雑エッセー

思わせぶり

思わせぶり (短歌の中の右と左)

●存在を公表していない雑誌(そういうものがあった)に掲載した文章です。

1999年5月。

高柳 蕗子

私は戸田市の下前(しもまえ)というところに住んでいる。この下前という字を見て、「思わせぶりな町名だね」と言った人がいる。「下前」は下戸田前新田の略だが、なるほど言われてみれば、下や前。ある種の遠回しな言い方によく出てくる語である。

そこから連想が脇に跳んだ。日常語なら上下左右前後は同類だが、短歌の中の左右は特殊な語である。「キズ薬は右の戸棚よ、右だってば。あーもう、そっちは左でしょ」と日常生活では言うが、短歌の中ではどっちだっていいからわざわざ言わない。そのわざわざ言わない語が使われるのだから、なんとも思わせぶりだ。

思わせぶりとは、しぐさや言葉に特殊な意味がこめられていると期待させる、一種の強調表現である。その期待を実現したいなら、こちらもリアクションを起こさねばならない。ところが私は、これはよほど意味深長なんだろうとどぎまぎして、あわてたドラエモンみたいにポケットから無用の道具を投げ散らかすばかりで、なかなか真意を確かめられない。こういうことは友人といっしょに考えるのもひとつの手である。

1 よりそひて/深夜の雪の中に立つ/女の右手のあたたかさかな 石川啄木

歌会後の雑談で、この歌の「右」の解釈を数人に問いかけてみた。

「たまたま啄木は女の左側にいた。男は女の右に立つことが多いかもしれない。いや、女が右手を出したんだろう。普通は右ききだから」

と言った人は、同時にちょっともどかしい表情をした。これでは歌から感じ取っているものの説明にならないと、言ったそばから考え直しているのだ。話は、語感や体感の線を洗う方向に進んだ。以下はその概略。

……右という語感には序列的優先性がある。右や左の旦那様というように、右は左に優先して発語される。体感としての右は、能動的積極的な右腕が生えている側である。右手は多くの人にとって利き手で、お箸を持つ方だし、握手は右手でする。意志や欲求、好奇心や親愛の気持ちが、右手に集まって人や物に触れる。右腕といえば有能な助手で、「右に出るものはない」は能力がまさることを意味する。ただし、右向け右、右へならえといった語を見ると、右方向への動きには、反発や障害のない安易さや妥協の要素がある。いずれにせよ、右の語感にはためらいのなさがある……。

「そうだよ、右手はためらいがない。この右は、あたたかさの伝わりかた、二人の心の通い方を、それとなく語る役割を果たしているんだ」

それで気が済んだので、雑談はそこで終わった。ところが、その後も右や左の出てくる歌を見るたびに、相変わらずどぎまぎする。これには我ながらあきれた。本誌に右の出てくる歌がすでに二つも載っているのを発見したので、クローズの本誌の場にあの雑談を延長し、左右という語について考えてみることにした。

2 つかるれば枕のうへにじんじんとなるみぎ側の耳こそが老 岡井隆(創刊号)

3 ぽっとりと青柿落ちてなごみ出すひかりの刻を右へと曲がる 高橋みずほ(二号)

どぎまぎすると苦しまぎれにまとはずれなことを考える。まずはそのまとはずれな仮説を書こう。

その一。左右対称形の人体にとって、左右の体感的区別は、上下や前後ほど明瞭ではない。だから、これらは右を強調するのでなく、実はどっちでもいいという感じを強調する言葉の身振りではないか……。しかし、読んだときの印象はそうではなかったし、「それはたまたま右だった」という何気ないリアリティの演出ができるほど、右と左は似ていない気がするので棄却。

その二。右と左は古典の歌にはほとんど使われていない。調べたところ、万葉集に左が二首(1766・2575。長歌と名詞は除く)あったが、二一代集には見つからなかった。もしや歌語としての歴史とわかりにくさに何か関係があるのではないか……。だが、古典の歌に出てこない語なんかいくらでもある。2の歌に出てくる〈耳〉でさえ、万葉集に少しあるだけで、勅撰集では見かけない語だと気づいて、これも放棄。

やはり語感体感に立ち戻らなければならない。2の歌の耳鳴りは、顔の両側に開いた情報収集装置である耳の、おそらく老朽化による故障の前兆だと感じられる。普通は左右に差のない耳だが、わざわざ右耳と断るならば、積極的能動的行動に関連した情報の収集を担当してきた耳だ、というニュアンスを、同じ側の右手に準じて加え得る。また、そのような情緒に欠ける感じが、装置、老朽化、故障といった印象を引き出すとも思える。

一方、同じ右でも3の歌の右折は、右への動きだから、積極性能動性でなく、逡巡のなさととった方がよさそうだ。「ぽっとりと青柿落ちてなごみ出すひかりの刻」における不思議ななりゆきに従った行動、順路に沿うような曲がり方を思わせる。

とはいっても、絶対にそうだと言い切る自信を持てないのが困ったところだ。「じゃあ左に曲がったらどうなるか」みたいな疑問をかならず抱かせる。右と左は一対の語、反対の語だから、この右はどのような意味合いで左と対になるのかと考えて、理解の助けにしようとする。右左の両方が使われている歌なら、とまどいはずっと少ない。

4 大王イカの長身にさむく対峙して海の左手 気圏の右手 井辻朱美

5 右肺(うはい)には稀(うす)き酸素が、左肺(さはい)には臆説が満ちみちて死にたり 岡井隆

この左右を説明しようとすればやはり困るけれども、単独で使われたときほどの困惑はない。4の歌では、なにはともあれ、情景のなかでの主体の位置を決めるために右と左が役立つから、「意味不明の語がある」という不安がない。5の歌でも、本来は両肺に酸素があるのだが、死ぬときに臆説を満たす側を強いて言うなら、なんとなく左っぽい、ぐらいに雰囲気的に納得する。「臍曲りの臍は左右どっちに曲がっているか」と聞けば、多くの人は「なんとなく左」と答えることを躊躇しない。対比のポイントがわかれば、雰囲気で判断を下す勇気が生じるのだ。

