高柳美知子

思い出5-6

思い出すことなど 5 高柳美知子


気掛りの種であった押し入れの整理を、つい先日、やっと済ませました。兄重信より八ヵ月程早く他界した母芳野の日記帳十数冊を入れた包みも顔を出したので、おそるおそる頁を繰ってみました。万事に控え目であった母にとっては、日記は唯一の自己表出の場であったに相違なく、とすればなおのこと、それをのぞき見ることはためらわれて、今迄、ぱらぱら、めくって見ることはあっても、刻明に字面を追うことは出来得ないでいたのです。母は兄のことをどう記していたのだろう・・・・・・、ふとよぎった思いに駆られて、大正十二年の日付のあたりを開けてみると、<坊や>の文字がちらちらと眼に飛び込んできます。


母のプライバシーを公開することにはためらいもあるのですが、兄重信の誕生の頃の生活周辺を浮かびあがらせるにはこれが一番、思いきって、写し取ってみましょう。旧かな・旧漢字は、現在のそれに置きかえ、注解の必要な部分は、その都度、( )して説明を入れることにします。


なお、念のため、兄の自筆年譜の「一歳」の頃は、次のように記されています。

「大正十二年一月九日、東京都小石川区大塚仲町五十五番地に生まれる。父は高柳市良、母は芳野。たまたま、年若い父の入営の朝であった。したがって、祖父の信五郎、祖母の豊子の手で、もっぱら溺愛されながら育った。」


さらに言えば、母が父の強引なプロポーズを受けて馳け落ちを敢行した日は、日記帳によると、大正十一年三月十四日―― 二人ともに二十の春のことでした。しかし、この恋の道行きの場は、たちまち暗転、嫁姑戦争の修羅場へと変わってしまいます。


* * 母、芳野の日記より * *


●大正十二年六月十二日 曇


気持のよい程今晩は白粉がよく伸びて綺麗に化粧もすんだ。坊やが泣きはしないかしらと心配しながら心せわしく湯から上った。ひんやりした微風が単衣を透して、初夏らしい涼しさを覚える。


夜の街をたくさんの人がそぞろ歩いている。みんな知らない顔ばかりだ。横丁に入った二階の窓からマンドリンの乱れた調子が流れてくる。


帰ってみると、坊やはまだ泣かないで待っていてくれた。十時半だ。父(信五郎)はまだお帰りにならない。縫いかけの羽織の袖だけを絎けて仕事は片づける。


新聞を広げたけれど、読む勇気も無い。「婦人公論」も半月も前に求めたまんま、一頁も読まずにいる。ああ、私はどうしてこんなにも以前とは異った人間になってしまったんだろう。


良人と別れてからの私はいい知れぬ淋しさの為に追憶に涙する日が多くなった。ふたたび返り得ぬ乙女の日よ、別れ去りし乙女の日よ。現在のあまりの平凡さよ・・・・・・味気なさよ・・・・・・私は胸をかきむしりたいようだ。不満だらけな灰色の毎日が慌しく暮れてゆく。これが人生なのか?乙女の日に憧れ描いた人の世はもっと美しいパラダイスのはずであった。


平凡でいい、慌しくともいい、充実した生活ならば・・・・・・只々私は、現在の窮屈さから逃れ出たいのだ。自分の心の働きを遠慮なく、存分に解き放って、貧しくとも充実した人間らしい日を送りたい。私の望む自由とは、決して放縦な享楽的な安価な自由では無いのだ。干渉の無い偽らない生活の人となりたいのだ。


今晩も眠くなってきた。動くペン先がぽんやりしてくる。十一時頃父帰宅する。そしてこのベンをおく。


●六月十八日


洗濯物を干そうと二階に上がってきた。

たそがれかけた街に赤い灯がチラチラと家並に滲んでいる。ああ、今日も暮れた。これが私の一日であったのか。なんと身すぽらしい今日一日であったろう。不快な不満な一日であった。


二階の窓に腰かけてヂッと考え込んでいたら熱い涙が滲み出して来た。少しも心に余裕のないせまい範囲の中にうづくまっている自分が可哀相になって来る。


私の心が幾分なりとも慰まれる時・・・・・・それは坊やに頬ずりをする時だけである。私から坊やを奪い去られたら、まあどんなに私の毎日は暗やみになる事であろう。


今日はお洗濯だけで一日を送ってしまった。姉様(伯母の中島つな子、前号シーちゃんの母)のお産が近づいたので、田舎から政子様(後に猫いらずで自殺)が見える。内心までわかりかねるが、随分幸福そうなお方だ。


