高柳美知子

思い出7-9

思い出すことなど 7 高柳美知子


久方ぶりのペンをとるにあたって、 1~6までを読み返してみました。何としたこと、その多くは、私自身がまだ生まれていない頃の話ではありませんか。それでは「思い出すことなど」の「など」の方に重みがかかってしまっています。そんなわけで、今回は、私自身が兄と直接かかわった「思い出すこと」を書いてみることにしました。


私が兄と直接かかわった場面は、大きく四つに分けられます。第一の場面は、私達きょうだいが生まれ育った大塚仲町の家です。第二の場面は、群馬の福寿院での疎開生活。第三は、戦後の埼玉の戸田の家。そして第四は、同じく戸田でのあっ子さん、ふーちゃんを交えての生活。それでは、第一の場面から、記憶の糸を手繰ってみることにしましょう。


[・・・・・・僕が生まれた小石川の大塚仲町というところは、そのころ十五区で構成されていた東京市の北のはずれで、そこから山手線の大塚駅ヘ向かって数分も歩いてゆけば、もう、郡部に入ってしまうのであった。当時の大塚仲町は、その大塚駅に至る道だけが平坦で、それ以外は、東が氷川下町、西が大塚坂下町、南が大塚窪町と、いずれの方向へ向かう道も、みな地名が示しているごとく、かなりの急坂となっていた。そして、その東西と南北ヘ走る二つの道の交文するあたりの土地が、一番の高台となり、そとから西の方角を眺めると、よく晴れた日には、遠く富士山の姿を見ることが出来た。 (「大塚仲町」『高柳重信全集Ⅱ 』)]


私が生まれたのは兄の八年後ですから、区の数は十五区より多くなっていましたが、もとより仲町の地形に変わりはありません。こうして書き写していると、三方にひろがっていた坂道と、そこに居並ぶ店の様子や行き交う人々が、古びた活動写真のように写し出されてきます。同じく『高柳重信全集Ⅱ』に載っている「ダルマサンガコロンダ」「スイライ・カンチョウ」「密書ごっこ」の舞台となった五五番地は、氷川下側の坂を右に下りて二つめの横町です。我が家はその横町の奥の方にありました。どういうわけか、我が家の前だけ盆地のように広くなっていて、子供達の格好の遊び場でした。紙芝居をやるのも、飴細工やさん、金魚やさんなどが足を留めて、お庖を広げるのも同じく此処。いえ、子供達だけではありません。祖父信五郎が会長を務める町内会の行事、例えばお祭りの御輿や、出車のスタート地点であり、蝿取りデーの集約地であり、防空演習場であり・・・といった具合です。


私がものごころ付く頃は兄は中学生で、すでに横町のリーダーを卒業しておりましたから、その名指揮ぶりを直接に見聞きする機会はなかったのですが、五五番地での兄の呼び名は、他の同世代の友達が「セイちゃん」「ミッちゃん」とちゃん付けであるのに対して、なぜか「シゲノブさん」と、さん付けであったことから察して、兄の一自の置かれようがわかるというものです。兄はもともと華奢な躯付きでしたから、一目置かれるとは言っても、腕力で他を制する、いわゆるガキ大将とは違っていたようです。兄が五五番地を制した秘密を、隣家に住んでいた従兄弟のアーちゃん ( 昭 ) は、次のように語っています。「思い出すことなど」の2で、以前にも引用したのですが、ここでもう一度登場してもらいましょう。


[・・・・・・重信さんは、両家の子供達のボスであり、近所の遊び仲間のリーダーでした。余り腕力が強くなかった重信さんは、子供仲間の、遊び創りの名人、演出者、そして参謀長として君臨していました。ですから五十五番地の子供達は、よその子供達とは一味違った重信式遊びを持っていました。お正月の羽根突きは、バレーボールとパトミントン (当時パトミントンはまだありませんでした)をミックスした遊びかたをあみだして技を競い合いました。ネットのかわりに塀から塀ヘ綱を張り路上コートにはサーブエリアの白線も書きました。そして羽子板から左手で羽根を一度だけトスして打てる新ルールを創り、羽根もシャトルのように改造しました。


