放課後、家に帰ろうと少女が鞄を肩に掛けた次の瞬間、春の陽気に似合わない肌寒さが彼女を襲った。

途端、形容し難い緊迫感が身を包む。


「だ、誰か〜......」


寂しさを覚え呼びかけるが返事はなく、口から出た言葉はそのまま壁に溶けていった。普段は騒がしいはずの校内に、今は自分以外の人の気配を感じない。皆、何処に行ってしまったのだろうか。


異様な静けさが、余計に排斥感を促進する。


___ここから立ち去らねばならない。


それも、一刻も早く。不意に、そんな考えが脳裏を過ぎる。頭の中では警鐘が鳴り響いていた。


理由は分からないけど、ここは、危険だ。


少し皺の寄った制服のスカートを翻し、弾かれたように少女は廊下を走り出した。


ゴウン


階段を駆け降りている間も地鳴りのような音が足場を震わせ続けている。

人の気配は無いはずなのに、ここには確実に何かが居る。


急げ、急げ。


背中は汗で冷たくなる一方なのに、動悸がやけに止まらない。

どこから来たのか分からない恐怖心のような天啓のみが少女の足を動かしていた。


「わっ!」


二階手前の踊り場で突如、強力な突風が少女を襲った。

開きっぱなしの窓枠が外れ、地面で割れる。


廊下に貼られたポスターが宙を舞い、耳を聾するような轟音を響かせながら消火器が目の前を通り過ぎ、そのまま壁に打ち付けられていた。


音の正体を理解する余裕もなく、階段の手すりにしがみ付きながら階段の影に潜む。

風で飛んできたのだろうか、ナイフが顔の近くに刺さる。


しばらくすると風が止み、空気の振動による轟音とは違う、軽い足音が響いた。

その足音の持ち主は少女の近くで急に止まったかと思うと、戸惑うかのように少し後退りをした。


「えっ!ちょっと!聞いてない!......まぁ、仕方ないじゃんね」

声のトーンからして女子だろうか、すらりとした足が見える。

人物を認識しようとするが、根拠のない動物的な危険信号が神経回路を駆け巡るせいで顔をあげることが出来ない。


誰がここにいるのか、何をしているのか、していたのかさえ認識できないまま、少女の横を生暖かい空気が通り過ぎた。これは、人の腕だろうか。これから、何をされるのだろうか。


”昨夜X時頃、新宿区の交差点にて晦冥による被害が発生しました。怪我人は___”


事態を強制的に関連付けるかのように今朝見たニュースが思い起こされる。

もしかして、そういえば、捕まっていないって___


相手の手が頬の横に刺さっていたナイフに掛かった。

もしかしたら、殺されるかもしれない。どうしよう、逃げられない。


ここから、でもなんとかして逃げなきゃ。


死を覚悟した直後、突然人の気配が遠ざかり、そして、視界の中に見覚えのある白いジャケットが現れた。


「あ〜!逃げられた!でも追うのは時間の無駄かな?う〜ん、どうしよう......」

「晦冥の討伐もそうだが、まず優先すべきは民間人の保護、だな」

「そうだね!先輩の意見大助かりだな〜、よし!」


少女はやっと、その、白ジャケットの二人の人物が『望月』であることを認識する。

カメラの向こう側の人物が目の前にいる状況に唖然としていると、オレンジ色の長い髪を一つに束ねた女性___獅冬風牙が微笑みながら手を振った。


手慣れたファンサービスをする様子を見て藤原青龍は苦笑を浮かべながら体の向きを変え、少女の方へゆっくりと屈みながら近づく。


「大丈夫か?怪我は___あるな。一応俺も癒術使いの端くれだから任せてくれ」

そういって救急箱のようなものを取り出し、手際良く打撲や擦り傷の手当をしていく。


獅冬風牙は先輩の慣れた手つきに感心したかと思うと、少女へ笑顔を向けてウインクをした。


「え〜っと!もう大丈夫だからね!もしまた晦冥が来ても私たちが追いやっちゃうんだから」

7/7 14:00 望月地下二階 会議室


「都立〇〇高校で、複数人の晦冥と遭遇。当時スケジュール空いていたのが俺と風牙だったから二人で対処。その際にその高校の女子生徒1人が巻き込まれてて軽傷だったけど……俺が治療したからそこは大丈夫!」


