高柳美知子

思い出1-2

思い出すことなど 1 高柳美知子


「今にして思えば」という言葉がありますが、あれはやっぱり、「今にして思えば」としかいいようのないことに思います。


あれというのは、今は長兄重信も一緒に眠っている「高柳家の墓」のことです。高柳の家の墓地は、群馬県伊勢崎市の国領町にあります。すぐ近くを韮川が流れ、母の実家の福寿院という寺からは、歩いて十五分くらいでしょうか。事あるごとに墓参を欠かさなかった信心深い祖母とよが亡くなってからは、病身の母芳野が年に一度ほど帰省をかねてお参りする程度で、兄はもちろん、私にとっても、そこはまったく無縁の場所といっていいものでした。


「わたしが死んだら、お墓参りに行く人がいなくなって、仏様も淋しいだろうねえ」


日頃、病気をかこちながらも、彼岸の声をきくと、ついつい手まめにおはぎづくりに励んでしまう母は、そんなとき、持ち前の心細そうな面持ちで娘の私につぶやいてみせるのでした。「お墓参りに行ってね」といった口調では、けっして人に語れない気弱な母の気質を十分のみ込んでいながら、いや、だから余計に、自分の小意地の悪さを承知で私はいい返すのでした。


「死んだあとより、生きてる間が大事。それに第一、普段は思い出しもしないでいて、お彼岸やお盆にお墓参りすれば事足れりとするのは偽善的にすぎるわよ。死者はね、残された者の記憶のなかで生きていくものなの」


いつものように、母はそれ以上いいかえすことはなく、ちくりと小骨が突き刺さったような痛みだけが私の胸に残るのでした。といって、母が娘の高飛車な弁舌に屈服したわけでないことは、五十二年の夏に父市良 ( 俳号黄卯木 ) が亡くなったとき、次兄行雄をくどいて大宮の地に今はやりの集合墓地を買い求め、そこに納骨をするように話をすすめてしまったことをみてもわかります。


ちなみに、母は寺の三人姉妹の長女で、親の望む婿を迎えて寺を継ぐか、父との恋を選ぶかで思い惑い、結局は父の強引なプロポーズにほだされて駆け落ちをするという、明治の時代の輝やける〈自由恋愛〉の実践者です。


「おじいちゃんの強引さったらなかったんだから。指定の場所に時間通りに来なければ、以後絶交するって、赤インクで書いた手紙をよこイんだもの、泣く泣く家をぬけ出してそこに行ったら、そのまま、東京ヘ連れて来られちゃったんだよ」


晩年の母は、おちょこ一杯の酒でもう頬を染めては、孫のフーちゃん ( 蕗子・兄の娘 )を相手にそんな昔話を聞かせることがありました。もっとも、娘の私だけのときは、そういう話は気恥かしいのか、話すことはありませんでしたが・・・・・・。こうして二十歳で高柳の家に嫁いできた母は、婦人会の幹部をつとめていた気性の激しい祖母のもとで、壮絶な嫁姑戦争を数十年もくりひろげる羽目になるのでした。といっても、辛辣にいいたてるのはいつも祖母の方、母はただ無表情に黙りこくっているだけでした。母が亡くなったあと、押し入れの奥から出てきた十数冊の日記帳には、この祖母への深い恨みの文字が累々と綴られていて、ノートの間からすすり泣きがきこえてくるようでした。フーちゃんの血液型人間診断によれば、「おばあちゃんは、パパと同じ完全 B 型人間だよ。表面は負けているようだけど、結局、頑固に自分を守って変えることはないんだもん ! 」ということになるのですが、さて――。


話が大分それました。もとへもどすことにしましょう。


近くになればお墓参りに行くのでは・・・・・・との母の慮りもものかは、私はあいかわらず都合のよい持論を盾に親不孝をきめこんだままで過ごしていました。しかし思えば、重信兄の場合はさらにその上をいっていて、大宮の父の墓へはもちろん、昔ながらの群馬の墓地へも、おそらくは何十年と足を運んだことはなかったはずです。


それがどうしたはずみなのか、母のもとへ「墓地はやっぱり群馬の方が・・・・・・」と兄がいってきたというのです。しかも、自分から群馬ヘ出向いて、必要ならしかるべき手続きも自分でやるといっているというではありませんか。


