雑エッセー

電車でエッセー2

大昔に「かばん」に書いた電車でエッセーの一部

99・6 指でするちゃんばら 自歌自解のついでに「詩的凝縮」という批評用語への疑問も呈す。

2000年 あやしいコトバ 1 秘訣 苦手なものに関する秘訣は、逃げ腰であるというような話。

2000年 あやしいコトバ 2 考えすぎ 「考えすぎ」の効用について。

2001・7 郷愁のない所属 今月の一首 (「短歌の生命反応」にかなり吸収)

2001・6 ひまつぶしんぶん 「北原美術館」について 『かばん』2001年6月号穴埋めエッセイ

02・5 時間は青い?(「短歌の生命反応」にかなり吸収)

06・12 作者は読者をワカルか

07・6 人は長谷寺 短歌も長谷寺

07・06今月の一首 吉岡実

99・6 「かばん」掲載 特別作品と添付エッセイ

指でするちゃんばら 「詩的凝縮」という批評用語への疑問

掲載時は字数不足で、切り詰めたためにわかりにくい部分がありましたので、HPにUPするにあたって、少しだけ文言を補いました。

また、画面で読みやすいように、段落わけを多くし、さらに、ところどころ行あけを入れました。


きょうだいで掘る星深く遭うたびにまさぐり指でするちゃんばら


詩歌の世界には俗説がある。

もとは俗説でなくても、さしせまって評を述べねばならない場面が多いために、操作の難しいカメラを「ここを押せば写る」とだけ信じて使うような、こっちのボタンは何ですかと問われてぐらつくようなはかない信念が、いろんな口から(私の口からも)飛び出してしまう。

これはお互い様だから、問いただすような意地悪はできない。こうして、みんなで使う重宝な俗説になってしまうのだ。


たとえば、「詩歌表現は他の言葉ではあらわせない絶対のものだ」という説はあやしい。少なくとも、私の表現欲求と突き合わせて検証すると、あやしい。「一首のなかに言い換え可能な要素も不可能な要素もあるじゃないか。詩歌の価値は、言い換えの不可能な要素に、そんなにも負うものだろうか」と、考えずにいられない。


それから、「詩的凝縮」という批評用語。これもあやしい。凝縮とccいえば、パソコン用語に「圧縮」というのがある。こちらは、データ量の大きいファイルを、布団から空気を抜いてぺったんこにするみたいなものだ。もとに戻すのを「解凍」と言う。(圧縮の反対が解凍というのは変だがここでは気にしない。)パソコンはデータを変質させずに圧縮解凍する。で、「詩的凝縮」はどうなのだろう。

この語は、元に戻らない絶対的変質のような口振りで、魔法的にかっこいいニュアンスを帯びて、おおらかに使われることが多い。そこで再び思う。なぜ元に戻らないことが良いのか。

圧縮されたものが読者の頭のなかでじわじわ解凍され、それを読者が別の言い方で言いなおし得ることに比べて、戻せない「詩的凝縮」、他の言葉で言い換えられぬ絶対性とは、そんなに良いものなのか。だとすれば、どう良いのだろうか。


文章には圧縮解凍がある。SF小説の冒頭に「ロポットの産婆が来た」とあれば、圧縮されている「命の誕生の場面までもロボットが重要な役目で関わるような社会」という背景情報が、じわっと読者の頭で解凍される。

似たものに、省略補足というのもある。ある制約のなかで省略された文、「ハハキトクスグカエレ」も、関係者なら多くのことを補足して了解し得る。これには、省略の緊迫感と、カタカナ表記による緊急信号のような非日常性によって、家出息子をも呼び戻す、といった効果もあり、その点は言い換えればかなり損なわれるから、言い換え不能な要素と呼べるが、それでもこれは、「母が死にそうだ。最期の別れに間に合うように、万事を捨てて駆け付けよ」という主要情報において、言い換え可能な文である。

そうした圧縮や省略は妥当でなければいけない。「○○について二十字以内で過不足なく述べよ」という試験問題を思い出そう。十七字だろうが三十一字だろうが、○○ は字数それぞれに応じた過不足ない妥当な言い換えが可能なのだ。この妥当性は、「詩的凝縮」の絶対性と、多少は関わりがあるのだろうか。


誰かがこう言うかもしれない。短歌は文章ではなく、説明するものではない。その言葉の組合せによって引き起こされる言葉のナマの体験そのものであって、心中に先行して生じた○○ を説明するような形で従属するわけではないのだ、と。

反対はしない。が、ここにも少し俗説化の匂いがする。先行する○○に従属するのでなく、等価であろうと努力した表現。制約のなかでの妥当性の追求。そういう要素は短歌のなかでどう位置付けるのか。


右の短歌は圧縮省略・解凍補足型の、言い換え可能な要素に力点をおいて作ったものだが、それが何か支障になっているだろうか。

発端はふと思いついた「指でするちゃんばら」という語だった。どこかで目にした語らしい。頭に浮上したこの語はみるみる解凍しはじめた。あわててメモを走らせる。


……形の上では殺し合いの真似事である、という屈折を含むやさしい触れ合い。棒切れを持って全身でやっているわけではないから、何らかの事情で小さく抑制されている動作とも思える。秘密めいた儀式のような印象もある。

……指は積極的で敏感だ。模索的な仕事に取り組んでいて誰かと小さな接触をするとき、砂山にトンネルを掘る指が、向こう側から掘ってきた指と触れる感触をいつも思い出す。地中の織姫と彦星のように指は求め合う。が、こういうとき『ちゃんばら』をする指もあるだろう。

この、喧嘩を安全化した様式、抑制された反発の動作は、一方で契りを交わす感じもあって、二つの孤高の共存を、親密さの証とし、それを暗黙に了解し合う秘密の儀式たり得る。暗黙の結束関係にある者との再会であることの確認も兼ねた、やや照れた喜びの表現でもある。


