潮汐性母斑通信

潮汐性母斑通信 2000年12月(沖積舎)

あとがき 生まれなかった兄

白雨

発汗するなま新しい言霊にもだえるロボット霊媒部隊

産婆班はるけき虎影に復命し百の出産奇談を奏す

糠星の殻を踏み踏み僻遠をゆくロボットの虚無僧も兄

いちどきに滅んだキューピー人たちの遺髪ふぶいて星をまもる

おごそかに応射されくる心音のひたすら僕へと古びるちから

救助隊員みるみる小さくなってゆく唇に苦心の接吻を遂ぐ

きょうだいで掘る星深く遭うたびにまさぐり指でするちゃんばら

召還音発しつつ壊れて開かぬ養蜂ロボの胸のひきだし

艦らこの豪夢に眉を深めつつすれちがいざま相撃つ霧砲

人はなぜときどき不死身海水をごくんごくんと呑んでみせる

聴診器あてるまぶたのまなうらの宇宙映画の人類滅ぶ 題詠 音

世は白雨 走り込んでは牛たちのおなかに楽譜書く暗号員


潮汐性母斑通信

はるめらるはてなの兄は育雛器発明せり(潮汐性母斑通信)

あだぶらる電柱の兄横たえて検温すれば花野かだぶら

迷い熊の兄のおやつに口紅をめぱるく立てる霧の小窓

「おおい馬鹿野郎」とキリンできゆめなす兄のにきびは太古の星座

てのひらに星揉みこめばはきくまのいちばん弱い兄はけらいに

おおはるかロケットの兄すっぽんぽん お父さんはけさ死んじゃったわよう

幽された兄にむらがり楽器らがしくしく脱皮する草世界

花野 ああ倒れ込むとき兄の胸が凍りながら鳴るアコーディオン

兄よ兄よ 母が今夜も他の人にわからぬ言葉でわたしを叱る

勘当された兄見失う踏切でまだ少し動くしっぽを拾う

縮みゆく兄が早口になりながら白鷺の死亡時刻を当てる

月面車まじりの兄は純愛に脆く白い粉あたりにこぼす

傍受せり 裏の世に兄は匿われ微吟する「二一天作ノ五」

十年ごと兄は梟啼きで来て免状らしきを遠目にかかぐ

忘られた兄よ 母を泣く黒服に混じって一人まっぱだかの月


えーいえーん

象の鼻で打ちのめされて世に青む三日月のもと おばあさんと孫

走り出す車窓からおまえはこれと授与された鯨医の聴診器

人魚などいけません今宵とげとげと発語しながらよそる薄荷飯

駆けつけて屋根で煙突譲り合う消防服潜水服宇宙服

毛糸帽白目し黒目し編みあげるや姉妹で僕に叩きかかる

やじり降ろされた神仙めそめそと鳥獣にまじりゆく歌合戦

寂寞の顕微鏡深しみじんこの手旗信号たぶんでたらめ

たけなわをおばあさんになったあのひとが犬猫犬猫着崩れてゆく

朝日夕日ちっちゃいちっちゃい飛行機におとこもおんなもまたがっている

メガネ替える灯ともし語呂あわセールスマン いたるところに遠い親戚

ままーはるかみみーお人形ぜんぶ抱き椅子に乗る羽がいっぱい生える

死んじゃってごめんと死んだ僕も泣く えーいえーんと嘶く水棲馬

その嘘は叱るまいせめてもう生まれかわれぬ蜜柑たんとおあがり

ソフターにひたした顔をよく揉んでとんがらせ 三人でくちづけ

ご褒美は何だろ何だろ下敷きで頭をこする帯電競争


良夜

微笑んでもおじぎをしても乳首から煙がもれるほどにおばあちゃん

お手本の蜜柑を前にまた少し小さく座りなおすおばあちゃん

おばあちゃんの寝言とまらぬ家じゅうで十円玉が薄目をあける

おじいちゃんのとっておきの精液にやさしい顔のサンタがいっぱい

おばあちゃんの腸をヨナ抜き短音階しみじみとはるばると便通

はいさよなら ぐるんと顔をさかさにし月に復縁するおばあちゃん


心音

凍らないこどもが毎日買いに来て面罵で溶かすコンビニ店員

穂波 このさきに心臓ひとつもなしと聴診器を胸から掴み去る

おがくずの湿る地上でおくさんが縫って縫って縫う春袋かな

春がすみ鼻をつまんだ声が降る「有象が一匹無象が二匹」

花あかり みどりの指の細君に銀の消防服でただいま

パジャマ着せられた僕をまだ疾呼するひいひい声の夕空仮面