戸田の家を出てからの兄は、私たちきょうだいや親戚とはすっかり疎遠になっていましたが、もともとは「長男のがんばり」的なものを十二分に持っていて、趣味人的なところの強かった父よりもよっぽど家長の風格で高柳の家に位置づいておりました。祖母と母のもめごとにも、逃げの一手をきめこむ父にかわって、兄はなくてはならぬ調停役でした。祖母と母の気持を上手にすくいとったうえで、事の理非を諄々と説くといったその説得ぶりは、大岡さばき顔負けの出来ばえで、かならず一件落着です。兄が肺を病むことなく、志どおり弁護士になっていたとしたら、さぞや正義と情と論理を兼ね備えた優秀な弁護士になっていただろうと思われてなりません。


日頃、疎縁の兄が、久々に長男の役で登場してきたことが私には無性に嬉しく、それではみんなで田舎のお墓ヘ行ってみようよ・・・・・・と、話はとんとんはずんで、母、私、弟年雄とその家族、フーちゃん、ユミちゃん ( 蕗子の息子、つまり兄の孫 ) 、さらには近所の知人まで加わった大世帯で群馬へとくり出して行ったのは昭和五十四年の春、うららかな日曜日のことでした。( 市良・芳野・重信追悼遺稿文集『いまひとたびの』に掲載の写真はこのときのものです。)


訪れる人の無くなった墓場はすっかり荒れて殺風景そのものでしたが、私たちはまるでピクニックにでも来たように、「やっぱり、お墓はこっちがいいね」「整地をして囲いをすればよくなるよ」「一つ一つ建てないで先祖代々之墓っていうのつくるといいわ」「この際、菩提寺も福寿院に変えれば」等々と大にぎわいの呈でした。


「卒業論文にぼくをとりあげる大学生がいるそうだよ。ぼくが死んだら、ここへ訪ねて来る者もいるかもしれないねえ」

皆につられて、兄がぽつりといいました。

「ヘーえ。そうお」

間のぬけたあいづちを返しながら、私はなぜかそのとき、六月の桜桃忌には、太宰の墓が若者たちで賑わうという話を思い出しました。

―― 兄のお墓参りに一番似合う季節はいつかしら。


改めて見まわすと、二株、三株、紫陽花とおぼしい枝が目に入りました。花の咲くときに来合せたことがなかったので、それまで気にとまらなかったものでした。


「命日は紫陽花の咲く頃にするといいわ。だって私、まだ一度もこの紫陽花の花、見たことないもの」


兄は、ちょっと笑っただけで何もいいませんでした。それから三年後の五十七年秋に母が亡くなり、翌五十八年の七月八日、兄もまた忽然といってしまいました。見違えるように整った墓地を弟が写真にとってきたので、私から兄に郵送して間もなくでした。己れの生命の灯を視つめながら生きていた兄は、そのとき、自分の終焉を予知していて、整いすぎてしまった墓地の写真に苦笑しながら、「命日は紫陽花の咲く頃に」の妹の言葉を思い出していたのでは・・・・・・。兄びいきの私の勝手な思いこみでしょうか。


そういえば、今年の紫陽花も、もう終ってしまいました。


(注:蕗子)

※これはだいぶ前に「夢幻航海」に連載された文章です。文中に出てくる紫陽花はもうありません。

群馬の雑草はものすごく元気がよくて、たまに行くと人の背丈ほどにも茂っているのです。 こりゃ本当に草葉の陰だ、と苦笑しながら墓地の草をすっかり抜いてビニールのゴミ袋につめたら、10個以上になってしまいました。

そこで除草剤をまいてしばらくして見に行ったら、雑草に効かずに紫陽花にだけ効いてしまいました。 それに、萩原朔太郎の詩にもあるように、群馬の地面にはやたら竹が生えて来ます。竹は雑草と違って手ごわいんですよね。

