……東海道新幹線ではのぞみ123号低速化災害による被害のため、東京~新横浜間並びに名古屋~新大阪間についても運転を見合わせます。お客さまにご迷惑をおかけいたします……
山形は一人、住宅街を歩いていく。高速鉄道の化身、その証拠である濃緑の制服に身を包んで。
……山形新幹線(奥羽本線)では東海道新幹線ののぞみ123号低速化災害による被害の影響に伴い……維持していくことは困難であるという結論に至り……持続可能な交通体系とするために、バス等への転換について地域の皆様と相談を開始したいと考えております……
手入れの行き届いた白壁、しっとりとくすんだ色味の木塀が続く家並みを通り過ぎて、比較的こじんまりとした和風の一軒家に辿り着く。目に見える敷地こそ広くはないものの、細部にまで豪奢に飾った造作は、この家を準備した九州新幹線と東海道本線の美意識によるものだろう。彼の姉と弟は似たところがある。妹であり兄である彼を介さなくてもつながりが透けてみえる。
浮かび上がったあくびを一つ噛み殺す。事前に渡されていた鍵を使い、戸を開ける。玄関をはじめ、家の中の空気はしんと沈んでいる。綺麗に磨き上げられた板張りの廊下を進む。突き当りの右手に障子の立てられた一間がある。障子を滑らせて中に入る。薄暗い畳張りの部屋には布団が二組並べてのべられ、奥の布団では既に床についている人影がある。
低速化災害に巻き込まれた乗客以外の”当事者”である、東海道新幹線の姿が。
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……のぞみ123号低速化災害──新横浜駅を発車したのぞみ123号が、名古屋駅へ走行中に突如二千六百万分の一秒に“低速化”した原因不明の事象に伴い、東海道新幹線はその歴史に幕を下ろした。運転見合わせとなった新横浜・名古屋間については迂回路が建設されたが、長距離移動を忌避する社会不安により収益を上げることはできなかった。JR東海は全ての輸送を在来線に集中すると発表し、高速鉄道の運行を断念した。
……低速化災害の影響で利用者が激減し巨額の赤字に陥った他のJR各社も、JR東海にならい、新幹線の運行を止めると決定した。元々赤字がかさんでいた北海道新幹線が真っ先に俎上にあがり、そのほかの整備新幹線も、ミニ新幹線についても無期限の運休が決まった。事実上、日本の高速鉄道網は瓦解した。
山形は東海道の枕元にひざをつく。目元に隈が浮かんだ東海道の寝顔は憔悴しきっている。こけた頬をそっと撫でる。
……低速化災害が発生した当時、東海道は名古屋駅で勤務していたのだという。のぞみが止まった、という一報を最初に受け取ったのはジュニアこと東海道本線だった。なぜそのような一大事を真っ先に兄に報告しないのだと、怒り心頭に発したジュニアが東海道の執務スペースを確認して気づいた。デスクで書類を捌いていた東海道自身も止まってしまっていることに。
……東海道の低速化現象は一時的なものとして収まった。路線の化身である東海道を通じてのぞみの低速化を解決できるのではと徹底的な調査が行われたが、影響は一方的なものであることがわかったのみ。肝心ののぞみ123号の低速化災害は解決されないままだった。
東海道の元を離れ、山形はもう一組の布団の傍に準備されていた浴衣を手に取った。制服を脱いで、入院着めいた薄緑の浴衣を着つけていく。帯をとろうとかがみこんだ瞬間、かくりと頭が落ちかける。首を何度も振って視界を鮮明にする。
……復帰してから、何があろうと走り続けるのだと東奔西走していた東海道は、全線運休が決まった際にも猛抗議したらしい。しかし、たとえ『本人』が走りたいと主張しても、走らせるか否かを決めるのは彼ではない。人間だった。
……運休が決まってからしばらくして、東海道は深い眠りについた。鉄道路線の化身のうち、休止状態にあったものがその期間眠りについた前例があったことから、東海道も同じ状態になったのだと推測された。
……東海道は当初関連病院に保護されていたが、どんな世話も必要とせず、ただ眠り続ける東海道を入院させておく必要はないと判断された。放り出された格好の東海道をジュニアが引き取った。九州新幹線も、東海道を寝かせておく場所を準備するのに口と金を出した。そうしていばらのない眠り姫の城が生まれた。
手袋を外して現れた手に金の指輪を見つけ、山形は苦笑する。あまりに馴染み過ぎてはめていることすら忘れていた。そっと外した指輪を外し、たたんだ制服の上に置いておく。
山形新幹線の休止が言い渡されたのは、本当につい最近のことだ。瞬く間に減っていく輸送人員数を睨みながらも、新幹線を維持しようと奮闘していた人々の姿を山形は忘れないだろう。決定的な一言を告げなければならない時ですら、彼等は山形にもう走れないのだとは言わなかった。廃線ではなく運休だと、いつか必ず走れる日は来るのだと、言い張ってくれたいじっぱりかひとびとを、山形は愛おしく思っている。
それでも。眠りにつく場所に東海道の隣を選んだのは、山形の──山形新幹線として存在することを選んだ男のエゴだ。東海道新幹線として存在することを選んだ男の隣にいたい、というエゴ。
そういえば、本線たちに、けっつの我が儘なんだげっと、と相談したら最後になんてしませんよ、と怒られてしまったのだった。絶対戻ってくるんですよ上官、山形新幹線が山形以外で消えるだなんて許しませんからね。ここに来る前に挨拶に寄った先で、きつく叱られたのは記憶に新しい。本心からそう言っているのだとわかって嬉しかった。ほだな、戻るんだず。そう告げた自分の言葉にも嘘はない。いつになるかはわからないけど。
もう、瞼が重い。手足が重い。それでもなんとか気力を振り絞り、上掛けをめくって布団に入る。今にも落ちそうな意識を押しとどめて隣の布団を探る。見つかった東海道の手をそっと握る。
「──おやすみ、東海道」
そうつぶやいた瞬間、とどめていた眠気が一斉に押し寄せた。今度こそ逆らわずに目を閉じる。薄れゆく意識の中、山形は祈る。
どうか、よい夢が見られますように。
あなたとともに目覚め、笑い合う日が来ますように。
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目覚めは唐突だった。
ぱちり、とひとつ瞬いて山形は覚醒した。障子を透かして光が入る部屋はうっすらと明るい。深呼吸をひとつして、吸い込んだ空気は温かかった。
もぞ、と。耳が布の擦れる音を捉える。長く動かしていないせいか、軋む首を何とか動かして隣を見る。同じように山形を向いた東海道と目が合う。どうして。ここに。お前が。視線だけでも伝わってくる混乱した様子を見て、ずっと握ったままだった手に精一杯を力を籠める。少しだけれど、伝わるように。
久しぶりに動かした声帯から出た声は、ずいぶんとひび割れていた。
「──おはよう、東海道」
東海道は忙しなく瞬いた。
「一番最初に、言いたかったんだず」
東海道は大きく目を見張る。みるみるうちに涙が滲みだし、目尻からぽろりとこぼれ落ちる。
「──おはよう、山形」
震えるくちびるを、どうにか動かしたという風情で東海道は言った。その声はやはりひび割れてがらがらで、まるで泣きはらした後に出した声のようだった。
握った手が握り返される。すすり泣きの音が静かに部屋を満たす。
玄関からは、ジュニアが必死に兄を呼ぶ声が響いている。