「ひっ・・・・・・」
本丸の中央、しんと静まり返った池の面に死体が浮いているのを見つけ、乱は総毛だった。
夏の夜のことだった。盆地にある本丸は風が通らず、むしむしと蒸すばかりで過ごしにくいことこの上ない。暑気払いにと催された怪談会は嫌な汗を増すばかりで、ちっとも冷気を呼びやしなかった。これはもう、冷たいものでも腹に入れて涼を取るしかないと、台所に出向いた帰り道の遭遇である。
(五虎退なら悲鳴を上げて、泣き出しちゃうだろうな・・・・・・)
小さいとは言え自分も悲鳴を上げたことを棚に上げて、乱は考えた。優しいが気の弱い彼なら、きっと気付いた瞬間に大声を上げて目を潤ませるだろう。もしかしたら、腰が抜けてへたりこんでしまうかもしれない。怪談話の最中も、虎を抱きしめてぶるぶる震えていた兄弟刀のことを思い起こすと、腹に少しずつ気合がたまっていくようだった。
(うん。五虎退もこっちにくるかもしれないし。怖い思いをさせないためにも、まずは僕が偵察して、確認しないとね)
息を吸って、吐く。それだけで随分気持ちが据わるのだから、人の身とは不思議なものだ。腕をびっしり覆う鳥肌からは気を反らすようにつとめた。本丸屈指の偵察力を持つ乱にかかれば、大抵のものは見現せる。それが死体に通じるかは定かではなかったが。
(にっかりさん、ちょっとだけ僕に力を貸してね)
幽霊切りの逸話を持つ脇差の名を心中で唱えて、乱は目を眇めた。
ぷかりと浮いた死体は夜目に白っぽく映る。背丈はおそらく五尺五寸か六寸程度、髪が顔に張り付いているようで、今の位置からは顔立ちまでは捉えられなかった。
(これは・・・・・・もっと近寄らないと駄目かな)
びくりと震えた膝は武者震いだ。もう一度、今度は深めに深呼吸して、乱は己の本体たる短刀を確かめた。夏の空気に暖められたか、ほんのりとぬくもりを伝える柄を握ると闘志が湧き立つようだった。鞘を払って順手に構え、乱はそっと縁側を降りた。
息を殺して歩みを進める。一歩近づくごとに、死体の姿が鮮明になっていく。白く見えるのは死体が纏う経帷子のせいで、胸のふくらみがないのとすじばった体つきをしているのからするに男だろう。髪は長く、さざ波に揺られてうち広がり月光を浴びている。・・・・・・さざ波?
風もないのに、波が立つのはなぜだろう。そう思った瞬間に死体が動いた。
「っ!?」
短刀を握り締めたのは反射以外の何ものでもない。乱はただ死体を凝視した。彼方までは八間程度、己の間合いには遠すぎる。仕掛けるには距離を詰めるしかないが、どうにも足が言うことを聞かない。
立ち尽くす乱の前で、死体はゆっくりと面を上げて微笑んだ。
月明かりに照らされたその顔は、先ほど乱が名を唱えた脇差の顔立ちをしていた。
「やあ乱。今晩はいい夜だね」
「にっかりさん・・・・・・!?」
うめく乱の目の前で、にっかり――脇差のにっかり青江はその名の通りにっかり笑って上半身を起こしてみせた。晒された左目が金に輝く。常とは違い、解き流された髪がべたりと顔に身体にはりついて千筋の川を描いている。普段から血色の悪い肌は暗いせいか水中にいるせいかいつも以上に青ざめていて、生気をまるきり感じさせない。白装束と合わさると死体そのものの見栄えだった。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、ならぬ、水死体の正体見たりにっかり青江、だったわけだ。脱力のあまり、乱はその場にへたりこみそうになった。なったのだが、青江はすいすい泳いでこちらに向かってくる。無視する気にはなれないし、何してくれてんだと問いただしたい気持ちもある。乱は一本筋が抜けたような脚を引きずって池のほとりへと歩み寄った。
青江は近づいては来たものの、完全に池から上がりきる気はないようだった。腿の半ばまでを水に浸して立つ姿は引き揚げられた土左衛門そっくりで、間近で見ても生きているように見えなかった。這い寄る怖気を奮おうとして出した声は、乱が思ったよりも低く響いた。
「いったい、何してるの」
「何って、気持ちいいことだよ」
飄々と応えて青江は池を指差した。
「今日は暑くてたまらないからねえ。・・・・・・気温のことだよ?だから、一泳ぎして涼むことにしたのさ」
「暑いのはわかるけど、なにも池で泳がなくたっていいじゃない!」
「そうは言うけど、風呂は審神者どのの趣味で湯しか張っていないだろう?僕の背丈じゃあ盥を使うには手狭だし。池があるんだから、ここで泳ぐのが一番手っ取り早かったんだよ。それにね、知っているかい」