おお長ったらしい。

これを冒頭の短歌の形に変換するのに用いたのは、先にあげた文章的な圧縮省略術であり、そうとう飛躍はあるが、詩的な魔法の手は借りていない気がする。

例えば「掘る星」という飛躍は、文中に散らばったいくつかのイメージをそうくくっただけだ。


もっとも、この無造作な圧縮省略は、有効な含みを帯びたようだ。これならぱ、星を掘るがごときタイプの読者の目だけを止めさせ、そうでない人への無用の負担は軽く済む。つまり読者を選ぶという特殊な役目を負ったわけだ。言葉に選ばれた読者だけが、意識的に解凍補足的な読みを、自分自身のためにするであろう。私のメモのおおよその意味は、その人の必要にこたえて復元されるだろう。少なくともそう私は期待した。

ゆえに、この歌では、主要情報はやっぱり主要であり、読み解かれないなら圧縮省略が妥当でなかった書き損じでしかないのだし、読み解かれたとしても、主要情報で読者を失望させ、読者が自身のために「言い換えたい」という欲求を起こさなかったなら、つまらない歌である、と評できる。

読み解いて主要情報も受け入れた上で、まだ何かあきたらないならば、それが、こんなふうに文章的手法で作られた歌の限界を知る手がかりになるかもしれない。


ついでの話だが、私がこの書き方で特に気に入っている点は、読者の側での拒みやすさである。主要情報がこんなふうに解凍補足型で伝えられる場合、それがじかに、かつ突然に、心に届いてしまうような無礼が少なく、読者が好きな速度で解凍補足して、嫌になったところで停止できる。これを真に「利点」と感じる人は、淋しいことにごく少数である。

あやしいコトバ 秘 訣

2000年?月

高柳蕗子

やっちゃんはソロバンが得意で、計算は速く正確だったが、算数の応用問題は苦手だった。文を読むのが億劫なのだ。でも、文を読まず数字を拾うだけで正解率五割、という秘訣を考案したので、さして困っていなかった。

「出てくる数を順に二つ足し、三ツ目の数で割るか、初めの数字を二番目で割ってから三番目を足すか、それらしい答えが出るまで式を探す。これで半分は当たるよ」

なるほど、やっちゃんなら、答えらしい数字が出るまで計算しなおすことなど何でもない。一瞥で何通りも暗算できるのだから。私は正反対だった。問題文を読んで式をたてるのは何でもないが、ひと桁の足し算さえ指を使う。

「ふーちゃんたら、6たす7は何度数えても13よ。もう信じちゃえばいいのに、指で数えて確かめて、わざわざまちがえるのね」

算数は二人で一人前、いや二人が組めば最強コンビである。宿題はなるべくいっしょにやった。ただし応用問題は設問数が少ない。最強コンビの相棒にしてもらうためには、読書感想文のオマケが必要だった。

人間は、苦手なことをしないで済むなら、自分にとって楽な方法で何十倍の手問でもかける。私は計算ドリルより、二人分の読書感想文の方がずっと楽だった。やっちゃんは三行の問題文を読むぐらいなら、暗算をいっぱいやった方が楽だった。さらに考えてみると、「出てくる数を順に二つ足し云々」という秘訣が正解率五割となるからには、応用問題とやらの出題者の手抜きもあったはずだ。だから、苦手な者が逃げ腰で考案する「秘訣」は、たいてい少々難ありなのだ。

やっちゃんの苦手は国語だけで、算数には人並みはずれたすぐれたカンを持っていた。四則の混じった長い計算式で青息吐息になる私に、やっちゃんが教えてくれたのは、さすが得意分野らしい、まっとうな秘訣だった。

「ふーちゃんはいっペんにやったらダメだ。一か所計算するごとに=で繋いで、式を短くしていけばまちがえにくいよ。これは=をたくさん使うからワーワー作戦だ」

この適切で有効なアドバイスの返礼に私が伝授した、「ろくに読まずに読書感想文を書く方法」は、得意分野であるにもかかわらず、ひどいひどいインチキだったのである。

あやしいコトバ 否応ない考えすぎ

2000年?月

世の中には、否応なく「考えすぎ」をさせるたぐいの、微妙なレトリックがある。はっきり言葉で表したら、「考えすぎよ」と人に言われそうなこと。それを、想起させるのでなく、させかける程度に曖昧に促すものたち。この文章ではそういう話をしたい。

姓名診断士になろうかな

例えば人名だ。俳人に岩片仁次(いわかたじんじ)という人がいる。この名前には、そこはかとないユーモアがある。その出どころはどうやら、「言わじ語らじ」という言葉が交ざっているような語感らしい。しかも、「いわかた」がすべてア段の解放的な音であるのに対して、後半の「じんじ」にはイ段の閉鎖的音が集中し、いかにも口を結ぶようだ。また「じんじ」は、幼児語風で、「ゆびきりげんまん」の遠縁を疑わせる響きがある。これらが総合され、口を結ぶしぐさで黙っている約束をするかのようなユーモアを醸している。……と断言したら、ちょっと「考えすぎ」だろう。

もう一人あげよう。穂村弘(ほむらひろし)という歌人がいる。この名前には、果てなき穂の地平線にボールがうせる感じがある。ホームランとヒーローが混じっているからだ。「ほむら(炎)」はそのボールとも、見えぬ夕日ともつかず、文字裏に隠れている。弘は「広し」に通じ、と考える手前あたりまでが自然な「考えすぎ」で、「拾う」にも通じるか、と踏み出すとき、過ぎたるは及ばざる域に突入する。

おお、おもしろい。短歌なんぞやめて、いっそ姓名診断士を標榜しようかしら。だが、試してみると、困った名前がかなりある。当の私の名前「高柳蕗子」(たかやなぎふきこ)は、ア段の「たかやな」を「ぎ」と噛み潰し、しかも「やな」は「厭な」に通じ、「ふき」は「不機嫌」の暗示だ。こういう困った名前の人をなぐさめうるほど、強引な想像力は持ち合わせない。

そろそろ、「くたばってしまえ」の二葉亭四迷や、「エドガー・アラン・ポー」の江戸川乱歩を連想した人がいるだろう。しかし、この二人の名前のレトリックは、理知が介在した言葉のすりかえだ。「くたばってしまえ」と「二葉亭四迷」のもじり関係には、否応なさがない。「考えすぎ」どころか、由来を明かされてなるほどと納得する。このレトリックは、種類が違うのである。

