書評

『雨よ、雪よ、風よ。』

『雨よ、雪よ、風よ。』高柳蕗子著 ―読み巧者の評論集―

馬渡 憲三郎 まわたり けんざぶろう・詩人・芸術至上主義文芸学会会長

法光寺文芸誌「月光」第3号より (画面で読みやすいように段落ごとに空白行を挿入してあります。」


われわれになじみ深いことば― 「雨」、「雪」、「風」が詠み込まれている短歌と、その短歌の解釈からなる評論集である。その魅力は、短歌を〈読む〉とはどういうことかを、「私の解釈」をもって「惜しみなく書」いているところにある。その「私の解釈」の前提となる〈読む〉行為については、「序」でつぎのように述べている。


レストランのお客は味を分析できなくたって、おいしさはわかるのだ。

ただ、ひとつだけ難しいことがある。無意識に味わった言葉の隠し味やダシを意識にのぼらせて、アタマでも味わうことである。


〈読む〉という行為が「アタマでも味わう」ことだと、比喩をもって手際よく明快に説明されている。つまり、料理の「味」がおいしいか、おいしくないかの判断で止まっては、読んだことにはならず、その「味」を作りだした「隠し味」や「ダシ」まで「分析」して、初めて読んだといえるというのである。「隠し味」や「ダシ」とは、「言葉の情報は、事実を直接的に叙述したものではない。『読者や聞き手の言葉の体験を喚起する』という間接的な伝え方がある。」とする認識からの表現である。


これは、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』といった言語論、長谷川泉が提起した「三契機説文学鑑賞法七十則」、あるいは外山滋比古の一連の『異本論』や読者論とも通底するものであり、短歌に限らず、文学一般におけることば(あるいは言語)への〈表現〉、あるいは〈享受〉の問題として、極めて重要な指摘である。つまり、著者は文学理論の出発点であり、同時に到達点でもあることばの問題に着目して、「短歌を読解」しようとするのである。したがって、著者の〈読む〉行為とは、「短歌の中の言葉が読者の言葉の経験を喚起する現象に注目」し、「『言葉の味覚』段階にとどめず、意識化してアタマでも味わいたい」ということになる。


その「読解」の対象となった所収短歌は明治期以降のものが多い。また、歌人の数は巻末に付されている「作者名索引」を見ると、百名を超えている。(あの難解で奇妙な作品『ドグラマグラ』の作者夢野久作や、饒舌の詩人小熊秀雄の短歌も取りあげられていて、アンソロジーとしての楽しみもある。) 数多い撰歌を可能にしたのは、「インターネットに短歌の読解専門の掲示板を作った。」(「あとがき」)ことによるという。

撰歌された短歌は、「Ⅰ 雨の歌」「Ⅱ 雪の歌」「Ⅲ 風の歌」に分類され、さらに「Ⅰ」から「Ⅲ」はそれぞれ十五に分けられている。たとえば、「Ⅰ 雨の歌」での「1」から「15」までをあげると、「困難を希望に/すぐれたカウンセラー/心のサポート/立ち向かう決意/降りやまぬ時間/母と見た『時間』/時間は青い?/時間感覚の補強/滅びのはじまり/外界との心理的距離/高さと『非在』/幽体離脱?/天の恵み/時間は恵みか/『雨の』まとめ」となる。それぞれの箇所の短歌とその「読解」を引用すれば、著者の言う「私の解釈」ということがより納得されると思われるが、いまあげた項目を見ただけでも、その新鮮さと魅力は十分だろう。その項目は、短歌のなかの「雨」「雪」「風」ということばにたくされている世界の豊かさと広がりとを意味するものだが、それはとりもなおさず「読解」の結果として見いだされ、命名された〈雨〉〈雪〉〈風〉の象(イメージ)や機能なのである。


陰茎のあをき色素はなに故ぞ梅雨(つゆ)ふかきころ湯殿(ゆどの)に洗ふ



この歌の作者は岡井隆で、「Ⅰ 雨の歌」の「7 時間は青い?」のところに出てくる。その「解釈」はこうなっている。「梅雨時の湯殿で、はたと『陰茎のあをき色素』について『なに故ぞ』と思った。それが根源的な問い」であると。


この「なに故ぞ」を「根源的な問い」であるとするところに、読みどころがある。「湯殿で『生まれたままの姿』」であることと、「陰茎が命の継承に関わるもの」であることから、「根源的な問い」が「少し暗示されている。」とする。また、「梅雨ふかきころ」には、「深遠な時間の中に自己を意識するという『雨』の魔法」が効いているともいう。さらに、「なに故ぞ」については、「『青』が『時』の深遠にふさわしい色」であるとすれば、「『出産しない男性も、限りある生命の時間を生殖によって引き継ぐべく、永遠の時間のような青い色素を持っている』となる。」としつつ、しかし「そのように明確に考えた歌」ではなく、「男性的な不安、男性は無条件には時間に所属できないという焦燥感に、漠然と対処したような、ふとした思いを詠んだ歌」だというのが結論である。


風の向うに我家はありてあたたかき夕餉あること子の疑わず


齋藤史の歌。「Ⅲ 風の歌」の「2 『ない』ということ」のなかの一首。「この子は『我が家があり夕餉がある』のを当然」だと思っているが、「歌の主体者」は、あることが当然だと思っているような「我が家や夕餉」だって「いつ失うかわからないもの」だという「認識を持っている。」とする。「風の向う」とは「『いつ失うかわからない』という不確かさを語る役目をはたしている。」と読むのである。


この後に「齋藤史は、二・二六事件に連座した父を持ち、『定住』する暇もなく日本各地を転居し、妻となり、母となった。」事実をあげて、「この事実で、何の苦もなく歌の種明かしができるなどと思ってはいけない。」と釘をさしている。「作者の体験というアンチョコに頼らずに、『風』という語から、もっと普遍的に読み解ける」と述べている。


作品に対するこうしたスタンスは、今日の文学作品の研究や批評が、ややもすると作者の体験や、時代の文化論などで作品を読み解こうとする傾向があるだけに、貴重だと思う。なにより、文学作品は、社会科学や文化論の対象である以前に、〈表現〉としての〈文学〉の対象でなければならないからである。

著者は、歌のなかの「言葉の『雨』」、「『雪』という言葉」、「言葉の『風』」についての「特性」を「うまく生かした用例、応用例に注目」して「読解」しているのであって、現実の雨や雪や風を問題としているわけではない。そこから、「雨」「雪」「風」の「共通点」として、「世界への所属の希求、または世界のありかたへの関心」を読みとっている。また、「雨・雪・風の特性比較表」は貴重な労作である。


こうしてみると、この一書は歌の実作者でもある読み巧者によって作ることが可能になったといってよいだろう。読み巧者とは、作品の〈ことば〉と蓄積してきた自らの〈ことば〉全体との闘いを強いていく享受者であるように思わる。短歌を読もうとする人は勿論のこと、作歌を目指す人にとってもよき指針となるものである。