ヤフオクにいけばブックオフも真っ青なたたき売りが見られる古ポケミスは、海外文学読みの墓場の一つと言って良いだろう。その後文庫落ちせず忘れ去られた幾多の迷作を漁り始めるともう止まらない。サンリオSFなどと異なりほとんどプレミアも付いていない中古ポケミス、暇はあるが金はない我々駄目人間に取っては素晴らしい世界である。読み飛ばした中で面白かった、未文庫化作をいくつか紹介してみよう(後にアカデミー出版から超訳された作品は許してやってくれ)。でもこんな墓場に来る前に若者は引き返して、ちゃんとしたミステリを読んでからまた来た方が良いと思うぞ。
キャロライン・B・クーニー「バックミラー」
ノースキャロライナの曇天の下、脱獄囚に誘拐されて逃亡者の運転手を勤めさせられる若妻。80年代以降なら猟奇サスペンスになるであろう題材だが、頭の悪い「シャドー81」という感のスラプスティックコメディにしあがっているのが古き良き時代。主人公を助けようとしてくる連中は、振り切られたり犬死にしたり別の興味を見つけたりと皆役立たず。オレオを買ってこい、と命じられて訪れた売店の寂れっぷりには苦笑いが止まらない。オレオ置いてないし。脱力のラストも素晴らしい。こういう埋もれてしまった快作が見つかることこそ古ポケミス漁りの魅力である。専業主婦から転じた作者の初期作とのことだが、この人その後100作以上乱作しているそうだ。バンパイアラブスリラーやら良心的なジュブナイルやらが単発的に邦訳されるも、ほとんど日本では話題になっていないあたり妙に納得できる。
リザ・コディ「闘う守護天使」
イギリスの女子プロレスラーを主人公にしているが、巻が進むごとに主人公の頭が悪くなるという変わったシリーズ。この最終第三作ではもう真人間とは思えない。泥棒を殴り殺し、知人の車を適当に運転して知らない場所に死体を捨ててから、車を置いて歩いて帰ってくるというのは、もはや探偵側ではなく追われる側になってしかるべき。第一作ではシングル三本勝負で締めたラストのプロレスシーンも、バトルロイヤルの末にリング上に主人公が嘔吐するという、見たらトラウマ間違いなしの糞試合にまで落ちてしまった。パートナーのリューインと似て上手い作家なので、とち狂った話なのに読みやすく、読後感も悪くないのが不思議だ。登場人物が勝手に動いてしまったというやつなのだろう。主人公憧れのレスラーとしてケンドーナガサキの名前が挙がり桜田かよとなるが、イギリスの職人ヒールが名乗っていた由緒あるリングネームなようだ。桐野夏生の佳作「ファイアボール・ブルース」の綺麗なレスリングでは満足できないような、重度のプヲタかつ腐りかけた読書豚の我々にはたまらない逸品である。
フランシス・リック「危険な道連れ」
古ポケミスのフランスものは傑作揃い(でもフランスミステリ大賞のきなみ酷くね?) で、大御所ジョゼ・ジョバンニからA.D.Gやマンシェットのネオ・ポラールの流れまでセリ・ノワールの重要作が揃うのだが、ほとんどを手がけた岡村孝一のぞろっぺえな翻訳はかなり独特。ジョヴァンニ「気ちがいピエロ」の訳者解説で似ても似つかぬ同作をゴダール版の原作だと言い切り数十年にわたる混乱を生んだ(最近本物の原作が新潮文庫から出た)ことでもおなじみである。まあ慣れてくるとそれが良いような気がしてくるあたり、SFの黒丸尚とならぶ存在と言っても良いのであろう。だが本作「危険な道連れ」の訳者はかの幻想文学者日影丈吉、香気ただよう訳文が素晴らしい。元レジスタンスの脱獄犯トマとその道連れになるカップルの奇妙な友情と逃避行は、むしろこれがゴダールの原作であってもよいような乾いた雰囲気を持つ。追手がなかなか姿を現さない状況は不条理小説を思わせ、一瞬のほころびから鮮烈なラストへとつづく。明らかに英米のエンターテインメントとは異質な、実存を掘り下げるフランスミステリにようこそ。普段ミステリを読まない人の方が楽しめるような気もする。
ロジャー・L・サイモン「カリフォルニア・ロール」木村二朗訳
60年代に左翼活動家としてならし、70年代以降のアメリカで虚無的な私立探偵として生きるモーゼス・ワインものの四作目。あまり小説が上手くないのでこの魅力的な設定がいまいち生きないことでおなじみのシリーズだが、軽薄な文体がバブルまっさかりの日本を舞台としたこの作品には妙にマッチしている。ハードボイルド愛好家による日本マルタの鷹協会(実在)のテクニカル・アドバイザー「宇野」は、手裏剣からAK47まで所持しつつ、ドス一本でロシアからの殺し屋を新幹線トイレで返り討ちにする。郊外の豪華な連れ込み宿「旅館壮麗」で謎の性具を使って色仕掛けで殺そうとしてくるヒロインは、被爆二世なのでアメリカを憎んでいる。オリエンタリズムというのもおこがましいわ。あまりにも荒唐無稽なシーンは訳者判断でカットしたそうだが、それでこれなのだからたいしたものだ。なお作者サイモンは、911後に真実に目覚め、サブスクニュースサイトを始めて現在では右翼メディア界の大物になっているようだ。どういうことだ。
フレニイ・オルブリッチ「デスーザ警部と消された証人」
一時期のイギリスに多少見られたがもはや駆逐されたインドミステリの一つ、ボンベイ警察のデスーザ警部ものの第一作。法律がまともに機能しない世界でのカオスな警察小説。発端からして、殺人事件は警察に報告されることすらなく葬られようとしている。犯人は証人をがんがん殺していくが、毎日聞き込みに行っているデスーザ警部は気づきもせず、その後いろいろあって警察と関係ないところで事件が解決される。ここまで警察がいらない警察小説は初めて読んだ。どう見ても多神教の邪神なけばけばしいマリア像に民衆が押しかける奇祭などボンベイの風景描写は楽しいが、やはりこういう植民地支配エンタメ本は歴史の徒花として消え去るのだろうし消え去るべきなのだろう。
C・エクスブライヤ「イモジェーヌに不可能なし」
フランスのクリスティを自称する作家によるシリーズ三作目。スパイやら何やらやってた怪女イモジェーヌが故郷のスコットランドで起こす珍騒動。一応殺人事件の謎解きものではあるのだが、主人公は「女王と呼べるのはメアリー・スチュアートだけ。イングランドをやっつけろ!」とか言ってただ暴れているだけ。クライマックスは事件と関係ないところで罠を仕掛けてきたおばさん三人組をイモジェーヌが腕力でぼこぼこに返り討ちするシーン、ってなんだこれはクリスティに謝れ。本当に何も考えたくない週末などにはうってつけ。
ユリアン・セミョーノフ「ペトロフカ、38」
1963年原著、1965年翻訳(邦訳早いな)の、ポケミス初のソ連ミステリ。いかにもプロレタリア芸術らしいモノクロ木版画の挿絵が入っているが、アーティスト名がないのはどういうことだ。タイトルは泣く子も黙るモスクワ警察本部の住所、堂々たるソ連警察小説である。警官殺人事件を追い、ついには小規模な犯罪グループを捕まえるモスクワ警察の刑事たちの物語。本筋は面白くなりそうなのだが最後まで面白くなく終わり、ミステリとしてはたいしたことはない。むしろソ連時代のモスクワを描く都市小説として味わうべきだろう。モスクワ芸術座で「ワーニャ伯父さん」を観劇し、何かにつけてゴーリキーや聞いたこともないソ連文学を引用する警官や犯人たちの文化的洗練には驚く。ソルジェニーツィンらが伝える激しい弾圧もまた真実なのだろうが、豊かではないが貧困の心配はなくのんびりした庶民生活、というのも幻影ではなく存在していたんだろう。そのくせ酒癖は最悪だ。なぜ17歳がつまみなしでウォトカを一瓶空けるんだ。
ジョン・ラング「エデンの妙薬」高見浩訳
記念すべき1000冊目のポケミスは、大御所清水俊二訳による大物新人作家ジェフリイ・ハドスンの「緊急の場合は」であった。この作家が長らく早川書房を支えたマイケル・クライトンに化けるわけだから当時のポケミス担当早川浩の慧眼は大したものだ。「アンドロメダ病原体」「ジュラシックパーク」さらにはドラマERの製作総指揮と輝かしい経歴のクライトン、科学知識に裏付けられたアイデアによる怒濤のエンタメを繰り広げる一方で、人間ドラマは薄っぺらいのでもおなじみ。本人もそれを納得してエンタメに振り切るあたりがさすがなのだが、ジョン・ラング名義の初期作だとまだ欠点を自覚していないのかなかなか珍作が多く、ポケミス限定の未文庫化だったりする。さて本作、主人公が務める病院に運ばれてきた患者二人、ヘルズ・エンジェルス構成員の族と売り出し中の人気女優が続けて昏睡中に真っ青な尿をするという魅力的な謎で開幕する。しかししかし、中盤以降はなんとあれだ、某国内SF作家の有名な短編とおなじネタになってしまう(しかけは中盤でわかるのでネタバレ感はないけど、いちおうぼかしておこう)。いや医療系作家がこれをやりたくなるのはわかるけど、まさか長編でやるか。びっくりだ。ミステリの間口が広い俺でさえ、これをミステリと読んで良いものか悩むぜ。訳者は若き日の高見浩。後にヘミングウェイまで手がける重鎮の「いずれも味はグンバツだった」なんて若気の至り感のある訳も嬉しいぜ。さてさてそれから50年近くがたったポケミス、もはや勢いをなくしてしまった感が寂しいが、そろそろ見えてきた2000冊目にはどんなのがでてくることやら。ポケミスは101号から始まっているので、2000号の傑作「両京十五日」が1900冊目なのはちょっともったいないな。
シドニィ・シェルドン「裸の顔」大庭忠男訳
君らZ世代は知らないだろう「超訳」を。なんか適当な翻訳のエンタメ小説が数百万部売れていた謎の現象があったんだ。俺もエロシーン読みたさに親の本棚にあったシドニィ・シェルダンを読んだもんだ。そのシェルダンことシェルドン、初出はポケミスだったんか。で読んでみるとこれはもうバカみたいに面白い、何をやってたのか忘れてしまうレベルのどんでん返しにつぐどんでん返しの大傑作フーダニット。中盤で出てくる、象のバレエのように優雅にオーバーを着る肥満探偵ムーディーのキャラとか最高だぜ。それで200ページ行かないんだからどこぞの文庫上下巻なリンカーンライムは反省しろ。なお本作、超訳版もあってハードカバー上下巻だそうな。なぜそうなる。
イェジィ・エディゲイ「顔に傷のある男」深見弾訳
レムやストルガツキー兄弟でおなじみ深見訳という時点でSF者なら無条件に手を出すわけだが、ポーランド警視庁賞受賞作である。それがどれくらい凄いことなのかはさっぱりわからん。さて本作、みんな<オペル>がほしいのに野暮ったい<ワルシャワ>に乗っている刑事たちの活躍を描く警察小説である。冒頭、田舎の村の中年分署長フシャノフスキーが台形に関する問題を解いている(ちなみに難しくて俺には解けなかった)。彼は対ウクライナ戦線での戦功によって警官になったが出世コースから外れてしまい、しょうがないので中卒資格を取ろうとしているのだ。第二次大戦でポーランドとウクライナが戦ってたとか知らんなー。フーダニットとしてはたいしたことないけれど、小説としてはとても丁寧で好感が持てる。難事件に挑むフシャノフスキーが床屋で適当に言った言葉から、村全体の女性にパリの最新モードこと台形カットが流行ったりとユーモア溢れる筆致が良い。適切な解説はさすが深見訳。東欧ミステリを代表する作家らしいが、本作の翻訳は1977年、その後の東欧ミステリはどうなってるんだろう。
マグダレナ・ナブ「真夜中の訪問者」千種堅訳
モラヴィアで、と言うよりイタリアの変な小説でおなじみ千種訳。こないだは、ムッソリーニだけが偉大でろくな人材がいないことでおなじみイタリアに有能な軍人がいたら、というめずらしいイタリア発仮想戦記(チェーヴァ「枢軸万歳」)を千種訳で読んだところだ。だが本作、イタリアに定住したイギリス人女性作家の作品なので、英語からの訳である。そういえばこの人ドストエフスキー「永遠の夫」を訳してたりもして意味がわからんな。
さて本作の舞台はフィレンツェ、イギリス人が殺された事件を巡る、イタリア警察とスコットランド・ヤードとの共同捜査を描く。イタリアの警察組織が独特で、憲兵とか准尉とかの身分がわかりにくいの。あと、名前がないけど出ずっぱりの「大尉」が登場人物一覧にいないのは何の叙述トリックかと思ったがただの入れ忘れだな。と欠点はあるが、共同捜査を通じた友情の芽生えや、結構味わい深い解決となかなかの良作ミステリに仕上がっている。欲を言えばもう少し尺が欲しかったかな。ビール飲みてえ、とか言ってるイギリス人警官がイタリア料理に嵌まってしまう様子とか楽しい。ミステリにろくな食事描写がないのは、二大飯マズ大国こと英米作品が主流を占めるせいだよなあと思ったりする。