なんと無防備な

こういうレトリックをはじめて意識したのは中学生のときで、テレビアニメのなかの「悪の手先」という言葉でだった。

悪の手先……。この言葉は怖かった。まず「悪」という抽象概念がアメーバみたいで怖かった。その化け物の触手が無作為に人間を探り求め、指人形にしてしまいそうで怖かった。そして、これらを突然に思い浮かばせる、「悪の手先」という言葉の働き自体も怖かった。

この語の意味を理解することは、

「『悪』というアメーバみたいな化け物が、見えない触手を伸ばしてきて、気に入った人間をその触手の先に吸いつける。するとその人間はあたかも指人形のごとくに悪の手先になる」

という前提を、否応なく受け入れることなのだ。

怖いだけでなく不快でもあった。正義の味方が、悪者の下っ端を、「悪の手先め」と言って蹴散らしている。あれは運悪く「悪」に選ばれただけの人じゃないか。もしや正義の味方もまた、「悪」と同じ手口で「正義」アメーバに選ばれた「手先」ではあるまいな。気の毒な悪者を遠慮なく蹴散らせるのは、操られている点で同類だからではあるまいな。いや、まさか。正義の味方は「手先」ではなく、「味方」なのだ。自分の意志で協力しているのだ。そうとも、正義は無理強いしない。

などと一気に、中学生のもっとつたない言葉で考えた。この「考えすぎ」には二段階あった。前半、つまり、「悪の手先」という語から、悪の触手に選ばれた者が指人形のように悪の手先になるというあたりまでが、否応ない「考えすぎ」で、正義の味方うんぬんはオプションである。

個人的には、理知が追いつこうとするオプションの「考えすぎ」の方が好きである。否応無いレトリックは無礼だし、レトリック自体が悪の手法を思わせるから、警戒せずにいられない。それどころか、私は、正義の手法、すなわち意志的な理知で、悪のレトリックを鎮圧しようという、子供じみたシナリオにはまりがちだ。いまでもときどきこのシナリオの呪縛を、「ドウ、ドウ、それは幼稚な思い込み」と解かねばならぬ。

そんなシナリオを私に刷り込んだのは、「悪の手先」という言葉の否応ないレトリックに端を発した出来事だった。否応ないものはうさんくさい。ときどき「おい、いま私に何をした?」と問い返し、耐性を鍛え、いらぬ呪縛はこまめに解いておこう。

成仏しろって

私たちには、かなり豊かな「考えすぎ」の能力がある。言葉には「考えすぎ」を誘う作用がある。だから否応なく「考えすぎ」をさせられる。なんという無防備だろう。これを手放しに、複雑なコミュニケーションだと喜んだら人がいい。「考えすぎ」は、確信に変わるか、完全に否定されるかしないかぎり、成仏できない浮遊霊のまま、とり憑くかもしれない。

私は今、薬屋の二階の喫茶店にいる。窓のしたに広告の旗があり、首を伸ばしたオットセイの絵と「オットピン」という薬の名が見える。これだけで何の薬かおおよそ見当がつくのは、「考えすぎ」能力のおかげだ。「薬屋の広告であること」「オットセイの絵」「オットピンという語感」という三つの情報から、「夫がピンとする」を連想をするのは瞬時であって、否応ないことなのだ。

しかし、この「考えすぎ」はすぐ成仏する。「オットピン」には、カゼ薬かもしれないなどと迷わせる情報は一切ない。オットセイの絵もなかなかうまく書けている。だから、否応無い想像はすぐ確信に変わる。逆に、もしも、「考えすぎ」状態を維持し、否応ない不思議な刺激を持続させたければ、別の情報で撹乱し、不確かなところで釣り合うように迷わせて、確信を与えぬようにすればよい。

例えば「ホワイトデー」がこれに該当する。私は、この言葉を耳にすると、いつもチラッと精液を連想しそうになり、いやこれは「考えすぎ」だと打ち消す。

そんな連想はしないという人も多いだろう。でも、男性が女性にプレゼントする日だということが、ホワイトと変に〈付きすぎ〉な感じがしないか。日を限定していることで、個々がしたいときにするプレゼントではなく、個を超越した男一般からの女一般へのプレゼントデーになり得ないか。しかも、いつのまにかでっちあげられた日だというあやしさ。それらは、この語の根拠は案外くだらなそうだ、と、妙な連想を必要以上に促さないか。「男」「白」ときたら「ふんどし」という古い連想脈がある。そして、ふんどしの白と対になるのは腰巻きの赤だった。この連想脈の古臭さを、ホワイトというカタカナがごまかしているような気がしないか。

ところが、念の入ったことに「ホワイトデー」は、その「考えすぎ」を打消すイメージ武装をしており、私の「考えすぎ」を成仏させない。

ホワイトは、ホワイトクリスマスなどの使用例にあやかって、人々が仲良くするような楽しい雰囲気を付加する。この「クリスマスっぽい白」は、贈り物をする日だということとうまく重なる。また、白という色は、「白いと言ったら〇〇」と、できるだけありきたりな連想をすると、兎、雪、シーツ、花嫁、看護婦など、まっさらで無垢で清潔な感じのものが出てくる。だから、誠実なホワイトな心でバレンタインチョコの返礼をするんですよ、しかも白には、「白旗」というものがあって、男性が降参する日なんですよ、と言われればもう反論はできない。そういうものが寄ってたかって、精液の白を打ち消す。なんだかばかされたような気がしないか。

お茶の水の駅前で記念切手を売っていた。シートを買ったら、郵便局員の若いお兄さんが飴をくれた。

「あらどうも」

「今日はホワイトデーですから」

電車に乗って、その飴をなめた。かじった。なぜか、ひょっと岩片仁次さんの名前を想起した。三〇分後にオットピンを目にしたとたん、この文章が形成された。この着想自体が「考えすぎ」なのかもしれない。