ご先祖のお臍のにおいまき散らし月が砕ける 歌えぼるぼる

ついてきた蛍びかりのいもうとの冷母音怖くてかわいがる

アネモネをかざして窓から還俗しごはんを食べる実存刑事

「パパ……!」と息呑めばパパそっくりの痴漢も驚いて降りてった

黙礼して過ぎれば何か言いかけてみるみる禿げる御尊父様よ

聴診器の少し届かぬ面影のおじいちゃん愁然と歩く飛行機

霊能を集めて一家がかきまぜるジグソーパズルの父の肖像


顔の海

鮫が突き出ぬように頬こわばらせ僕たちは向き合ったのだった

顔の海をふと老いるほど近づけて行き通わせる金銀の魚

珍獣を奪い合い二隻の船が沈む目と鼻 ほら愛してる

この海はいやだよひとりふくらんで人工心臓押さえている

波を背にかぶりつつかがむてのひらに毛が生えているやさしいひと

おたがいがだんだん怖い海の底 かわりばんこにめくるトランプ

抱き癖の大王イカを寝かしつけ僕を殺しに戻る細い腕

また僕を殺しそこねた暗闇で君がなる素敵な八腕類

僕は昔気質だ君が泣きながら産み散らかした卵を売るのさ

あなたごしに はるか浜辺のうすやみに手がふたつ出てかきまぜる砂

僕と君の寝顔の海が一晩じゅう囁きかわす「さよなら」「さよなら」


訛伝

水びたしの廊下をギターかきならし行ったり来たり 春の恋人

目を開いてもほら桜の闇のまま 足四本やわらかく眠ろう

おべんとう 指から食べたおたがいの中ほどが虹みたいにまずい

良夜ゆくさだまらぬ肩につめたい足あたたかい足たらしてよこす

十秒後手荒なことが起こる部屋にまぐわえまぐわえジグソーパズル

聴診器ぶらさげたクリスマスツリー 稠密な胸あけておよぎ寄る

胸郭に次の青空 手錠して凧あげている次の恋人

心臓に蜂とめたままさよならと笑い崩れてしまったんです。

お別れはだんだん脱いで雨蛙 ひと風ひと風おびる草色

耳ひらきまどろむ人よふがいなく汽笛は訛伝されてしまうなり

恥ずかしい命ふたつで奇想した森にむかってぼうぼう笑う

白木蓮もういないあの人たちがあたしのために使ったティッシュ


帯電

ひつじひつじ今日は右の空が青いあはは右手あげてあゆめば

星屋謎屋天にともりおかあさんは泳ぎのぼる雲にまみれて

遠目にも悲しいか良い子の僕が脚を束ねて背負うフラミンゴ

追えば手を胸にたたんで走り込む炎噴く家の蟻の女

飛行機を食べているのだよあげないよぴかっと光る私の片目

犬でないタロウが白墨声をして歌えばだんだん雪山讃歌

もっともっと草原情歌 俺は胸に固い子鹿がつかえている

お茶碗とお箸を持って大海原 一家はちょうちょに連行される

侮食卓 まぼろしのマストかしげつつ東めかした汽笛を放つ

よせて引く大闇小闇のとらやあやあ父島ラーメン母島ラーメン

聴診器あてようにも胸を蹴破って出入りしている白色レグホン


十の世

一の世はいつも夕暮れいつも秋 いろんな人のいのちを舐めよ

虹匂う二の世に鬱ぐ銀髯の祖父にうまって越冬すべし

三の世に再々婚は淋しけれ さばしびさばしび空耳埠頭

ヨーデルで呼べばやわらぐ四の世に詠みのこされし神仙の臍

香水をふりふりあやせ 五の世的語法指南役金剛鸚哥

六の世に驚くなかれ漏刻とみまがう老婆しかも論客

七の世も幼し 聖徒の撫でまわす姿なきだいじなオットセイ

八の世は葉影はるかに歯を磨く父母おわします はろう はろう

くしゃみするたんびに星が倍になる九の世に頭くぼむクラーケン

十の世の地雷畑に発根をうながすおばばじゃらじゃら声


どーりーどーりー

孵りつつ壊れつつ竜の聴く闇に無音の碁を打つロボットアーム

遠縁のおじいさんひとり住むという校歌のなかの秩父の山よ

口腔に黄昏あふれさせながら何でも買ってくれるおじさん

副担任の久保先生の両肺は開いた『文芸春秋』だった

はなうたはなうたがとまらずともだちをはるかな交番まで歩かせる