また重信さん、は本物で遊ぶことが好きな兄貴でした。弓矢遊びには本式の弓矢を使い、藁を束ねた的を造って遊びました。手には革ひもがついた手袋をはめ、矢の番え方や正式な作法も教えてくれました。当時の子供達にとって、見たこともないラクビーゲームも遊びの一つでした。大塚公園の広場で、本物の革ボールを使って回転させないでパスする方法やランニングパスを習いました。そしてラクピーはボールを前へ投げると反別であることや、得点の数え方も教えてくれました。


重信さんは、物凄い物知り博士で、今でいうシミュレーションゲームを創ることも上手でした。日本海軍とロシア海軍の全艦隊をボール紙細工で精密に建造しました。軍艦の型は勿論のこと艦名や排水量、大砲の大きさや数まで克明に知っていて、畳の上に日本海海戦を再現して遊びました。・・・略・・・それにつけても重信さんの遊びは、道具立てが賛沢で、物持ちのお大尽で、子供心にとても羨ましく思ったものです。そこには、底なしに親馬鹿だったおじさんの重信さんに対する大きな期待と思いがあったように思います。(追悼遺稿文集「いまひとたびの」より)]


兄の本物指向は遊びだけでなく、様々な場面に顔をだしていますが、これは従兄弟、がいみじくも指摘しているように、「底なしに親馬鹿だったおじさん」、即ち、父市良の影響であると言えましょう。我が家は別に資産家でもなんでもなく、一介の小市民にすぎません。兄が、子供の分に過ぎる遊び道具や、文房具をもっていたのは、父が本物好み、一流好みの趣味と教育観、大袈裟に言えば哲学を持っていたことのせいであろうと思います。これは他のきょうだいに対しても全く同じで、クレヨンや色鉛筆などを買うときに、私などが子供心に親の懐具合をはばかって12色のものを選ぼうとしていると、だまって24色に取り替えてくれたものでした。父は花柳界などに通じた人で、外に向けては所謂通人の顔を多く見せていたのでしょうが、子供達に対しては、とてもとても甘い父親でした。「市良はほんとに子煩悩で・・・」は、祖母が父を語るときの決まり文句です。こうした父を、弟の年雄は、次のように書いています。


[・・・・・・父は、優しい子煩悩で、また教育熱心な人でした。四人の子供達にかなり高尚な子供向きの文学書をまめに買って与えました。神保町の三省堂によく子供達を連れていき、文房具を買ってくれました。小学校の教科書全部に、設計図用の古い青写真の紙で、丁寧に、これもまた見事に表紙をかけてくれました。また、よく都内の有名な所に連れていき、その歴史的なことを話してくれました。それも非常に詳しいことをよく知っていました。また、よく食べ歩きもしました。どこのなにが旨いとか、あそこはなにが専門の店だとかよく知っていました。(「いまひとたびの」より)]


私が思い浮かべる父の像も、弟と全く同じです。実に良く子供達を連れだしたものでした。潮干狩り、海水浴、靖国神社の例祭、明治神宮、乃木神社、紀元二千六百年の大パノラマ、プラネタリュウム、映画、それから兄の通学していた府立九中の運動会にも行きました。ときには、花街の料亭で芸者さんやたいこもちを招いての豪遊も--。土曜日の夕方は、子供達をひき連れて、大塚駅まで散歩です。当時の大塚駅近辺は、今の池袋よりずっと賑やかでした。天祖神社の縁日をひやかしたり、白木屋デパートで買い物をしたり・・・・・・そして最後は、駅前の山海楼で一休み。


