当寺は往古より妙見菩薩の霊場として知られ、創立年代は不明であるが17世紀の初め慶長年間までは真言宗に所属し、美薗並びに羽鳥郷の内、八ケ寺の本寺にして当時の境内面積は52万坪あり境内中央よりいずれへも八丁四方を所有していたという。
室町時代は今川家累代の祈祷所であり、今川氏真公直筆の花押入り古文書も寺宝として蔵されている。
慶長17年8月、雪斉惠宗禅師開山となり、臨済宗方広寺派に属し爾来法燈世系連綿として今日に及ぶ。
明治初年、県下寺社合併の令達後、村内自光院(薬師堂)及び下石原海福寺の2ケ寺が当寺に合併され、各本尊仏も合祀された。
慶長元年8月、大獣院殿(徳川家光公)御朱印、北条安房守殿(新蔵家)知行所内より正光寺領を六石壱斗、薬師堂領を弐石下賜される。その他伊那備前守除地四石一斗、施餓鬼料を弐石、了仙庵領を弐石賜る。徳川家光公より家茂公に至るまで九通りの旨令書を存していたが、慶応三年九月、西京弁事御役所へ返納される。
◆白隠禅師との縁
〝駿河の国に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に、原の白隠〟と云われたこの名僧は、14歳で故郷駿河の原松隠寺で得度。諸方歴参ののち信濃飯山の正受老人の法を継ぎ、やがて京都妙心寺第一座となり晩年は三島の龍沢寺を開いている。
正光寺の山号額を白隠禅師が書いたのは、同寺八世環渓和尚が白隠の弟子であった繋がりによるもののようである。
環渓和尚は人々を寺に集め、碧巖録を講じたというから学才のほどが偲ばれる。同和尚が示寂したのが寛政6年6月13日、75歳であった。
正光寺の現住職は十八世松尾正澄である。
白隠禅師 達磨図
白隠禅師 直筆
現在の正光寺本堂