黄瀬やよいには自慢の兄がいる。とびきり格好良くて、なんでもできて、おまけにとっても優しいその兄は、名前を涼太という。最近は部活で忙しいらしくあまり遊んでくれないのがさみしいが、やよいの大好きな兄だ。
その兄が、家にともだちを連れてくると言う。兄にはたくさんともだちがいるが、今まで誰一人として家に招いたことなどなかった。よほどとくべつで、たいせつなともだちなのだろう。とってもとってもすごい兄が連れてくるともだちなのだから、きっととってもとっても素敵なひとなのだろう。やよいは兄のともだちに会いたくてたまらなかった。わくわくしすぎて知恵熱を出しかけたくらいだ。
あとすこししたら、兄がともだちを連れて帰ってくる。どんな人なんだろう。かっこいいのかな。元気なひとなのかな。期待がまるでフーセンガムのように膨らんでいく。ジュースとお菓子の準備なんてしてみたりしながらそわそわと台所を歩き回っていたやよいの耳に、ドアが開く軋んだ音が届いた。
(お兄ちゃんだ!)
はやる心のままに台所から飛び出す。玄関はすぐそこで、駆けつけた時にはちょうど兄が靴を脱いでいたところだった。
「お兄ちゃん!おかえ、」
りなさい、と、続けるはずのことばが喉の奥に萎んで消えた。
兄は、黄瀬涼太は、背が高い。普通に立っている兄と目を合わせるためには、首が痛くなるくらい上を向かないといけないぐらいだ。それでも、普段はあまり兄が大きいことを意識したことはなかった。優しい兄はいつも、しゃがんだり、だっこしてくれたりと、やよいと目線を合わせてくれるからだ。
しかし今、兄の後ろにいる人は違った。色黒で、身長は兄よりも高い。着ている制服は兄と同じだが、着方はずいぶんだらしない。その人は、口の端を吊り上げて、鋭い目つきをにやりと緩め、やよいを見下ろしていた。
この人が兄の友人なのは間違いない。それなのに、兄の友人と会えたら元気にあいさつをして、お迎えをしようと思っていたのに、まるで蛇に睨まれたカエルさながらに、体が凍り付いていた。上機嫌の兄が何やら楽しそうにしゃべっているが、ひとことも頭に入ってこない。喉が一気に渇いた気がして、ごくりとつばを飲み込む。
と、いきなり黒い人がしゃがみ、後ろを振り向いて怒鳴った。
「ってえなテツ!何すんだよ!」
「妹さんを怯えさせてるきみに言われたくありません」
ぎっと、音がたちそうなくらいにぎこちなかったが、どうにかやよいは首を動かした。
視界に、いつの間にか人がひとり、増えていた。
いつ入ってきたかさっぱりわからないそのひとは、やはり兄と同じ制服を着ていた。ということはつまり、兄が連れてきた友だちなのだろう。ただ、兄やもう一人の人物と比べると随分小柄で、身長はやよいの母とさほど変わらなかった。
そのひとはやよいの目の前まで来ると、すっと膝をついた。そうするとやよいの方が視線が高くなる。
無表情の中、薄い色をした不思議な瞳がまばたきもせずこちらを見つめる。
小作りな唇がゆっくりと開いた。
「こんにちは。ボクは黒子テツヤと言います」
「……」
「黄瀬くんの、ともだちです。今日はこちらに遊びに来ました。
君は、黄瀬くんの妹さんですか?」
黒子、と名乗ったそのひとはゆっくりと首をかしげた。優しくうながすようなその仕草につられて、するりと声が出た。
「……きせやよい、です」
ふむ、とうなずいて黒子は手を差し出してきた。兄のより小さい手は、それでもいたるところにまめの跡があり、兄のよりも荒れていて、固そうだった。
「やよいさん」
名前を呼ばれ、慌てて顔を上げる。まっすぐなまなざしが、すとんとやよいの目を打った。吸い寄せられるように視線が絡む。不思議な、青空を映した水たまりみたいな目がやわらいで、やよいの顔が移りこむ。
「少しのあいだですが、よろしくお願いしますということで」
くっと。視界の端で、黒子が、空っぽの手で何かを掴むように握りしめるのが見える。それはちょうどやよいの真正面にやってきて、ゆるりと開かれた。
「よければこれ、あげます」
目の前の、黒子の手のひらの上には、キャンディがひとつ。
「ふえ……?」
やよいの口から気が抜けたような息がもれる。というか、驚きすぎて、まともなことばが出てこない。キャンディが。なんで。なにも、なかったはずなのに、あるの。黒い人のショック、黒子が現れたショック、キャンディのショック、全部合わさって頭が真っ白になってしまったようだった。
「あああ黒子っち!うちの妹口説いちゃ駄目っすぅぅぅ」
「口説いてません。やめてください人聞きの悪い」
「そりゃ黒子っちはすっごくカッコイイし男前だけどやよいにはまだそういうの早いんだから!ホント駄目絶対!いくら黒子っちでも許さないっすよオレ!」
真っ白になった頭の中を、さわがしい会話がチューニングされていないラジオのようにざらざら流れていく。それでもひとつ、ぽかりと浮かんできた考えがあった。やよいの口が自然と動いた。
「くろこ、さん」
小さな、聞き逃してもおかしくないような声だったのに、黒子はきちんと振り向いた。
「はい。なんでしょう」
「黒子さんは、魔法使いなの?」
間を置かずにブッと吹き出す音が聞こえた。ほとんどはねるようにしてそちらを向くと、なぜか黒い人が腹を抱えてひいひい笑っていた。
どうすればいいのかわからず、やはりやよいは固まってしまう。と、黒子がふいに立ち上がった。なめらかに後ろを向き、黒い人の鳩尾に掌底を決める。ぐおうとかぶおうとか、吹き出すのと似たような違うような声で黒い人がうずくまる。のを、見向きもせず、黒子はまたやよいの前に膝をついた。悶絶する黒い人には眼もくれず、やよいと視線を合わせて、人差し指を唇の前に立ててみせる。
「他言無用でお願いします」
「たごん?」
「他の人にはヒミツ、ということです」
ヒミツってことは、ほんとうに魔法使いなんだ。やよいの胸を、ふわふわとキラキラが渦巻いていく。お兄ちゃんのおともだちは、ヒミツの魔法使い。ヒミツの。ヒミツ。ということは、つまり。
「えっ……え!?言っちゃだめなの?」
「はい。言ってしまうと、魔法がとけてしまいますから」
せっかくともだちにも教えてあげようと思ったのに。胸の中のキラキラが、しゅわっと抜けてしまった。あまりにもしゅんとしたやよいの姿を見かねたのか、黒子はほんの少し眉を下げた。
「きみのお兄さんとなら、おしゃべりしても大丈夫ですよ」
「ほんとうに?魔法、とけない?」
「はい。ボクが約束します」
ですから、もらってくれますか。
そう言って、再び差し出してきた黒子の手ごと、やよいはキャンディをにぎりしめた。
魔法使いのキャンディは、ほんのりとあたたかかった。