そんなこんなで、一時は「草むしり少年団」とか、みんなで草むしりを楽しんだ時期もありましたが、ついに群馬の草に根負けし、今は殺風景なコンクリートが敷いてあります。

思い出すことなど 2 高柳美知子


小石川区大塚伸町五五番地--私たち家族が住んでいた東京の住所です。大塚伸町の交叉点を駕籠町寄りにちょっと下って右に曲がったところの横町で、板塀や石垣など思い思いに巡らした家々が長く続いた奥の方にわが家はありました。ちょうど蛇が何かを飲みこんだように、わが家の前だけがほっこりと小さな広場になっていて、そこは横町の子ども達の恰好の遊び場でした。


「コイシカワク オオツカナカマチ ゴジュウゴパンチ タカヤナギノブゴロウ」


もの心つかぬうちから、祖父母のロうつしでくり返えしくり返えし覚えさせられたものです。迷い子になったときの慮りなのでしょうが、当人は上手上手とはやされるのが嬉しくて呪文よろしく唱えたものです。


「タカヤナギノブゴロウ」は、すなわち「高柳信五郎」で私たちきょうだいの祖父です。旧民法でいえば、高柳家の戸主。町会長や方面委員、私たちきょうだいが通った窪町小学校後援会会長などの名誉職をつとめる、まあ町の名士といったところの人でした。毅然としたところと、めんどうみの良さ、物腰のやわらかさが程良くミックスしていて、なかなかの大人であったようです。政治にも身を入れていて、孫たちに「重信」「行雄」の名を命名したのも、大隈重信、尾崎行雄にあやからせたい思いからでしょう。茶の間の暗い仏壇の中に、四角い位牌と並んで黒光った大隈侯の胸像がいつもどっかりと鎮座ましましていたせいでしょうか、後年、早稲田大学の校庭で例の銅像と対面したときは、なにか妙に人なつかしい思いがしたことでした。


さて、兄の重信もまた、例の迷子の呪文を唱えさせられていたことが、祖母や母の日頃のやりとりからうかがうことができます。


「重信はほんとにロの早い子だったねえ。ほら、家はどこって聞くと、コイシカワクオオツカナカマチゴジユウゴパンチって・・・・・・」


「そうそう、お父さんはっていうと、アカサカコノエレンタイって・・・・・・。隣りのシーちゃん(従姉の中島静子)は手が早くって、一緒の乳母車に入れておくときまって重信の方がたたかれたり、ひっかかれたりしてねえ」


地域婦人会の会長などをやっていた外交的で気位の高い祖母と、内向的で文学少女の母との、いわゆる嫁姑戦争はそれはすさまじいものでしたが、こと兄重信の話題では見事に意気投合してしまうのでした。


ちなみに、兄が高柳家の初孫としてこの世に誕生したときの家族は、熱烈な自由恋愛で結ばれた二十歳の若い父と母、ともに四十代で、おじいちゃんおばあちゃんと呼ぶには、これまたあまりに若い実力者の祖父と祖母、そして父の弟で大学生のやはり若い叔父--。木の香も新しい新築の家の中で、活気ある大人たちに囲まれて掌中の珠として大事に育てあげられた兄重信は、まさしく、高柳家の「寵児」といえるものだったのでしょう。


兄重信が、この大塚伸町五五番地の横町の子どもたちの間でどのようであっ

たかを、弟分としていつも行動を共にしていた隣家のアーちゃん(いとこの中島昭)は、つぎのように誇っています。


「・・・・・・余り腕力が強くなかった重信さんは、子供仲間の、遊びの創りの名人、演出者、そして参謀長として君臨していました。

ですから五五番地の子供達は、よその子供達とは一味違った重信式遊びを持っていました。


お正月の羽根つきは、バレーボールとバトミントン(当時バトミントンはまだありませんでした)をミックスした遊びかたをあみだして技を競い合いました。ネットのかわリに塀から塀へ網を張り、路上コートにはサーブエリアの白線も書きました。そして羽子板か左手で羽根を一度だけトスして打てる新ルールを創り、羽根もシャトルのように改造しました。


また重信さんは、本物で遊ぶことが好きな兄貴でした。弓矢遊びには本式の弓矢を使い、藁をたばねた的を造って遊びました。手には革ひもがついた手袋をはめ、矢の番え方や正式な作法も教えてくれました。