変てこでもこれは正義の手法だ、と、またわけのわからないことを考えたがっている。ドウ、ドウ。

「かばん」2001年7月号 今月の一首

はるかなる撒水車よりくるごとく雪舞うわれらも宇宙のみじん微塵 井辻朱美


郷愁のない所属

果てしなき真闇(まやみ)の宇宙(そら)に生き生きと地球の草の緑輝く 若田光一


さきごろ宇宙飛行士の若田さんが宇宙でこう詠んだ。その昔、宇宙飛行士が人類の目を代表して宇宙から地球を見、「地球は青かった」と映像を送ってくれてから、私たちは、地球を外から見るイメージを容易に描き得るようになった。大きな使命によって地球への所属を強く感じるだろう宇宙飛行士は、このような感動の目で地球を見るだろう。だが、歌人が地球を外観する歌では、むしろ非所属感を詠むことがある。

ニュートリノ地球貫通せよ われに花も紅葉もふるさともなし 坂井修一


「地球」という語は、宇宙から外観するイメージを伴うゆえに、「貫通せよ」には微かに、自分に存在感を与えてくれない地球への報復のようなニュアンスがある一方、この「われ」は地球と同化してもいる。どんな物体も透過するニュートリノは、幽霊を素通りするごとく、太古から地球を透過し続けている物質だ。花や紅葉などの情緒に安住できず、地上に「ふるさと」として帰属できる場が見いだせぬ「われ」に対し、この歌のニュートリノは、「ちまたに雨のふるごとくわが心にも雨が降る」的に、雨が人間の心境に添って慰めるという役もはたしている。所属の手応えのない「われ」の心情に添って降りつつ、かつ、太古からニュートリノは地球にも降り続けていることから、「われ」の孤独は地球に同化し、地球全体を「ふるさともな」いもののごとく描いてもいる。

「ふるさとはない」と言いつつも、古歌を意識した点は、歴史に連なる意識の表れであろうし、「花も紅葉もふるさともなし」の「なし」には、本来はふるさとがあってしかるべきだという気持ちがある。古歌「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」が、人は変化しても月や春は不変であるのが本来だという考えを前提にした郷愁であるのと少し近い。

興味深いのは、天から降るものと地球という、通常は視点の異なるものの取り合わせだ。(ニュートリノはこの異質さをうまく解消しているが)個人の非所属感と世界との奇妙な位置関係に、その視点のずれ方がうまく重なるらしい。例えばこの歌。


方舟のとほき世黒きかうも蝙蝠り傘の一人見つらむ雨の地球を 水原紫苑


なるほど、雨にはなぐさめに加えて、世界の終末への連想もある。かつて終末の地球を外から見たであろう視点。おもしろいのはそこにも雨が降っていることだ。この微妙な位置関係での同一化が、微妙な郷愁を感じさせる。

こうなれば、「地球」と、気象用語を多用しそうな井辻氏にも、この系列の歌があるかもしれぬ。そう期待して捜したところ、どうも見つからない。井辻氏の歌はなんだかひどく異質でもある。


雪の降る惑星ひとつめぐらせてすきとおりゆく宇宙のみぞおち 井辻朱美


これも「所属」の形を絵にしたような歌だが構図は異なる。ここでは宇宙に身体が想定され、星々はそこに所属する。つまり「微妙な非所属感」の歌ではなく、ちゃんと所属はしている。そしてその宇宙のみぞおち、つまり体の中心で、また腹部は腹に一物など、頭や胸に次いでときに念慮を宿す場所だが、そこがすきとおってゆくのだから、ふるさと的な郷愁に応えることは期待できない。それは私たちのことを全く感知せず、ただただ無化してゆこうとしている。

そこでもうひとつ、所属感に関わる、掲出の「はるかなる」の歌に注目してみた。「雨」がなぐさめと終末のシナリオを持っているように、「雪」という語は一般に、鎮魂のシナリオを帯びている。ただしここでは、白く覆って埋めるタイプの鎮魂でなく、舞う雪だ。例えば「かぎりあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山嵐(蒲生氏郷の辞世)」などの、「散る桜」の鎮魂に近い。命のはかなさの摂理を見出し、自分をそのひとひらと捉える客観性によって、はかない命は摂理への所属感を得る。そういう形の鎮魂作用だ。個人の認識主体は常に世界から孤立しており、だから宇宙とか命の摂理といった、より大きなもののふところへの所属を希求する。郷愁を抱くためは、その希求が受け入れられる期待が微量でもなければならない。

掲出歌は鎮魂の響きがあるにもかかわらず、そういう昔ながらのなぐさめが希薄だ。極小の視点から見あげる掲出歌の巨大な時空はあまりにも虚無的だ。はるかなふるさとは散水車で、私たちの所属の希求(愛)に応えるような愛はおろか、悪感情さえもない。ふるさとの愛を求めず、ただこうした在り方そのものへの感動でこの歌は書かれている。

この井辻氏の言葉つきには、「生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける」に似た表現の喜びがある。まるで「宇宙に暮らす生物は宇宙の手足や目や耳や鼻となり、わが世界をそれぞれの感じ方で賛美することになっている」かのようだ。ここには所属感はあるのだが、井辻氏の場合、昔ふうの「生物は天地の恵みという愛を受け、世界に感謝して生きる」みたいな、相思相愛の関係では捉えていない。ここに真価があると私は思う。愛は、宇宙(ふるさと)の側に無く、取るに足らぬ極小の視点である自分の方にしかあり得ない。

その通りとでもいうように(というのは私の勝手な解釈かもしれぬが)、こんな歌も見つけた。

たれかいまかすかにささやく青空の底の秘密を(あなたはゐない) 井辻朱美

ひまつぶしんぶん

2001年「かばん」六月号穴埋め記事


通勤途中の駅ホームに「北原美術館」という看板がある。それがどんなものを展示した美術館か、とまで考えたことはない。ただその看板が目に入るたびに、いつかぶらっとこの駅で降りて訪ねてみたいような情緒的刺激が、そよっとひと吹きする。もう十年ぐらいそうしたことが続いていた。

ところがある日、いつものように見るともなくその看板を見て、ついに何か変だと気づいてしまった。よく読めばそれは美術館ではなかったのだ。

「北原美顔術」

普通なら、こういうおもしろいまちがいは、人に話して笑っておわりだ。でも、朝夕二回、意識しない程度に思い浮かべた「北原美術館」は、出勤日を年三百日として十年間、約六千回の軽い刺激を私に与えてきたのだ。いつかぶらりと訪ねる、という約六千回の気分。(決して実際に訪ねたりはしなかっただろうけれど)そのたびにふっと目に浮かびそうになったシチュエーション、ほんの少し登り坂のカーブした小道の奥にある白っぽい小さな建物を目にして、あああれが北原美術館なんだと思い、ドアの小さな札の文字が開館中なのか本日閉館なのかと、遠目に読もうとする。このイメージはもはや、私のなかではゆるぎないものなのだった。

