ヴィラン連合には金がなかった。荼毘が加入した時には神野区のバーを所有していたが、ヒーローたちがバキバキに破壊してしまった。その際、資金源のオール・フォー・ワンが逮捕され、一時は小悪党のアジトを襲撃しては金目のものを根こそぎ奪ってしのいだ。耐火性の衣服を得られるどころか、食うものにも困るとは当てが外れたと日々舌打ちするばかりだった。
だが異能解放軍を傘下におさめたおかげで資金は潤沢になり、ここ群訝山荘で滞在する限り荼毘も衣食住には困らなくなった――はずだった。
「さすがに腹減ったな」
荼毘がため息をつくと、目の前をカップラーメンがふよふよと飛んで横切り、テーブルに落下した。空中に残った赤い羽根が二枚、素早く追いかけて容器を立て直す。白っぽいパッケージには、青い文字でシーフードとあった。
「おつかれ。バイオレット、またやらかしたんだって? 喧嘩両成敗って解放軍の頃から鉄板ルールらしいのに、血気盛んな部下をもったね。上に立つとそういうの苦労しますよね、あ、連帯責任で今週のお前の取り分消えるんだってね。この間カジノで手持ち全部すったって聞いたけど大丈夫? それ食べる?」
羽根の持ち主がカップ麺を片手にぺちゃくちゃと囀りながら早足でやってきたが、荼毘はソファにもたれたまま首を傾げた。
「蕎麦ねえの」
「ないと思いまーす。ちょっと待って。カップ蕎麦ならありそう」
「焼き鳥のタレあるか?」
戸棚を漁っていたホークスが顔を上げてへらへらと笑った。
「あはは、あいにくまだ食われるつもりはないんで」
「ハハ、別にてめえを取って食おうってわけじゃねえよ。鳥ならその辺に飛んでるからな」
「え? ゴメンちょっと何言ってるかわからない」
「だからカラスとかハトがその辺に」
「あーっとタレなかったァ、ごめんね! カップ蕎麦ないか探してみる!」
戸棚を乱暴に閉める音がして、ホークスが一瞬で目の前に現れ横切っていく。男の足先に目をやれば、床から数センチ浮いている。そのまま羽ばたいて壁を覆いつくすように取り付けられた棚を上昇してゆく背中を追って、荼毘は高い天井を見上げた。
二階分をぶち抜いたこの部屋は、トガヒミコお手製のあみだくじによって荼毘に与えられた。リ・デストロの進言した配置は、「ラスボスが最上階なのはひねりがなくてつまらない」とぼやいた死柄木の一言によってあっけなく却下され、荼毘は最上階の角部屋という良物件を手に入れたのだった。
だが、この部屋はホークスのような翼をもった人間のために作られている。ソファベッドとローテーブルを据え付ければ、ほとんど床が埋まってしまう狭さだが、天井だけは高い。部屋の真ん中から宙に向かって伸びる階段や壁を覆い尽くすように据え付けられた戸棚はまさに翼をもつ者のための部屋である。荼毘が頭をもたげる速度よりも速く、その一番上へホークスは降り立った。
「うわ、埃ヤバいよ。あれから自分で拭いた?」
「……さァ? あいにく羽はないんでね」
「脚立はそこにありますよ、部隊長様。掃除しろよ、お前の部屋なのにさ」
「俺の部屋? お前の部屋だろ」
「何言ってんの、掃除ごときで所有権ごと売り渡す奴がどこにいるんだよ」
「ここ?」
荼毘が首をかしげてみせれば、ホークスは大げさに眉根を寄せて口を尖らせ、あからさまに気に入らないという表情を向けてきた。