だぶだぶのドレスのなかは乳首噛むインコの世界ボキャブラおばさん

土産物店はてしな屋本舗にて鳩笛を売る分身療法

火事だあって言ってかあさん逃げちゃった 足を開いて座る人形

原油漏れタンカー接近 園長の何の歌でもないふんふんふん

抱けばもがくうさぎだけれどわからぬよう通電すると少しわらう

もう遊びたくない水鉄砲くわえ水の残りを呑んでしまう

一度でも人のこころに触れたものは燃やせばわかるどーりーどーりー


十人

始業八時いっせいに踏む空ミシン 祖父一郎の韻律工場

〝み〟と呼んで待てばはるかに〝ぼう〟となす 夕空搾乳船二郎丸

おちんちんが嘘発見器の三郎スパイ その反対の妹スパイ

体液の虹の濃度を勝ちほこり ぼくは四郎砲声デザイナー

怖くないように五郎が平家物語調で撃ってくる機関銃

馬券売るひとみ破れた六郎を封印すべく 裏文字「銀河」

金波っぱ銀波っぱ鶴先生のお弟子は月下に七郎ひとり

添寝用潜水艦の八郎を抱けば蕭蕭とおねしょしている

インバネス 墨客九郎が愛用の筆のうるさいオウムをしまう

招聘されまんなか病の十郎が腰まで埋まる大花時計


交番

犬を蹴るまっくら男に交番を灯して巡査が指す青い山

火がめくる『月刊交番』めくりつつ火が男泣き『白い警官』

君は迷子これが本官 ひと撫でした額の地図に黒疣交番

父に教わったチェスでは盤上に交番があり正義が勝った

くんくんいう子犬を抱いて胸固く青くいっそう婦警たるべし

手錠した両てのひらにかわるがわる聴診器あて「どちらも無罪」

紅白の巡査に添われ飛行機をおんぶしておばあちゃん歩きだす

アコーディオンひとつしゃにむに弾き終わる 待つ人は粉雪の交番

うずいている夕焼けている 関係者各位わたしの乳首は交番である


√兄√妹 宇宙服で漂いながらするせっせっせ

※末尾の歌は「あとがき 生まれなかった兄」に含まれている。

生まれなかった兄

歌集「潮汐性母斑通信」あとがき


鬼ごっこ

言葉を発しようとすると、いろんなことが明瞭になろうなろうと群がり寄ってきて、「どうだ、言えまい書けまい」とからかう。そして、次の瞬間に、なんだか世界が逃げてゆく気がする。私と世界が二人でする鬼ごっこだ。私にタッチした友だちが、鬼になった私から身を翻して飛びすさってゆくのだ。

例えば、長いこと、「兄」に擬人化して考えてきた事柄があった。これを短歌に書こうとしたら、できあがった「潮汐性母斑通信」は、ひどく見当はずれなものになった。

もちろん、短歌のせいではない。ひとつは「兄」への擬人化が、ひどく個人的で特殊なきっかけに由来するからだ。そんな由来は短歌に持ち込めないから、「兄」が、はだかの語になってしまった。これは仕方ない。

さらに、私の頭には、ものを考える書斎と別棟になっている短歌シアターみたいなものがあり、そこの演出家がまたやぼったいのだ。はだかの兄のかすかな悲壮感のある体臭によって、なにやらかわいそうな兄を供養でもするらしい情緒的演出を、彼は施さずにいられないのである。

かといって、これらの歌が気に入らないわけでもない。勝手に生じた歌から気に入ったものを自作として採用する、という方式も悪くはない。「そういえばこういうのも書いてみたかったんだ」と、「私の作品」として追認したってかまわない。世の中の事象の大部分は、そのように、偶然となりゆきで事実として確定するのだから。

けれども、そうこうするうちに、明瞭になろうとしていた世界は飛びすさる。タッチされて鬼になった私が、逆に追いかけてタッチし返すためには、頭を使い、言葉で表さねばならないという枷がある。要するに、痴漢がさわり放題で、こっちはさわられたことを立証しなければならない、という不公平な状況だ。山と谷の高低の差に、平らになろうとする力が保有されているとすれば、この不公平さの中に保有されている力は、どんな平らに行き着くのだろう。