あれから看板を目にするたびに小さな喪に服すようになった。

「ここには以前、たまにぶらりと足を向けた北原美術館があったのだが、いつのまにかあるじが亡くなった。今では、あとを継いだ息子だか娘だかが父の美術品を売り払って、同じ場所で美顔術を開業している。エステと言わないあたりが、わずかに父親ゆずりかもしれぬ。いつかまたあの坂を登ってぶらりと訪ね、改築した建物を目にする日もあろう。きっと売らずに館のどこかに残されている、あの肖像画を思いうかべながら。」

そんな気分が、看板を目にするたびに作動し、見たこともないあるじの肖像画のおもかげまでが、今にも見えてきそうになる。ああなつかしい北原さん。

しかし、以上の空想はほんの一瞬で終わる。次の瞬間には別の看板などが目に入り、別の情緒的刺激にとらわれる。そうやって、通勤中の一瞬一瞬は、大量の情緒的刺激によって暇つぶしされている。にもかかわらず、私はまだまだ暇だと感じ、まだまだ退屈している。一瞬というものはよほどたくさんあるに違いない。この文で一番言いたいのは、実はこのことだった。

* * * * *

あらかると

○おとこ教室:男性らしさをみがくのかと思ったが「お琴」の教室だった。

○ユガミタンス:箪笥屋さんなのにおかしな名前だと思ったが、社交ダンスの教室だった。

○黒田ブシ:かつぶしかと思ったら黒田ブラシだった。

○日本花弁:花弁を集めて香水や色素の原料にするのかと思っていたが、「花卉」(かき:草花のこと)だった。観賞用に栽培するだった。植物を扱う会社らしい。

●おまけの小話

A「玉の露ってせっけんだっけ?」

B「お茶よ。せっけんは玉の肌」

A「あたしって、せけん知らずなの」

時間は青い?

2000年ごろ

※闇鍋を使って仮説を検証したこのエッセイは、後日評論『雨よ、雪よ、風よ』へと膨らませて出版しました。

はじめは「雨」と「時間」について考えていた。「雨」は、「花のいろはうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに」に代表されるように、人知を超えた時間と人間を対峙させる働きがある。この有名な古歌は、「眺め」と「長雨」、「降る」と「経る」という掛詞によって、雨と時間の関係を日本語の情緒性に強く定着させたかもしれない。というわけで、雨の出てくる歌を集めて読んでいたら、確かに雨の歌には、深遠な時間感覚を帯びたものがたくさんあった。その中の一つに次の歌がある。

陰茎のあをき色素はなに故ぞ梅雨ふかきころ湯殿に洗ふ 岡井 隆

この歌には、そこはかとなく「時間」感覚がたちこめている気がする。ただし、「雨」だけで、ただちに「時間」を表しているわけではなさそうだ。「梅雨ふかきころ」で「時間」を想起させる可能性を帯び、あわせて、風呂場で、無防備な「生まれたままの姿」で、はたと非日常的なことを「なに故ぞ」と考えたシチュエーションが、根源的な問いであることを暗示している。この二つが、深遠な「時間」へと連想を向かわせるのだろう。

いや、もうひとつ、「青」も、なぜか濃縮された時間の色素を思わせる傾向があるようだ。この三つが重なって、「時間」を詠んだ歌だということが決定的に濃厚になっている気がしてしかたがない。時間といっても、今問題にしているのは、刹那でなく、「永遠」のような、人知を超えた時間感覚だ。青はなんといっても空や海の色だから、はるかで果てのない深遠な感じがある。だから無意識にも「時間」とコーディネートされやすいのではないか? 用例がけっこうあるのではないだろうか?

そういう経緯があって、データベースで「青」と「時間」を両方含む歌を抽出してみた。

蒼穹は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶 岡井 隆

濃紺の車すべらせ逢いにくる海より蒼い時間を連れて 俵 万智

どのやうな心も青く老いやすい時計塔のみおろす広場のカフェ 井辻朱美

自動改札通した切符胸元へこのうす青き時間を照らす 尾崎まゆみ

指鉄砲で飛ばしたゴムの輪の中に時の青さが一瞬満ちた 千葉 聡

永遠に降る雪が恋うお前から青いファイルを手渡されるとき 茂泉朋子

青塗の瀬戸の火鉢によりかかり、

眼閉ぢ、眼を開け、

時を惜めり。 石川啄木

というわけだ。「永遠」「とき」「あお」「あを」「蒼」なども含めて抽出)その結果、上の歌を得た。うしろの二首は、作者が目にした火鉢やファイルがたまたま青かっただけかもしれないが、他の色にすると歌の雰囲気が壊れそうだ。必ずしも無関係とは言いきれない、ということであげておいた。

(比較のために赤、黒、白も同様にしてみたところ、「赤い時間」といった用例は見つからず、時間といっしょに使う例そのものが少なかった。どちらかといえば赤や黒は時間といっても区切られた時間、白は孤立した空白のようなイメージを形成しやすいようだ。)

右の結果に信をおき、「雨」「青」が永遠のような「時間」を想起させうる語だとしてこの「陰茎」の歌を読み解くとすれば、次のようになる。

★雨降りは世界そのものの永遠の時間を言葉の伝統の力で想起させそうになる。それに対して、命の継承に関わる陰茎は、限りのある命の時間を絶やさず引き継いで行くものだろう。そこに濃縮されたかのような青い色素は、時間の色素のようなものである。無防備な姿で雨の季節にたちこめた永遠の時間をなんとなく感じ取ったとき、日ごろ見慣れて気づかないでいるものにふいに目がとまり、自分の体に込められた継承される時間について考えそうになる。この歌は、おそらく作者が作る段階で無意識のまま曖昧に体験したイメージの重なりを、読者にも同様に曖昧なまま体験をさせる、そんな作りになっているようだ。