ティム・パークス「誘拐のヴァカンス」高儀進訳
これまたイギリス人作家によるイタリアもの。ヤフオク叩き売りロットにこれらがまとめて入ってるとは何の伏線か。この時点でかなり期待された純文学作家だそうで、舞台ヴェローナにおけるイギリス人社会の、なんとも底意地の悪い描写は確かにイギリス作家っぽい。さて本作、イタリアで一旗揚げようと犯罪をもくろむ外国人の若者が主人公、ということで誰もが感じるのは「太陽がいっぱい」との類似性である。しかしこちらの主人公モリス、プライドばかり高い不愉快な奴で、リプリーみたいには感情移入しにくい。労働者階級からケンブリッジに行きつつも、酔っ払った時に入手したコカインのおかげで退学、就活も失敗続きでついに外国での英語教師にまで落ちぶれている。つかみかけた玉の輿にも虚言癖から乗り損ね、奇妙な誘拐をくわだてるのは良いが要所要所でしくじり続ける。ドタバタっぷりは面白く、無骨な労働者の父親に対する愛憎があって、仮想の父を話し相手にした独白を録音しているのとかも痛ましくていいんだけれど、基本線はイーヴリン・ウォーやキングスリイ・エイミスあたりの流れのイギリスブラックユーモア小説である。そういうの好きな人にはたまらないんだろう。俺の好みだと、ダレル「アレクサンドリア四重奏」ファウルズ「魔術師」みたいなイギリス人海外ビルドゥングスロマンになってくれたら良かったんだがなあ。なんだかポケミス向きじゃなくて、河出とか晶文社あたりからひっそり出てそうな話だった。なおこの作者、その後はイタリア系エッセイが数冊邦訳されており、彼自身はイタリアに馴染めたようで、まあコングラットゥラツィオーニ。
ピーター・ラヴゼイ「死の競歩」村社伸訳
RIPラヴゼイ、当代きっての洒落た名匠であった。さてそんな大作家も初期三作は未文庫化ポケミスで、これはデビュー作である。タイトルはスティーブン・キング感あるが(この秋映画公開らしい)、こちらは原題Wobble to Death,、あちらはLong Walkで似ても似つかない。6日間耐久競歩の間に殺人事件が起こるというスポーツミステリで、開始10ページ後にレーススタートとなるテンポの良さ。スポーツポケミスと言えば競馬シリーズだが、これもまあ人型競馬というか、中年男性版ウマ娘である。ウマ娘よく知らないけど。レースに平行して事件とその捜査が進むテクニカルな構成は、劇中劇と本筋が同時進行する有吉佐和子の名作「開幕ベルは華やかに」あたりと似ている。エンタメ職人作家たちに万歳である。それにしても、このビクトリア朝の謎スポーツはいろいろ酷い。熊いじめとかと同類の残虐競技で、シェイクスピアの裏でこういうのも好きなところがイギリス人の怖さである。そしてこんなのを使ってミステリ書ける作家なんてこの人だけだ。未訳もあるようなのでそのうち全作読みしたいな。
ドナルド・レームクール「月に住む女」山本俊子訳
主人公は女性誌で「ボーイフレンドのペニスが小さいんです」などの人生相談を担当しつつ、売れっ子テレビキャスターを「あんなフェラチオのスペルも知らなそうな女が」とか切れ味良く罵っている、ぱっとしない女性ライター。ちなみに正解はfellatioだ。近所で起こった連続殺人事件を記事にして一旗揚げようとするうちに、主人公も警察もみんながちょっとずつ気狂いじみてくる、というちょっとハイスミスっぽい話。アメリカ出身の作家がロンドンを舞台に描いてて、ロンドンのレズビアン界隈の描写とか面白いし、警察署に飾ってある女王の写真へのコメントとか、「イギリス人は自分たちの犯した殺人を誇りに思っている」とかのいちいち毒のあるイギリス解釈もなかなか。最終的には、狂気とドタバタと意外としっかりしているミステリ要素とが散らかってしまって、そこまでの傑作にはならなかったか。個人的には志を感じられて好きな作品だ。SFなら「酸素男爵」あたりの、あったねえそんなの、と一部のすれっからしヲタが懐かしむ愛すべき凡作というか。
とはいえ一定の力のある作家で、他の作品はないのかな、と調べてみると、詩やFT系挿絵画家たちの画集(邦訳あり)の編集、さらにはイエス「リレイヤー」のライナーノーツと多彩な活動をしたものの、小説はこれ一つだったそうな。本作でもロック絡みの楽しい描写があったが、その業界の人だったのか。危機は持ってたけどリレイヤーは買ってないな。ライナーノーツというのも、配信の時代になって消えてしまった文化だ。eBayに未完作の原稿が$275で売ってたりする。これくらいの作家だとこれくらいの値段なのか。イエス関連掲示板によると2020年に83歳で亡くなったようである。なんだか散らばった経歴というか、器用貧乏な感じもするな。生涯一作って、「バトル・ロワイヤル」とかFTの鳥姫伝(シリーズだけど)とかが浮かぶが、そういう尖ったのではなくて、原書のAmazon レビューにもGoodreadsにも感想がついておらず、まあ忘れられた作品だ。これくらいの作品を残して、数年おきに読み返しては、もうちょっとなんとかできたかなあ、とか思いつつ去って行く人生もなんだか悪くないような気もする。
トマス・チャスティン「16分署乗取り」後藤安彦訳
祖父の代から大富豪、マンハッタン16分署署長室をイギリス貴族の部屋のように作り変えている優雅なカウフマン警視、一日16時間働くが10年つきあっている愛人と致してくればHP全快というやっかいなボスである。そんな警視に率いられた、色情狂の女性刑事オデル巡査部長始め強力な警察チームに対し、癖の強い優雅な犯人たちが挑むマンハッタンの大犯罪を描く、ド派手な傑作シリーズの四作目にして残念ながら最終作である。筒井康隆の富豪刑事をガチにやるとこうなるのだ。四作全て金がかかっている感じで楽しい。本作のヴィラン(いやいつも思うがカウフマン警視の方がヴィラン感あるんだこのシリーズは)のキャラも良いぞ。男性はディナージャケット(タキシードなんて野暮な言葉は使わん!)、女性はイブニングドレス必須のロンドンのカジノで出会ったお姉さんは、初性交時にjapanのシュンガコレクションを見せて「どの体位にする」と聞いてくる。本作のヴィランならその答えはもちろん「全部さ」! 手引き訳の元悪徳警官がマンハッタンを指して言う台詞「あいつらに一泡吹かせてやれ」も、「ゴリオ爺さん」のラストのラスティニヤックを思い出す。都市小説はこれくらい粋でなきゃいけない。手の込んだ犯罪と敏腕警察の捜査をテンポ良くしかも意外性も込めて描く筆力は例によって最高だ。昨今の長すぎる新作には食傷しているが、このシリーズに限ってはもう少し尺が欲しいくらい。スピンオフ作はサンリオから出ていて、残念ながら早川では権利が取れなかったと訳者後書きにあったりするのもなんか自由競争万歳である。まったく古びている気がしないので、ラノベイラストでもつけて新しい装丁でリバイバルしよう。でもまあがっつり主人公が不倫してるので現代日本国だとキャンセルされるか。
未文庫化シリーズあるあるー、訳者が固定されないー。ゲイ探偵デイブ・ブランドステッター、たいていの巻が妙に読みにくいのは、そもそも使ってる英語がちょっと難しいんだろうな。そんな中この第六巻、珍しい音楽評論家田川律による訳はこなれていて、作風をよく捉えていると思う。声高でなく繊細なゲイ生活の描写は、今ならクィア文学つうか腐ったお姐さんたちの市場で評価されそうだ。全十二巻完訳ということは、当時から一定の人気はあったんだろう。日本国におけるオルタナティブな地下水流を感じる。
さて本作、俺が大好きなのは、天才音楽家に思いを寄せる太った女子が泣きながらピザを四枚食べるシーンの哀しみだ。こういうのしみじみ書けるミステリ作家ってあんまりいない。前作で亡くなった父の九番目の奥さんと探偵との、書き込みすぎない微妙な関係も素敵だ。大金持ちになる探偵というのも彼くらいなもので、毎作出てきたレストランを丸ごと買ってしまったりと豪勢なシリーズ後半はブランドステッター一代記として不思議な魅力を持つ。その一方でミステリ部分は基本的に上手くない! 本巻は本筋の事件が単純、というか最初と最後しか出てこないので佳作になったんじゃなかろうか。よく考えるとその部分さえどうかと思うけどな!
特にレベルが高いのは一作目の『闇に消える』とこれだろうか。絶版から長らくたった現代では六作目の感想などまったく見ないが、これだけ読んでも問題ないので見かけたら買うが良い。というか昔のハードボイルドはほとんど途中から読んでも大丈夫だ。俺もヤフオクで9冊セットを買ったので、7,10,11巻を読んでないぜ。なお、最終巻の柿沼瑛子氏の解説にはネタバレがあるので、全巻読破後まで見てはいけない(全て読んだ上でなら感慨深くて良い解説なのだけれど)。さあ後俺に残されたは全14巻のジョン・タナーだが、手元にはちびちび買ってきたヤフオクポケミス詰め合わせから集まった1,2,4,11,13巻だけしかない。残りは頼むぜ@ワンダー。
さてさて未文庫化ポケミス最高傑作と言えば、ちょっとチェスター・ハイムズ『金色のでかい夢』とも悩むけど、作者名(ア・デ・ジェ)のわけわからなさも含めてこれかなー。ネオ・ポラールのライバルである左翼作家マンシェットはなぜか結構邦訳出たのに、右翼作家ADGはいまだにこれまた未文庫化ポケミスの『おれは暗黒小説だ』(これもすごく狂っててすごい)と二作しか出てないのは右翼差別だ。飢えたる同胞のネトウヨ諸氏は醒めて立ち上がるべきだ。武器を取れ。
で本作、一人称が「おれたち」な時点でもうおかしい。主人公(たち)はフランスのどん百姓(たち)で、そこに米国からヒッピーたちがやってきて物語の幕が開く。バルザック『農民』の頃と変わらずとても会話が成立しなさそうなおれたちだが、なんだかんだフランス革命から100年以上、レジスタンスの経験もあってがっつり重火器で武装してるぜ。それでもって色々あって、病める巨犬(おおいぬ。良い訳語だ)たちは狼になり、惨劇の夜がやってくる。なんだこの行き当たりばったりなようで揺るぎないプロットは。なおぐちょぐちょな話なのに変なトリックが隠されていて、それが明かされた時読者はみな唖然とする。この話にそんなもの求めてない! ポカーンだ!
ど田舎弁の訳に日影丈吉はかなり苦心しているが、「鉦と太鼓を叩いて探す」を見たのは原久一郎・卓也親子訳ショーロホフ『静かなドン』(新潮文庫絶版)以来だ。俺も南部ゴシックとか訳す時に使ってみたいぜ。
トカルチュクやハン・ガンも十分ノーベル賞レベルだが、21世紀最大の作家はやはりハンガリーの文学鬼、クラスナホルカイ・ラースロー一択だ。近年の翻訳文学の低調さに絶望している諸氏は喜び給え。君らが待ち望んだ大作家がここにいる。その上まだ生きていてばりばりと新作を書く。
クラスナホルカイと言えば特徴はその破格の文体であり、歴代でも最も読むのが難しい作家の一人である。現在ライト世界文学読み界隈で最も賑わうのが国際ブッカー賞受賞作なのだが、その受賞者のなかでAmazonレビュー数を比較するとクラスナホルカイのみ一桁少ない。しかし一方で、付いているレビューはほぼ絶賛である。読み切った人間は少ないが、読み切れば必ず魅了されるわけである。そんな難読文体、まず断言すれば、母語以外の言語で読むのは愚行である。とはいえ和訳が出る気配もないのでしょうがない。まあよっぽどの時間のある暇人同志諸君のみ英訳を手に取るが良い。
さてその文体だが、ほぼ改行がなく、各ページは真っ黒である。ピリオドがあったりなかったりと作品によって微妙に違う箇所もあるが、ほぼ印象は同じで、とりあえず読みにくい。ユリシーズ最終章が300ページ以上つづくと考えてくれれば良い。一つの文の中に大量の脱線が挟まれ、文を追うのにとても苦労する。「目が滑る」という言葉がこれほどフィットする作家も他にいない。改行がないということは、切りの良いところまで読んでやめる、という読み方ができないことでもある。クラスナホルカイを読むには、まずクラスナホルカイを読むための読書法を身につけることからはじまる。私の場合は、一日数時間かけて15ページ読むのを一ヶ月つづけて一冊読了、というペースである。なお、自慢ではないが私は相当な暇人であり、おそらくこれはかなり速いペースだ。多忙な諸君なら数ヶ月は一作にかかりきりになるかもしれぬ。さあこれに耐えられるか?!