しーっ。「兄」はいつでもそばにいて私に触ることができるが、「兄」を捕まえるには、普通の叙述でなく、こういったレトリックで罠をしかけ、よそ見しながらタッチしなければならない。私は短歌でそれがあんまりできなかった。


二つの不快な問題

「兄」は、次のようないきさつで、生まれなかった。

私が生まれたとき父は、男の子の名前しか用意していなかった。父がそう言ったのだ。言ったあとで、なぜなら女の子にはずっと前から蕗子という名を用意してあったのだ、と弁解した。

それは事実だが、嘘である。「蕗子」という名前の用意については事実だけれども、もうひとつの事実、父が女の子でなく男の子の誕生を期待していた、ということとは別である。父は名前の用意の有無の話であるふりをした。子供はこういう嘘にはだまされないが、嘘をあばくほど言葉を操れないために、また、父を嘘つきにしたくないために、指のささくれをむしりながら「ふうん」と言うのだ。

ここから、二つの不快な問題が生じた。

ひとつは「男の子」だ。私は生まれた時点でその子に勝っており、あとが生まれる恐れはなさそうだった。だから父には一人っ子の私しかいない。にもかかわらず、父はずっと、私が生まれたときの「なんだ、女か」という落胆を反芻しており、私にはそれをやめさせることができないのだ。私は一生くやしい。

だがそれは、もうひとつの不快に比べれば単純だった。足の裏が縮むいやな感じ。二つ目の不快は、当時の語彙ではそうとしか説明できなかった。憎むべき対象がなく悪態もつけない漠然とした動揺。今ならこのように言える。あれは、「自分が確かな存在でない」という底のない不安に耐える不快感だったのだ。


一平方メートルの確かさ

そのあと父とトランプをやった。配られた自分のカードを広げるとき、「つまりこれだ」と感じた。それから、「漂流者みたいだ」と思った。そのときかろうじて確かなものは、テーブルとそれに触れている私と父とトランプのその一回きりの組み合わせ、だけで、あたりには不確定な世界が押し寄せていた。

つまりこういうことだ。私はトランプで配られた偶然のカードの一枚だ。配られたとたんにかけがえのないカードになったが、その直前までこれは、何の札にもなりうるのっぺらぼうだったにちがいない。膨大な可能性が、不確定世界のエネルギーが、一瞬にしてこれを「私」に決めたのだ。

ここで今「私」と名乗っている私の出現は偶然だ。別の女の子が生まれ、「私」はその子だったかも、なかったかもしれない。あるいは男の子が生まれ、「私」はその子だったかも、なかったかもしれない。あらゆる可能性の中から一つだけが実現してかけがえのない事実になり、そのために他の可能性が全部消滅する。

ここにいる私は、たくさんの選択肢を通過した結果である。不確定な世界に浮かぶ小さなテーブルのあたりに、このパパと、この私と、このトランプが浮上して、一平方メートルの確かさを拠り所としたかけがえのない組み合わせに、偶然なったのだ。だのに、手の内のカードには、これが私のものとして確定する直前の、不確定な世界の匂いさえ残っていない。

このテーブルの表側は、結果側の世界だ。そして、裏側は、それ以外のすべての世界に面している。私が父に抱いた「一生くやしい」みたいな喜怒哀楽の感情は、結果側世界のたかが一回のポーカーのなかでだけしか通用しないだろう。

それまでは、結果側の世界しか知らなかったわけだが、ふいに足下に出現した不確定側も合わせて捉えなおした全世界は、ばかに居心地が悪い。可能性のなかから一つの事実が確定されてゆくとき、誰もが世界そのものの一部である。私でも私でなくてもかまわないほどに一部なのである。それも「ここに在る間は、ここにそれなりに在って、一瞬一瞬のすべてのどうでもいい事実を担う」という恐ろしく退屈な役目を偶然ふられている。見よ、トランプたちの憂い顔。

もちろん、当時は、こんなふうに言葉にして考えることができなかった。言葉にならないもやもやは、短い夢のなかで奇妙に処理された。夢の話なんかで恐縮だが、ここから「兄」の話になる。


夢の取引き

「実は、ふーちゃんには、生まれなかったお兄さんがいるんだよ」

と、パパに言い渡されている。

どこかよその家の前だ。

(ここにそのお兄さんが住んでいるらしい。)