藤原が報告書を砕けた日本語で読み上げ、報告書を机に置く。そして隣に座る書類にメモをしている男

______石黒琥珀に目を向けた。視線に気づいた彼は、またいつもの無断使用の報告なのだろうなと勘づきながらも、書類を見つめたまま体を藤原の方へ向ける。

体制が変わったことによって邪魔になったのだろう、腕が背もたれに乗り上がっていた。


「あ、事後申告で申し訳ねーんだけど、勝手に医務室から救急箱借りたぜ」

「安心しろ、予想通りの報告だ。別に問題はないが、いつものように使った分をメモしてくれていると助かる。足りなくなった分は補充しなくてはならないからな」


「おう!実はもう済ませてるぜ!いつものことだし?」

淡々と書類を見ながら述べる石黒に苦笑しながらも、藤原は器用にウインクをして話す。

そういった彼の様子に石黒は、慣れていても困るものだと半ば諦めた様子で目を薄めた。


「そうか___」

一息ついたかと思うと、そのまま会議用円卓から離れた場所にある机でひたすらに唸っている、ハカセこと山瀬双葉を訝しげに見つめる。

自分用にわざわざ机を移動させてきたのだろう。その机は元々仕切りの向こう側にあるはずのものであった。


「ど、どうかしましたか?」

ちょうど視線の先にいた御酒枝小町が、何か失敗でも犯したのだろうかと心配になりながらおずおずと反応する。

指摘された時に立ち上がるのが癖になっているのだろうか、その腰は机から少し浮いていた。


その様子を見て石黒は訂正をしなくては、とほんの少し表情を和らげる努力をした。


「いや、御前ではない。もっと先にいるあいつだ

______先ほどから御前はなんだ?会議くらい落ち着いて聞いたらどうだ」

ハカセはその視線に気づいたものの、視線を自分の所持するタブレット端末から移すことはなく、変わらず淡々と作業を続けている。


「おい、聞いているのか___」

立ち上がってハカセの元へ向かうが、寸前目の前に猫耳付き浮遊ロボットが進行を妨げるように現れた。


少しだけ緊張感の漂う会議室でウィステリアはぬいぐるみを抱きしめながらとりあえず会議進めようよ……と脳内で呟く。その横では御酒枝は指を唇に当てながら視線を忙しなく動かしていた。