青江は声を潜めて手招きした。ついついつられて耳を貸した乱に、青江はそっとささやいた。
「夏の夜に泳ぐのは、とても快いのさ」
「・・・・・・何それ」
「試してみるかい?」
いたずらっぽく笑みを深めて、青江は手を差し出した。月明かりに青白く照らされた手を見て、乱は少し俯いた。怒りも怖さもまだ完全に収まりきってはいなかったが、汗ばかりたらたらと流れる熱帯夜に泳ぐのが快いというのは想像がついた。驚かされた意趣返しをしてやろうという気持ちもある。
勢いよく伸ばした乱の手を、青江はうやうやしく支えた。
「優しくしてね?」
「大丈夫だよ。さぁ、僕に身を委ねてくれ」
短刀ばかりは濡れないよう囲み石の上に置いて、乱は着の身着のまま池に足をつけた。
思っていたよりも池の水は温く、それでいて澄み渡っていた。さらさらと肌をくすぐる流れが心地よい。青江に導かれるままに歩みを進めると、どんどん深みへ向かっていくようだった。思わず握り締めた手を、安心しなよとでも言うようにやさしく握り返される。それを信じて従って、とうとう乱の肩ほどまでの深さまで来たところで青江は足を止めた。
「どうだい。気持ちいいかい?」
「うん!こんなの初めて!」
笑って問う青江に乱も笑って返した。
青江の言うとおり、池の中は気持ちよかった。怖気をふるうほど冷たくはなく、さりとて風呂を満たす湯ほどに熱くはない、丁度良い加減の水が汗に塗れた肌をぬぐってくれる。部屋の中には入ってこなかった風も、水面ばかりはゆるくなぜているようで、顔にほんのりと涼気を感じる。水を吸って重くまとわり付く服も、そういうものと割り切ってしまえば面白かった。
くすくすと笑みをこぼす乱の目の前で、青江は指を立てる。
「じゃあ少し潜ってみようか」
言うと同時にちゃぽんと音を立て、青江は全身を水に沈めた。乱も慌てて追いかける。水がさっと肌の上を駆け抜け、髪の隙間一本一本を覆いつくしていくと、えもいわれぬ涼気に包まれる。快いと、心の底からそう思った。
(んっ……きもち、いい……)
ふわりと湧き上がる快感に身をよじる。すると水流が生まれ、肌をかすめて涼気を届けて消えていくものだから、また味わいたくなってしまう。頭を揺らすたびにそよりと踊る髪の感触も心地よい。
何度も体を動かして涼気を追い求めていた乱は、肩をつつかれるまで青江の存在を忘れていた。
(なに?)
ぱちりと目を見張って青江を見やると、上をご覧という風にあごをしゃくる。今度は何だろうと期待に胸を膨らませて乱は青江が示す方向を見上げた。
(うわあ……!)
揺らぐ水面に、皓々と輝く月が映っていた。いや、月だけではない。どれだけ水が澄んでいるのか、目を凝らせば星の光まで見て取れる。地上で見上げる夜空とは違い、水面の夜空はまるで手が届きそうなほど近くで瞬いていた。あまりの美しさに思わず息を吐くと、こぽりと零れた空気が十にも百にも分かれて立ち昇っていく。淡い月光を浴びて舞い踊る泡の群れに目を奪われ、乱は息苦しく感じるのを忘れた。青江に抱き上げられて、水中から顔を出すまで忘れたままだった。
はふはふと呼吸を繰り返す腕の中の乱を眺め、青江は酷く満足そうに口元を緩めた。
「どうだい。気持ちいいだろう」
「ふふ、よすぎて癖になっちゃいそうだよ」
うっとりつぶやいて、乱はこてんと頭を青江の胸にもたせかけた。
本当に、気持ちよかった。本丸にいれば寝苦しく、戦場に出れば伝う汗が邪魔になるだけだと思っていた夏の夜が、こんなに楽しくなるだなんて知らなかった。教えてくれた青江には感謝でいっぱいだ。怖がらされた分を引いてもおつりがくる。これは兄弟にも教えてあげたいかも。
うりうりと頭をこすり付ける乱の耳に、笑みを含んだ青江のささやきが落ちる。
「いけないことは気持ちよくて楽しいからね」
「やっぱりいけないことだよね、これ」
「まあねえ。君のお兄様に見つかったら、正座でお説教かな」
「きっと半日フルコースだね」
金と青の目を合わせて二人で笑い合う。夜に池で泳ぐことなかれと、言葉にして禁じられているわけではない。わけではないのだが、常識的に判断するときっと「いけない」ことだ。それをわざとやってやるというのが胸がすくほど爽快だった。それでいて、居座る背徳感に背筋を撫で上げられるようなのがまた甘美だった。暑さをしのぐ心地よさと、掟破りの心地よさ。二つが絡まりあって高めあうようで、不思議なほどに昂揚した。
「さあ、夜は僕たちの時間だ。思う存分楽しもうじゃないか」
ひそやかな青江の声がゆるりと池に波紋を落とす。
水面に浮かぶ二人の姿に五虎退が気付いて盛大な悲鳴を上げるまで――あと四半刻。