パパは呼び鈴を押した。

何の音もしない。誰も応じない。

私の内側の一点に、こおろぎの鳴くような疼きが起こる。

「留守だね」

パパと私はくるりと家に背を向けて、どこかへと帰った。


夢は、困ったことをうまく解決する。まずは、競合する男の子を、さりげなく「兄」にずらす。そして、この世で私が独占している愛情権益の割譲を迫らないようにドアで隔て、その向こうは父の呼び鈴が届かない場所、私の内部だというふうに空間をひん曲げる。これで「兄」は、私の内側に幽閉された。

それは同時に、「兄」と自分が合体することでもあった。男の子は憎らしいが、「確かな存在ではない不安」は、生まれなかった「兄」に補強してもらいたいほど強かったからだ。なかなかうまい取引ではないか。

世界と渡り合うには、こうしたトリックを要するのだ。以来、私にはちょっと憎らしい「兄」がいる。

このあと、世界の不確定側を擬人化した兄と、結果側を代表する私、という対比をなす世界観がなんとなく形成されるが、それとは別に「生まれなかった兄」は、閉じ込められ続けてしまうのである。

事実を保証するもの

運動会に大玉送りという競技がある。子供たちはぎゅうぎゅう並んで、みんな両手をあげて大玉に備える。大玉が頭上を通過するとき全員の手が触れるわけではない。子供たちの手の多くはむなしくおろされてゆく。が、触ることができた少数の手だけでは、大玉は送れなかったはずだ。すべての手が必要だった。たくさんの可能性が準備されなければ、一つの事実は成就しない。大玉に触れた手と触れなかった手のエネルギーを合わせたものが、世界の力である。

あるいは宝くじ。大部分の人には当たらない。はずれた人のお金が結集して、当たった人のものになる。ということは、はずれることにも意味があるわけだ。世界は当りとはずれの合計である。

ゆえに、兄側世界は私の味方であるはずだ。実現したただ一つの事実には、〈あり得たが事実にならなかったすべて〉が結集されている。ここに私がいるのは、たくさんの可能性を押し退けた結果だ。が、消滅した可能性たちは、私の犠牲になったわけではない。実現しなかった可能性たちは、私という事実を保証するのである。


でも人間は無念がる

さて、ここまでの文では安易に「私」と名のってきたけれど、私にもいろいろある。兄と仲良く世界を二分する「私」に気づくと同時に、この文章を書いている私の、認識主体である「私」が、それとは違うことにも気づく。後者はなんだか、別種のエネルギーを持っているように思える。

なるほど、多くの可能性のなかの一つだけが事実になる。このとき、膨大な可能性のハズレ分が無駄にならない仕組みになっている。けっこうなことではないか。

だが、どうしたことだ。可能性たちは、消失するときにちっとも無念がらないのに、人間はとても無念がる。ハズレ馬券はコンチクショウと破り捨てられるし、運動会で大玉に触れられなかった子供たちは「ちぇ、つまんないや」と思う。みんなの力が結集されて誰かが当選金を受け取り、大玉はめでたくゴールに送られた。世界はとどこおりなく満足したが、人間には不満が残る。それはなぜだろう。

なぜなら、私の心をふだん支配している認識主体は、先の世界観とは管轄の違うものだからだ。

それは、自分の内側にいる自分の「飼い主のような視点」であり、自分を唯一の生きた財産として育成している。おもしろいことに、それは、すべてに対して間接的な立場だ。そこが「飼い主」の弱点であり、自分を介さなければ何もできない。

自分とは、不確定世界から偶然確定して生じた結果だが、偶然そこに宿った「飼い主」は、その自分から出られない。まわりは、不確定から確定へと進み続ける宇宙だ。その中で、「飼い主」は自分という宇宙服に閉じ込められている。

自分を気に入らなくても、自分以外のものに移ることはできない。自分が死ねば「飼い主」も消滅しなければならない。「飼い主の視点」は、自分の成功を「わが事」として喜び得る唯一の視点だ。人のことはどんなに喜びたくても「わが事として」は喜べず、親しい人や好きな人などの幸福は、「わが事のように」あやかって喜ぶしかない。自分の不成功はしんそこ無念である。「飼い主」だけが自分を真に思いやる。自分を傷つけた他者を憎み、「一生くやしい」と思ったりする。

