ベルゼブブは、ハエである。アクタベの結界によりペンギンにしか見えない姿かたちをしているが、その背中には虫そのものの透明な羽が生えており、それで飛ぶ。飛ぶときには虫の羽音と同じく『ぷぅぅぅぅん』と音を立てる。羽音がBGMの職場というのはなかなかに残念であるが、さくまの順応性は並ではない。そしてさくまの長所のひとつは「けっこう気が回ること」である。気が回るということは、色々なものごとに気づくということでもある。
そして、ベルゼブブの体がわずかにぐらついたのに真っ先に気づいたのが、さくまだった。
依頼をなんとか解決してひと段落つき、事務所に帰ってきた矢先の出来事である。呼び出した悪魔たちにイケニエを兼ねたお疲れ様カレーを振舞うべく、さくまはテーブルにコップやスプーンを並べていた。そこに手洗いを済ませたベルゼブブが飛んでくるまではいつもの通り。それがソファに着地しようとする直前、まるで何かに引っ張られたように体が斜めに傾いだ。
「ど、どうしたんですかベルゼブブさん!?」
「なんやねんさく。いきなりでっかい声だして」
「いやいまベルゼブブさんがグラッて!」
さくまとてベルゼブブが飛んでいる姿ぐらいしょっちゅう見ている。しかし飛んでいてぐらついたところを見たのは初めてだ。驚きが必要以上に声を大きくした。うるさかったのか恥ずかしいのかはたまた其の両方か、目をまるく見開いたさくまから目を逸らすように、ベルゼブブはそっぽを向く。
「……なんのことです」
「いやいまグラッとしましたよね、大丈夫ですか?」
「あなたにこき使われ続けたせいで少々肩がこったんですよ」
そんなにまるまっちい体しててどこが肩っていうつもりなんだ、とか、羽根が生えているのは肩じゃなくて背中だよね、とかツッコミどころは色々あったが、依頼を解決するのに時間がかかったことは事実なので黙っておく。確かに何日か連続してベルゼブブを使役していたし、無理やり飛ばせてものを運ばせたこともあったような気がする。
「相変わらずべーやんはひよわやなあ。もちっと体力つけな使い物にならへんで?なんやったらおいちゃんがええ運動紹介したろか」
「ハッ、アザゼル君の運動など腰を動かすだけで他はまるきり老人並みないですか」
「アホ抜かせハードなプレイもギンギンにやっとる淫奔の悪魔様やぞ!ここで証拠見せたろかァア!?」
「結構です目が腐ります大気汚染にしかなりません。・・・・・・ああ、さくまさん」
ギャンギャンわめくアザゼルをスルーして、ベルゼブブはさくまに向き直った。悪魔たちの喧嘩を仲裁しようともせずに眉根を寄せている様子を見て、ふん、といやみったらしく鼻をならしてみせる。
「これほどの肩こりを貴族たる私に負わせるとは本来ならば言語道断の所業ですが、あなたのカレーに免じて許してさしあげます。ですからとっととカレーを寄こしなさい」
「疲れてるならカレー食べるのも大変じゃないですか?」
さくまとしては精一杯気遣ってことばを選んだのだが、ベルゼブブには通じなかった。むしろ激昂した。肩がこっていると言い、実際ふらつきもしたその羽根を最大限ふるわせて飛び上がった。
「何と愚かな発言をするのですかあなたは!いついかなる時であろうとも私にとってはカレーを食べることこそが最優先事項なのです。たかだか疲れたくらいでカレーを食べないなどカレーに対する冒涜です。だからなぁ、くだらねえこと言う暇あったらさっさとカレー出しやがれこのビチクソ女が!」
「わかりましたよ、もう・・・・・・」
「わかったならばよろしい。さあ、早く、カレーを」
「出しますってば」
「せや、さくちゃん頼むで。くだらん話してもうたせいで余計腹減ったわ」
ようやくソファに落ち着いたベルゼブブとそれにならんだアザゼルにカレーを差し出す。途端、ベルゼブブ米粒だの汁だのを散らしながら食べ始める。相変わらず貴族だなんて信じられないテーブルマナーの悪さで、行儀だけを見ればアザゼルのほうがよっぽどマシな食べ方をしている。
しかし、その勢いは少し心もとない・・・・・・気がする。気にしているからそう思えるだけなのかもしれないが、いつもよりカレーの減りが遅いように見える。どうやら本当に疲れているらしい。
(これでイケニエがカレーだけっていうのは、ちょっとかわいそうかな。他に何かあげられるかな。でもベルゼブブさんの好きなものって――)
真っ先に脳裏に浮かんだものを高速で打ち消す。あげられるかあげられないかで言うならばあげられるものに入るが、さくまの羞恥心とプライドが絶対に許さないブツだ、アレは。
(他に!他になにか無いっけ、あげられるもの、してあげられるもの、えーっと・・・・・・そうだ!)