父と子供が連れ立って歩く中に、勿論、長兄の重信もまじっています。ほとんど同じ背丈を仲よく並べて歩く父と兄の姿は、我が家では至極当然の風景で、当時はなんの不思議も覚えませんでしたが、こうして思い返してみると、あの睦まじさは、普通以上のものがあったと思えてなりません。思春期、青年期となれば、父と息子の蜜月は、すでに終わっているのが普通です。重信は父の二〇才の時の子供。年が近いと言うこともあったでしょうが、文学青年であり、俳人であった父とすれば、長男も文学青年、おまけに俳句までつくるとあれば、他の子供達とは一味も二味も違う思いを寄せていたであろうことは想像に難くありません。兄にしても、その思いは同じであったでしょう。兄の少年の頃を回想したエッセイには、祖父が登場することはあっても、この父は姿をあらわしません。兄特右の照れなのか、あるいは人生の後半におきた父との確執のせいか知る由もありませんが、私からみれば、父市良の及ぼした影響は多大のものがあったと言えましょう。兄の処女句集『蕗子』の扉には〈父に献ず V と記されています。


さて、私と兄との直接のかかわりを書くはずが、父と兄のかかわりになってしまいました。しかし、これも仕方のないこと。兄の記憶を引き出そうとすると、父や他のきょうだい達が一緒に浮かび上がってきてしまうのです。こういうのを「家族の肖像」というのでしょうか。家族はあっても家庭はないと言われている現代の地点から眺めると、この肖像画はちょっとばかり泣かせます。懐かしついでに、「家族の肖像」をもう一、二枚ならべてみましょう。


お正月のカルタ会も、我が家では恒例でした。札の読み手は母です。家族の中では、いつだって黒子の役に徹している母が、この時ばかりは、細い、やさしい声で上手に抑揚をつけて読み上げていきました。一番の取り手は父です。二番目は兄、私の持ち札は、国語の教科書で覚えた「ひさかたの」の一枚だけでした。


おこたの上で、花札もよくやりました。これは百人一首より易しいので、私もけっこう父や兄に交じって遊んだものです。そう言えば、マージャンも家族でよくやりました。長じて、このことを人に話したところ、「えっ、家族で花札やマージャンを・・・」と、驚かれてしまいました。花札やマージャンのイメージが家庭に馴染まず、おまけに非常時の戦中生活では、驚く方が普通であるのかもしれません。こんな具合に、父の教育熱心さは、今日言うところの所謂教育パパ的なものとは、全く違ったものでした。学校の成績表については殆ど無関心と言ってよく、これならうんと褒められていいはずの通信簿を、父の帰るのを待ちかねて差し出しても、さしての反応もありません。教育パパ的と言えば、祖父の方が、ずっとそれに近かったのではないでしょうか。


[・・・・・・護国寺の境内や、それに続く雑司ガ谷の墓地には、いろいろと有名な人たちの墓があり、たしか大限重信の墓もあって、小学校へ入学する頃まで、そこへ行つては頭を下げるのが僕の日課のようになっていた。おそらく一種の政治狂であった僕の祖父はその孫たち全員に著名な政治家と同じ名前をつけ、それにあやかるかたちで一人ぐらいは政治を志す者が出て来ることを期待したらしいから、幼い僕を連れて大隈重信の墓ヘ日参するのも、適切な早期教育になると考えていたに違いない。 (「大塚仲町」『高柳重信全集Ⅱ』より)]


祖父信五郎が亡くなったのは、たしか私が小学校の二年か三年の時だったでしょうか。と言うことは、兄は中学三年生か四年生。盛大なお葬式でした。御焼香の人の長い列が、五五番地の横町から電車通りにまで伸びていました。


「いまひとたびの」とは(蕗子追記)

父は近親者にとって誇れる人物でした。

叔母の「思い出すことなど」は、父とこの世で出会えたことがうれしく、ともにすごした思い出のなかの自分も、その他の登場人物も、すべてが特別味わい深いシーンの中にあるかのような、そんな書き方になっています。