もちろん、「雨」と「青」を入れさえすれば「時間感覚」を表現できるほど言葉は単純ではない。雨の歌に「青」が詠みこまれた例は多いが、すべてが時間感覚を帯びるわけではない。それでも、「雨」と「青」を両方含む歌は、偶然とは思えぬほど多い。「時間」に結びつかぬにしても、何らかの親和的傾向はあるようなので、参考のためいくつかあげておこう。

【雨と青】

雨あがりあをいリボンをみつけたらきつとうさぎは耳を押さへる 山崎郁子

あをき血を透かせる雨後の葉のごとく鮮(あたら)しく見る半袖のきみ 横山未来子

さながらに青皿なべし蕗の葉に李は散りぬ夜の雨ふり 長塚 節

さびしき夢の過ぎしあとにて噛むレタス 青レタス畑雨降るらしも 斉藤 史

リビングに青い毛布を持ってきて丸く眠れば滴る雨夜 田中 槐

友人の頭髪そよぐうす青い春の雨からうまれたような 東 直子

双子の少女左右(さう)に抱ける夢果てて青き雷雨の夜を覚め居り 高島 裕

雨上がり遠近法は崩されていちばん前の青空が好き 田村葡萄

言葉には直接的喚起だけでなく、間接的に喚起する領域があって、それが密かに読者を刺激する。刺激の度合いが読者によって異なり、共通認識にまではなっていないが、使用例の蓄積があってイメージ傾向が無意識のまま定着しかけているという程度のあいまいな領域。説明できないが「なんとなくわかる」という現象が起こるのはこういう領域の刺激だ。

そういう言葉の刺激は、意味や文脈を離れて、文字だけでも起こるかもしれない。衣服のコーディネートのように、歌のどこかに使われているだけで、一定の効果を持つのではないか。「青」と「雨」と「時間」のクロス抽出の際にいったんは除外したけれども、次の歌に出てくる「青年」などは、「若者」などと置き換えたくない気がする。ここには「雨」や「時間」と「青」の親和性、イメージの間接的な領域での重なり合いが、多少は影響しているのかもしれない。

青山の町蔭の田の水(み)さび田にしみじみとして雨ふりにけり 斎藤茂吉

海の上に蕗色の雨 青年は日日賭くる、われの老いゆくかぎり 塚本邦雄

光年のしずかな時間草はらにならびて立てる馬と青年 井辻朱美

腸弱き青年を抱く白きへび時間が水にとけゆくような 東 直子

「青」のことから離れるけれど、「雨」と「時間」の組合せでひとつ興味深い歌があったので、私なりの解釈とともにあげておく。

緑野に時計は二つ重ねられ雨の最初のひとつぶはじく 東 直子

★この雨は、時間を表す雨でなく「滅びと再生のはじまりの雨」である。普通の雨は、少しの困難をもたらすだけであがってしまうが、中には地上を滅ぼすノアの洪水のような事態に発展する雨もあり、雨のはじまりはその最悪のケースへの展開をはらんでいる。(そういうテーマの雨の歌をときどき見る。)

そのせいで、二つ重ねられた時計という設定に潜む神聖さが、さらに強く方向づけられるのだろう。滅びと再生という時の終わりと始まりとが何かの拍子に重ねられて、セックスして(させられて)いるみたいだ。「られ」という何気ない、受身のような偶然の結果であるような言い方の苦味も見落とせない。

「時」のアダムとイブが、そうやって、自分でやめることができぬまま、野原に転がって時を生み出しつづけているかのようだ。

* * * * * * * * *

『古今集』の「ほのぼのとあかしのうらのあさぎりにしまがくれゆく舟をしぞ思ふ」は柿本人麻呂の作と伝えられるが、収録時点ですでに作者などわからぬ古歌で、儀礼歌のようになって伝えられていたものらしい。『古今集』に収録されたことで、「詩歌作品」としての命を新たに得て鑑賞されることになり、その後の歌論書でさまざまな解釈がなされている。

昔は、歌に「おもての義と底の義」があるとして、底のほうをずいぶんと深読みをする場合があった。私が目にした解釈は、掛詞に着目しすぎて「故事付け」に見える部分があり、私だけでなく、この歌の真の作者が見ても、面食らうだろうと思えるが、掛詞によって「底の義」に到達しようとするのは当時の、いわば読解のまじめな技法だったのだ。だから解釈としては精密で、「故事付け」も筋が通っており、歌に新しい命を与えていることに感銘を受けた。

そんなわけで、昔の人には及ぶべくもないが、深読みを恐れず、歌に即しつつも読解に重きをおくことを試みた。

作者は読者をワカルか 高柳蕗子

「かばん」2006年12月号


「あ、髪型変えたのね」

「いえね、いつもの美容師さんがいなくて、初めて切ってもらう人でね。いつもと同じように髪型を説明したけど、人によって言葉の解釈って違うのか、なんだか変なの」

「あら、でも似合ってるし、すごく新鮮。」

「そう? こういうのも悪くないかな」

【教訓】同じ言葉でも受け取り方は人さまざまで、誤解曲解は日常茶飯だ。人は自らの当初の意図を放棄して、誤解曲解から始まる事態を受け入れることができる。


* * *

作者だったころの私は、ワカルと言われれば「ふん、見透かすな」と思い、ワカラナイと言われれば「ちぇっ、キライ」と思ったものだ。短歌のワカル・ワカラナイは、それ自体どうもわからない言葉だが、「作者」をやめて久しい今なら、わりと冷静に考察できる。そも、短歌では、誰が誰をワカラセようとし、誰が誰をワカロウとしているのだろうと。

1 ワカッテモライタイは叶わぬ願い

仮に「作者」が「客」、「読者」が「美容師」のような図式ならば、「読者(美容師)」は、「作者(客)」の意図をワカッテ忠実に思い描こうと努めるべきだ。でも私は、読者の立場にあるとき、そんな努力はしやしない。なぜなら、私がどんなにワカッタと確信したとしても作者の意図を確かめるすべがないからだ。