もちろんクラスナホルカイは文体のみの作家ではない。登場人物の運命を底の底まで描ききる大長編群は質・量ともにずば抜けていて、比較しうるのはフォークナーやトーマス・マン、ドストエフスキーといったレベルになる。「アブサロム・アブサロム」「魔の山」「悪霊」と同水準の作品群だ嬉しいだろう。彼が語るのは幻想と現実、暴力の入り交じった、まったく独自なストーリーだ。高い象徴性はユンガーやグラック、マンディアルグと言った20世紀ロマン派の流れを汲んだものと言って良いだろう。しかし、羽化登仙に遊ぶ幻想文学とはならず、最新作「ヘルシュト07769」ではドイツのネオナチを、最新短編ではウクライナの戦場を描くなど、非情な現代社会政治の要素もしっかりと汲み取っている。ほらほら、読みたくなってきただろう。読みにくいけどな!
さらに、ハンガリーを舞台とした1980年代の二作から飛躍し、三作目「戦争と戦争」からは登場人物が世界を駆け回る。先進国ではない、オリエンタリズムと無縁なルーツを持ちながら、ヨーロッパ、アジア、アメリカを動き回る国際性は、アピチャッポン・ウィーラセタクンやエデュアルド・ウィリアムズなど映画では現れ始めているが、文学ではあまり類を見ない。こうした新しい知性こそ、もはや行き詰まりを見せ始めている現在文学の二潮流、すなわちフォークナーや南米文学のローカル性と、世界中の村上春樹フォロワーによる無国籍性を乗り越え、新時代の文学を作り出すのではないか。
英訳中編は四つ、短編集が一つ、エッセイが一つ、旅行記が一つ、絵本が一つあるが、なんといっても長編である。どれを読んでもぶっとんでいる。以下にそれぞれを紹介するがその前にいくつか。邦訳は中編「北は山、南は湖、西は道、東は川」のみ。当時大阪外大教授の早稲田みか氏による翻訳は、英訳しか読めていない私でもはっきりそれとわかるクラスナホルカイ節で、よくぞ良質なハンガリー語訳者をマッチングできたものだと思う。そうなると本当に惜しいのが作品選定。なぜこのマイナー中編を訳したか。これはこれでカフカっぽい雰囲気は良いものの、なんとも半端に終わってしまい、長編作家クラスナホルカイの本領が発揮されていない。カフカっぽい作家なぞ掃いて捨てるほどいるが、ドストエフスキーやフォークナーっぽい作家なんて百年に一人くらいしか出てこないに希少種なのにな。なお、訳者解説には長編の解説があるが、ちょっとネタバレすぎるかなと思うので、その箇所を飛ばすことをお勧めする。
映画から入る場合にはタル・ベーラとの仕事がある。「ダムネーション 天罰」、「サタンタンゴ」、「ヴェルクマイスター・ハーモニー」は2024年にリマスターされてから各種配信でもアクセスしやすくなった。2007年の「ロンドンから来た男」2011年の「ニーチェの馬」については、東欧映画サブスクEastern European Moviesで見ることができる。このサブスクは生涯契約が圧倒的にお得で、暇を持て余している我々には格好の遊び相手となる。
まずは無料でふれてみたいという罰当たりなお前には特別に、Yale Review 2/25/2025号でWeb公開された短編「天使が我らの頭上を過ぎる」へのリンクをやるぞそれ。現代ウクライナの戦場で死にゆく二人の兵士の対話を描いたものだ。一見してわかるとおり、画面上でスクロールしながら読めるような文体ではない。読むなら印刷してからにするがよい。傑作だぜ。
では長編の紹介をば。
サタンタンゴ
1985年原著、2012年英訳、1994年に伝説の映画化。ハンガリーの田舎で起こる絶望と黒い笑いの群像劇。あまりにも有名なタル・ベーラ監督映画の上映時間はちょっと長いが、タル・ベーラの代名詞とも言える長回しがクラスナホルカイの冗舌だが主観的な文体を見事に映像化している。同時代にハンガリーという狭い国に、文学と映画二人の天才が現れて共同作業をしていることを祝うべきだろう。原作はまあ50時間で読み終わったら大したものというレベルなので、まあ7時間程度なんともないわね。おどろくことに、映画版はとても忠実に原作をなぞっている。そのため、映画を先に見てしまうと、その解釈に引き摺られてしまう危険もある。せっかくのクラスナホルカイ体験なのだから、タル・ベーラ既視聴者は初期二作以外の作品から入った方が良いかもしれない。
当然改行はほとんどないのであるが、それなりにピリオドが撃たれるため他作品と比べれば確実に読みやすい。後続作と比べ寓話感が強いように思えるが、共産圏下ハンガリーに詳しくないので解釈しきれないのが残念だ。おそらく本国では、本作の一文一文が共感を込めて読み解かれていることだろう。もちろん、寓話を突き抜けて普遍的な悲喜劇を描いているところが世界文学として評価されているところであり、その点で近いのは「巨匠とマルガリータ」だろうか。他作はほぼ視点人物を絞る書き方であり、群像劇形式は本作のみと言う点からも、まだスタイルを固め切れていない過渡期の作品という気もする。大傑作ではあるが、これだけでクラスナホルカイを語ってはいけない。
抵抗の憂鬱
1989年原著、2000年にクラスナホルカイ作品初の英訳がなされ、世界文学に衝撃を与えた作品。三章構成で短い第一、第三章がついているが、本体は第二章「ヴェルクマイスター・ハーモニー」、2001年公開のタル・ベーラ映画原作である。文体に関して言えば、視点の切り替わりなどで改行があらわれると言う点で、クラスナホルカイ作品としては比較的改行がでてくる方である。といってもあわせて10回くらいしか改行してないような気がするし、視点の切り替わり以外でも改行があってその意図を考えたくなる。また、章替えの直前に改行が出てくる場所には、ここでやるかよと苦笑いが出る。主人公視点中心で進んでいた映画版と比べると、他のキャラクターの心境描写があるためにわかりやすくなる部分もある。一方で、そこに視点をおくなよ、という箇所もあり、何が起こっているのかよくわからないが大変なことが起こっている感が増大している。映画でもっとも印象に残る箇所は原作に現れていないのである。あと、最後はなんなんだろう。
後続作とも共通する、少し抜けた実直な若者というクラスナホルカイ作品の主人公はここから始まる。映画版の主人公を演じたラース・ルドルフは見事であり、本作以降の長編におけるヴィジュアル・イメージは彼の大きな眼で固定されてしまう。妙に説得力のある自己流科学観、突然の理由なき暴力といった要素が出そろい、クラスナホルカイ世界の完成を告げた傑作である。最も近い作品を挙げればユンガー「大理石の崖の上で」になるだろう。
戦争と戦争
サタンタンゴ、抵抗の憂鬱につづく、英訳としては第三長編。原著は1999年、英訳は2006年。数ページからなる短い章が切り替わると改行が入るので、他のものより読みやすいような気がする。ただし章の間はピリオドすらないのでやっぱり読みやすいわけがない。クラスナホルカイ全般に言えることだが、前半は話がゆっくりしているため、この文体をやられると本当に進まない。しかしあるところから怒濤の展開が始まり、そこまで絶えれば極上の読書体験が待っている。本作では、主人公のハンガリー人小役人が、ある日突然ニューヨークに行く。ニューヨークにいくまでは数十ページだが、ここを頑張って乗り越えてくれ。そこまで行けば大丈夫だ。
ニューヨークに辿り着いた主人公はノートパソコンを入手し、ホームページを作る。ホームページが語るのは時空を越えて放浪する古代ギリシア人達の姿である。現代の神話を語ってるのかと思いきや、このストーリーを語り追えた彼を待つのは突然の暴力。まったくなんなんだろうこの作家の想像力は。作中作と本筋が存在する錯綜した話が最後には圧倒的な感動を呼ぶ展開は、密度の高さも合わせて、「ヴェルギリウスの死」を連想した。インタラクティブな仕掛けもあり、あれを踏んで、あれを見たときのなんともいえない感動は忘れがたい。1999年と言えばまだインターネット発展期で、得体の知れないホームページがあったものだった。その時代に、一つくらいこんな宇宙的文学の記録があって、ひっそりと消えて行っていたのかもしれないと考えると痛快だ。
たまたま入手して半年くらい一ページ目が読めずに積んでおいたあと突然読了し、クラスナホルカイ神についていくことを決めた思い入れの深い作品である。私的最高傑作はこれだ。ここをクラスナホルカイ体験のスタートとするのがお勧めである。
その上の西王母
2008年作、章ごとに視点を変えて、芸術に関わる様々な人々を描く作品だが、章ごとの直接の関連性はない。ルネサンスのイタリア、アルハンブラ、ロシアや中国など時空飛びまくり。第一章 Kamo-Hunter はなんと鴨川のOoshirosagiを描き、その後も仏像修復、能面師、能楽師、伊勢神宮、世阿弥と日本の章が多い。でもイコン修復師の章とかは知らないことばかりでけっこうきつい。クラスナホルカイらしからぬ人があまり死なない静かな話なので、なかなか話に入り込めないところもあった。タイトルのSeioboは能「西王母」、この能楽師の半生と人生観を描いた章が白眉で、ここらへんからやっとエンジンかかった感じ。日本には三回来ただけだと思うが描写に違和感はなく、日本なのにいつものクラスナホルカイっぽい変な人がしっかり出てくる。
異色作なのでクラスナホルカイ一作目にはすすめないが、とんでもなく癖のある芸術観はファンにはたまらないので、やはり必読。「北は山、...」とは主題がリンクしている感じもするので、あわせて読むのが良さそう。
Baron Wenckheim's Homecoming
2016年作 … Now Reading…
ヘルシュト07769
2021年作、2024年英訳の、英訳版では最新長編。いつも架空の人物が自由自在に動き回るクラスナホルカイ作品なのに、本作では1ページ目から実在の人物が現れる。よりによってあのドイツ首相メルケルである。舞台はドイツ、チューリンゲン州の田舎町カナ、架空の町である。主人公フォロリアン・ヘルシュト(発音これでよいの?)は少し頭が弱いが気の良い力持ちで、メルケルに何かを伝えようとして手紙を書いたり、突然ベルリンを訪ねたりする。何を伝えようとしているのかはわからない。そんな主人公は、ヨハン・セバスチャン・バッハを崇める「ボス」の元に集うネオナチ組織の一員として、今日も町の落書き消しにいそしんでいる。
ここらへんの設定がわかるまでに100ページくらいかかってかなりつらいが、カナに野生の狼がやってきて事態は一変。その場はボスの銃弾によっておさめられるが、ガソリンスタンドの爆発や殺人と、例によって突然の暴力が吹き荒れる。この文体の癖にアクション描写上手いからラストめっちゃかっこいいのに、読み終わって冷静に考えるとなんで銃撃戦になったのかさっぱりわからないのとか最高なんですよ。
さて本作の文体、コロンやセミコロンはあるがピリオドはおそらく最終ページの一つのみ。目次からは章立てがあるように見えるが、章タイトル前後の文は途切れずにつながっている。で章タイトルは意味不明である。なんだそりゃ、と思いつつすべて読み終わったら目次に戻り、章タイトルだけを眺めてみよう。ここから浮かび上がってくる文章はなんだろう。個人的には、これこそフロリアンがメルケルに送ったメッセージではないかと考えている(ネタバレかもしれないから読み終わってからやろう。いやこれが何かしらのネタバレになるならお前さんは私よりよっぽどこの本を理解しているがな!)。
エルンスト・ユンガー(1985-1998)の文学的重要性は年々高まっているような気がする。日本語でも英語でも、21世紀になってから活発な翻訳が行われている。それでも長寿かつ多彩な彼の全容を捉えるのは難しい。重要な小説はほぼ英訳されたっぽい気配があるんだが(やまだあるのかも知れんが)、ドイツ語のできない私なんぞでも読めるように全集出してほしいものである。なお、最近流行の英語メーリングリストサービスSubstackには、Ju(ウムラウト出せん。すまん)nger Translation Project というのがあり、たまに断片的な英訳が送られてくるので好事家諸氏も入っておこう。あと本稿は文学系のみを扱う。思想系はさっぱりなのでそちらは誰かに任せる。
“In Storms of Steel” “Fire and Blood” “Copse 125”
Anarch Booksから2020年代に英訳が出たユンガーWW I塹壕日記三部作。第一作「鋼鉄のあらし」は和訳もあるが古く、職業翻訳家の訳でないと聞いたが現物を見ていない。英訳なら当代随一の独英訳者Michael Hoffmannのものもある。三作とも詩的で美しい文章で塹壕の日々と思索が描かれる。劇的なのはプール・ル・メリット勲章をもらう第一作ラストくらいだし、そのシーンもけっこう淡々と描かれる。大戦史の戦局を描くような作品ではなく、「死がすぐそばにいると癒やされる」とか言いながら蝶や鳥を愛でつつ冷静にトミーを撃ち抜く描写こそが本質である。戦争の申し子のような彼の中にあれほどの大思想が詰まってるとはこの時点ではわからないけれど、常人でないことはよくわかる。戦争日記文学は多々あれど、唯一無二な硝煙と情熱と静寂の記録である。
War as an Inner Experience
思想系はだいたい難しくてわからないのだが、本作はかなり読みやすく、上記塹壕日記の副読本として必読。Anarch Books版の英訳の他、なんと和訳が出た。2024年にサークルRose Budから刊行された同人誌『ドイツ保守革命I』に麻賦世博訳「内的体験としての戦闘」として収録されており、ユンガー文学の香気を伝える格調高い翻訳としてお勧めできる(おれドイツ語出来ないけど)。「戦争とは民族(フォルカー)どうしの最も力強い邂逅である」とか素晴らしい。内容は純度百パーセントの戦争賛美であり、なかなかここまで蠱惑的な危険思想は類がない。現代の聖なるものとして戦争を捉えたカイヨワ「聖なるものの社会学」にも、戦争の祭司ユンガーの重要作として取り上げられているが、思想書というより聖典という方が確かに納得できる。密度が高いのであまり要約できるようなものではなく、なにはともあれ一読あれ(同人誌が今から手に入るかどうかは知らん)。