わが子の成長、ただそれのみを生きがいにしている親は、世の中と間接的に接していると言い得るだろう。それと同じように、「飼い主」は世界に対して間接的であり、もどかしく、孤独である。この焦りと不安のなかで、唯一の財産である自分を守り、本来いかなる価値観も存在しない世界に、何らかの価値観を見出した上で、自分の価値を高めようとするのが、「飼い主」である『私』エネルギーだ。


ライバルは世界

しかし、同じ「飼い主」どうしで、そういう好き勝手な価値を見比べあっても空しい。「飼い主」が一致できるもの。それは、世界との間接性だけである。

いつだか解説の双子のマラソンランナーが、おもしろいことを言った。兄弟の片方が遅れた場合、遅れたBは先を行くAに対して「自分の分もがんばってくれ」と思うのに、そのとき先を行くAは後ろのBのことなどほとんど考えないものだそうだ。

ランナーたちは、みんなが心を合わせてひとつの目的のために走っている兄弟のように見える。後方の者は先を行く者を支援しているような、先頭グループは後ろを心配することなくよりよい結果をめざしているような。そういうエネルギーの配分が、マラソンには潜在している気がする。

選手たちの内なる「飼い主」はみな互いに競合する精子のようなライバル関係にあるが、そんな対等な者同士の競合以前に、彼らの一致したライバルは、不確定を確定することにあけくれる世界のしくみではないだろうか。

「飼い主」たちは、世界に対して間接的であるという共通点により、個々のライバル意識以前に、世界全体をライバルにする、という淡い団結を前提にすることができる。これによって、不確定をより自分に有利に確定すべく確定される事実の前へ前へ走り出ることが、ただの空しい競合にならないのだ。

胎児は母体を蹴って生まれ出て、対等の人間になる。包含されたものが、包含する全体と対等になるという矛盾を越えて、命は再生する。全体に対して部分は挑戦し続ける。不確定から確定に倒れこむという、世界のしきたりに対抗する行動を、人間はしきりにとっていないだろうか。


孤独が存在の証拠

金メダルを貰って手を振る優勝者の喜びには、ほんのわずかだが孤独な面がある。彼らは金メダルを貰ったのがまさに自分だから嬉しいのである。勝者の「飼い主」は、自分が勝者であることを「わが事」として喜ぶ。

一方、観衆の「飼い主」たちは、その幸せを想像して喜びにあやかるという都合で、その人の名や顔を覚えはするが、実は優勝者が誰でもかまわない。双子のAでもBでも、他の誰でもかまわない。卵子に到達した精子はどれでもかまわない。一生かまわない。

優勝者について「前回惜しくもメダルを逃し、その後、怪我や肉親の死など苦難を乗り越え」等々のエピソードを知っている場合は、たやすく勝利の喜びにあやかれる。が、そうしたエピソードを知らぬ勝者(その人も同じような苦難を乗り越えてきただろうに)に対して、私は驚くほどよそよそしい。

「誰でもかまわない」が、やけっぱちに聞こえたとしたら、それは誤解だ。優勝者の誰それの中に宿るのがどういう認識主体であるか、そのかけがえのなさについては、誰ひとりかまえないのだ。高柳蕗子の中にいるのが、「この私」であろうとなかろうと、親でさえかまえない。かまうのは、「飼い主」の「この私」だけだ。これはそういう次元での話である。

「飼い主」である私は、勝者の喜び、敗者のくやしさといったコントラストに、いろいろな思いを重ねあわせて、今、シドニー・オリンピックをくいいるように見ている。かけがえのない自分を出場させている選手たちの姿に感動する、という娯楽に夢中になる。

だが、どんなに感動しようとも、私にはそのすべての人が実は誰でもいい、という事実は変わらない。「わが事」というものの孤独、閉じ込められた「飼い主」特有の孤独、どうしても触れられない他者の喜びこそが、逆に、真にそこに同類のものがいることの手応えでもあるのだ。そして、この淋しさにしか基づけない行為がある。


飼い主はルールで対抗する

もしも、私が長年やりたくて果たせないでいることを、誰かにあっさりやられちゃったら、さぞやおもしろくないだろう。きっと一生くやしい。

しかし、それは「飼い主」の見地からのことだ。私には例の幽閉中の「兄」がいて、

「それでも果たされないよりは良かったのだ。それを自分がやろうが誰がやろうが、同じことである。自分がやれば自分がうれしく、誰かがやれば誰かがうれしい。その違いは小さなことだ」