●八月一日


夫から手紙が来た。本当に久し振りな手紙が来た。思いは何時か過去の乙女の日に返るまでになった。


ポストマンの足音に高鳴るハートを抱いたまだ世馴れぬ乙女のいじらしい姿がぼんやりと髣髴する。夫の便りはか弱い涙にうるんだ私の心に一撃を与えた。そして活き活きたらしめてくれた。


「待ってくれ、俺の帰るまでの辛抱だ」・・・・・・ああ、私は忍ばねばならない、生きなければならない、私の愛する人の為に・・・・・・凡てを捧げよう・・・・・・情深い夫持つ身の幸福さを・・・・・・今より以上の幸いのあるよう神に祈りながら坊やをしっかり抱いて十一時床につく。


●八月廿六日


八月の真昼の街をうなだれて運送夫は喘ぎつつゆく


母と坊やと三人で朝十時頃家を出る。夫の代参の為に深川の不動様と八幡様へ参拝する。


先日雨上りの泥濘の中で一寸踏みはずして痛んだ足が妙に歩きにくくて仕方がない。坊やは大方母が抱いて歩いたのでたすかったが、それでも暑くて汗みどろになってしまった。


深川へ着いてからとある家で中食をすまして一息ついた。八幡様の境内は可成広かった。豆をまいてハトを呼べばみんな集まって来て坊やはよろこんではしゃぐ。


夫の無事と坊やの安全を祈りそこを去る。又可成電車に乗る。どんな方面に電車が走ったのか私には一寸もわからなかった。電車を下りてから、だら

だら坂を上りきって少し歩くと赤レンガの兵舎が横たわっている。しばらく待って夫に面会する。私の胸の中は色々な複雑した思いで一杯だった。然しそれを一言も語らずに別れて乗るのは寂しい。悲哀を覚えずにはいられなかった。夕刻、帰宅。間もなく雷雨・・・・・・。


●九月八日


いい知れぬ恐怖にわななくハートを抱いているうちに八日になった。ようやく落ちつきかけた心を、時折り軽震がおびやかす。本当に一日から只々恐ろしい日の連続であった。

その日から今日にいたるまでの日誌を書きたいと思うけれど、とても私には書けそうもない。身も心もまだ、震えている・・・・・・。しかし、忘れようとして忘れ得ないことどもを、ともかくも記してみることにする。


●(九月一日)


未曾有の大強震は帝都を火の海と化し、遂に凡ては焦土となった。死傷者約七万五千。吁悲吁惨。二帖の部屋で姉様と標付をしていた時は正午十五分位前であった様に思われる。最初から可成の強震であった。地震に対して今迄恐怖というものを抱いていなかった人達故初めは只顔を見合せて静まるのをまっていた。然し止まらなかった。ますます強くなった。我慢にも座っていられなかった。今迄抱いていなかったある種の恐怖を抱かずにはいられなかった。


父母も姉も私もみんなうろうろと座敷の中をさまよっていた。茶箪笥の上に置いてあった筈の鏡台は何時の間にか座敷の真中へ投げ出されていた。棚の上から何だかはわからないけれど、がたがたと連続して落ちる音が聞えた。私はもう生きている心地はしなかった。私は坊やをしっかりと両手にかかえ込んで箪笥の側に佇んだけれど、とても安心していることは出来なかった。祈ったけれど振動は止まらなかった。


もう生命の断末魔だ・・・・・・坊やと二人で・・・・・・私は坊やをしっかりと抱きしめて只うろうろと座敷の中を歩きまわっていた。意識がぽんやりとしているまま何時か振動が止んだ。私はその間に表へ裏口から飛び出た。近所の人達も勿論みな外へ出て大騒ぎをしていた。第二第三の振動は続けて起きた。人々はもう生きている色はなかった。兎に角家に居るのはあぶないと言うので人々は皆電車道へ避難した。


軽微な地震は続いて何度となく起きた。避難の人々はその度毎に不安な暗たんたる想を面に浮べて顔を見合せていた。私達一家は、兎に角まだ危険だというのでH寺の庭に身を落ちつけた。一日は夕暮まで此のH寺の庭で暮し、おひるも食べることも出来ず少しばかりのパンで我慢することにした。


恐ろしい、真暗な夜が訪れた。電燈も灯らない暗黒の街に人々のささやく声が闇を通して寂しく聞えるばかりだ。夜は訪れても家に入ることは出来ず

、人々は皆外へござや戸板を敷いて身を休めていた。


その時であった。昼間夕立雲とのみ思っていた恐ろしい姿をした白い雲は、家を焼く煙であった事を知った。東の空一めんに赤くただれて火はさかんに家を焼き人を殺していたのであった。人々の心は少しも落ちつかなかった。時々振動するその度に、総身はふるえている。真赤に燃えている空を見ては、一晩中、只恐怖の中に千秋の思いで明かす。


夜明けになった。火はますます盛んに燃えているのであった


●(九月二日)


