「闇鍋」を使った初期のエッセー

時間は青い

時間は青い?

高柳蕗子 2000年ごろ

闇鍋を使って仮説を検証したこのエッセイは、後日、評論『雨よ、雪よ、風よ』へと膨らませて出版しました。

はじめは「雨」と「時間」について考えていた。「雨」は、「花のいろはうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに」に代表されるように、人知を超えた時間と人間を対峙させる働きがある。この有名な古歌は、「眺め」と「長雨」、「降る」と「経る」という掛詞によって、雨と時間の関係を日本語の情緒性に強く定着させたかもしれない。というわけで、雨の出てくる歌を集めて読んでいたら、確かに雨の歌には、深遠な時間感覚を帯びたものがたくさんあった。その中の一つに次の歌がある。

陰茎のあをき色素はなに故ぞ梅雨ふかきころ湯殿に洗ふ 岡井 隆

この歌には、そこはかとなく「時間」感覚がたちこめている気がする。ただし、「雨」だけで、ただちに「時間」を表しているわけではなさそうだ。「梅雨ふかきころ」で「時間」を想起させる可能性を帯び、あわせて、風呂場で、無防備な「生まれたままの姿」で、はたと非日常的なことを「なに故ぞ」と考えたシチュエーションが、根源的な問いであることを暗示している。この二つが、深遠な「時間」へと連想を向かわせるのだろう。

いや、もうひとつ、「青」も、なぜか濃縮された時間の色素を思わせる傾向があるようだ。この三つが重なって、「時間」を詠んだ歌だということが決定的に濃厚になっている気がしてしかたがない。時間といっても、今問題にしているのは、刹那でなく、「永遠」のような、人知を超えた時間感覚だ。青はなんといっても空や海の色だから、はるかで果てのない深遠な感じがある。だから無意識にも「時間」とコーディネートされやすいのではないか? 用例がけっこうあるのではないだろうか?

そういう経緯があって、データベースで「青」と「時間」を両方含む歌を抽出してみた。

蒼穹は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶 岡井 隆

濃紺の車すべらせ逢いにくる海より蒼い時間を連れて 俵 万智

どのやうな心も青く老いやすい時計塔のみおろす広場のカフェ 井辻朱美

自動改札通した切符胸元へこのうす青き時間を照らす 尾崎まゆみ

指鉄砲で飛ばしたゴムの輪の中に時の青さが一瞬満ちた 千葉 聡

永遠に降る雪が恋うお前から青いファイルを手渡されるとき 茂泉朋子

青塗の瀬戸の火鉢によりかかり、

眼閉ぢ、眼を開け、

時を惜めり。 石川啄木


というわけだ。「永遠」「とき」「あお」「あを」「蒼」なども含めて抽出)その結果、上の歌を得た。うしろの二首は、作者が目にした火鉢やファイルがたまたま青かっただけかもしれないが、他の色にすると歌の雰囲気が壊れそうだ。必ずしも無関係とは言いきれない、ということであげておいた。

(比較のために赤、黒、白も同様にしてみたところ、「赤い時間」といった用例は見つからず、時間といっしょに使う例そのものが少なかった。どちらかといえば赤や黒は時間といっても区切られた時間、白は孤立した空白のようなイメージを形成しやすいようだ。)

右の結果に信をおき、「雨」「青」が永遠のような「時間」を想起させうる語だとしてこの「陰茎」の歌を読み解くとすれば、次のようになる。

★雨降りは世界そのものの永遠の時間を言葉の伝統の力で想起させそうになる。それに対して、命の継承に関わる陰茎は、限りのある命の時間を絶やさず引き継いで行くものだろう。そこに濃縮されたかのような青い色素は、時間の色素のようなものである。無防備な姿で雨の季節にたちこめた永遠の時間をなんとなく感じ取ったとき、日ごろ見慣れて気づかないでいるものにふいに目がとまり、自分の体に込められた継承される時間について考えそうになる。この歌は、おそらく作者が作る段階で無意識のまま曖昧に体験したイメージの重なりを、読者にも同様に曖昧なまま体験をさせる、そんな作りになっているようだ。

もちろん、「雨」と「青」を入れさえすれば「時間感覚」を表現できるほど言葉は単純ではない。

雨の歌に「青」が詠みこまれた例は多いが、すべてが時間感覚を帯びるわけではない。それでも、「雨」と「青」を両方含む歌は、偶然とは思えぬほど多い。「時間」に結びつかぬにしても、何らかの親和的傾向はあるようなので、参考のためいくつかあげておこう。


