田口胤三先生

九州大学大学院入試の面接で「趣味は何か」と訊かれた(昭38).配線図をもとに半田ごてを使って無線受信機やオーディオアンプを組み立てるのが趣味と応えると,ある面接官に「何だ,エレキか」と言われた.さらに,「君,野球やるかね?」と訊かれたのにはびっくりした.その先生が,志望の医薬品製造化学講座(通称六講座)の田口胤三教授であることを知ったのは,面接が終わってからである.

自画像(昭33)

右から田口先生,森,北村,原野,深田(昭和40年代初期 山口忠敏氏提供)

大学院に入学してみると,田口研究室は講座対抗の野球の試合ではいつもビリに近い状態であり,新しく加わった卒業研究4年男子学生を含めて連日野球の練習をさせられた.

研究室のメインテーマは,未だ核磁気共鳴(NMR)装置が存在しない時代に,立体化学的考察を必要とする研究課題が多く,教室員は皆苦労していた.田口教授の指導方針は,本人の自主性に任せる方式のため,博士号を取得した者は他の研究室に較べ非常に少ない.

私に与えられたテーマは,熊大での卒論が硫黄化合物(RSSO2R')であったためか,allylic xanthate の dithiolcarbonateへの転位反応に関するものであった.β位にジメチルアミノ基があると隣接基関与でイオン対中間体を経てチオンーチオール転位が起ることが発見されていたので,二重結合も同様な機構でチオンーチオール転位が起るはずであるという先入観によるものであった(次図 青色部分).

Allyl alcoholのアルコラートに二硫化炭素を作用させ,得られたキサントゲン酸塩にヨウ化メチルを作用させるとallyl xanthateが得られる.これを蒸留精製すると,黄色の液体が得られる.赤外線吸収スペクトルではカルボニルの存在が確認され,allyl 転位が起こっていることが判った.加水分解する前から強烈なニンニク臭を発し,当時,赤外線吸収スペクトルの測定は専任オペレーターに依頼し,除湿した密室で測定する方式があったため,機器の補習管理を担当していた百瀬教授(分析学研究室)から苦情(測定拒否)がでる始末だった.しかし,ニンニクの活性成分が簡単に得られることや,活性ビタミンB1(アリサイアミン)の原料(アリシン部分)の簡易合成法になり得ることなどを説明し,どうにか測定してもらった.

ところが,一対の位置異性体 (A, C)から同一転位体は得られず,それぞれから allyl 転位したB, D が得られることから,当初田口教授が予想していた「イオン対」中間体を経由する機構ではなく,協奏的に進行している可能性が示唆され, 以後 allyl 転位の一般性を証明することが主な研究テーマになった.そのためにはオゾン分解反応を行う必要が生じた.オゾン発生装置は学部内の倉庫に壊れたまま放置されていた.そこで役に立ったのが電気の知識だった.一対の位置異性体から得られる転位体をオゾン分解しそれぞれからホルムアルデヒドおよびアセトアルデヒドを単離し,共通の中間体を経るイオン的反応ではなく非イオン的な協奏反応であることが証明できた.最終的には,機器分析手法の急速な発達でプロトンNMRスペクトル解析データが必須となり,化学的証明は脇役に回るしかなかった.

田口研究室の助手になった年(昭和43)に,米軍ジェット機が建設中の計算機センターに墜落する事件が起きた.それに端を発し九大は全学的に大学紛争に突入し,研究する状況ではなくなった.学生による大学施設の封鎖,大衆団交,教官会議に明け暮れた.大学紛争は大学臨時措置法 の立法化をへて1970年末まで続いた.その間は研究は著しく停滞した.大学紛争が一段落した後も,学生の化学実験の廃液処理問題で学生と対立することもあった.九大の場合は,ジェット機の残骸が反戦のシンボルとして学生が死守したため,機体の引き降ろしが遅れ,大型計算機センターを他大学へ移すという噂が立った.医学部,薬学部では大型計算機を利用することは少なく深刻に考える教員はほとんどいなかったが,工学部,理学部系教員の目の色が変わった.その考え方のギャップは,私にとって大型計算機がなぜ必要かを考えるきっかけとなった.