文中に出てくる「いまひとたびの」は、父の一周忌に配った小冊子です。

父の葬儀にはたくさんの俳人にご参列いただき、また、著名な俳人の方々から立派な弔辞もいただきました。その後は雑誌で追悼特集が組まれ、さらにたくさんの方々が、父について書いてくださいました。

遺族にはそれがほこらしく、とてもうれしいことでした。が、心のどこかに、これでは「俳人 高柳重信」だけだなあ、という気持ちがわいてきてしまいました。

「ねえ、一周忌のときには、ちょっとは家族パワーを見せようよ!」

と、叔母と相談して作った小冊子が「いまひとたびの」です。

父の一周忌は、祖母の三回忌、祖父の七回忌だったかなにかで、祖父祖母の思い出もあわせて、高柳家追悼特集号(?)みたいなものになりました。

叔母だけはそのときすでに本を出版していましたが、父のその他の兄弟、従兄弟や私は、それまで人に読んでもらう文章を書く機会がほとんどありませんでした。

にもかかわらず、誰も書くのをいやがらなかったところをみると、「俳人さんたちに負けずに、私たちもちゃんと弔意を形に残したい」という不思議な対抗意識(なんだか滑稽ですが)が、父の兄弟や従兄弟にまで少しあったみたいです。

しろうとにまで追悼文を書きたい気持ちにさせてしまう。ここにも父の、一族の中の位置や影響力があらわれていると思います。


思い出すことなど 8 高柳美知子


この十年、杳として行くえ知れずのあつ子さんが(戸籍上は篤子ですが自身は平仮名を使うことを好んでいたので…)、今年(1992)の春突然、私達の前に姿を現したのです。ニューヨークのアドレスに手紙を出しても、電話をかけても一向に通じず、折やにふれては、「なにか事件に巻き込まれたのではないかしら」 「そうかもしれないねえ」などと、気の重い会話をふーちゃんと交わしあっていたのでしたが…。ふーちゃんの第二歌集『回文兄弟』は、そんな中で発行されました。あつ子さんが昔書き残した絵が装丁に使われ、「そしてママに-」の献辞も付されました。本当は「ママに」の上に「行方不明の」の言葉を冠したいところだったのです。


前号の「夢幻航海」の高柳篤子特集と今回のあつ子さんの出現とは単なる偶然の一致ですが、こうした偶然はなにか謎めいてたのしいものです。これを機に、兄をめぐる思い出の糸をあつ子さんのいる風景まで一挙に手繰ることにしましょう。


あつ子さんが戸田の家を訪ねてくるようになったのは、昭和25年ではなかったでしょうか。街の様子も、人々の暮らしぶりも、まだまだ「戦後」の名がぴったりの頃でした。私は兄の出身校である早稲田大学をめざす18歳の浪人生。あつ子さんは確か私より1歳上の19歳。そして兄は27歳。


狭い家を少しでも広くと、廊下の帽を広げて作った俄か仕立ての板の間の部屋の片側に兄の本棚、もう片側に私の勉強机がありました。畳の部屋とは障子で仕切られていたものの、普段はほとんど開けたままにしてあったので、兄のお客が見えたときも、私はそこに同席しているような形のままで机に向かっていました。といっても、勉強はほとんど上の空、兄たちの会話-いつの場合もしゃべるのはたいてい兄の側でしたが-についつい耳傾けてしまうのでした。

(実は、兄が友人と議論するのを聞くのは、小さい頃からの私のひそかな愉しみ事でした。大塚仲町の家では、兄の部屋は二階でしたから、暗い階段にこっそり身をひそめてしか聞き入ることができなかったのに、戸田の家では、さりげない形でその場に居合わせることができたのは幸いでした。)