だいいち、あなたが歌人ならば、ときに「我ながら驚きながら作品が成立しちゃう」ということがあるだろう。しぶしぶ我を折りつつ言葉の意図を受け入れるという「負け感」の甘美さ。作品が自分の意図を超える手ごたえを、「歌の成立要件」として高いランクに位置づけていた私は人一倍、「作者はほっとけ、歌だけ読もう」という気持ちが強いのだ。

そういう私は変人だとしても、「読者の数だけ解釈がある」のは事実だ。「歌の成立」と「歌を読む」は別々の出来事である。作者は作品と対話して自分をワカリつつ、作品の成立過程で影響を受ける。読者は作品と対話して自分をワカリつつ、ご縁があればそのとき何かしら影響を受ける。この二つの出来事が一致するほど人類は単純ではない。

つまり、通常のレベルでのワカラセタイ・ワカッテホシイは、もとより叶わぬ願いである。作者と読者、読者どうしは、ふつう出会わないものだから、短歌を間にはさんでワカル・ワカラヌというお互いのズレを気にかけて何になろう。短歌におけるコミュニケーションの、そうした限界を前提にして、別な可能性をさぐる読解や批評に手を染めたころは、「作者などいらない。歌さえあればいい」と思ってしまうことさえあった。

2 それでも誰かにワカッテホシイから書く

五三年生きて私は、この世をどの程度ワカッタだろう。果て無きジグソーパズルの小さなかけらをいくつか自力で結合させたことを誇りながら、ちまちまつなぎ続けている。誰もがそれぞれ自分のパズル(図柄は必ずしも似ていない)に夢中で、たまたま私と似たピースを似たようにつなげて、「おお俺と同じじゃん」と叫ぶ人も稀にいるかもしれないが、大部分の人にはカンケーナイはずだ。たまに「ほう、そういうつなげかたがあるのか」とおもしろがって参考にしてくれる読者がいれば幸いというものだ。「作者」と「読者」は、そんなときお互いの存在感にちょっと励まされ得るだろう。

しかし、というか、だからというか、ワカッテホシイ気持ちは歌の動機として不可欠だ。作者のワカッテホシイとは、強く読者の存在を意識する気持ちだからである。その熱意は、「生きてる人が書いた言葉」である証、存在感を歌に付着する、いまだ解明されていない不思議な微粒子なのだ。(笑)

3 作者が読者をワカルとき

世界は言葉で切り分けられている。と、何かで読んだ。まさにジグソーパズルだ。言葉のある組み合わせに対して、「これで一首成立」と作者が判断した事実は、作者がワカッテホシイと思っている歌の内容よりも、世界と作者の関係そのものに迫る有力な手がかりとなり得る。「そういうつなげかたがあるのか」は作者と読者のきずなとして意外に深い。

私は、「ワカッテモラウことすなわちワカルこと」という循環を夢想している。読者を作者の言葉の終着点にしたくない。ワカッテホシイ熱意がその表現方法をどんどん開発するのに、それに応えるべきワカリ方を開発する熱意が出遅れている。いろいろなワカリ方が増えれば、めぐりめぐって作者が読者をワカルことにつながるだろうと期待しているのだ。

* * *

「全体は秋らしく長めに、そのかわりレザーを深く入れて軽さを出し、バランスとってあります。」

「いつもと同じでいい」と言っても、私の美容師さんは毎回そういう工夫をしてくれる。美容師さんは私をかなりワカッテいる。そんな美容師さんを私も少しワカリカケてきた。

人は長谷寺 短歌も長谷寺 2007年6月「かばん」

高柳蕗子

今日は群馬のあるお寺で『源氏物語』の講演を聞いた。講師は元二松学舎大学学長の雨海博洋先生。紫式部に聞かせてあげたいような楽しいお話だった。その中に長谷寺が出てきた。長谷寺はめぐりあいの場として知られていたという。

このときだ。電話が混線するみたいに、「人は長谷寺、短歌も長谷寺」というフレーズが頭を数回よぎった。・・・・・・なにこれ? わからん・・・・・・。少なくとも『源氏物語』は関係なさそうだ。

うちに帰って考えた。――人は短歌に似ている。人を見ると無意識に、服装や体型、しぐさなどの印象を総合的に鑑賞する。べつに心を読んだり人を評価したりするわけじゃない。人という完結した個体のたたずまいは、遺伝子、生い立ち、社会への順応といった、個を超えたいろんな要素の集積に、各自の個性が加わって相乗・相殺した結果の体現である。そういう点で人は短歌に似ている。(そうでしょう? 短歌も、言葉という個を超えたものの集積と個人との相乗・相殺の結果でしょう? )しかも、人はみんな、けっこう名歌だ。

人間鑑賞をしていて気づいたのは、例えば「悲しいとき肩を落としてうなだれる」というようなしぐさが、個を超えた共通の要素であること。つまり、風に吹かれた草木がそよぐのと同じような「現象」であることだ。個人の心の中には、個を超えた「世界の意思」がかなり混じっているのではないか? 人は世界の一部である。万象の「たたずまい」がすべてそうであるように、人も体現し表出する「現象」としての役目を担っているのだ。短歌においてしばしば、言葉の意思が作者の意思を凌駕(言葉の世界の通念が作者をねじふせるとか、言葉の求めに作者が共鳴して書くとか)するのは、短歌が言葉の世界の一部であるからで・・・・・・。――

で、私は何を考えていたんだっけ。これを考えているのは、私か? 世界か? と思考がストップしたとき、桑田佳祐の新曲「男たちの哀歌」の一節がテレビから流れた。

「どうせ生まれてきたならー、アホらしいのもありだぜー」

そのメロディが、いかにも誰かの「存在のたたずまい」の輪郭をなぞる気がして、おお、いいじゃんと思った。タリラ、タァーリララ、タリララァ。

「あ、これ聞いたことある」と、そばにいた長男が言った。言われて私もむずむずしてきた。タリララァ。あるある。よく知ってる曲みたい。

長男は、「似ている曲コレクター」である。いつも膝に載せているノートパソコン(どれだけの曲を詰め込んでいるのやら)をカシャカシャ打って、すぐに「ロード第一章」(THE 虎舞竜 1997年)という歌を再生した。確かに似ている。だが、私はその「ロード第一章」を知らなかった。