1968年6月2日22時45分頃,米空軍板付基地第313航空師団所属のRF-4Cファントム偵察機が,建設中の九州大学大型計算機センターに墜落した.宙吊りの機体は反戦のシンボルとして学生等に占拠されていたが,1969年1月5日深夜,ジェット機の残骸が何者かによって引き降ろされた.その後,学生運動が活発化し,1969年8月に大学の運営に関する臨時措置法が制定された.1969年12月25日に大型計算機センターの建築工事は再開され,1970年3月に竣工.5月8日に開所式が行われた.薬学部は比較的平穏であったが,薬学部首脳は全学規模の大衆団交等で疲弊し,入院するなどの事態に陥った.

1970年代になると,化学領域でも物理的考察が必要とされる時代になり,電気の知識が大いに役に立った.反応速度論敵考察や計算機制御方式の単結晶X線解析等の仕事を任せてもらった.欲を言えば,田口教授はWoodward-Hoffman則等の量子化学的な考察に興味を示してほしかったが,昭和39年薬学会賞を受賞し研究室のアクティビティがピークを過ぎていて実現しなかった.先生の著書「立体化学入門」の改訂の際,書評でWoodward-Hoffman則による考察の欠如が指摘されることとなった.

改訂 立体化学入門

机上を描画した葉書

田口教授の後任として赴任した兼松先生は,有機反応を曲がった矢印で説明する電子論に代わり,フロンティア軌道論で考えることを要求されたが,何の抵抗もなく受け入れることができた.九大薬学部では学部段階で量子化学の講義が行われていたのが幸いした.私が行っていた転位反応はフロンティア軌道法で考察できる格好の反応であるので,研究の継続を希望したが.結果的には独立するまで封印せざるをえなかった.

その後,熊大へ異動してからは,allylic xanthateのdithiolcarbonateへ[3,3]-sigmatropyを利用した分子設計をテーマとして計算化学的展開が主流となった.学生実習で[3,3]-sigmatropyを自前の化合物 (O-cinnamyl S-methyl dithiocarbonate)を用いて実施できた.この化合物をβ-cyclodextrinに抱接化合物させて, その空洞内で不斉転位(固相)させることもできた.

インドレニンに関する研究では,[2+2]−付加体として提案したダイマー構造をカナダの研究者に回転異性体と指摘され,単結晶X線解析で確かめる必要に迫られた.当時X線解析はその道の専門家が実施するのが当たり前の時代,大型計算機と結晶解析学を勉強する必要があり,かなりの努力が要求された.そんな時,武田製薬研究所に頼めばすぐに解決するのを,私の技術習得が終わるまで待ってくれたのには感激した.どうにか先生の退官時の最終講義に間に合わせることができた.その後,大木道則氏が総説で取り上げてくれたこともあり,インドリンダイマー系回転異性体の研究のきっかけとなった.兼松教授の下では中止せざるを得なかったが,熊大薬学部へ異動6年後に,単結晶X線解析が有史以来初めて熊本県で実施できるようになった時は大変喜んでくれた.その頃になると,X線解析や分子計算が九州大学の大型計算機センターを利用する必要がなくなり,熊大計算機センターで実行できるようになり,田口研で懸案だったインドール系回転異性体(C-N結合)について明確な結論を出すことができた.

C-N結合の回転が阻害されたため,結晶として単離できたコンフォメーション(配座)異性体(結晶解析で証明できた初めての例)


田口研究室で発見した反応や現象のほとんどは量子化学的な観点から見直し,遷移状態構造なども算出して理論的な解釈を行うことができた.先生は,「計算化学的な反応機構の考察は理解できない」と言いながら,たいへん喜んでくれた.先生ご自身の著書の改訂の時の書評を気にされ見直して欲しいと依頼されていたので,薬学雑誌の退職記念号の総説では硫黄化合物のテーマ(不飽和チオン炭酸エステルの連続ペリ環状反応と関連反応ー計算機支援による分子設計と反応機構解析ー)だけにしぼり,当時93歳だった先生に謝辞を述べる形にしたのはそのためである.

密度汎関数法により求めた遷移状態構造(右図).左図は基底状態構造.活性化エネルギー(実測値)を再現できた.

田口先生は,林清五郎先生(既述)とは東大時代からの付き合いであったことを聞いた.「林先生は学生時代からドイツの化学雑誌を定期購読していて,読んだ後は ”田口君読みたまえ” と言って貸してくれた」と言っていた.