兄の訪問客の常連は、なんといっても加藤元重さん、そしてあつ子さん。桜色の両頬に浮かぶ小さいえくぼ、二重まぶたのくりくりした目、甘くやわらかな声-大輪の花が咲いたような明るさを運んで来るあつ子さんの出現は、私にとっても、いや家族すべてにとって大きなときめきでした。


実は、兄には中学時代から親しくしていた女性がいました。長谷川千代さんです。細く美しい字で綴った千代さんの手紙を兄はきちんとスクラップにして大事にしていました。東洋女学校から女子師範にすすんだ女性で、戸田の家にも何回か訪ねてこられました。あたたかく、ひかえめな千代さんが兄の結婚相手であることは、我が家の暗黙の了解事項でした。とりわけ、男兄弟ばかりの私は、聡明で優しい姉を迎える日をいそいそと待ち望んでいたのです。しかし、それは挫折におわりました。早く父親を亡くした千代さんを親代わりになって面倒をみていた長兄(当時、東京選出の社会党代議士が、肺を病む無職の男に嫁がせるわけにはいかないと反対し、別の男との縁談を準備してしまったのです。勿論、正義派の兄が、そんなことで引き下がるはずがありません。とはいえ、「肺を病む無職の男」に違いはなく、兄と千代さんの場合もまた、こうした設定の男と女が辿るべくして辿るドラマの筋書きをくぐって閉幕となったのでしょう。


この出来事は、兄はもとより、家族の者にとってもせつない体験でした。当時、高校生であった私は、「ニーチェの妹たらむ」とひそかに決意を固めました。ニーチェの妹は、 その生涯を兄の面倒を見ることに捧げたという…ならば私もまたの思いであったのです。当時はひどい食糧難でした。兄に少しでも栄養のあるものをと、学校から帰ると、自転車に飛び乗って隣の蕨町まで卵や肉を買いあさりに走り回りました。少しでもおいしく食べてもらいたくて、料理の本と首引きでホワイトソースやコンソメスープ作りに腕をふるいました。私があれほどに料理作りに一所懸命になったのは、後にも先にも、あの時をおいてはありません。


あつ子さんの出現で、「ニーチェの妹たらむ」という私の志は、あっけなくついえさることとなりました。正直いえば、心の奥深い所での寂しさが無いわけではなかったのです。しかし、あつ子さんの天性の魅力(才能といった方が正確かもしれません)は、兄だけでなく、私をも魅了せずにはおきませんでした。私の目に映る兄と千代さんは、成るべくして成る平穏で静謐なカップルと映りましたが、兄とあつ子さんの場合は、未知なるものを学んだどきどきするようなドラマを感じさせました。


案の定、あつ子さんが我が家の一員になるまでには、一波乱も二波乱もありました。波乱の元は、千代さんの時と同じで、兄が生活力のない病人だということでした。あつ子さんは三人姉妹の末っ子で、その下に弟が一人おりました。お父さんを早く亡くしたので、お母さんが苦労して子ども達を育てたと聞いています。生活の苦労を身に染みて知っているあつ子さんのお母さんから見れば、「肺を病む無職の男」の存在は許しがたいものと映ったことでしょう。加えて、あつ子さんの義兄にあたるエリート社員(一番上の姉の夫)が保護者気取りでいろいろ横槍を入れてくるようで、あつ子さんはとうとう軟禁状態にされてしまったのでした。幽閉のあつ子さんの救出をめぐって、兄と加藤さんとの間ではいろいろと作戦が練られたように聞いています。その脱出の模様は、当の加藤さんの筆におまかせすることにいたしましょう。


脱出後のあつ子さんをどこに匿うかは、私達の父、市良も多分一枚噛んでいたのではないでしょうか。いや母も祖母も、その計画を知らされていたように思います。憔悴したあつ子さんが兄に連れられて現れた時に、祖母が甲斐甲斐しく生卵を飲ませていた姿が今でも鮮明に思い出されます。私はといえば、事の成り行きを固唾をのんで見守るばかりで、相談に預かることなど少しもなかったのですが、二人の秘密の行く先が従姉妹のしーちゃん(中島静子)の嫁ぎ先(深谷)であることは、しっかり嗅ぎ取っていました。(いずれ はしーちゃんからその時のことを聞き出したいと思っているうちに亡くなられてしまい、悔いが今でも残っています。)


