大串荘厳寺の境内地は、樋爪館の区画内部の南西部に鎮座する 「薬師神社」の周辺であったと推測されます。 大荘厳寺は樋爪館の構成要素として「政庁」、「御所」とともに造営された「寺院」です。奥州藤原氏の滅亡後も存続し、中世を通 じて樋爪館の故地である箱清水地内に所在し続けました。
頼朝に安堵された俊衡が大荘厳寺で泰衡の遺児を養育し、娘の華子を妻らせたという話しも伝わっています。
近世初頭、南部氏の盛岡城下建設で移転させられ、樋爪故地における大荘厳寺は途切れます。さらに、盛岡大荘厳寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になりました。
このように、樋爪故地からの移転と、廃仏毀釈による盛岡大荘厳寺の廃絶によって、奥州藤原氏時代の大荘厳寺の様相が理解しにくい状況になっています。