On the Marble Cliffs
1939年原著、40年代に軍人による英訳が出たらしいが、現在読むなら2023年の英訳が良いだろう。55年に相良守峯訳も出ており、現物入手は困難だが国会図書館デジタルで読める。謎めいたモーリタニア人に取り囲まれた美しい丘陵地帯での、のどかだが緊張感に満ちた生活が、突然の暴力によって壊滅させられる。もちろんどう見てもナチスなのではあるが、あえてそう読まず、抽象化された暴力と捉えるとさらに現代的に感じる。グラック、プッツァーティ、さらにはクラスナホルカイと、国境を越えて強靱なフォロワーたちを生み続けている。ユンガーの、というより20世紀小説の最高傑作の一つだろう。必読だ。
パリ日記
「大理石の崖の上で」を書いてもなぜか更迭されないユンガーのヴィシー政権下パリでの滞在日記(1941-45)。淡々と優雅にしかしヒットラーやナチス中枢には毒を込めて綴られる日記は、他の第二次大戦日記とはまったく異なる。それどころか、フランス人にもドイツ人にも共感していない独立性は塹壕日記とも明らかに異なり、変化し続けた作家ユンガーの捉えどころなさをよく表していると感じる。様々な日記文学を論じて抜粋までも含む大作グスタフ・ルネ・ホッケ「ヨーロッパの日記」でも、ユンガーは日記文学者の王者格として扱われているが、英訳も塹壕とこの部分しかない。晩年まで書き継がれたという日記が読みたくてしょうがないので全訳してくれないものか(そもそもドイツでも出版されてるんだろうか)。「大理石の崖の上で」と並ぶユンガー文学の最高峰。とりあえずこれも読め。
「ヘリオーポリス」「ガラスの蜂」「エウメスヴィル」
和訳がある。読め。
この後述べる三作は好事家向きと言って良いだろうが、好事家にはたまらない怪作ぞろいでもある。
Visit to Godenholm (Besuch auf Godenholm)
1952年原著、2015年翻訳の中編。「大理石の崖の上で」と似た構成を持ち、静かな生活が突然激変するのだが、本作での変化は暴力ではなくLSDによってもたらされる。美文は健在だし面白いのだが、正直なところどう読んでいいのかさっぱりわからん。
Aladdin's Problem (Aladins Problem)
1983年原著、1992年翻訳の中編。ポーランド領で生まれ軍人となった主人公は西ドイツに亡命し、宗教を問わない埋葬を行うベンチャーを立ち上げて大成功する。小説として普通に面白く、これを88歳で書くか。こんな奇妙な死生観を持つ老人も他にいない。入手困難だが、よくわからないPDF交換サイトにおいてあったようななかったような。いやそれって違法かもしれないから私はやってないですよもちろん。
A Dangerous Encounter
1985年原著、1993年英訳。19世紀パリ、主人公は碧眼金髪の超格好いいモテまくりドイツ軍人だが、こちらはワトソン役。遅れて出てくる天才肌のホームズ役との良いコンビで決闘絡みの殺人事件を解決する。普通に出来の良い歴史ミステリなんてものを90歳にして書くユンガー、まあ理解できない。
ラテンアメリカの大作家たちの文章ってだいたい野暮ったいような。そんななか一人ずば抜けてかっこいいのがフリオ・コルタサル(1914-1984)。あのいつも変わらない深い顔立ちはもちろん、文章のキレは一人だけ別世界。いや野暮ったいのが悪いわけじゃないんだが、血縁も環境もぐちょぐちょな奥地ものは胃にもたれる。その点ブエノスアイレスとパリを拠点とするコルタサルの都市小説には共感しやすい。和訳は短編中心で、コルタサルの多彩な世界を捉えるには足りない。スペイン語出来ないので戯曲とかが読めてないのは痛恨なのだが、とりあえず英訳作品から色々紹介してみよう。もっといろいろ訳せる人が出てきてほしいものである。でも「パラディーソ」まで訳されて掘り尽くされている感あるし、若い南米文学訳者とか生計立てられそうにないなあ。
Final Exam (1950, 死後発掘出版)
大学の最終試験(そんなものがあるんだ)を翌日に控えた男女が、謎の霧に包まれたブエノスアイレスで、つぎつぎと河岸を変えながら呑みまくり議論しまくる。雰囲気はかっこいいんだけど議論にあんまりついていけませんでした。
The Winners (1960)
「懸賞」という和訳タイトルのみが知られる長編。サスペンスの利いた群像劇。懸賞に当たったブエノスアイレスの人々が豪華客船での航海に出るが、船はなかなか進まず、船内では様々な事件が起こる。閉鎖空間で芽生える人間関係、となるとやはり「南部高速道路」の切れ味にはかなわないのだが、船がブエノスアイレスを離れた時の開放感や、夜ごと作戦会議が開かれる船内バーの雰囲気などいかした描写が多く、たまに読み返したくなる。感想書いててやっぱりまた読みたくなってきた。好きな作品なのだ。
62: A Model Kit (1968)
「組立モデル62」というタイトルでサンリオ文庫から出る予定だったとか。驚け、傑作「石蹴り遊び」の続編だ! といっても直接結びついているわけではなく、石蹴り遊びの62節に出てくる世界を広げたもの、とコルタサル本人は言っている(がよくわからん)。パリのレストランでぐずぐず過ごしている主人公のぐずぐずっぷりに読者がいらいらしていると、突然世界が飛んで茫然とする。パリ、ロンドンなど世界各地にいる登場人物が、”City”と呼ばれる謎の空間を共有して触れあうのである。でバンパイアっぽい何かに襲われたりして、話は正直よくわからないのだが、えらく切ない。印象はまるっきり村上春樹である。60年代なんだけどな! 世界文学でも有数の都市幻想小説の大傑作であり、日本人諸君はこれが訳されないのは国辱だと思うべきだ。
A Manual for Manuel (1973)
ごめんなさい、全然わかんなかったです。
Around the Day in Eighty Worlds
「80世界一日一周」という素敵な邦題でも知られる文集。エッセイだったり短編だったり変な絵があったり、既存作の登場人物も出てきたりして賑やか。テオドール・W・アドルノなんてのも出てくるがこれは猫大好きなコルタサルの飼い猫。「パラディーソ」論とかがっつりやってる章もある。正直私ごときには難しすぎる章も多く、才人コルタサルの広く深い興味には圧倒される。原著1967だがこの訳は1980年フランス語版ベースらしい。
Autonauts of the Cosmoroute(1983)
パートナーだった女性活動家キャロル・ダンロップとともに、フランスの高速道路から出ずにしばらく暮らしてみるという妙な旅日記。高速道路愛が煮詰まってしまったようである。サービスエリアでタイプライターをかたかたやり出したりのどかなのだが、コルタサルももう若くないのでそんなに無理が効かない。なかなかポンコツな作者を助けようと友人たちが色々差し入れをくれたりする。ダンロップの撮った写真なども多くて微笑ましい。しかし出版の数ヶ月後ダンロップ、翌年コルタサルは亡くなる。輸血からのエイズ説(真偽不明)もあり、アルゼンチン人に愛されつつも亡命先で亡くなった大作家の客死はただただ悲しい。
Save Twilight (死後出版)
詩集。ビートニクスの聖地City Lights書店 の代名詞ともいえる、日本の文庫と近い小型本。ギンズバーグのHowlとかフランク・オハラのLunch Poemsとかが入った伝説的なシリーズである。そんなシリーズにふさわしい、かっこいい詩が西英対訳で収められている。一つ訳してみよう(1952年の詩だもんスペイン語から直訳してるから10年留保効くもん)
命令
私に休息を与えるな、決して解放するな。
我が血を鞭打て、あらゆる残酷をもう一度味わわせろ。
眠らせるな、安らぎを与えるな。
そしてこそ、私は王国を手に入れる、
私はゆっくりと生まれ来る。
私を愚歌のように消え去らせるな、私を撫でる手袋になるな、
ミキサーのごとく切り刻め、絶望をもたらせ。
お前の人間愛を、笑みを、髪を隠せ。それらを遠ざけろ。
燐と魚鱗の乾いた怒りとともに現れろ。
叫べ。私の口に砂を吐け、喉を砕け。
私は気にもしない、二度とお前を日の光の下で見ることがなくても、
お前が太陽や男と戯れるのを知っても。
分けあたえろ。
私は求めるのだ、俎板の上の残酷な儀式を、
誰も求めようとしないものを。骨に
食い込む茨を。この嫌らしい顔を剥ぎ取れ、
そしてついには、私に我が真の名を叫ばせろ。
まだ長詩読まないで文学語ってるの?
やっぱり日本国の人間は短詩やり過ぎなのである。あんな短くっちゃ言いたいことも言い切れず、季語とかいう共同幻想に頼ることになっちまう。本当に夏は6月で終わってると思ってるの? 余白の美とか甘えじゃね? やはり大詩人たちには重厚長大に、全てを語りきってから死んでもらいたいではないか。日本国ではあまり流行らない長詩こそが世界文学の主流である。歳時記を捨てよ長詩を読め!
Ezra Pound “Cantos”
人類にとってもっとも読みにくい本の一つ。邦訳は部分的に存在する。特に密度の濃い箇所である「ピサ詩篇」の新倉俊一訳は必須だが、結構後半のピサ詩篇までたどり着ける日本人はどれくらいいるんだろう。思潮社の海外詩文庫には第一詩篇など序盤の訳があるので、まずこれと原著を読みくらべながら、挑戦する時が来ているのか判断するのが良いだろう。なお稀代の暇人である俺をして、これを読了するには半年かかった。多忙な諸君なら数年がかりになりかねぬぞ。
中世プロヴァンス文学やら漢字やらイタリア語やら楽譜やら神聖文字やらオリジナル外字やらと様々な素材を扱うというだけにとどまらず、素材群をきわめて主観的に料理していく作品なので、ただ読んでもあまりわからない。本気で読むなら注釈書Carrol F. Terrell “A Companion to The Cantos of Ezra Pound”を横に置いておこう。注釈書を使う場合の注意点として、原本は電子版ではなく紙版で買う必要がある。電子版はページなどが可変なので注釈箇所が引けないのである。で原本(800p越え)、注釈書(800ページ越え、大判)、翻訳数冊と紙で揃えると机の上が大混乱だ。
軽い気分で未訳部分を訳してみようとして、3行も出来ず砕け散ったことがある。詩篇同士に複雑な関係があって以前・以後の箇所で訳語や論理展開を揃える必要があるのに、その論理が一筋縄でいかない。数個前の詩篇と擬音が遠目につながってたりするのとか、もう緊密すぎて手が出せない。新倉先生亡き今、和訳は今後百年単位で出ないだろう。ただし、こんな複雑な作品のくせしやがって、原文は狂ったように美しい。わからなくなったときは音読すると、響きの素晴らしさでなんかごまかせる気になる。だからこそ詩は原文で読まないといけないのだ。
好きなのを一つ選べばSeven Lakes Canto、五山の漢詩を日本語の音読で引用してるなんて日本人以外には読めないだろうし、日本人にも読めねえわ。でもあの静謐さは凄いの。この詩篇を日本文学の最高峰って言っても良いんじゃないだろうか。日本文学じゃないんだけどな! 一方でアメリカ大統領編など馴染みのないところはだいぶぐだぐだに読んでしまった。でもピサ詩篇まで行けばもう震えるしかない。虐殺の森に世界の鍵を拾うんだ。一回読んだだけじゃあんまりわかっていないからこそ、死ぬ前にもう何回か読もうと思う。これぞ世界文学のトップオブトップ、地球人類最高傑作である。
William Carlos Williams “Paterson”
和訳は二つあるが、ともに高い。七千円を切っているのを見かけたら確保しておくのが良いだろう。俺は沖積社の田島伸悟訳を使った。かなり翻訳者が頑張っていて、この難物をここまで訳すのは本当にすごい。散文・韻文が交互に挟まる文体であり、散文は手紙やら歴史的文書やらからの引用が多いが、和訳があると読み飛ばせるので助かる。韻文部分は自由詩の極致でのような奔放なものから二行詩、三行詩、ソネットぽい物やらブランクバース、散文詩まで自由自在に変化する。この雰囲気を味わうにはやはり原文で読まないといけない。このレベルの詩なんて全部わかるような代物ではなく、わからないところはわからないなりに消化すれば良いのである。アメリカ人が読んだってわからないところだらけだろう。
基本的には一つの街とその周辺の歴史を語りつつ、自由に想像力を働かせる象徴詩。三部くらいまでの、本、美しいもの、火などのキーワードが再登場し、強化されていくのとか素敵。花の中の花の歴史、石の下の割れ目から見ている神話とかのモチーフを用いて語られるパターソンの街や滝や山はなんて豊穣なんだろう。詩句自体は緩めの自由詩なのでついつい読み飛ばしてしまい二週間ほどで読み終えてしまったが、何のために置かれているのかわからないパートも多かった。なんか解説書でも読まないと消化しきれないなー。つか英語版の後ろの方に注釈集がついていることに読後気づいたが、Kindleで本文と注釈を行ったり来たりするのは不可能に近いので使えないな。二冊開くのが良いんだろうか。後半、第四部くらいからは特に散漫に感じたがどうだろう。でもパウンドの手紙はやっぱりなんかすげえ。ビルビル。
Charles Olson “Maximus Poems”
まずまあ、原本は大判で650ページ、注釈書のGerge F. Butterick “A Guide to Maximus Poems of Charles Olson”が800ページ、そして南雲堂から出ている平野順雄訳が箱入り1400ページ(ちょっと見たことない物体だ)と、この三冊が机の上にあるだけで圧迫感があり、最低でも一夏はこいつらとすごすことになるなと確信する。とりあえず常人が手を出すべき領域ではないとはっきりわかる物量である。こいつらを手に入れてしまって引き返せなくなる前に、まず北村太郎・原成吉訳のオルスン詩集を手に取っておこう。レター10までの翻訳と注釈、原本が収められているので、これを読んで気に入ったら本体に行こう。なお本体はこの十倍くらいだぜ!