余談)その雑誌は,Chemisches Zentralblatt ではないかと思う.林教授の独逸雑誌購入は熊大薬学部図書館の分館で引き継がれていたが,若手の先生(甥である宮野成ニ助教授,後に福岡大学長)に英語雑誌 (Tetrahedron 系 ? ) に乗り換えるべきと進言され,激怒されたとも聞いたことがある.

田口先生は,岡崎の製糸会社の御曹司で,東大入学時には付き人がいたという話を聞いたことがある.林清五郎先生も林製薬株式会社(倉敷)の五男であるが,かなり裕福な家の出身であったのは事実のようだ.東大へは金持ちでないと行けなかったという記事を読んだことがあるが,二人の足跡をたどるとまんざら嘘ではないような気がする.

田口研の年末コンパは,東公園横の三共クロマイ寮で近隣の講座出身者も参加して開催され,先輩との絆を維持していた.そのことが縁で博多山笠の曳き山に参加した後輩がいる.先生は,17歳年下の奥さんのことを「きれいな娘さんですね」と言われることを喜びにしていた.また,フランス小話的な話題(ここでは紹介しにくい)に富み,酒の席では同席している人の似顔絵を描いて渡すなどの特技の持ち主であった.先生の作(似顔絵)が西日本新聞に掲載されたと聞いている.

昭和 63 (1988) 年,「はかたどんたくをどり或は異型びな」(奥方とダンス)の卓布

昭和51年(1976年)九大退官後は北九州高専の校長(昭和51−60年)となり,博多から新幹線通勤をされていた.引退後は,趣味のゴルフや絵画を楽しみながら展覧会などに出展されていた.大学の図書館で見た反応を手紙で知らせてくれたこともあった.

先生85歳の頃(平成9 (1997) 年12月),一冊の洋書が送られてきた.開けてみると X-Ray Analysis of Organic Structures (S. C. Nyburg, Academic Press, 1961)であった.私がX線解析の仕事を始める時,先生も勉強されようとした形跡を伺い知ることができた.当時,短期欧州旅行をされた時にロンドンで購入した本であったらしい.

1997年に貰った Nyburgの「有機構造X線解析」

50年前に貰ったネッパー(犬),絵画『His Master's Voice』のモデル.

九州大学医学部薬学科の時代,先生は堅粕キャンパスのレクレーション委員をされ,ゴルフはかなりの腕だったと接待役の製薬会社関係者から聞いたことがある.2001年12月にはゴルフウエアを頂戴したことが記録に残っている.私がゴルフをやらないことは承知の上のプレゼントとなるとそれなりの理由があったのだろう.ゴルフをする余裕を持てという忠告だったのかもしれないと気付いたのは随分時間が経ってからである.

平成17 (2005)年5月,私の熊本大学定年退職,新設崇城大学薬学部への再就職の際は,出来るだけ長く務めるようにとの激励の葉書をもらった.平成18 (2006)年,94歳の天寿を全うされた.

大学在職中は,大の愛煙家であったためか「ビタミンC健康法」を実践し,ハイソサエティな社会に生きた先生のマネなど到底できるものではないが,ビタミンC健康法だけはずっと真似をしている.

思いつくままに恩師の思い出を書いてみたが,今年(平成30 )は先生の13回忌である.

追記

家内は田口研で卒論研究後,武田薬品福岡支店に勤務していたが,その間,武田の子会社(武田食品工業)が製造していた食品添加用のビタミンCを教授室に届けに来ていた.そのようなことがひとつのきっかけになって仲人役をしてもらった(1967).50年前の話である.

資料

九大医学部薬学科の七人の侍(薬学の裏物語九大時代 - よか薬会から引用)

塚本 赳夫 先生(第一講座)

塚元 久雄 先生(第二講座)

西海枝東雄 先生(第三講座)

濱名 政知 先生(第四講座 第二代目教授)

百瀬 勉 先生(第五講座)

田口 胤三 先生(第六講座)

松村 久吉 先生(第七講座)

薬学会賞受賞の時の記念暖簾(講座出身者の春日宏氏が川口屋染工店第六代社長であったため,染物の作品が多い)

久野拓造先生の似顔絵

九大薬学部旧制一回生 久野拓造先生の似顔絵 昭和53 (1978)年,「熊本フグ会長」(T. Taguchi) と書かれている.

久野研究室の単結晶X線解析(2件)を九大薬学部で引き受けた際,私が大型計算機による解析を担当した.その結果が論文として公表された年である.

昭和57年,私は久野研究室に助教授として異動した.