ヒントは本人の言葉にあった。さくまはそれを実行すべく、ベルゼブブがカレーを食べ終わるのを待つことにした。
「ねえベルゼブブさん」
「今日のカレーも素晴らしい出来でしたよ。本当にカレーだけは一流ですね、あなた」
基本的に人間を――というかさくまを見下した態度を取りがちなベルゼブブだが、カレーに関してだけはすらすらとほめ言葉を口にする。さくまとてほめられれば嬉しいから、いつもなら喜んで礼を言う。しかし、今はそういう話をしたいわけではない。口を尖らせて抗議する。
「カレーの感想を聞きたいんじゃないです」
「ではなんだと言うんです」
「肩、揉んであげましょうか?」
あんぐりと、ベルゼブブは口を開けた。
「……何言ってるんですかあなた」
「何って、肩揉みましょうかって言ってるんです。さっき肩がこってるってベルゼブブさん言いましたよね。ほぐしたら少しは楽になるかもしれませんよ」
「それは……」
「ちょいちょいちょいちょい待ちいな!さくちゃんアザゼルさんのこと忘れてへんか?わしかてめっちゃがんばってんから肩揉んでくれてもええんちゃうん!?むしろおっちゃんが頑張ったさくちゃんにごほーびでもみもみきゅっきゅの大サービスしたってもええで。どこでも好きなとこ言うてみ、胸でも尻でもま・・・・・・」
無造作に振るわれたグリモアが、アザゼルを血祭りにした。血まみれのぼろきれ状態のアザゼルを床に払い落とし、パン、とかるくグリモアの表紙をはたき、さくまは何事も無かったかのように続ける。
「こう見えて私、マッサージ得意なんです。イケニエに追加ってことでどうですか?」
まるく愛らしい目が小刻みに左右に動く。何かを観念したようにちいさくため息をついて、ベルゼブブは口を開いた。
「まあ、そこまでおっしゃるなら、揉ませてやらないでもありません」
「それじゃ、座ってください」
さくまが揃えた膝をぽんぽんと叩いてみせる。と、ベルゼブブは露骨に嫌そうな顔をした。
「・・・・・・他に場所はないんですか」
「ベルゼブブさんのサイズだと、ここに座ってもらうのが一番やりやすいんです」
「仕方ねえな・・・・・・」
悪態をつきつつも、ぽすりと腰を下ろす。素直でよろしい。さくまはふわりと笑い、ベルゼブブの背中に手を添えた。肩がこっていると本人は言っているが、そもそも肩といえるような肩の無い体型なので、もっとも疲労しているだろう羽根の付け根あたりを触ってみる。少し固い。周りがぬいぐるみのように柔らかい触感だから、なおさらよくわかる。
「じゃあはじめますよ」
見当を付けて親指をぐいっと押し込む。途端、感電したかのようにベルゼブブが跳ねた。
「ッ!ピギャー!」
「あれ?痛かったですか」
「あああ当たり前だろうがこの暴力女!もっと丁寧にできねえのか!」
「初めてなんだから加減がわからないんですって。次は気をつけますよ」
「頼みますよまったく・・・・・・」
確かに力をいれすぎた。けれど、そのおかげで大体コツはつかめた。感触を忘れないうちに、固い部分からゆっくりと揉みほぐしていく。円を描くように指を動かしていくうち、ベルゼブブの体から徐々に力が抜けてきた。
「ピギィ・・・・・」
まぶたがとろんと落ちている。くったりと力を抜いたベルゼブブはぬいぐるみにしか見えず、中身の横柄な性格や残念極まりない趣味をちょっと忘れられるくらい愛らしかった。さくまにも思わず笑みが浮かぶ。
「気持ちいいですか?」
「確かに、言うだけのことはありますね。なかなかにお上手ですよ」
「ふふ。こう見えて私、マッサージは得意なんです」
「今度から正式にイケニエに追加してもらいましょうかね・・・・・・」
「それはちょっと面倒くさいかな」
「・・・・・・まあ、いいでしょう。しかしこれから私が疲れたらただちにマッサージをするのですよ」
「それぐらいなら、いいですよ」
ベルゼブブさんにしてあげるのは、結構楽しいです。
感想はそっと胸にしまいこみ、さくまは優しくベルゼブブの背をなでた。