思い出すことなど 9 兄、高柳重信の留守 高柳美知子

(※掲載誌「夢幻航海」で「重信の留守」という特集をしたので、副題がついています。)

高柳の家族にとって「高柳重信の留守」とはなんだろうか。


大塚仲町の家で祖父母、両親、兄弟と一緒に暮らしていた項の記憶の糸をあれこれたぐりよせてみましたが、ようやく思い浮かんだのは舞子さんの絵のついた扇子です。兄が修学旅行のおみやげに買ってきてくれたもので、長らくわたしの宝物の一つでした。しかし、修学旅行の期間、兄が不在であったとという実感は全く残っていません。わたしが小さかったからというより、物理的な留守は家族の不在にはなりえないということだろうと思います。


それは戦争中の群馬での生活でも言えることです。


母の実家(福壽院)での疎開暮らしは、最初は母、兄、わたしの三人でスタートをきったのですが、すぐに川越に疎開していた祖母と弟が加わって五人となりました。その後、兄が理研に就職をして前橋に行き、戦後は兄と祖母の二人が群馬に残ったりして、戦中から戦後にかけての兄の留守は結構長かったのです。しかし、このときもわたしのなかに兄の不在意識はありません。父が病気の息子のためにどこからか調達してきた進駐軍の缶詰を兄のもとに届ける役目はもっぱら妹のわたしです。浅草から東武電車に乗って填町の駅で降り立ち、あとはてくてくと武士(たけし)の親戚の離れまで歩いていくのですが、わたしにはそれはごくありふれた日常の暮らしの続きみたいなものでした。


戸田の家に兄と祖母が戻り、家族そろっての暮らしが久々に再開されました。といっても兄はほとんど寝たまま、加藤元重さんやあつ子さんが見えるときだけ起き上るという暮らしぶりでしたから、家族にとっての兄は〈ずっと家にいる〉存在でした。といって、けっして弱々しい存在としてではなく、高柳の家族の核、すなわち〈拠りどころ〉として位置づいておりました。


何幕かのドラマを経たあとに始まったあつ子さんとの結婚生活においても、兄は相変わらず高柳の家族の中心にいました。新居とはいっても印刷の仕事場と隣り合わせ、入浴も夕飯も親の家ですますといったその暮らしぶりは、高柳の側の者たちには、長男の嫁と孫が加わってにぎやかになったという喜びの意識しかありません。しかし、あつ子さんにとっては、相当な精神的プレッシャーであったろうと思います。表面的にはいつも両頼にえくぼを浮かべて明るく明るく振る舞っていたあつ子さんですが、ふーちゃんをつれて出奔した理由のひとつには、この大家族のなかにまぎれて暮らす苦痛があったであろうことは十分に察しられます。


しかし、二人の亀裂を決定的にした理由はほかにあったとわたしは思っていますが、それはすでに薮の中-。この事件が兄の人生にどんな意味をもたらしたのかについても勝手な推測の域をでません。ただ、高柳の家族にとってはっきりと言えることは、この事件を境にして、今まで核として存在していた重信の位置が宙に浮いてしまったのです。苑子さんと暮らすようになって、「重信の留守」は決定的になりました。その寂しさを母も祖母も口に出して語ることはありませんでしたが、大西民子さんの歌集『まぼろしの椅子』のように、高柳の家には「まぼろしの椅子」がぽっんと一つ置かれるようになったのでした。