では、左っぽさとは何か。左は右の反対だろうか。左前、左巻きなどのさえない状態をあらわすことがあり、これは、右の有能さの反対と言えそうだ。が、左は反抗的で、右的な合理性に別の価値観で対抗する。酒好きを左党と言う。「右といえば左」は、決して「左といえば右」とは言わないのであって、反抗は左の役目である。左派・左翼は体制に抗する勢力であなどれない。左手は不器用だが、少数派である左利きは器用な人だともいわれているし、野球の投手は左腕が重用される。つまり左は反骨的で、不合理に固執し、別の価値観を提示する。そして、人間くささを肯定する情緒性を帯びているのだ。

体の右側は有能な右腕を生やしているが、左側は心臓を格納する「実はだいじなものがある側」だ。私たちがことにあたるときの心理体勢は、右手を前に突出して、左側を斜め後にかばっている。目的に向かって妥協もいとわず進む右に先導を任せ、左は反抗心を蓄え情緒的解釈を加える。右手が人を殺せば穢れは左が負う。

歌語としての左右は、この対比的役割分担から派生し独立しかけたイメージの真新しいあたりを、わくわくしながら使いはじめた段階にあるようだ。同じような対語関係にある言葉、東西や南北は、この過程をやや先行しているらしく、単独で使われることが多い。父と母、男と女では、互いに対比を離れて備えている世界がすでに明瞭だから、誰も単独使用をためらわないのだ。(父母は万葉集ではほとんど単独では使われず、勅撰集にはちっとも出てこない。)

6 さびしげに一箇むらさき心臓を左に吊りて群れて唄える 岡井隆

この歌にはちょっと余計なことを考えた。高校のころギターを持ち寄って反戦歌を歌うことが流行ったので、つい左翼の左を連想したのだ。が、それは左という語から直接喚起されたものではない。むらさき色(病的な色)の心臓を吊りさげて(命のランプぶらぶら)、さびしげに群れて歌うこの図。その心臓が左側であることの強調は、みんなが同じ側に心臓を吊っているという視覚的な情報を提供しつつ、大事な心臓はどのような情況でも、最後までまともな側にあるという人間性を付加しているようだ。

7 死なば愛さむ父のひだり手注射器に一すぢの血のさかのぼるなり 塚本邦雄

不合理な感情は左側の管轄だから、左側から生えている左手は、その不合理な土壌から生えた手だという語感がある。その根は父子の葛藤の根源に届いていて、注射器をさかのぼる血は、そこから吸い上げられた樹液のようなものだ。無抵抗に注射されるほど弱った左手だとしても、この血が通っている間は心をゆるすことができない。父子の葛藤は左がなくてもわかるが、それでは父の全人格が漠然と相手になってしまい、葛藤の根源から血が吸い上げられるがごとき緊張は味わえなくなる。

8 渓谷の夜の声走りひたぶるに左眼をすすぐうれひのありき 山中智恵子

眼を洗うといえば『古事記』に、黄泉の国から帰ったイザナギノミコトがみそぎをして、いろんな神が成るくだりがある。左目からアマテラスオオミカミ、右目からツクヨミノミコト、鼻からスサノヲノミコト……。みそぎは関係がありそうだが、故事付けは苦手だ。それより、「左眼をすすぐうれひ」と読んだ瞬間、知識を経由せずに受けた、妙に屈折した印象が気になる。

「うれひ」があって眼をすすいでいるのか、眼をすすぐことが「うれひ」なのか。後者だと感じる。それは、左という語の効果らしい。なぜだろう。

先にあげた右耳の耳鳴りの歌は、右耳の老朽化によるメカの故障を思わせた。これに対して左側の感覚器官の不都合は、情緒的反骨的な作用による穢れや疲労によって起こるような気がする。本来は左右に差のない目だが、右よりも左の方がみそぎに似つかわしい。したがってことさら左の眼をすすぐと強調するなら、この行動の浄化や新生への希求がより強く暗示される。だから、「うれひ」が穢れや疲労をさすととってしまうと、何か見落としたような気がしてしまうのだ。浄化や新生へのひたぶるな希求が、「うれひ」のモトとも読める。そんな書き方になっていないだろうか。

短歌ではないが、もう一例。少し古い流行歌に「私の彼は左きき」というのがあった。今まで私は、左ききの彼を、ちょっと変り者で寂しがり屋ぐらいに考えていたが、左右の手の性質の逆転によって、体への触れ方が普通の右利きの彼と違うという、もの珍しい体感についてもかすかに暗示し得ている。ヒットした理由のひとつは、そういう体感的刺激だったのではないかと思う。視聴者が意識しなくても、語が適切に働けば、伝わるべきことが伝わり、CDが売れる。彼の左ききは、野球投手の左腕同様の、ひとつの価値だったのだ。これは、右ききとあまり対比的でない価値である。こうやって左右は互いに独立してゆくのだろう。

以上、右と左の思わせぶり効果について、語感と体感だけで解ける範囲に絞って書いてみた。シモの方とかマエのあたりとか言えば、意味するところは誰でもわかる。右と左が互いに独立してイメージ領域を獲得するのはいいが、それが共通認識になりすぎると、短歌の中の左右の思わせぶりが、下前レベルの常套表現になるおそれがある。それはもったいない。ここに書いたことは内緒にしておいてほしい。