【雨と青】

雨あがりあをいリボンをみつけたらきつとうさぎは耳を押さへる 山崎郁子

あをき血を透かせる雨後の葉のごとく鮮(あたら)しく見る半袖のきみ 横山未来子

さながらに青皿なべし蕗の葉に李は散りぬ夜の雨ふり 長塚 節

さびしき夢の過ぎしあとにて噛むレタス 青レタス畑雨降るらしも 斉藤 史

リビングに青い毛布を持ってきて丸く眠れば滴る雨夜 田中 槐

友人の頭髪そよぐうす青い春の雨からうまれたような 東 直子

双子の少女左右(さう)に抱ける夢果てて青き雷雨の夜を覚め居り 高島 裕

雨上がり遠近法は崩されていちばん前の青空が好き 田村葡萄


言葉には直接的喚起だけでなく、間接的に喚起する領域があって、それが密かに読者を刺激する。刺激の度合いが読者によって異なり、共通認識にまではなっていないが、使用例の蓄積があってイメージ傾向が無意識のまま定着しかけているという程度のあいまいな領域。説明できないが「なんとなくわかる」という現象が起こるのはこういう領域の刺激だ。

そういう言葉の刺激は、意味や文脈を離れて、文字だけでも起こるかもしれない。衣服のコーディネートのように、歌のどこかに使われているだけで、一定の効果を持つのではないか。「青」と「雨」と「時間」のクロス抽出の際にいったんは除外したけれども、次の歌に出てくる「青年」などは、「若者」などと置き換えたくない気がする。ここには「雨」や「時間」と「青」の親和性、イメージの間接的な領域での重なり合いが、多少は影響しているのかもしれない。


青山の町蔭の田の水(み)さび田にしみじみとして雨ふりにけり 斎藤茂吉

海の上に蕗色の雨 青年は日日賭くる、われの老いゆくかぎり 塚本邦雄

光年のしずかな時間草はらにならびて立てる馬と青年 井辻朱美

腸弱き青年を抱く白きへび時間が水にとけゆくような 東 直子


「青」のことから離れるけれど、「雨」と「時間」の組合せでひとつ興味深い歌があったので、私なりの解釈とともにあげておく。


緑野に時計は二つ重ねられ雨の最初のひとつぶはじく 東 直子

★この雨は、時間を表す雨でなく「滅びと再生のはじまりの雨」である。普通の雨は、少しの困難をもたらすだけであがってしまうが、中には地上を滅ぼすノアの洪水のような事態に発展する雨もあり、雨のはじまりはその最悪のケースへの展開をはらんでいる。(そういうテーマの雨の歌をときどき見る。)

そのせいで、二つ重ねられた時計という設定に潜む神聖さが、さらに強く方向づけられるのだろう。滅びと再生という時の終わりと始まりとが何かの拍子に重ねられて、セックスして(させられて)いるみたいだ。「られ」という何気ない、受身のような偶然の結果であるような言い方の苦味も見落とせない。

「時」のアダムとイブが、そうやって、自分でやめることができぬまま、野原に転がって時を生み出しつづけているかのようだ。

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『古今集』の「ほのぼのとあかしのうらのあさぎりにしまがくれゆく舟をしぞ思ふ」は柿本人麻呂の作と伝えられるが、収録時点ですでに作者などわからぬ古歌で、儀礼歌のようになって伝えられていたものらしい。『古今集』に収録されたことで、「詩歌作品」としての命を新たに得て鑑賞されることになり、その後の歌論書でさまざまな解釈がなされている。

昔は、歌に「おもての義と底の義」があるとして、底のほうをずいぶんと深読みをする場合があった。私が目にした解釈は、掛詞に着目しすぎて「故事付け」に見える部分があり、私だけでなく、この歌の真の作者が見ても、面食らうだろうと思えるが、掛詞によって「底の義」に到達しようとするのは当時の、いわば読解のまじめな技法だったのだ。だから解釈としては精密で、「故事付け」も筋が通っており、歌に新しい命を与えていることに感銘を受けた。

そんなわけで、昔の人には及ぶべくもないが、深読みを恐れず、歌に即しつつも読解に重きをおくことを試みた。


※あとから読み返すとあぶなっかしいところがある。

まだ「闇鍋」のデータ数が少ない時期だった。しかし、記憶と感覚に頼るのでなく、データから裏付けを取りながら書ける心強さに押され、「闇鍋」はこのあとちゃくちゃくとデータを増やしていく。