そういうわけで、荼毘は自室にホークスの出入りを許している。表向きはスパイ活動の報労という形だが、実際は部屋の探索兼掃除係だ。炎で飛べないこともないが、むやみに足に熱をこもらせればいざというとき動けなくなる。カーマイン所属のはずがブラウンまで人脈を広げるなど、情報収集に余念がないヒーローはきっと経歴不明のヴィランの個室を気に入るだろうという妙な自負もあった。案の定、ホークスは荼毘の私物が一切ない部屋をよく飛んで隈なく探してくれる。今はカップ蕎麦を。
「弾頭とか薬莢は常備されてるんだけど、俺もお前も使わないよね。とりあえず夕飯一個分けてあげるから食べて。はい」
諦めたように降り立ったホークスが差し出したのは、未開封のカップ麺だった。鶏白湯のデカい文字にいったんは頷いたが、どうも外のビニール包装を破いてからの手順がわからない。フタを剥がしきって、容器に詰められた小袋二つとビニールに包まれた乾麺と見比べる。スープと印字された方の小袋を開ければ、謎の粉末が入っており荼毘は百戦錬磨のヒーローを見上げた。ホークスはちょっと目を見張ってからフタをつまみ上げた。
「エッ、もしかしてやり方知らない? 家で食べたことある?」
「ねえな。家出るまで毎日知らねえヤツが作るメシ食ってたからな」
「ヤバかあ……料理人を雇ってたってこと?」
楽しそうな口調とは裏腹にゴーグル越しの目は笑っていない。あからさまな表情にふと笑みがこぼれ出た。
「冗談だ。金持ちのボンボンが連合なんか入んねえよ。焼けて忘れちまっただけだ。で、ホークス、どうすりゃいい」
「カップに麺を入れて、湯をかけるだろ。で、フタして三分待つだけ――あ!」
ホークスが手を伸ばした瞬間、真上のシャンデリアの明かりがふっと消えた。その際に思わず立ち上がったのがいけなかったらしい。ばさっと音を立てて粉末が埃まみれの床に散らばり、カップ麺の容器が部屋の隅へ転がってゆく。
「あーあ、もったいなァ……」
ホークスが呟くその間も、棚の隙間に設置されたランプ、足元灯、すべての明かりが次々に消えていく。まだ昼間だと言うのに辺りは真っ暗になった。
この部屋は細い縦長のはめ殺しの窓ばかりで、到底荼毘の手が届かない高さの壁に取り付けられており、そのすべてにカーテンがかかっている。
「鳥籠に閉じ込められたみてえだな、ホークス」
「お前もね」
ホークスが首をすくめた瞬間だった。室内にジジッと機械音が響き渡る。
『無能による個性事故だ。現在この山荘は停電している。復旧に時間がかかるので総員その場で待機するよう。朝まではかかると思え!』
古びたスピーカーからスケプティックの怒声が響き渡り、ホークスと顔を見合わせる。
「おいおい、あの自称完璧野郎がまァた失敗しやがった。俺の晩メシはどうなる?」
「俺の分もないですよ。とにかく、この材料でなんとか一食作りたい」
ホークスは手探りで床をさらい、まもなく未開封の麺の袋を拾い上げた。
「お前なんか案ある?」
「ねえな。そもそも固形物はあんま消化できねえ」
「お前ゼリーばっかり飲んでるのそれでか。ほかに好きなものある?」
好きなもの。荼毘は久しぶりに耳にした単語に何度か瞬きをして、ホークスの妙に真剣な顔に笑った。何だよこいつ、俺の情報なら何でもいいのか。
「……蕎麦食いてえな」
ホークスが戸棚から何かを取り出した。明かりのない部屋では見づらい。左手に蒼炎を灯してやれば、醤油とみりんの瓶がホークスに首根っこを掴まれた状態で現れた。
「あとは砂糖の袋かな。ないみたいだね、残念」
「じゃあ仕方ねえな。お前、ラーメン食えよ」
「……いい。食べられんヤツの前で食べたりせん」
「ハ、さっすがヒーロー様だ」
「ハイハイ、一応まだ現役なんでね」
ホークスは瓶をローテーブルに置くと、急に荼毘の手首をつかんで懐中電灯代わりにポットを照らした。