今年は兄重信の十七回忌-。しかし、三回忌も七回も、十七回忌も、わたしにとってはその時間差が一向にぴんとこないのはどうしたことでしょう。思えばわたしは、ものごころつく頃から、少女期青年期にかけて、兄が書いた文を片端から盗み読み、兄が話した言葉を拾い集めるなど、兄の背中をみながら歩いてきたといってもいいすぎではありません。床に伏したままの生活を送る兄と一つ部屋に寝起きしながら、〈ニイチェの妹〉たらんことを決意してもいたのでした。


あつ子さんとの結婚で〈ニイチェの妹〉の出番はなくなり、苑子さんと暮らすようになってからは、兄と出会う機会は親戚の葬式ぐらい、俳句と無縁に生きて書たわたしであれば兄の俳句に関する文章を読むこともないままでした。今回改めて岩片さんの労作『高柳重信散文集成』(第一冊~第七冊)を通読して、わたしは兄の背中と再会する喜びを得たのでした。「精神的賎民」「挑戦」「真筆」「意志」「覚悟」「ひたむきな情熱」「志」「詩は志なり」「抵抗」「含羞」「矜恃」「ひたぶる」-目に留まった語彙を抜き出してみたのですが、実はこれは私自身の語彙でもあるのです。俳句の後は追わないできてしまったけれど、兄の思うこと、考えることはきちんと継承してきていることを確認できたことは嬉しく、また誇らしくもあります。


それにしても、土屋文明記念文学館における金子兜太の「高柳重信と私」なる記念講演は〈ひどい〉の一語でした。この破廉恥極まりない、まきに「精神的賎民」の発言に対して、からだを張って異義申し立てをしたのはわたしと蕗子のふたりだけ。肝心の俳人たちは、だまって通過させているだけというその「矜恃のなさ」にあきれはてたことでした。これこそ「重信の留守」というのでしょうか。


※蕗子追記

上記の件、場所は群馬の墓所も近いところ、命日の頃のことです。

仏壇に石を投げられた、と思いました。

金子さんの講演は、持ち上げるような言い方をしながら貶める、例えば「重信はカリスマがあった。今で言えばオウムの教祖だ」(当時オウムの教祖は日本一の大悪人でした)のようなことを、ずっと言い続けたのでした。一つならやや悪い冗談でしょうけれど、講演はずっとそればっかり、ちょこちょこ小石を投げ続けたのです。

最初のうちは、あとから抗議しようとメモをとっていましたが、途中から怒りで体が震えてそれどころではなくなりました。講演のあとで金子さんのあとを追いましたが、怒りとくやしさでぶん殴ってしまいそうなのをこらえて、

「卑怯者。もし順序が違って、今日講演するのが父だったら、もっとましな話をしただろう。」

と、やっとのことで絞り出すように言ったら、「先に死ぬやつが悪い」と言われました。

そのとき、叔母の美知子は社会運動の闘士で、ある意味語彙が豊富だったので、金子さんにどんどん言葉を投げつけていたけれど、でも、そんなありふれた使い慣れた言葉じゃだめだと感じました。ヒトコトでこいつが二度と立ち上がれなくなるような言葉でなけりゃ、と。

それから一週間ぐらい、涙がとまらないという初めての経験をしました。会社で仕事をしているときは少し忘れているけれど、トイレに行くなど一人になるともうだめです。電車のなかでもくやしさで涙が出てしまう。当時私は、かけだしの歌人で、『岩波短歌辞典』のいくつかの項目を書かせていただいていましたが、それが一字も、ほんとうに一字も書けなくなりました。どんなときにも言葉を失わずに自分の言葉で戦えなきゃいけないのに、全然ダメだったと、そればかり考えて。

ところで、父のゆかりの人たちは当日ほとんどいませんでした。「話の内容を予想して、嫌な思いをしたくないから行かなかった」んだそうです。それを平気でおっしゃることのほうに、当時はしんそこ幻滅させられました。

でも、あれから何十年もたち、私 はたいして強くならなかったので、人のいくじなしに幻滅する資格はなかったんですね。