...その後そこそこ読んだがさっぱり面白くならねえ!基本は港町グロースターの歴史を描くのだが、ちょっと歴史に寄りすぎ。アメリカの片田舎の港町の歴史を掘るだけじゃ普遍的な詩にはならないと思うの。しかも主張しているのがマッチョな海の男達のかっこよさって、長詩でやるべき作品なのかこれは。うーん、俺が読むべきものに見えてこないので放り投げよう。
ジェイムズ・メリル「サンドーバーの変化する光」
第一部「イーフレイムの書」は、マヤ・デレンら悲しい友人たちとの現実世界での関係がコックリさん経由で揺るがされるという、正気とオカルトとの境界にいる緊張感がすばらしかったのだが、第二部以降は、完全にオカルト方面にいってしまってあまり楽しめなかった。そっち方面寛容な人なら楽しめるのかなあ。あと第二部以降のコックリさんの中心になるアメリカ渡航以降のオーデンについて、俺があまり読んでないのも駄目だった。せっかく志村正雄の全訳があるので、誰か周辺文献も含めてじっくり読みこんで、こんなあっさい俺のことを馬鹿にして欲しい。
Nikos Kazantzakis “The Odyssey: A Modern Sequel”
英訳ですまん。ジェイムズ・メリルの高校の先生にして初の恋人(今なら一発アウトじゃねえか)にして親友だったKimon Friar の渾身の訳業。800ページ越えの大叙事詩、日本語訳なんてねえ! だがまあ、難解な代物ではなく読みやすい。つか単純に面白いのでさくさく読んでしまう。オデッセイア本編終了直後から始まり、暇を持て余したオデュッセウスがいかした仲間たちを集めて新たな航海に出る。
もしもおいらが神さまならば 海は甘美な白ワイン
船はどいつも盃に 浜辺は赤く血の滴る肉に
そしてこの身は酒樽に変え 飯と酒に漕ぎだすぜ!
途中で攫った(攫うなよ)ヘレネーは呪いのアイテム、クレタ島は崩壊だ。
温かく重い南風が立ち、海は遠くまでさざめいて、
白く無言の、船出する幽霊のように、帆を立てならべて
釣り船、トレリーム船、ガレー船が、ゆっくり、ゆっくりと帆走する、
眠るクレタ島の、深い青の夢の中へと
いつしか新時代の神になることを決意したオデュッセウスはアフリカ大陸へ!
思うんだ、地上でもっとも重要な義務は、宿命に抗うこと、
すでに書かれた運命に宿を与えず、それを皆殺しにする
こうしてこそ、定命の人間が神にも勝てるのだ
で仏陀に会ったりキリストを殴ったりしてるうちに南極に行って死ぬ(ごめんなさい中盤以降のメモ紛失。でもどこ読んでも面白いよ)。なんて楽しいんだろう。こんなのを書いた後で全盛期を迎えてゾルバとかの大傑作を書きまくるカザンザキスは凄すぎて意味がわからない。
Adonis “Songs of Mihyar the Damascene”
シリア出身、レバノンでのアラブ・モダニズム運動の中心となり、その後はパリに亡命しているアドニス。フランス語訳詩は多いし本人がフランス語で書いたエッセイなんかもあるが、英訳は少ない。そんなアドニスによる1961年の重要作がこれ、英訳は二つあり、こちらは後続版で、先発版とはいろいろあったそうだ。内容はニーチェ「ツァラトストラ」と似た預言者の語りによる連作短詩だが、サン=ジョン・ペルスのアラビア語訳でも知られるアドニスだけに、雄大な思考が背景にあって長詩の風格がある。後にAn Introduction to Arab PoeticsやViolence and Islamと言ったエッセイで展開される、過激な反権威主義者としてのアドニス思想が盛り込まれている。例えば本書中の有名作”The New Noah” 傲慢な神に反旗を翻し、方舟を泊めずに航海を続ける人間たちとかもう大好きだ。緊密に連携はしているが短詩の集合なので、それほど気合いを入れないでも読みやすいぞ。ただしアラブ詩は西洋詩以上に定型が発展しているし、諸々のイスラーム帝国宮廷などで日本の和歌以上の万能ツールとして使われていたため典拠や詩語に関する蓄積も相当凄いらしいのだが、そういうのは翻訳できるわけもなく、この訳でどこまで味わえているのかはよくわからないがな。ノーベル賞候補に挙がることもあったが、ラシュディみたいな半端レベルではないガチの反イスラームなので、取ったら一発で戦争ものである。
Collected Poems of Saint-John Perse
仏英対訳700ページ越えの大著だが、6万円越えの紙版はさすがに手が出ず1.5万円くらいのKindle版を買った。だがスキャンしたのそのままのようなページ固定式でKindleでは読む気にならず、数年電子積読だった。さて今iPadでこれに手を出して思う。サンジョンペルスを多田智満子邦訳やTSエリオット英訳で分かった気になっていた日本人諸君、君たちは間違っている。めっちゃ単語が難しいぞ。heronry知ってるか? 一単語で「サギの集団営巣地」だぜ!人生ではじめて見たし今後二度と見ることがないと断言できるぜ!(後日追記: なんてこった。マルコム・ラウリーに出てきやがった)本当に聞いたこともない単語だらけ、しかも対訳なので仏語版見てみるとだいたい原典から使われてる単語である。これフランス人なら読めるのか?
とはいえまあ、電子版の利点ということで辞書ガンガン引きながら読んでいくと(スキャン画像っぽいのにiPad版Kindleなら精度良くタッチで引けるんだが、栞はさんだりできないのは不便だ)やっぱり良い。サンジョンペルスらしいスケールの大きな比喩が連発され、いかにも聖なる詩である。アドニスもここを目指したんだろうけど、Mihuyarはともかくそれ以後の詩はスケールダウンしてて、やっぱ本家からはだいぶ遠いな。通して読んでみると全詩集のくせに駄作がないというか、どれも同じ作品にすら見える。奇妙な語彙も実は繰り返し出てくるので、そのうち慣れてくる。というか人生通じて同じ神話的モチーフを使っているな。基本長詩だが場面展開は早いので意外と読みやすい。だが作者の実体験に基づいている部分もあるようで解説書の類いも読みたいのだが、あんま英訳されてないんだよなあ。Chappyに要約してもらった仏語文献って実在するんだろうか。
で長詩と言えば、「風」を越える大作 Amers, 多田智満子曰く『航海目標』が収録されているのだが、こいつはもうたまらない。砂やら波やらトレリームといった海に関わる語句に寄せて悲劇女優やら女流詩人預言者やら偉大な韻律やら背の高い少女達やらダゴンが跋扈する、まあサンジョンペルスにしか書けない大叙事詩である。何が書いてあるかとか、こまけえこたあいいんだよ。ただ目の前の三行の偉大さに震え続けるのだ。パウンドとはまた違う地球文学の頂点である。文学と呼ぶには超越的に過ぎるかもしれないが。
今宵我らが火を! すべての岸辺に、今宵我らが火を! …… そして我らが同盟よ! ―― この最後の夕べに!!! ……
ああ帰路の冒険のさなか、さ迷う魂よ、そなたの従った道のりのことを、そしてそなたもまた黎明へと漕ぎ出した幸せなトレリーム船のことを語り給え。我らのうち誰が船出し、誰が船もなく海にいたのかを。人生に終わりはないのか? 愛を知らねば人は死なないというのか?
Iger Christensen “Alphabet”
ノーベル賞候補にも上がっていたが2009年に亡くなったデンマークの国民的モダニズム詩人による代表作。一節目は
アプリコットの木が存在する、アプリコットの木が存在する
の一行、そこからABC順で様々なものが列挙されるカタログ詩、多田智満子曰くのノーメンクラトールだが、各節の行数はフィボナッチ数列で定まるテクニカルな構成。こういう原単語依存の詩はだいぶ翻訳不可能だろうに、英訳はかなりこなれている。でもあいうえお訳はきつそうだし和訳は出ないかな。
Cは3行、蝉やら糸杉に混じってクロミウムが存在するあたりから何やら怪しくなる。その後も自然物のカタログに混じって銃やらヘリコプターから撒かれる農薬やらの名が呼ばれ、行数が伸びるにつれて詩句のスケールが大きくなる。はじめにでてきたアプリコットやら蝉やらも繰り返し出てきて、様々なイメージを上書きされていく。そして
原爆が存在する
から広島、長崎の存在、さらに両都市の死傷者数が列挙される。ああこういう呼び上げの使い方があるのか。まだまだ詩は進化しているものである。そして詩は世界の美しいものと破滅的なものをを呼び上げて続いていく。すげえなこれ。
さてさて、最近日本語のブックガイドでは間に合わなくなってきた俺はNYRBやらTLSやら書評誌でいろいろ探してたのだが、ふとChappyに私の好みを伝えて見たところ出してきたのがこれとTerrance HayseのAmerican Sonnets for My Past and Future Assassinと、どちらも最高に絶妙である。まだ古典化してない部分ってブックガイドじゃ探しにくくて、英語の有象無象ホームページとかとか漁るのもめんどくせい、となっていたところにこれである。
さらに、よくわからない詩行を投げてみるとChappyがいろいろ教えてくれるので注釈書の役割までしてくれる。唐突に出てきたevening June sixteenthは何よ、と聞いてみると、ブルームズデイを入れることで世界文学を丸ごとカタログに入れているのだと。なるほどねえ。で次に出てきた6月20日について聞いてみると、普通の日をカタログに入れることで日常を積み込んでいるのだと。ほんまかいな。いやはや時代は動いているものだ。相当な文芸評論家キラーにも見えるが、学習元の書評達が消えちゃうとこっちも立ち枯れるのよね。文学の未来はどうなることやら
Amazon Prime Videoに広告が入ったことに激怒した俺は他を探すことにした。世評高いMubiも結局VPN通さないと新作おま国されるとか腹が立っていたところでみつけたのが英語字幕付き東独映画サブスクのEastern European Movies、なかなか見つからないタル・ベーラ「ニーチェの馬」があったので入ったらここは素晴らしい隠れ里である。このサイトが続く限り有効なLifetime契約がお得である。このサイトが永遠に潰れないことを祈ろう。権利関係とかちゃんとしてるのかわからないところはごーにょごにょ。面白かった作品の感想を垂れ流そう。にしてもアフリカーンス語字幕まであるのに日本語字幕がないのはなぜだ!?