戦慄と恐怖との中に心がさまよい体が漂って二日も正午になった。家を案じて夫も帰宅する。心配していた夫の身も安全であった事が何より嬉しかった。可成の強震がまだ時々来る。


火事はまだ止まないらしい。黒煙が天を覆い、道行く人々は土色を呈し、本当に惨めな有様だ。辿りゆく所もなく只々安全な地へ着こう着こうと逃げて来る人々の群が絶えず此の往来をうごめいている。私は本当に見るに忍びなかった。悲惨といおうか・・・・・・惨憺といおうか・・・・・・私は千古の自分に返った様なある不思議な気分になってぽんやり電車通りへ出て灰色の空をながめていた。


いよいよあぶないというので私達も避難する事になった。一時頃だったかもしれない。坊やを背負っておしりまくりをして暑い日ざしを浴び乍らとぼとぼと人波をわけて避難の場所を探す時・・・・・・私はつくづく聖代の世もかく自然の力には覆されてしまうのかなと思ったら涙が滲まずにはいられなかった。


庚神塚まで逃げて来て草の原へむしろを敷き体を一落ちつけた。避難の人々が夕方になるにつれてだんだん多くなって来た。


あちらでもここでも鮮人騒ぎが始まったのはその頃であった。鮮人の仕業か時々暴裂の響音が脅え切っている人々を震えあがらせる。今日も日が暮れた。東南の空が又も赤々とこげている。火事はまだまだ猛烈を極めているとみえる。そんなに広くもない草原に避難の人々がみんな天幕を張り、家具や色々のものを運んで淡いローソクの灯の下に色あせた顔を合せて無事を祈っている。その夜の私は本当に疲れていた。


まだ宵であったかも知れなかった。坊やの側で帯を枕に横になって体を休めていた。火事も止まない・・・・・・。しばらく眠ったと思った頃であった。田舎の父の声がフト耳に入った。私は兎の様に飛び起きたかった。然し疲れ切った体は動く事さえ出来なかった。私は大きな安心を得てねむりに入った。


露営の夜は明けた。一晩の無事を喜び乍ら時には笑い声さえ聞えた。三日の朝、家内全部大塚の家へ戻る様になった。然し夜は警戒の為、着たままたたみの上へ横になっているだけであった。


●十一月三日

井戸端の日だまりにたらいを持ち出してお洗濯を始める。白い石けんの泡が冷たく手の甲に広がる。時々思い出したように赤くなったもみじがサラサラと肩のあたりに落ちてくる。ああ、とうとう秋も逝く・・・・・・。


秋を悲しみ秋を詠んだ乙女の頃が切実に恋しくなった。現実は・・・・・・自分は今、吾子のおむつを洗っている。ああ、彼の空想家であった私も子の母となって社会の渦の中に慌しい日常生活を営んでいる。こんな近い日の中に母となる事は夢にも予期していなかった私だったのに・・・・・・。お隣のT様から悲哀を含んだオルガンのメロデーが流れてくる。


夕日はかくれて道ははるけし

行末いかにも思いぞわずらう


乙女の日にひたすらこころの安息を願った私だった。その安息をまだ求め得ずにさまよっている自分が本当に可哀想になってきた。


夫も今日からいよいよ二年兵となる。過去一ヵ年の苦しい日を思い返す時、新たに入ってくる初年兵に対する態度を先ず一番初めに考えさせられている事だろう。そしてそんな事を思う時、又私も新しいある悲哀を覚ゆるのであった。嫁!!嫁!! それは軍隊においての新兵ではないかしら? 私は人妻として又嫁として、又母として色々の経験と試練を味わった。そして又自分の遠いい将来の姑としての自分を思い返す時、私は・・・・・・


(なぜか、ここで途切れている。多分、この後の部分は破り捨てたに違いない。)

* * *


いかがでしたか。貴重な紙面を大分埋めてしまいましたので、一応、ここでストップをさせましょう。母の葬式の日、親族を代表して兄重信が「女学生のような人でした。内気でつつましい人でした。晴れがましいことに無縁な母でしたから、こんなにたくさんの方々を前にして、きっと、びっくりしたり、はずかしがったりしているのでは・・・・・・」と挨拶をしたことを思い出します。こうして書き写してみると、そのオトメチックぶりに改めて感じ入ってしまいます。


それからもうひとつ、兄の作品「不思議な川」によると、関東大震災の当日、生後八方月の重信をしっかりと抱いて守った人物は祖父信五郎となっていますが、じつは母もまた胸に抱きしめ、背に負っていたことがわかります。まったく母の生涯は黒子のようであったなあと、ここでもまた確認させられたことでした。


※思い出す事など 6 は紛失していて、現在アップできません。