1.城のはじまり

 城はなぜ生まれたのか?

城はなぜ生まれたのでしょうか。当初は合戦目的ではありませんでした。


日本の「城」は、西日本から広まった環濠集落と呼ばれる、周囲に堀を巡らせた集落が前身です。縄文時代には既にありました。

「環濠集落」は大昔、大陸からやって来た渡来人から、農耕と共にもたらされたと言われていて、集落を柵や堀で囲む文化ができました。



日本でむら同士の争いが始まったのは弥生時代から。「縄文時代」に集落を堀や柵で囲っても意味ないはず。

だって、むらを攻めようとする人なんか縄文時代にはいないわけだから。

でも実は...当時、堀や柵は戦いから身を守るための用途ではなく、別の用途がメインでした。


①区画分け

環濠集落内の区間を分けるため。でもあったらしい。

縄文時代には祭りもあったので祭りの場所(祭祀場所)、居住区域、作業スペース、など、使い道によって、区間を分けるために用いられたともいわれています。

②害獣除け

縄文時代、弥生時代前期までは、害獣除けとしても使われていました。


このように、縄文時代は戦闘目的で使われていたわけではないのです

弥生時代

弥生時代から、むら同士の争いが激しくなり環濠集落が戦い目的で使用されるようになりました。

すると、人々はより強力に敵を倒すために環濠集落の防御力を高めていきました。

柵を何重にも張り巡らせ、深い堀を掘って、「郭」と呼ばれる、攻撃拠点を作るようになりました。

こうして、環濠集落の防御力が高められ、だんだんと「」が形成されていきました。

日本で最初の「城」 吉野ケ里遺跡

佐賀県にある吉野ケ里遺跡は日本で最初の城とされています。

なので今日は吉野ケ里遺跡について書きます

吉野ケ里遺跡はおよそ117haの大規模な環濠集落。

上の写真のように、城用語で言う桝形虎口(入口の通路をクランクさせて敵を4方向から射撃する施設)があります。

桝形虎口は、入口の防御力を高めるために、入口を発展させた形なので、弥生時代には既にあったと思うと驚く。

現在、物見矢倉や住居、倉庫などが復元されています。国の特別史跡に指定されてい るのでそれだけのものはあります!

その他の環濠集落遺跡

朝日遺跡(愛知県)では逆茂木が発見されました。逆茂木とは、先端をとがらせた木を逆さにして、敵の侵入を阻むものです。

また、大塚遺跡(神奈川県)では2重の堀が発見されました。さらに南諏訪原遺跡(福島県)では柵で囲まれた集落跡が見つかり、伊場遺跡(静岡県)では土塁を設けた環濠集落も見つかりました。

環濠集落は柵、空堀、土塁、逆茂木で守っていたんです。



ここから、大規模なむら同士の争いが激化していき、環濠集落は「どうしたら守りやすくなるのか」「敵が攻めにくい環濠集落を築くにはどうすればよいか」、と、高い防御力が求められるようになり、環濠集落は「城」へと変貌したのでした。



おしまい