあるわけではないんです。もっとすごい工夫があるんだ。
芭蕉さんの俳句は「夏草や」。曽良の俳句は「卯の花に」。共通点がありますね。何でしょう?