「あー、湯も切れてる。小鍋はあるのにな。麺だけでもやわらかく戻そうと思ったんだけど……。あ」
はしばみ色の両眼がぐるりと回って手元の蒼炎を映した。それから翼を広げておそらく壁際の方へ飛び、おもむろに備え付けの小さな洗面台の蛇口をひねった。勢いよく水が出る。再び鷹の目が荼毘の顔を捉えた。個性なのか目の錯覚なのか、暗闇の中でも輝いて見える。
さすが媚びるのが上手いな、そうやってあの堅物――サンクタムにも取り入ったのか? そう揶揄ろうとした口を閉じた。瞳の奥の光が陰ったからだった。ホークスが時たま、ほんの一瞬覗かせる諦観。荼毘はこれが苦手だった。
やめろ、その諦めた視線を俺に向けるな。一呼吸おいてから小さく呟く。
「……沸かしてやるよ」
「ありがと!」
ホークスは途端に笑顔になり、洗面台の隣の棚から小鍋を取り出して水を入れ、翼をばさりとやって一瞬のうちに荼毘の傍にやってきた。
倉庫裏で取引していた最中の顔にそっくりだ。これ見よがしに翼を広げながら親しげに笑みを浮かべる姿が胡散臭くて、話している間中ずっと踏みつけて蒼炎で羽をもいでやったらどんな顔をするだろうという暴力的な衝動がかつては何度も沸き起こった。ただし、それもこのヒーローが連合に入り込むまでだ。
「な、これ茹でてめんつゆ作れば蕎麦っぽいのできるんじゃない?」
首を傾げて見上げてくるホークスがあまりに楽しそうで、荼毘はふと口元が緩むのが分かった。
「蕎麦から離れろよ。それラーメンじゃねえの?」
「麺だろ。蕎麦もラーメンも一緒だよ」
一緒か? 荼毘は少し顎に手をやって考えようとしたが、なんせ料理など生まれてこの方やったことがないので素直に目の前の男に従うことにした。ホークスは何やらスサッソスとスマホを操作している。
「今めんつゆのレシピ検索してるからちょっと待ってね」
「レシピ? ネットで料理自慢の素人がこぞって披露してるやつか? 一番マシなヤツ選べよ」
「言い方どうにかしろよ。生活の知恵だよ、普通にありがたいでしょ――あ、これよくない? いいね万超え、完全勝利の蕎麦」
ホークスのスマホ画面に映し出されているのは、たっぷり盛りつけられた美味そうな蕎麦だった。ただし器の側面にオールマイトのアメコミ顔がでかでかとプリントされている。ぼけた背景にある湯呑みもオールマイトの顔をしていて、あまりのセンスに荼毘は気分が悪くなった。
「あー、まず蕎麦粉を用意して……うわ、蕎麦から打ってる。職人だよ」
「有象無象に力自慢してえだけだな。クソレシピだ、飛ばせ」
「もうちょっと見てみようよ。コシを確認し、麺の状態から逆算してつゆの配合を決め殺せ……決めるってことね」
「言葉の使い方がなってねえゴミだな」
「お前もね。あ、この人初心者向けも書いてくれてるよ。バリエーションも豊富だ。あ、ここ見てよ、 市販のめんつゆを買わねえクソナード向け……バリ口悪か」
「もう麺茹でて食えよホークス」
「味ないだろ。それにさあ、今まで食べてきた蕎麦の中で一番おいしかったって焦凍くんがコメントしてたんだよね」
「そういうとこなんだよなァ轟焦凍……実名でSNSやってるヤツいねえよ」
「荼毘が言うと説得力がある。それでめんつゆどうやるって?」
「醤油とみりんを鍋にぶち込むンだと」
荼毘にスマホを持たせると、ホークスはどこからかフライパンらしきものを取り出し、瓶から直接どぼどぼ注ぎ入れる音がした。
「ハイぶち込みましたー、次は?」
「アルコール飛ばすために煮立たせる」
ホークスの手元目がけて蒼炎を噴射する。三十秒も経たないうちに平らだった水面からボコボコと泡が沸いてきた。ついでに香ばしい匂いもする。