Zoltán Fábri “The Fifth Seal”
1976年ハンガリー映画。ファシスト政権下のハンガリー、居酒屋に集まったおっさんたちのぐだぐだな会話を演劇風に撮る前半数十分から、ファシストの矢十字党に踏み込まれて連行される後半へと突然変化する。ハンガリーも同盟国側だったってことすら知らなかったぜ。「無防備都市」の香りが濃いのだが、ずいぶんと陰鬱なのはお国柄なのだろう。なかばリアリズムでありなかば象徴劇であるが、役者陣のキレと重厚さが素晴らしく、名画の風格を持っている。世界には俺のアンテナにまったくかからないこんな傑作があるのか、と度肝を抜かれた君もlifetime契約しよう。
István Gaál “The Falcons”
1970年ハンガリー映画。荒野の農園での鷹匠たちの暮らしを描く。フン族起源のハンガリー人に古くから伝わる文化なようだ。地平線に囲まれた西部劇っぽい絵面だが、確かにあそこら大陸のど真ん中の平原地帯だし、こうなっているのか。ドキュメンタリーっぽいパートはとにかく面白い。野生の鷹を捕まえようと、筵を被って穴に寝っ転がり、鳩を手に縛り付けてただ待つのとか、ひたすらつらそう。だが農場へやってきた若者と、鷹匠とその妻だか愛人だかの若いお姉さんを中心に描く劇映画部分がなんか淡泊で面白くない。胸を強調する服を着ているときのお姉さんは色っぽいのだが脱ぐと残念。まあ人間はいいや、これだけ鷹が見られる映画は他にないし、その餌になるヌートリアっぽい奴もぶさかわいくて、生まれ変わったらこんなシンプルな生活してみたい。
Nikola Tanhofer “H-8…”
1958年クロアチア映画。現地でクロアチア映画史上のオールタイムベストと呼ばれているらしい一本。足早な冒頭で、バスとトラックの衝突事故により8人が亡くなったことが明らかになる。そこで時間が戻り、バスやトラックに乗る人々の群像劇が始まる。名画の香り漂う多彩な人間ドラマにクルーゾー版「恐怖の報酬」のような運転スリラーを結びつける構成はただただすばらしい。長距離バスが夜に立ち寄る休憩所の空気って、日本含めてどの国でもいつの時代でも刹那的で綺麗で猥雑で良いものだねえ。登場人物にはそれぞれ影があり、たぶん俺らにはわからんがクロアチアの人にはたまらない要素がてんこ盛りなんだろうな。クロアチアの人の副音声が欲しいところだ。そしてラスト、うむ、これはこれですごいな。一分の隙もない傑作である。
Ivan Andonov “Yesterday”
1982年ブルガリア映画。ブルガリアの全寮制英語学校に通う若者たちの友情と恋愛と反抗を描く。なんか画質悪いし画面左上にずっとロゴが付いてるんだが、テレビ放送版を録画した代物じゃないだろうか。画質のチープさで日本の同時代のテレビドラマっぽいところもある。設定は60年代だろうか、タイトルはビートルズからだがもちろん違法、地下で出回っているのをパーティーで流すと校長が飛んできて、踊るならワルツにしろというあたりはお国柄である。共産圏物の例に漏れず当該国民なら大喜びなんだろうが外国人にはわからないネタがまぶされていそうな。みんなで歌いながら切った手首を打ち交わして友情を確かめるシーンがカルト的に人気になって、ここの歌が大流行したそうだ。ブルガリア人にあったら手首を切ってみよう(やめろ)。
Lucian Pintilie “Reconstruction”
1968年、ルーマニア映画のオールタイムベストと呼ばれているらしい作品だが、ずいぶんと難解な。飲み過ぎはいけないよというプロパガンダ映画の撮影風景を描いた映画映画。先日実際に飲み過ぎていろいろぶっ壊した若者達にこれを演じさせるという不思議な状況だが、実話ベースらしい。撮影現場を仕切る検察官と呼ばれる男はチャウシェスクの戯画なんだろうなあ。一見のどかなコメディっぽく進むんだが、すべての登場人物が直接は描かれない闇を持っている不穏な気配があり、頭をフル回転させて読み解く必要がある。最後突然現れる群衆とか何なんだろう。カフカ的と言ってしまうには、何かよくわからないけど生々しい。とりあえず、こんな悪夢的作品をオールタイムベストと呼んでいるのはなかなか大変だ。七人の侍とかできゃっきゃうふふしてられるどこぞの国は幸せなんだなあと。
Aleksandar Petrović “I even met happy gipsies"
1967年ユーゴスラビア映画。タイトルから生ぬるいマイノリティーとマジョリティーの友情ものを想像してるとまあとんでもない、泥々のロマ集落で繰り広げられる泥沼劇。主演数人の他は演技素人のマイノリティー達自身を起用した、ウカマウ集団を思わせる世界初のロマ映画らしい。主人公は羽毛の売人だが母親を蹴ってテレビを質入れするクズ。つか登場人物みんなクズ、だけれどみんな物悲しい。とんでもなく歌の上手いお姉さんがいかにもロマ音楽なのを物悲しく歌うのだが、演じたOlivera Katarinaはセルビアの大スターのようだ。あまり見たことのない正教の破戒僧なんかも出てくるが、その土地の宗教に順応するロマの信仰も複雑なものである。カンヌの大賞にして「ジプシーの唄をきいた」の題で日本公開もされているそうだが、まったくその受容史が承け継がれていないあたりが日本国の映画評論の問題だわなあ。こういうどう見ても世界映画史上の重要作をわすれちゃいけないってば。
まあ確かにゴリオ爺さんと幻滅と浮かれ女盛衰記と従妹ベッドと従兄ポンスと暗黒事件と田舎医師とウジェニーグランデとラブイユーズと村の司祭と谷間の百合とあら皮とベアトリックスとセラフィタと捨てられた女とサラジーヌとゴブセックを読めば十分、という意見にそこまで反対するわけでもないのだが、実際ここら辺まで読んでみなよ、もうとまらねえんだよ俺たちの「人間喜劇」坂は!寝ても覚めてもバルザックのことしか考えられない、というあの狂熱を全人類が人生で一度は味わうべきなのである。没入度で言えば「われめて」の13巻を遙かにしのぐ、世界文学に屹立する麻薬である。
で人間喜劇は何作あるか? 89作説と91作説があるが、これはデヴォラン組頭領フェラギュス、ランジェ公爵夫人、金色の眼の娘の三連作からなる「十三人組物語」を一作で見るか三作で見るかの違いなのでまあ気にしないで良い。でこれをすべて日本語で読みたい君、あきらめろ!未訳がある!とりあえず明治大正昭和の翻訳は以下にまとまっている
明治・大正・昭和 バルザック作品邦訳書目
その1 https://doshisha.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=9845&file_id=28&file_no=1
その後平成で出たのもある。とりあえず入手難易度のやさしい順に並べてみよう。俺が読んだの5年くらい前だからちょっと変わってるかもな。特に最近のゲームチェンジャーである国会図書館デジタルがどうなってるかは各自調べてくれ。
難易度1 東京創元社「バルザック全集」全26巻収録作
代表作が一通り手に入る。俺は田村書店から一万五千円で買ったが、これから得られる喜びから比べればなんと安い一万五千円だろう実質無料である。問題はただ一つ、二段組みハードカバーのごっつい全集26作なのに、これで手に入る人間喜劇は六割くらいしかないという絶望だけだ!
難易度2 新本で買える奴
藤原書店から出ている全13巻の鹿○茂責任編集「人間喜劇セレクション」がここに入ると思った君は甘い。なんと13巻もあって、この選集での入手が一番楽と言えるのは『金融小説篇集』収録の短編「ニュシンゲン銀行」だけだ!それすら既訳だ!未訳があるというのに何を考えてこんなものを出すんだ!
そんなものはほっといて、水声社にお金を落とそう。武林無想庵訳しかなかった「イブの娘」とか出してくれてありがとう!無想庵訳未見なのだがえらく読みにくいって本当なのかな。この畸人のなんともな人生については山本夏彦「無想庵物語」を読もう。浅羽通明「アナーキズム」での紹介も良いものだ。水声社の本はAmazonでは買えないが、コメットブッククラブの会員になると送料なし消費税なしで直販してくれるぞ!しかもたまにプレゼントまでくれる!元は書肆風の薔薇だがしょしが読めない人が多くて変えたという伝説は本当なのか!?あと、意外と岩波文庫でしか手に入らないものもあって、まあ古書価も安定してるし、やっぱ岩波は良い仕事してるなー
難易度3 古本でそこそこ買える奴
上記翻訳リストにあるものを「日本の古本屋」に突っ込んで買える奴らだ。俺の経験ではそんなに高いものはない。芹沢光治良訳「プチ・ブルジョワ上下巻」とかも二千円くらいだ。でも俺は簡単に買えたけど 改造社「平役人」寺田透訳は見つかりにくいとかいう噂も聞いた。
難易度4 ネットにしかない奴
「無神論者のミサ」は佐野栄一訳がここにあり、今入手しやすいのはたぶんこれだけ。辻潤訳とかもあるらしいが未見。傑作だと思うんだがなー
https://www2.rku.ac.jp/sano/Etudes/La%20Messe%20de%20l'athee.pdf
難易度5 国会図書館にしかない奴
古本でまず手に入らない連中だ。
このうち「知らぬが仏」梅田晴夫訳は世界文学社「世界文学」昭和25年2,3月号に載っているが、国会図書館のマイクロリールにしかないと思う。これは人間喜劇全体でも一番時代が新しい部類の作品で、パリを訪れた田舎者の前に主だった登場人物達みんなが出世した姿を垣間見せるという、まさにカーテンコールである。これは最後に読むのがお勧めだ。全作読んでの最後に、誰もいないマイクロリール閲覧室でマイクロリールをからから回しながら読むと実に感慨深く、最高の読書体験になるぞ。
他にも、弘文堂『ニュシンゲン商会』所収の「ぶろーかー」島田実訳など、ここに入るものは結構多い。地方民はまあ、頑張って上京してくれ!
だがな、恐ろしいことに、難易度はこれで終わりじゃないんだぜ!
難易度6 鶴見大学図書館でしか手に入らない奴
若き日本社(聞いたことがねえ!)『バルザック小説集』所収「復讐」
図書館横断検索でしらべたが日本で鶴見大学図書館にしかない。問い合わせてみたが準貴重書なので禁帯出だ。しかも俺がバルザック沼の水を抜いていた頃はコロナ禍で、部外者は図書館入室禁止と言われた。ああ「鶴見大学 入試」って検索したぜ! だがまあ、英訳があったので入試は受けなんだ。ちなみにこれ鶴屋南北みたいにめっちゃ陰惨な因業話で暗面白い。人間喜劇全体の主役の一人ことナポレオン本人が出てくるのはこれと「暗黒事件」だけというだけで読みたくなってきただらう。
なお英訳からの重訳邦訳で電子書籍が出ていたのをAmazonで見た記憶があるのだが、その後どうやっても見つからない。夢だったのだろうか。
難易度7 未訳
なんでだよなんで未訳が残ってるんだよとっくに著作権消滅してるじゃねえか誰か訳せよ!Passageで小金稼いでないで訳せよ○島○!
ということで未訳二作「ゴーティサール二世」「アルシの代議士」については諦めて英訳を読もう。短編「ゴーティサール二世」は、実はあの凄腕行商人ゴーティサールとは関係がない!前半はよくわからない風俗描写が続くが、バルザックのよくわからない部分って邦訳で読んでもよくわからないじゃないですか。そんなの読み飛ばせば良いのです。後半は面白い掛け合いになる。
「アルシの代議士」は長編だが、バルザックの筆によるのは第一部のみ、のこりはハントケ夫人の依頼で代作者が仕上げたというのどかな時代である。あの伊達男マクシム・ド・トライユのこんな姿は見たくない!という落魄っぷりが見物だ。あとラスティニャックは大出世してて、マクシムを顎で使うぜ!俺は第一部で止めてしまったが、第二部にはヴォートランの隠し子が出てきて、しかもこの代作者はこの隠し子を主人公にした作品をいくつか書いてるそうだ。怖いもの見たさで読んでみたいが続編になると英訳すらねえ!こういうのを訳さねえか鹿○茂!
人間喜劇に駄作なし、人間喜劇以外に傑作なしと言われるバルザックだが、「神と和解したメルモス」「夫婦の生態」あたりはどうしようもないと思うし、「カトリーヌ・ド・メディシス」は長すぎだし馴染みがなくてかったるい。でももうどうでもいいんだ人間喜劇なら。なお私的最高傑作は「田舎医師」、フランス庶民から見たナポレオンの姿は素晴らしい。なんか構成が歪だけれど、そんなテンポの悪さも近代文学以前の語りという感じで、ヴィルヘルムマイスターあたりと似てたまらない。さあ君も創元社全集を衝動買いしてパリと対決だ!
今日の老害っぽい一言: プロジェクトヘイルメアリーは劣化版虚無回廊!