「あ、あの……」

自分とは対照的に落ち着いている先輩達を見て少し違和感を抱きながらも、なんとかしなくてはと御酒枝が口を開く。

すると視線の先の石黒の目の前にある浮遊ロボットが慌てるようにクルクル回り出した。

同時にロボットと同じテンションでハカセが話し始める。


御酒枝はその様子を見ながらロボットとの感情の連動なんて、ハカセさんはしてたのかな、聞いたことがないなと場違いなことを考えた。


「ちょっと、ちょっと、少し!少し待ってくれ!ああ〜……今は学会前でそれどころじゃないんだ!……申し訳ない、話は聞いている」

「……そうか、御前ならそうなんだろうな。ならいい」


石黒は毎年、学会発表前の論文執筆などで時間に余裕がない彼の様子を思い出した。

一応、話を聞いてはいるんだよな、いつものように、と己を強制的に納得させて、ため息をつきながら着席した。


彼が口調の割にはそれほど怒ってはいないことを理解しているハカセは変わらず見向きもせずに作業を続けている。

______ただ周りを飛ぶ猫耳付き浮遊ロボットだけが、頷くようにして会議に参加していた。


慌ただしい望月の会議の様子を伺いながら、話を次に進めていいのかどうか、テラが左右を交互に向いて皆の様子を確認する。


「大丈夫でしょうか……」

「多分大丈夫だよ」

風牙が顔を覗き込むように体を傾けて、頬に手を当てながら笑顔で話す。


「___話を遮って済まなかったな。続けてくれ」

「はい。それでは、他に何か気づいたことがあれば教えてください」


「あ!はいはい!」

石黒の反応に頷き、そのままテラが周囲を見渡すと元気よく風牙が手を挙げた。

彼女は他の仲間は発言しないだろうと即判断し、そのまま返答を待たずして口を動かす。


「その女子生徒は攻撃された〜っていうより、巻き込まれてこけちゃったというか、晦冥の攻撃によってできた傷っぽくはなかったかな〜。

で、晦冥の方は追いかけようとしたんだけど、逃げられちゃった」


「今回は同時に別のところでの対応にも追われていたし、他のメンバーもお役所でのイベントがあったから仕方が無いんだろうけどさ。

もう少し人数がいたらちゃんと対応できたかもしれないのに、もったいないことしちゃったよね。俺の神術があったらきっと捕獲できてたと思うよ」


彼自身、実際に現場に向かいたいという意思がある訳ではない。

それを感じ取っているのだろう、半分聞き流して藤原が会話を続ける。


「はは、ああ、そうだな。人数がもう少しいれば適切な対応は______いや、長い期間勤めている望月のメンバーが二人もいたのにも関わらず、実際現地に向かってもこの目で見るまで人の気配なんて……なかったから。まさか民間人がいるとは___はぁ、追うことよりも保護を優先しちまった。今思えば片方は、追いかけてもよかったかもな。それは俺の判断ミスだ」


あまり重大な失敗だとは思っていないが、一応建前を。と気を紛らわすように頭の後ろを撫でる。


「あ、だ、大丈夫だと思いますよ!一人で行動するのはあまり良くはないかと……」

それが建前だと気づかずに善意で助言をするが、その先の理由付けがあまり思いつかず言い淀む。


ウィステリアはそんな御酒枝の様子に、同期兼年上として助け舟をしてやろうと口を開いた。


「そうだよ!もしも、もしもさ。それが誘いで、その先で仲間に合流されたりすると……それこそ大ピンチだよ」


そう言って彼は、そんな展開可愛くないじゃん。と手に持ったぬいぐるみ___みるくちゃんに顎を埋めた。

「急な奇襲だったから仕方はないですが……人手が足りなくなるようなことはこれまでも何度かありましたし。せめて事前に予知できるようになればとは……」


神妙な様子で願望を語る御酒枝はそのまま腕を組み、体を傾けながら唸った。

自分なりにこの場で意見を出そうと真剣に考えてはいるのだが、なかなか出てこない。


諦めて話を本筋に戻そうと顔をあげると、丁度のタイミングでハカセがうるさいタイピング音を会議室内に響かせた。


その勢いで立ち上がり、会議机を囲むようにして座る仲間達の方へと体を転回した。

望月の皆の視線がそれ一点に集中する。彼の顔には笑顔が浮かんでいた。


注目されるのは幾つになっても気分がいいものだな。と考えながら、このまま踊るのではないかという勢いで胸に手を当て、声高らかに笑い出す。


「フ、フフ、フハハハハ!ハハハハ!御前等、聞いて驚け!そして喜び、俺を讃えるが良い。すでに対策用のシステムや装置は作成済みだ。俺は天才だからな!」


少し待てと言いながら軽い足取りで制御版へと向かい起動すると、複数枚のディスプレイが空中に展開された。

慣れた手つきで自分の持つPCを接続し、説明用のスライドを表示した。

会議机の中央には装置の全体像ホログラムが緩やかに回転している。


「説明は一度しかしない。忙しいからな。資料はテラも持っているから分からないことがあれば説明の後に頼む」


「では説明するぞ、数週間前の戦闘に過去のデータとの相違点が見つかってな。そこから晦冥陣営の界術は”奇襲よりも早いタイミングで降りている”ことが解析された。ここまでは前回の定期報告会で伝えたところだな」