「他にもある。ママが知っている曲があるはずよ」

長男はネット仲間に呼びかけ、数分とかからず「You’re So Vain」(カーリー・サイモン)に行き着いた。

「これこれ。これが、ママが知ってる、タリラ、タァーリララ、タリララァよ」

10年おき、20年おきぐらいにヒットし、タリララァと輪郭をなぞられたがっている「たたずまい」があるらしい。もちろん前後が違う。歌詞も歌い方も声も違う。作曲者や歌手の独自性がそれぞれに変化を加えている。このタリララァは、新しい表現者を待ち構えていて、ひょいと表出したんだ。

人は長谷寺、短歌も長谷寺。そして音楽も。

長谷寺うんぬんは、「人は個が世界と出会う場、短歌は人が言葉の世界と出会う場」という暗示だった。生まれるって世界と出会うことかもしれない。最初からこういう言い方で頭に浮かべば世話はやけない。が、それでは人の言葉でしかない。「言葉」が「人」に話しかけてくる次元の言葉、「『言葉』の言葉」に出会う長谷寺。批評もそんな長谷寺たり得る。日々生まれなおせ。アホらしいのもありだぜー。

2007年6月「かばん」 今月の一首 高柳蕗子

縄とびす少女の腕のあせばみて青く血脈のふくるる朝なり 吉岡 実

このへんでばったり会ったんだなあ。

職場は神保町の古書店街の近くである。昼食のあとの短い一時を過ごすための喫茶店を探すとき、今でもときどきよみがえる面影がある。

時刻は忘れた。季節も忘れた。ただ、『ユモレスク』を出してまもなかったから、昭和六十年頃である。三省堂のそばの、道がカーブしているあたり。すれ違いそうになった人と目が合った。

「あれっ、ふーちゃん」

父の友人の吉岡さんが、びっくりしたような顔で立っていた。目の大きい吉岡さんはいつも少しびっくりした顔に見えたが、その顔にさらに「思いがけなさ」が浮かび、それが笑顔に変わるのをたっぷり一秒半は鑑賞した。

誘われて喫茶店に行った。すごく緊張していた。覚えているのは店内の薄暗さ加減だけだ。(あれは「ラドリオ」※だったかもしれない。)

なにしろ吉岡さんは高名な詩人である。父がそばにいれば「オマケ」でいられたが、父は前年に他界してしまったし、やばい、吉岡さんは『ユモレスク』を読んでいる。どういう顔を向けたらいいか。「てへへ」などと頭を掻くのは父の恥、いや、自分の恥。『ユモレスク』はすごく真剣に書いたものだ。ごまかし笑いなんかしてたまるか。

開口一番、吉岡さんは『ユモレスク』のフレーズをいくつもあげて、すごくほめてくれた。そしてこうも言ってにこにこした。

「でも僕の『魚藍』にはかなわないかな」

私はあせった。『魚藍』って何だっけ・・・・・・。

吉岡さんと別れたあと、すぐそばにあった大きな書店で、現代詩文庫『吉岡実詩集』をめくった。すでに持っている本だが、ああやっぱりだ。うしろの方に『魚藍』発見。読み落としていたんだ。

吉岡さんは社交辞令を言わない人だ。ほめてくれたのは本心だろうし、「僕の『魚藍』にはかなわない」と比較したのは、同じ詩歌の世界の「駆け出し」として認め、励ましてくれているんだろうし、同時に、きっと根拠のある指摘でもあるだろう。

『魚藍』に手こずりながら思ったのは、私の頭が風呂屋式だということだった。入り口で二分する癖がある。たとえば右の歌の「朝」を、歌の主体者にとって「いい朝」か「悪い朝」かみたいにまず考える。とりあえず男湯女湯、良い悪い、快不快などで二分して、歌意の下地の雰囲気を絞り込もうとしてしまう。本文では以降これを「風呂屋読み」と書く。

当事「朝」ですぐ思い浮かんだのは、父の「まなこ荒れ/たちまち/朝の/終りかな」である。この句は「風呂屋読み」でなんなく解釈できる。

――「朝」というものは普通、前日の疲れが払拭された新たな一日の始まりである。父はそのことを前提にすることによってその説明を省略(そういうレトリックがあるよね)し、朝一番に目にしたもの(例えば新聞記事だとか)のせいで、不快な現実に引き戻されてしまった「悪い朝」を描いている。――

とか。だが、吉岡さんの「縄とび」の歌は、こんな「風呂屋読み」では歯がたたない。

――〈縄跳び・汗ばむ=元気〉、〈少女=けがれなさ〉、〈血脈=生命感〉。ふむふむ、「良い朝」っぽい。(「風呂屋読み」では縁語的に拾い読むが常套手段である。)

でも、「青く血脈ふくるる」は奇妙だ。青は静脈の色だが、縄跳びで脈が速まるのは動脈だ。しかも「血脈ふくるる」という停滞感。老人みたいな感じ・・・・・・。もしや、この血脈は少女のでなく、主体者のだとか。いや、わざわざ「少女の腕」と言った直後に別人の血脈に目を移すのは無理がある。それに、妙な連想、〈汗ばむ=少女の成熟の予感〉をどこに片付けたらいいのかしら。――

このへんで「風呂屋読み」は挫折する。違う読み方はないものか。ふと、「朝四ツ足、昼は二本足、夕は三本足」という謎々を想起した。

――これは「朝」の中に、「昼」も「夕」もなんとなく幻視している瞬間なんだ。「朝」の元気な少女の縄跳び。リズミカルに時をきざみはじめる姿。「朝」という「始まり」には昼も夕も予感され得る。「少女」の中に凝縮されている「成熟」と「老女」を、「朝」の中に感じ取っている。そういう「朝」なのだ、良くも悪くもなくこの「朝」は。――

この解釈が妥当かどうかはなんとも言えないが、重要なのは、私が、自分の『ユモレスク』に、「風呂屋書き」が多いと気づいたことだ。気づいた後も、作者としての私は「風呂屋」を廃業できなかった。ずっと、ずっと。

その後一度もお会いすることなく吉岡さんは亡くなった。お会いしたとしても私は真意を聞いたりはしなかっただろう。 (高柳蕗子)

※「ラドリオ」はシャンソンがいつも流れている神保町の裏通りの喫茶店。