「煮立ったな」
「速、お前コンロとして優秀だよ。SDGsだ」
「ホークス、次はだし入れろ」
ホークスは戸棚から先ほどの小袋とそっくりなもう一つを取り出し、上部をちぎって怪しげな粉末を振り入れた。これがもしも睡眠薬であれば一発でホークスの意のままだが、荼毘の経験則からいって自身の身体は臓器がまともに働いておらず、吸収もあまりしない。今度、義爛から薬を買ってホークスに盛ってみるかと考える。後方から羽根を触るだけで肩が小さく震えるので、面白いことになりそうだった。
「ねえ荼毘、コレ溶けないんだけど、菜箸ないんだよね。あー……」
荼毘が思い耽っている間、ホークスは粉末と格闘していたらしい。ふいに片手を後ろにやって一枚の羽根をむしりとった。
「これで混ぜていい?」
ふわふわの紅い羽根を突き出され、荼毘は風呂に入ったのかと聞こうとしたが、自分も昨日キャンセルしたことに気づいてやめた。だいたい連合の基準でいけば、風呂に入ると「偉い」まであるので、潔癖症気味だった過去はとっくの昔に捨てている。
「いいぜ、熱くねえならな」
ホークスの稲妻型の眉がぴくりとしたが、すぐさま軽い調子の声が言った。
「いーよ、とれた羽根にあんまり感覚とかないからさ」
嘘つけ。何のパフォーマンスだか。涼しい顔で羽根を鍋に差し入れるホークスを眺めながら、荼毘は笑いがこみあげてくるのを感じた。こういうのは嫌いじゃない。
「任せるよ、ホークス」
それから十分ほど経ってから、突如シャンデリアの明かりが点いた。暗中で鍋からどうやって麺を皿にとるか話し合っていて、うっかり手の感覚があまりないと漏らしてしまった荼毘が素手で掴みとることを強いられそうになったところだったので、荼毘もホークスと一緒に息をついた。
「結構早かったね」
「よっぽどプライドを傷つけられたと見たな」
ホークスがくすくす笑い、荼毘が欠伸をした瞬間、ドアがあいた。あろうことかわらわらと連合メンバーが部屋に入ってきて、二人とも思わず顔をしかめたが、それ以上に入室してきた者たちの顔は驚きに満ちていた。
「この部屋あっついぞ、サウナみたいだな。何してたんだ?」
スピナーが顔を手であおぎながら入ってくると、その後ろからトゥワイス、Mr.コンプレスが続いてきた。
「二人とも大丈夫? おじさん、あいつの監視モニタでこの部屋見てたら暑すぎて焦っちゃった。ホークスが焼き鳥になってんじゃねえかと思ってさ」
Mr.コンプレスは大げさに肩をすくめながらも、半眼でホークスの方を見ている。仲間の察しの良さに荼毘は気分が少しよくなった。
「いいところにきたな、焼き鳥のタレあるかミスター」
「ないです!」ホークスが素早く口を挟んだ。「荼毘、もうできたんだから蕎麦食えよ」
「おっ温そばか! いいな! 蕎麦は冷たい方がいいだろカス」
「え、それ蕎麦なの?」
トゥワイスが一人盛り上がる後ろで、Mr.コンプレスが困ったように眉を八の字にし、不思議そうな表情のトガヒミコと顔を見合わせる。
「蕎麦っつーより」
最後に入ってきた死柄木は、手の甲で恐る恐る鍋の持ち手に触れたが、すぐさま手を離した。鍋の中には未だぐつぐつと煮立ったままの茶色い汁と、その汁を吸って膨れ上がった白い麺が踊っている。
ふと足元にある、先ほど落としたカップ麺のフタが荼毘の目に入った。半分裏返っているフタのパッケージは和柄で彩られ『鶏白湯う……』と書かれている。
死柄木は、互いに顔を見合わせた荼毘とホークスを呆れたように見やってぽつりと言った。
「煮えたぎったうどんだな」