さらさらと特有のテンポで長文を話す。

ハカセが目の前のホログラムに指を滑らせるとこれまでのスライドが後方へと下がり、前方に新作マシンの紹介スライドが表示される。


「そこからさらに解析を進めると、その界術が降りる少し前から、前兆としてWbの変動___磁界の揺らぎが発生していてな。それを感知してその歪みの中心位置を座標で割り出すことに成功した。


それを簡略化かつ高速化し、座標を特定することに成功したのが……このマシンだな。今中央で回っているそれだ」


藤原は口を開きながら”半分”理解した様子で頷くと、手で顎を触りながらゆっくりと口を開いた。

「なんか本当に災害じみてきたな……人災であることにはかわりないけどさっ。

要するに___これからは事態が起こる前に晦冥の居場所がわかるってことだろ?なら進展だな!」


そうだな。と頷きながらハカセは思考を巡らせる。

進展といえば、進展なのだが、多少の問題点があることに気づいているからだ。


「明確に居場所がわかるか、と言われれば、あくまで術が降ろされた場所がわかる程度だからな。

全く違う場所に界術を何個も降ろす、みたいな対策を取られたらこちらも対処しきれないないが……

まあ進展であることは確かだな、さすが俺」


「はいはいすごいすごい」

心のこもっていない藤原の賞賛の言葉を流しつつ説明を終え、作動中のディスプレイを閉じる。


部屋の空気に多少解放感が加わった。照明も昼光色へといつのまにか変化している。


ハカセが元いた席へ戻ろうとすると、途中でウィステリアが何かを思い出したかの様にぽつりと呟く。

「そういえば___一瞬インカムの音声にノイズが入るのって、それが理由だったのかなぁ?俺普通に機械の不調だと思ってた……」


「俺がそんな貧弱な機械を作るわけがないだろう」

ハカセは会話を続けながら机の上にPCを置き、椅子に座ると、また学会の作業を開始する。


ウィステリアは話は聞いているのだろうとあまり気にしない様子で会話を続けた。

「そうだよね……疑ってるとかそういうことじゃないよ?原因が界術とか___候補に入れてなかったからさ。神通力って電波に影響するものなの?」


「今ではあまり報告されていないが、百年前のまだ通信が発達していなかった頃は殆ど繋がらなくなっていたらしいぞ。


___その当時にも神通力による影響なのではないか、という説は出ていたが、証拠不十分で関連性がないとの判断が下されたんだ。まあ今の技術じゃあどれだけ使ったところで関係はない。


電波そのものではなく電波を構成するものが反応していることがやっとわかる程度の本当に微量な変化だったからな」




「成程。しかし、界術のタイミングがわかったとしても、依然警戒を緩めるべきではないのは確かだろう」

机に散らばる書類を整理しながら石黒が静かに呟く。水分補給をしながら風牙は相変わらずだなと訝しげに横目で見つめた。


「こういう時でもブレないよね〜……まあ、でも同意見!それとこれとは話が別だもんね。ね!小町ちゃん♡」

「は、はっ、はい!っえ?」

風牙のファンサとも取れるいきなりのウインクとフリに対応仕切れず、御酒枝はどもりながら返事をする。


テラはその様子をふふ、と笑いながら眺め、それでも直視しなくてはならない現実を己に言い聞かせる様に話し始めた。


「そうですね___ここ数年、活動が活発になってきていますから……彼らの目的はわかっていませんが、それだけは起こっている事実です。これまで犠牲になってきた人々のためにも、100年続いたこの襲撃を、今年こそ終わらせましょう___」


余韻をそのまま手に持つ端末をより一層しっかりと握った。