と囁く。

これはいささか説教くさいし、孤独をちっとも癒さない。実のところ、ボランティア貯金の利息のうちのいくらかが、いつのまにかどこかのすばらしい事業に寄付されているはず、と思う程度のことでしかない。しかも「兄」は、

「どこでもいい、その孤独にあきたらやめていい。おまえが立ち止まった任意の場所がゴールだ。すべての場所で僕は待っていてあげるよ」

と、すごく憎たらしい愛で包もうとしてくれる。

多くの人は偶然を好むように見える。美術品の評などで、「これは作ろうとして作れるもんじゃない」と、偶然の成功をたたえたりする。それでも、私たちは偶然性に対して、いつもいつも素直というわけではない。

「今」と私たちが呼ぶのは、「今」に一瞬遅れた結果でしかない。次の「今」、すなわち本当の「今」はすでに、次のドミノを倒すエネルギーとして未来に倒れかかっているはずで、私たちはそのエネルギーそのものであるにもかかわらず、結果から間接的に、後手にまわってしかそれを感知できない。「飼い主」はこの無聊をかこつのがいやだから、しばしば目的を決めて歩き出すのだ。

目的を決めてから歩き出すのは、偶然のなりゆきで結果が確定する世界のルールに対して、倒錯した行動で、実に「飼い主」的なやり方というべきだ。目的のために足を生やして歩き出す、ぐらいのこともやりかねない。他者との競合で、一生くやしい思いをしても、一生くやしくもない退屈よりはましかもしれぬ。

しかも、目的を果たしたとき、「なるべくしてなったのではない、なるべしと私がきめてならせた」という小さな勝利感を味わえる。そして、それが勝利であるならば、「ゴールを私が決める。そこに私が到達すれば私の勝ち。(それ以外はもともとだから勝敗なし)」、というちょっと有利な新ルールを、世界に対していつのまにかちゃっかり発令してもいるのである。

この新ルールの発令の仕方が、世界に対してひどく孤独である。「飼い主」の孤独は、部分が全体に対抗する独創のエネルギーである。


短歌は「兄」の宇宙服

私は短歌を、例の閉じ込められている兄に着せる宇宙服にできると思った。短歌にはボディがある。浮世離れした短歌のボディが、「生まれなかった兄」を体現させるものとして、うってつけであるかに思えた。

空のボディが用意されている短歌は、もともと反世界的な知恵かもしれぬ。そして、あの「兄」は、「飼い主」とも異質な孤独者であり、生まれなかったのに消滅しそびれ、また、不確定側世界とも隔てられた、世にもめずらしい存在だ。仮想しただけで世界観が変わる、自慢の「兄」と言ってよい。

ここで、短歌シアターの演出家が得意そうに口をはさんだ。

「ふむふむ、こりゃ一首できるね。要するにふたりの閉じ込められた似た者同士がいるってわけだ。一人は夢で『兄』と名づけられて幽閉された兄。もう一人は飼い主である認識主体。飼い主の方は、もう自分という宇宙服を着ている。ここで、兄に宇宙服を着せてだなあ、さらに『飼い主』が『妹』と名乗っちゃえばだなあ(今まで一度もそう名乗らなかったけどかまわないよね)、みごとなシンメトリーだし、おとぎばなしのような情緒性も帯びるだろう。ふむふむ」

私は断じて「兄」の妹ではない。だが、彼に協力して兄と妹ごっこをしてみせる。

兄:僕たちが宇宙服で出会う。それでいったい何をするんだい?

妹:あは、相撲とか。

演出家:はい、一首できあがり。この文章の要点を、ばっちり要約して、しかも心あたたまる歌に仕上げたよ。

√兄 √妹 宇宙服で触れぬかげんにするせっせっせ

兄・妹:あいかわらずだねえ。

* * *

めくられていることに気づかぬぐらいにそおっとトランプをめくることができたら、ダイヤのジャックがあわてて服をはおろうとするところが見られるだろうか。その裸のジャックに短歌を着せてトランプから連れ出すことは可能だろうか。

この歌集の短歌は、いろんなめくり方をしたにもかかわらず、結局めくってしまったトランプである気がする。その一点がひっかかり、こんなに長い後書きを書いた。収録歌たちが私の愛を疑わぬよう、念のため申し添えるのだが、それは、歌が気に入らないということではもちろんない。

二〇〇〇年九月

高 柳 蕗 子