現在の高輪 歴史散歩

町会の範囲を越えているところもありますが、当町会周辺の高輪2丁目交差点~桂坂~二本榎通~伊皿子坂~泉岳寺~高輪神社~正覚寺~高輪2丁目交差点をぐるっと歩いて、今の高輪をスナップしてきました。(一部昔の画あり)

写真撮影場所

①旧町名由来板

②高輪海岸石垣石と説明板

③桂坂 由来碑

むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていたため、坂名の由来となったといわれる。また、かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。

 桂坂の風景

④高輪台小学校

高輪台小学校は、昭和10年3月25日 臺(台)町、高輪両小学校を介併し東京市高輪臺尋常小学校と命名され開校。


高輪台小学校HP 学校沿革 より


上記の通り、校名は都営浅草線の「高輪台」駅とは無関係 高輪小+町小=高輪台小


災害時の当地区の「区民避難所」です。

⑤高輪消防署二本榎出張所

受持ち区域 高輪二,三,四丁目。

この建物は昭和8年(1933年)12月28日に落成したもので、近代建築の遺産(ドイツ表現主義)として東京都文化デザイン事業により保存建築物に指定されています。

配置されている消防車両は、ポンプ車1台、化学車1台です。

 

東京消防庁HP>高輪消防署>消防署紹介>二本榎出張所 より

⑥承教寺(じょうきょうじ )

日蓮宗の寺院。山号は長祐山。日蓮宗の信者であった英一蝶ゆかりの寺院である。本尊は曼荼羅、英一蝶筆の釈迦如来像。旧本山は大本山池上本門寺。池上芳師法縁。

一乗院日円により正安元年(1299年)に開かれた。当初は西久保(現在の港区虎ノ門)にあったが、江戸時代初めの承応2年(1653年)3月に現在の地に移転した。池上本門寺の末寺となる。江戸時代中期の延享2年(1745年)の大火に巻き込まれたとき、山門、仁王門、鐘楼は焼失を逃れ現存する。類焼した本堂は天明元年(1781年)に再建されたものである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

二本榎の碑

英一蝶 の碑

独特の狛件 (ファン多し)

「狛」は狛犬、「件(くだん)」は人面牛身の妖怪 のこと

⑦旧細川越中守屋敷

旧細川越中守屋敷跡 都営高輪一丁目アパート

大石良雄自刃ノ跡 碑

都営高輪一丁目アパート 前

義士切腹之図

画像クリック⇒永青文庫

⑧泉岳寺

慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田(桜田門周辺)の地に門庵宗関を招いて創建した曹洞宗の寺院。

寛永18年(1641年)の寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、長府毛利・笠間浅野・鹿沼朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。御手伝い普請の大名は菩提寺とする事で徳川への忠誠を示す。 (毛利綱元は江戸で没したにもかかわらず、遺体を長府に送らせ赤穂義士との併葬を拒否。丹羽家は吉良義央の子孫が藩主になる以前に泉岳寺と絶縁、水谷家は浅野長矩に備中松山城を収公され旗本に転落後は使用していない。)

移転してきた当時の泉岳寺は、現在の三倍近い寺領を有し、学寮だけでも九棟あって二百人もの学僧が修行していた。境内の壮大さは『江戸名所図会』の鳥観図で描かれている。

 元禄14年(1701年)3月、松の廊下の刃傷により切腹した浅野長矩が、次いで元禄16年(1703年)2月、元禄赤穂事件で赤穂義士が葬られた。 長矩正室の瑤泉院(阿久里)、長矩実弟の浅野長広(浅野大学)、長広の代々子孫、大石家の墓所も当寺にある。

浅野大学家と大石大三郎家(小山流)、広島藩の大石別家(横田流)も断絶したが、瀬左衛門の家が赤穂藩(森家)大石宗家としてかつての主君や義士の祭祀を継承している。今も義士祭などに参加されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「泉岳寺」(『江戸名所図会 1巻』

 画像クリック⇒東京都立図書館 (tokyo.lg.jp) 

「仮名手本忠臣蔵十二段目」 狩野秀源貞信 

画像クリック⇒立命館大学

⑨高輪神社

御祭神 宇迦御魂神(うがのみたまのかみ)・誉田別命(ほだわけのみこと)・猿田彦神(さるたひこのかみ)

御由緒  御創建は室町中期明応年中で、お稲荷様、八幡様、猿田彦様をお祀りし、境内社には聖徳太子様をお祀りして居ります。

恒例の初詣、鎮火祭、節分祭、中祭、例祭、七五三詣の他、三年に一度神社大神輿の渡御が例祭日に近い日曜日に斉行されます。 

東京都神社庁HP › 港区 › 高輪神社 より

太子堂・稲荷社・庚申堂(現高輪神社)『江戸名所図会』 天保年間(1834-1836年

画像クリック⇒国立国会図書館デジタルコレクション

⑩正覚寺

浄土宗の寺院です。江戸時代1619年に芝金杉に法蓮社心誉上人源霊より開山され、1691年に現在の地に伝わりました。西方第四番

辰五郎は歌舞伎の演目にもなった「め組の喧嘩」と呼ばれる事件の当事者です。

文化2年(1805)に芝神明宮境内で開催中だった相撲会場で辰五郎ら「め組」の数人と、力士の九竜山がいさかいを起こし、いったんは収まりますが、すぐに芝居小屋で再会した両者は再び口論となり力士側は仲間を呼び集めます。これに対して火消し側は火の見櫓の半鐘を鳴らして仲間に動員をかけ、力士と火消しの大乱闘へ発展した騒動により両者36名の逮捕者を出したのが「め組の喧嘩」の概要です。

 辰五郎はここ正覚寺の墓地に眠っています。

め組の碑

め組のけんかプレート<浜松

ふたたび高輪2丁目交差点

ゲートシティ側から西南方向

左 品川から京・大阪方面

右 日本橋方面

ゲートシティ側から西北方向

交差点角に海岸石垣・旧町名板

赤信号の先が桂坂二本榎通角に二本榎消防署鐘楼

おまけ 過去にタイムトリップ

高輪3丁目歩道橋上から第一京浜(国道15号)泉岳寺方向をのぞむ(定点観測)

現在   令和年(202)10月31日撮影

右手(JR側)の中央、ゲートシティのビルが出来上がってきました。

昨年   令和5年(2023年)8月15日撮影

右手(JR側)の中央、ゲートシティのビル建設中

10年前 平成25年(2013年)2月20日撮影

正面に東京タワー上部だけ見え、沿道に高層ビルも増えてきました

画像クリック⇒港区ホームページ 

51年前 昭和47年(1972年)1月1日撮影

空が広く、東京タワーもはっきり、右手線路側にビルほとんどなし

画像クリック⇒港区ホームページ 

56年前 昭和42年(1967年)日付不明撮影 

都電(品川線)廃止の年、自動車も多い

画像クリック⇒港区オープンデータカタログサイト