当時の子供達にとって、見たこともないラクビーゲームも遊びの一つでした。大塚公園の広場で、太物の革ポールを使ってボールを回転させないでパスする方法やランニングパスを習いました。そしてラクビーはボールを前へ投げると反則であることや、得点の数え方も教えてくれました。


重信さんは、物凄い物知り博士で、今でいうシミュレーションゲームを創ることも上手でした。日本海軍とロシア海軍の全艦隊をボール紙細工で精密に建造しました。軍艦の型は勿論のこと艦名や排水量、大砲の大きさや数まで克明に知っていて、畳の上に日本海海戦を再現してあそびました。


重信さんの探究心と根気を物語る一つに見事な昆虫標本がありました。二階にあった四畳半の勉強部屋にはガラス窓がついた標本箱が山のように積んであり、昆虫採集用の小道具が沢山ありました。とんぼや蝶類のほかに、てんとう虫だけでも何十種と採集して、その一つ一つに日本名と学術名がきちんと記入してありました。」

(『いまひとたびの -高柳市良・芳野・重信追悼遺稿文集』より)


重信の弟で、私からは二番日の兄に当る行雄もまた、同じ文集のなかでその独創的な遊びについてこう述べています。


「兄は、紙相撲で遊ぶことを発見し、厚紙とか古いハガキをお相撲さんの形に切り抜き、沢山の紙力士を作りあげました。そして紙力士に各々好みの名前を付け、蚊取り線香の空き箱を利用して土俵を作り、エンピツでトントンとその箱を叩いて紙相撲をさせ、十日間を一区切りにして毎晩その取組みの成績を記録していました。そして、その成績を基に番付表を作り、大学ノートに克明に記入して、横綱、大関を作ったりしていました。


その頃は、千代の山という横綱がまだ本名の杉村という力士名で幕下か十両でとっていた時代です。この力士は背が高く、突張りが上手で、将来は横綱になる大物なんだといって、兄は紙相撲の一力士に「杉村」と名付け、その杉村に強くなれといって特別の期待を持っていました。また、杉村の取組むときは、相手よりやや有利めに土俵上で組ませて、箱で出来ている土俵を叩いて、杉村が勝つととても喜んでいたことを思い出します。」


ついでに弟の年雄が記した部分もぬきだしてみましょう。


「兄はよく二階の八畳の部屋に海軍図鑑から縮尺した軍艦をボール紙を切って沢山作り、有名なジェットランド海戦の正確な海図を見て並べ、部屋の隅でじっと眺めていました。僕の日には八畳の部屋が大きな海に見えました。思えばそれは、大きな詩の海だったのです。今でも二階の八畳の海は僕の頭の中にやきついています。」


大分長い引用になってしまいましたが、書きぬいているうちに、ふっと、妙なことに気付きました。というのは、再三ふれられていた軍艦遊びの記憶が私にはまったく残っていないのです。三歳下の弟の年雄の頭にはやきついているというのにです。紙箱たたいての紙相撲は、一緒におこたに入っているときに横限で眺めて知ってはいますが、しかし、どの名前の相撲をひいきにしていたなどということは皆目知りません。


そういえば、私には兄と遊んだという記憶がほとんどないのです。それは私が弟でなく、妹だったせいなのかもしれません。私にとって兄は、視つめる存在でした。本を読んでいる兄、書きものをしている兄、友だちと談笑したり議論したりする兄、野球放送を聞きながらスコアをつけている兄。


とりわけて私の胸をとどろかせる眺めは、制服の女学生の訪れでした。女学生は数名のこともあり、ひとりのときもありました。今にして思えば、当時は男尊女卑の大日本帝国憲法下、男と女が肩を並べて歩こうものなら、みながみな振り返って見るご時世のはずですのに、よくもまあ・・・・・・と感じ入ってしまいます。二階の兄の部屋へ行くために階段をのぽっていく大人びた女学生の後姿を、どきどきしながら視つめていた妹の目など、兄はもちろん知る由もなかったでしょう。さらに、告白すれば、兄の部屋にそっと入りこみ、兄の許に届けられた彼女たちの手紙を盗み視たことが、当時の私のこの上もないときめきでありました。その便箋のどれもが美しく、その筆跡のどれもが流麗で、まるで秘密の禁断の園に視をひそめているよう--。思えば私もずいぶんと早熟であったものです。