円安だ。神保町なら小宮山書店の写真集コーナー辺りに外国人が群がっている。森山大道とかどんどん売れていく。文化流出の危機である。一方で英語の本も高くなってきた。なら我ら貧乏人は和本を読むべきだ。もう誰も読めなくなりつつあるから値段は安いし外国人もいない。で黄表紙辺り買ってみるとやはりくずし字が難敵である。いやくずし字はなんとかなるんだが平仮名を漢字に書き下すのが不可能だ。まずは江戸古文になれることが必要である。ので校訂済みのものを入手し始める。
とっかかりはやはり、なんかいろいろ埋もれた宝の山感のある山東京伝である。ガイドブックとしては『幻想文学15 大江戸ファンタスティック』が熱量情報量兼ね揃えて素晴らしい。だがこいつからもう40年も経っているので、新しいものも出ているわ古書の入手難易度も変わっている。岩波文庫に入ってる馬琴とは違ってほとんど新刊では手に入らないという出版界表通りの状況は変わらないが、古本餓鬼道をめぐれば色々めっかるものである。で今の状況をまとめてみよう。京伝までの前史概説としては水野稔『黄表紙・洒落本の世界』岩波新書が分かりやすかった。洒落本から江戸川柳・狂歌あたりも読んでおきたいものだがさてさて、なんか積本勢の高齢化で古書相場下がり続けそうだし、気楽に読んでいけば良いわな。なんて偉そうに言ってるが所詮は素人まとめなので、江戸文藝玄人の皆様には雑な部分を笑い飛ばして下されたし。
・ちくま学芸文庫「江戸の戯作絵本」1-4
2024年に出た、京伝だけではなく黄表紙がたくさん入った文庫シリーズ。黄表紙は毎ページ挿絵が入りその脇を平仮名が埋め尽くす。黄表紙数冊分で合巻になるのだがそうなると長くなる、ということで、まず入門にはここが一番か。文庫サイズだが原本も印刷されており挿絵も楽しめるし、訳はないが語注が豊富でたぶん誰でも読みこなせる。個人的お勧めは4巻所収の京伝「箱入娘面屋人魚」、浦島太郎がそこらの鯉と浮気して出来た隠し子の人魚が人間界で起こす珍騒動だが、手がないのにキセルを吸ってる人魚のとぼけた挿絵など絶句するほど馬鹿馬鹿しい。人魚を食べれば寿命が延びるという伝説から転じて、人魚を舐めすぎて七歳児になった男なんて阿呆エピソードが出てくる。でそれを玉手箱で元に戻すとか、ふざけるのもいい加減にしろ。一発で江戸文藝のいかれっぷりが分かるぜ。というか普通の新刊本屋で買える京伝はこれだけなんて、なんという霊的後退だ日本国!
・夕陽亭文庫『櫻姫全伝曙草紙 』
Amazonに数百円の電子書籍で売られている江戸読本の一つ。読本は文語体で書かれ挿絵が少ないインテリ向け小説だが黄表紙より長いので、黄表紙=>読本の順に行くのが良いだろう。とはいえ黄表紙の平仮名より、読本の漢字交じりの方が現代人には読みやすいのは歴史の皮肉と言うべきか。これは京伝の読本中でも屈指の傑作であり、この値段で読めるのは嬉しくて、まず読本を一冊となったらここから入るのがお勧め。語注はないが、まあなくても読めるもんだ。くずし字になれて原本で読めるようになればいろんなところがスキャン画像をネット公開してくれているので無料になるんだが、俺がそこまで辿り着く日は来るのだろうか。読本ってサブの筋がなんかごちゃごちゃして最後は結局勧善懲悪になることが多いのだが、そっちはだいたいつまらん予定調和になるので、慣れない内は面白い本筋の迫力ある場面だけを拾い読みしよう。この本ではなんと清玄桜姫の方がサブ筋で、善男善女をぬっころしまくってとんでもない流浪を続ける野分の方の大悪女っぷりに興奮するのである。
・国書刊行会『叢書江戸文庫18 山東京伝集』
1997年刊行で国書だから古書で、と思ったお前さんは絶望する。なんか古書価高いしそもそもあんまり出回ってない。4000円くらいで買えれば良い方だ。収録作は『善知安方忠義伝』と『梅花氷裂』、京伝でも屈指の傑作幻想怪奇読本二編である。前者は国芳のがしゃどくろ絵で有名な、平将門の娘滝夜叉姫による大妖術が楽しい。後者は怪漫画『渋谷金魚』にも出てきた金魚の幽霊でもおなじみ、めっちゃ陰惨な妊婦殺しが印象的である。この呪いで出来たのがらんちゅう、と京伝先生は言ってるがでまかせだ!嘘語源は江戸文藝の基本だぞ!
・岩波書店 日本古典文學大系「黄表紙洒落本集」
黄表紙・洒落本の有名作が一通り入っているので京伝だけでなくこの分野を概観するのにお勧め。語注もしっかり。洒落本の歴史的名作「傾城買四十八手」など所収。だが洒落本は当時の吉原習俗を描くもので、なにが粋なのかわからない現代人にはさっぱりである。良く神保町の店先に捨て値で転がってるので、気になるときに手に入れておくと良いだろう。
・『日本名著全集 讀本集』
昭和二年刊行、このシリーズは謡曲やら怪談やら他の追随を許さない名本ぞろいだが、紙が悪くて印刷のノリがいまいちだし文庫サイズに三段組みでかなり読むのが大変だ。そんなわけで、幻想文学で紹介されたころとあまり変わらずに、そこら中で叩き売られている。俺はヤフオクで300円で買った。この巻には寺山修司の翻案でも知られる京伝『昔話稲妻表紙』が入っている。耳元で太鼓を叩き続けて眠らせないという拷問「うつつ責め」にあう人妻の描写で、おかしな性癖を開発された江戸人も多かったのではないか。ずいぶん手間暇のかかる拷問だなあ。京伝作品のほかに、入手しにくい六樹園(=宿屋飯盛)作品なども含まれてお得。京伝と組んでるのを見たことがない北斎の挿絵も良いものだ。解題が良く、臆面もなくいろいろパクってるのがよく分かる。
・ぺりかん社『山東京傳全集』
1992年から2024年までという長丁場で完結したらしき全集だが、なかなか見ないしけっこうプレミアついてる。第6巻だけ買ってみた(神保町西秋書店で3300円とお安く)。無知で知らなんだがぺりかん社は古典文学で著名な出版社らしく、手触りもよく格好良い装丁。解題もしっかりしていて、やはり京伝沼に堕ちたなら全巻そろえることになりそうな決定版である。これは合巻1、幻想文学で須永朝彦すらよう知らんとぶん投げていた合巻だが、この全集では四巻分にみっちり収録である。まずはじめの「於六櫛木曽仇討」が合巻ブームの端緒となった傑作。母親の前で娘の十本指を切り落とし片腕を切り落とし、さらに母親に毒蛇をけしかけて嬲り殺すとかもう。ノリノリな豊國初代の挿絵も素晴らしい。これを平仮名中心にってことは子供も読んだのかな。まったく日本人って残虐ねえ。同時代のイギリスゴシックやドイツロマン派と比べても圧倒的に下品で素晴らしい。
今日の老害っぽい一言: 「渋谷金魚」は現代版「物体O」!
最近生きる目的が見いだせない諸君、自分だけのマイナーポエットを持とう! 暇な時間にいろいろ調べると、とても人生が豊かになるぞ。マイナーポエットの定義はあいまいだ。なんとなく米国なら全米図書賞、全米批評家協会賞、ピューリッツアー賞を取ってたらメジャーポエットかなあと思う。私の好きなTom Dischのように批評家協会賞ノミネートまで行っていてもマイナー扱いでいいんじゃないか。日本だと、うーん谷川俊太郎以外の現代詩人はみんなマイナーポエットかとも思うのだが、まあ定義なんて人それぞれだ。とりあえず、全ての詩集(全詩集を買ってはいけない、詩集それぞれを全種類だ。そもそも全詩集が出ているとメジャーポエットなのかもしれぬ)をそろえてもたいしてお金がかからず、サイン本でも財産にならないようなのがマイナーポエット、という俺定義をだしておく。幾人か俺の心のマイナーポエットを挙げていこう。
句集 『直得六百句選 第一輯』一九三一年、散叢書房(第二輯以降は確認されない、国会図書館デジタルで閲覧可能)
主催俳誌『三昧』(国会図書館デジタルで閲覧可能)『紀元』(大久保の俳句文学館に所蔵あり)
参考: 上田都史『近代俳人列伝 第三巻』一九八七、永田書房
東京日本橋浜町生まれ、同人誌から出発し、中塚一碧楼の『海紅』に所属した後、1929(昭和四)年頃からルビ俳句を提唱して俳誌『三昧』『紀元』を主宰。河東碧梧桐にも影響を与えた(が碧梧桐のルビ俳句っていまいちよね)。「国語の破壊」「歴史をわきまえない」(『三昧』一九三二年八十四号風間直得「Gペン」より引用)などと当時の俳壇から迫害を受けた。経済的にも窮乏し、主宰誌が自然消滅した後の風間の消息は不明である。
よべ残す酒葱鮪(一文字に「マ」)に煮て飯くふ 春だと思ふ
句集によればルビ俳句の初出は1926年の上句。ルビが本格化するのは翌年以降。
A 河岸は淫賣(二文字に「ツジメ」)だと ぴたぴたと水のせめん樽
グッスリ寐てえや 石炭(二文字に「コロンバ」)運(ツス)は酔い言に交ぜ
鰯廻打(二文字に「セメ」)を 八丁(二文字に「ハツ」)艪(一文字に「チャウ」)の出での裸かごホイホ
面傷(二文字に「ムコウキズ」)星もなき夜とかこつか 煙草船大工
朝硝子(三文字に「ト」)越し こんな實在しない氣のするものは ボツクス前の巡査(二文字に「オマハリ」)
B いきの男肝(二文字に「サトギモ」)あらばと 手してまねぐ 一圓二ツ指(五文字に「エンリヤンコ」)
高處鋲(三文字に「ド」)打ち 煽り落ち死の 出水(二文字に「ミヅ」)はガスタンク下タ
シイツ汚れのヨ 綿棒(二文字に「メンボー」)のコカインの 昏々(二文字に「こんこん」)ねむる
C 旗々(二文字に「ハタダ」)砂塵(二文字にサツバ」) うち合う音(ト) とどろのす女工(二文字に「ムレ」)
上記は『六百句選』より。どうだ、良いだろう! ルビ俳句は江戸弁や都市インフォーマルセクターの隠語を表現する口語俳句として始まり、肉声プロレタリア俳句としての魅力もある。いや結構地方旅行句とかもあるんだけど、やはり都市の句に精彩がある。A、Cとかルビがあればこそのグルーブ感がたまらない。Cは上野公園でのメーデー風景。長律の緩さをルビが引き締めつつ、575に切れ字を入れるのでは捉えられないような、動きのある情景が浮かび上がる。Bが描写しているものってなんだろう。夕張炭鉱思い出という前書きがある句ではあるが、博打にでも誘われてるのかなあ。個人的には、ここが風間の到達点だと思うし、こうした句を作り続けられれば、俳句史上でもかなりの地位を占めたのではないかと思う。だがそうはならない。
小溝(二文字に「ホソ」)迂廻(二文字に「メグル」)巾(バ)廣(ビ)道(ロ)低家を洋傘(二文字に「カサ」)し行く雨脚(二文字に「ウテ」)
土角(二文字に「ドカク」)裏流水(三文字に「ウラ」)凪ゲ、旅鴨群(三文字に「ガナリ」)行過(二文字に「シズミ」)を、よう立小便(ハシル)
チンタを去(オヘ)せバ、群らつ男兒女兒(七文字に「ハヤルオノメゴ」)眼光直射(二文字に「リキ」)す
D 交通巡査示手(六文字に「コウドウ」)「行ケ(二文字に「ムセイ」)」に、淡街灯(三文字に「サバヘ」)はる雨人(二文字に「ザヤ」)、應ウとにのす歩
上記は主宰誌『三昧』より。「第三リアリズム」を自称し、極端な当て字を用いるようになった(この思想については風間直得「三昧改題紀元の人々とその主張」改造社編『俳句講座 第八巻』一九三二、改造社に所収)。しかし、表現の過激さに内容がついてきていないような気がする。群らつ男兒女兒(七文字に「ハヤルオノメゴ」)とか無理だよなあ。ルビをつけるための俳句に成り下がってしまっているというか。過去のストライキ扇動によって特高警察に追われていたという証言もあり、弾圧の気配を感じながらの作句に先鋭的な内容を盛り込むことは難しくなっていたのかもしれない。その点で、プロレタリア俳句の没落と軌を一にしているとも言える。でもDはモノクロームの都市風景ながらルビのおかげで幻灯のような動きが出ており、かなり好きだ。
最近ヤフオクで直筆の色紙(なのかこれは? この欄の上に画像あり)を3500円で入手した。長律自由律でルビ俳句ではないのが少し残念ではある。真筆かどうかは不明。だってほかにないんだもん。でもわざわざこれを偽造する人はいないとおもうの。他に入札なかったし、今現在風間のことを思っているのは私一人なのかもしれない。それでも、あえて未知の領域に飛び込み、潰れていった彼には限りない共感を覚える。
学生時代に同人誌『京大俳句』で過激な俳句を作り続け、1982年の海外留学と共に筆を折った。帰国後の社会学者上野千鶴子としての活躍は周知の通りである。句集には『黄金郷』(1990, 深夜叢書社, プレミアついて5000円くらいしやがる)があるが、編者江里昭彦の姿勢が個人的にはいまいちで(処女喪失句集とか、当時の基準でも悪ノリが過ぎる)、俳句文学館で『京大俳句』掲載分をまるっとコピーした。初登場の1972年10月号のものから挙げよう
幻視者(ヴォワイヤン)一人 ポプラの果の砂嵐
すでに伝統俳句への視線など皆無な、強固な詩情を湛えている。自身のスタイルを確立してからの投稿である。この俳人に若書きは存在しない。この路線には下記のような句がある。
A 弱い人よ この蕩遙のバスに乗るな
浮上都市わたしもともに浮浪れ
「嗚乎しかたがないわ」と囁くときの墜落
月が唆した凶行 都市臨月
鴎の悲叫 補綴されていく暗渠
B 翼 全天を覆う 曇り
代表作と呼べるのはA,Bであろうか。シャープな語彙と暗い詩情がマッチしている。ここまでネガティブな句群というのも80年代くらいだとなかなか珍しいのではないか。基本的に都会的な句群であり、花鳥風月など鼻にもかけない姿勢も素晴らしい。さらに、その後の仕事を予想させる、下記のようなフェミニズム的な句も段々増えていく。
女ばかりが信心深い 祖国
箱船の母子相姦のユートピア
海に向きあう連綿と死に続けてきた家系
婚礼の荷に入れる 弟の義足
尖っている乳頭で 自爆
C わたしが季(とき)を失くしてから十二単の襞ひだ
ちんば・めっかち燦集して春の温(あつ)さ
海に濡れて かあさんと和解する
D 母に摘む 多産系のきのこ
精薄の弟に植える枇杷の種子
熟れいそぐ胎児 孵(かえ)らない卵
男には書けない迫力のある句が続く。ちんばやら精薄やら差別語もガンガン入れるぜ(1972-82ならすでにこれらは差別語だろう)。最高傑作はCかねえ。家父長制に中指を立てるDも大好き。
おばあちゃんの乳母車死んだ嬰児を乗せて
江里は『京大俳句』内での相互批評で上記の句に見られるニヒリズムを否定し、純粋詩情による句(A,Bのような)を推奨する。でもねえ。今や介護保険制度の守護者として日本の高齢化を支えている上野千鶴子を一皮剥けば、こうした人類憎悪が出てくるところが楽しいんじゃない。21世紀日本のトリックスターとしての面目躍如なのである。
お医者さまごっこ 孕んだのはほんとう
私が上野ちづこを知ったのはこの句が夏石番矢を中心とする同人誌『未定』(この俳誌で夏石番矢以外の句集もない本当にマイナーな俳人を読むのはとても楽しい)で紹介されていたのがきっかけだった。最高だ! 江里編の句集には出てこないがな!(連作名「お医者様ごっこ」はでてくるのに)。
深海魚 響野湾子短歌集(2021、インパクト出版界)
響野湾子俳句集: 千年の鯨の泪櫻貝(2022、勝どき書房)
獄中に鬼火のありて揺らめけり
A 蒼天はもふ戻らなゐ「フクシマ忌」
刻無き独房濡れたアイリスだけの呼吸
B 秋 被害者の胸に刺されこの悔
脳に蟻這わせ今夜も死刑囚
技巧的で怜悧な幻想性は明確な作家性を示している。一方で仮名遣いも怪しいAのような駄句を見ると、このような作家が実は日常的には良き社会人、というよくある微笑ましい例なのではないか、と錯覚しがちである。しかし彼は、オカルティックな強殺事件(詳細に興味があるむきは「大和連続主婦強盗殺人事件」で検索されたい。ただし、内容が内容なので閲覧をお勧めはしない)による死刑囚であり、不可解な裁判記録を読んだ後では、Bの悔恨を素直に受け取って良いのかすら定かではない。これ悔恨じゃないんじゃないか刺されとか言ってるし、となってしまう。
2006年の第1回死刑囚表現展に出展、2013年には大道寺幸子基金・死刑囚表現賞を受賞した。しかし、大道寺将司のような政治犯と違い、例えば死刑廃止論の観点から鑑賞するにはあまりにも異様な句群である。人を食った俳号もまた異形に見えてきて、そもそもこのような句を鑑賞しても良いのか、という根源的な疑問を抱いてしまう。死刑は二〇一九年に執行された。
『崎原風子句集』(1980, 海程新社、国会図書館にある。荒川区の図書館にもあるらしい。俳句文学館にはない。ずっと探しているが古本市場で見たことはない)
金子兜太主宰の結社誌(もとは同人誌なんだっけ?)『海程』で活動。海程に「崎原風子50句 (『崎原風子句集以後』」という特集が組まれたこともあるのだが巻号をメモし忘れた。国会図書館で全部読み給え!
記者をしていた和文新聞らぷらた報知の増刊『あるぜんちん日本文藝』にも作品散見。飛び飛びだが国会図書館にある。
辻本昌弘(2013)『語り――移動の近代を生きる』新曜社が崎原風子(本名崎原朝一)のメモワール
<赤い犬>というジン嚥下するレー時間
肉ったような空 う。たとえば年齢集団
ル。地平に一挙にたたせる紙の円筒
い。溺死とはどんな色 銅みちくる夕
る。投擲引潮のようなながれる夏
ロロギア・ロロギア都市は夜よりもながい夢
<原郷(てぐしがるば)>でふかれる紙の目の女8
球体もつ球体朝の墓ユリデ
満月は 橋の、切符の、る◦反すう学
風子愛読家にはすっかりおなじみの「い。」や「8」だ! たまらないだろう! 唯一無二、前衛俳句の最高峰と言って良い。ちょっと格が違う。投稿している時期の海程を読むとそこそこ同人から評価されていてたまに評が載るのだが、あまりにも孤立していて兜太含め誰もまともな評価は下せていないような気がする。加藤郁乎と並ぶ日本語解体句群は、前衛俳句の歴史の中でも孤立したものである。俳句という短さを特徴とした形式においては、このアプローチには拡張性が乏しいことが原因だろう。意思伝達のツールである言語を破壊すればコミュニケーションが成り立たなくなる、という自己矛盾が避けられないからだ。切迫感とスケールの大きさは独特で、郁乎の破壊的ユーモアとも違う。米国のLANGUAGE派など現代詩・自由詩には似たテイストの人もいるが、定型によって緊張感が保たれている点がアドバンテージといえるだろう。
那覇出身、1944年に九州に疎開し、終戦後も沖縄に帰らず1950年代に移民としてアルゼンチンで活動。沖縄という視点が加わって一ひねりされた祖国喪失者文学と呼ぶべきか。移民俳句というと、ブラジルでは高野素十門下の佐藤念腹(素十、秋桜子がホトトギス巻頭で激賞した 雷や四方の樹海の子雷 とか写生の凄みが)を中心に『ホトトギス』の客観写生が栄え、ハワイでは『海紅』の進出によって自由律が隆盛を迎えるなど国内の代理戦争感があるのだが、なぜこんな独特のものがブエノスアイレスに生えてきたのか。
句集解説によれば「地下鉄車中などで聞く異国語の断片から触発されるものを、俳句にとりこ」むことによって作句しているという。つまり、異国生活という境遇を利用し、周囲にあふれる外国語を利用して日本語を解体しようとしたのである。強い思いは現実の故郷を解体し、実態とはもはや独立した、異形美に彩られた祖国を創り出している。1988年に日本に出稼ぎに来ていたようだが多忙故か俳句は残されていない。少しはあるとおもうんだが、発掘されないかなあ。現実のバブル日本を見てからの句を読みたくてしょうがない。
高齢化が進む中で日本国が数百年後も維持されているとも思えないし、こうした「日本文学」は増えていくのではないか。そうなれば日本文学の一つの到達点として屹立していくのではないか、などと妄想してご飯が進む。早く日本国解体されないかな!
「暁台句集」: 『中興俳諧集』集英社古典俳文学大系13に収録。初版は1806年っぽい
『俳諧発句三傑集』1794年初版っぽい。上記のもとになったもののようだ。昭和36年の手書コピー写本が比較的流通している。他の二傑は蘭更・蓼太。私はだいたいこれをメインに読んでいる。
20年に一冊くらいののんびりしたペースで研究書がでるのだが、私が参考にしたのは清水孝之(1996)『加藤暁台 研究・鑑賞・資料』和泉書院。でも私が好きな句を一つも取ってないのはなぜなんだろう
「芭蕉に帰れ」を唱えるいわゆる中興俳諧の一人で、名古屋で活躍した。中興俳諧と言えば蕪村とその他、というのが一般的な評価であるようだが、それは写生を必要以上に重視する子規以降の俳壇の視点であり、むしろそこから外れるマイナー俳人達のポエジーを読み取ってこその我ら暇人である。この時期の俳人を現代的に読み解いたものとしては中村真一郎『俳句のたのしみ』があり、古典読みに定評のある中村らしい素晴らしい出来映えであって、初心者はここから入るのが良かろう。中村は暁台といえば前書きが長いことに着目しているのだが、私は句自体がしっくりくる。中興俳諧に興味を持った向きは、ここらがまとめて読める『中興俳諧集』を古本屋で1000円未満で手に入れるが良い。
かんさしに蛙の小腕をさへけり
親なしと答ふ淀野の田螺売
門前の姥がかもしぬひとよさけ
水鶏なく宿とこたへよおもひもの
夕雨や岡に出そろふ蟹の穴
けさのあき死ともきこし人に逢
燈にこかるるてふを夢路哉
山さとや板戸倒れて菊の上
行果しと思へは雨夜の鷹一ツ
『中興俳諧集』には句風剛健にして清婉、とあるが、蕪村風の漢語使いを評価した子規の論らしい。むしろ冷酷非情な美意識に基づき、人為的・構成的に景色を切り取る感性はかなり現代的と言えるだろう。作り方は三鬼あたりに近く感じるのだが、三鬼のバタ臭さから遠いのは無理のない言葉選びにセンスがあるからか。
白魚やうき世の闇に目をひらき
朧月宇治の山辺を行独
はるの夜やぬしなきさまの捨車
花と我とわれと桜のかけ二人
かはほりや月の邊を立ち去らす
盃の上にふかるるほたる哉
大空や月は心の上に置
別れ星今は木隠れて見ゆる也
ぬれ鹿に在明月の光りかな
星今宵夢見て孕む人あらん
シャープな夜の句が良い。闇が深い句群はもう少しで河原枇杷男になりそうな気がする。客観写生の人たちはこういうの、決まりすぎている、と嫌うだろうなあ。なんか深刻ぶって偉そうな(あ、言っちゃった)芭蕉ともどうも違っていて、このキレの向こうに見えているのは其角なんだろうか。其角難しくて読めないんだよなあ。まあ東北を旅して佐渡にまで行ってしまうくらいの芭蕉狂ではあるんだが、そっちの句は芭蕉っぽくてあんまりだなー。
碧梧桐の『其角俳句評釋』(大學館、明治37年=1904年)を手に入れたが好著。
まあ碧梧桐にして其角は難解と言っているので、そこから120年たって俺程度が読めるようなものではないのだが、いくつか気に入った句を。
夕日影町中に飛ぶこてふ哉
A 花見哉母につれだつ盲児
B 吐かぬ鵜のほむらにもゆる篝哉
(平家落足の屏風に)
C 宿なしのとられて行し月見哉
踊子を馬でいづくへ星は北
(妻におくれ後子にもはなれたる人に)
いなづまや思ふもいふも紛るるも
雁の腹見送る空や舟の上
泥亀の鴫に這ひよる夕べかな
鬼面人を威す類いの大げさな比喩を用いた句が有名でもあるが、あっさりした句の方が現代的かなと。新字にして仮名遣いは少し補った。補わないと読めないので注釈書は重要だ。()は前書き。粋な都会句のイメージが強い其角だが、ABCあたりは芭蕉ならここまで描写しなさそうな非情なリアリズムだ。Cは謡曲の本歌取りで宿無しが神隠しにあってるのだと。難しいぜ。他の句も、いかにも人工的な景色で、ただの写生なぞしてやらんぞという感じがする。
でずっと積んであった昭和7年の明治書院(おお新釈漢文大系のあそこか)『五元集』という多少の注釈がついている和本を読む覚悟が出来た。覚悟が出来ると読めるものだ。いくつか選ぼう。
以下五元集より
春の夜や草津の鞭のゆめばかり
海面の虹をけしたるつばめ哉
陽炎としきりにくるふ心哉
勘当の月夜に成し涼み哉
見る人も廻り灯籠に廻りけり
折釘にかつらや残る秋のせみ
朝霧や空飛夢を富士颪
かまきりの尋常に死ぬ枯野哉
年の瀬やひらめのむ鵜の物思
以下五元集拾遺より
元日の炭売り十の指黒し
さす枝のゆきとどかぬや絵馬の梅
うたたねのゆめにみへたる鰹哉
蟾をふんで夜卯の花を憎みけり
死の海を汗のうき寐や夢中人
ゆふだちや楽屋をかふる傀儡師
一長屋錠をおろしておどり哉
ほのぼのと朝飯匂ふ根釣かな
はつ雪や此小便は何奴ツぞ
君と我爐に手をかへすしかなかれ
まあ粋な句がそろっているものだ。芭蕉の重だるっこさ(=権威性)がなくて、俺のように前衛俳句から入った人間にもしっくりくるポエジー優先の句が多い。藤田湘子が「孫と夢の句は作るな」と入門書で書いていたが、其角に言ってみろよ! 柴田宵曲の言う、中興俳人は芭蕉ではなく其角を目指した説もなんだか納得である。小便の句はわかるけど酷いな! フランクザッパのDon't eat the yellow snowみたいだな!
ここ に特集組むまでもない単品のAmazonレビューもあるぜ