パーフェクト リバティー教団(PL) 本部(大本庁)
大阪府富田林市廿山285−1
駐輪場あり(無料)
非信徒参拝可能(手続きなし)
立教1924年(1946年)
※「パーフェクトリバティー教団」が正式名称であるが、便宜上、以下「PL」と称す。
通称PLタワーは富田林市のどこにいても見えるくらい大きい。
高さは180m(108mの通天閣より大きい)である。
この塔は1970年の大阪万博と同じ年に建立された。
デザインは2代教祖(おしえおや)によるものである。
この教団の中心的教義は「人生は芸術である」。
芸術を重視し、教主自らこの塔をデザインしている。
教団設立には、初代教祖とその子である2代教祖の父子が強く関わっている。
この聖地の建設には2代教祖が中心となって行われた。
教団では2代教祖を「二代様」と親しみを込めて呼ぶ。
この聖地は、山と水に恵まれた300万坪の土地でなくてはならないという初代教祖の残した言葉通り、様々な候補地の中からこの富田林の土地を選ばれたそうだ。
また、当時「観光と田園工業地帯」を方針に掲げた富田林市から誘致を受けている。
もっとも、この聖地のある場所は開発困難とされた場所で、双方のメリットが一致してもいる(五十嵐2022)。
PL学園やPL病院などの関連施設も併設されている。
PL教団にとってこの聖地は「魂の故郷」と位置づけ、人々を「おかえりなさい!」と迎え入れる。
広大な教団施設の真ん中を自動車道が横に走っている。
道に沿う形でPL病院や錬成道場など教団関連施設が建っている。
およそ真ん中あたりに「大平和祈念塔」と縦に書かれた白いポールが立っているのが見える。
ここが門である。車で門をくぐり、約100メートル先に駐車場がある。
お盆の時期であったので帰参者であろうか、家族連れがちらほら散見される。
しかし決して多いとは言えない。
車を降り、塔に向かって吸いつけられるように歩んでいく。
だだっ広い広場の先に塔があり、その手前に30段ぐらいあろうか、緩やかな階段がある。
階段を上がると塔の入口にたどり着く。
塔内は撮影禁止とある。
入ると、私服の60代と見られる男性が待っており、「ご案内いたします」とおっしゃって、2階の「神殿」までエレベーターで直行した。
この間、身分を聞かれることも記帳することもなかった。
申し込みは不要のようだ。
神殿は一般にも開放されている。
かつては(10数年前ぐらいと言っていた)展望台まで上れたが、今は2階の神殿までとなっている。
理由は、一般の人が展望台まで上り神殿でお参りせず(PLの言い方では「世界平和」を祈らず)帰ってしまうためだそうだ。(※1)
このPLタワーは正式には「超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔」と言い、宗旨・宗派問わず昇殿することができる。
教団本部はここ富田林市に1953年に移されたが、この年、2代教祖は新日本宗教団体連合会の初代理事長に就任している。
また、1973年と1980年にローマ教皇と会談するなど、PLは超宗派協力を強く志向する教団といえよう。
(※1) PLタワーの神殿とは別に、神霊を祀る「正殿」がある。こちらは会員(PLでは信徒をそう呼ぶ)のみ入れる。どちらが格上ということでなく、信徒はどちらもお参りをするそうだ。広大なこの聖地で、一般の人が入れるのはこの塔のみである。
案内人に付いてエレベーターで2階の神殿まで上がる。
照明が少し落とされ、歯医者さんの待合室のような音楽が流れている。
美術館のような雰囲気である。
少々怪しさもある(私が少々というのだから、こういう場に慣れていない人は怖いと感じるかもしれない)。
エレベーターを降りるとすぐに、献金袋の置かれた横長の机がある。
案内人は
「もし良ければ世界平和をお祈りください。いくらでも。名前は任意です」
と言い残し、こちらに配慮してその場をそっと退いた。
祭壇の前に献金箱が3か所に分かれて備え付けられている。
祭壇は神道風でも仏教風でもない(※2)。
信仰対象は「宇宙全体」とあるが、祭壇には見えない祭壇である。
現代アート風というのか、中心には円筒状のものがあり、その上部には菊の紋のようなマークがくっついている。
教団のエンブレムのようだ。
案内人にこのエンブレムは何を表しているのかと聞くがあまりはっきりとした答えが得られない。
菊でないことは分かった。
このように気になったのは、PLの前身「ひとのみち教団」が、「天照大神」を信仰対象とし、「教育勅語」を経典とした、修養道徳を重視する教団であったからである。
ちなみに、この祭壇の形式は、地方の教会でも同様の形式であるようだ。
この教団には特に戒律はなく、暮らしの中での心得を重視し「PL処世訓21カ条」というものがある。
第13条に「男性には男性の、女性には女性の道がある」とあるのはやはり「教育勅語」の名残であろうか。
案内人は祭壇の前で「どんな方法でもお参りください」と、またしてもこちらに配慮した言い方で一歩退くが(※3)、私が「PLではどのようにお参りするのですか?」と聞くと嬉しそうに「では、ご一緒に」と言い、PL流の作法を教えてくれた。
①指を絡めた形で組んだ状態で臍の下にふんわりとくっ付ける
②胸の前で合掌
③額の上で親指と人差し指をくっ付けたまま残りの指は前方へ広げる
④再度、胸の前で合掌
⑤祈る
⑥ 再度、指を絡めた形で組んだ状態で臍の下にふんわりとくっ付ける
(※3) 新宗教の教団が、非信徒にオープンにしている場では「勧誘しない」「宗旨を押し付けない」ことを殊更気にすることにより、よく見られる行動。「自由」と言いつつも、しかし内心は自らの教団の作法でお祈りしてほしいという気持ちを抱くのは当然である。
エレベーターで1階に戻る。
展示されている彫刻作品などの紹介を受ける。
帰りにPLのパンフレットはないか尋ねてみた。
しかし、「いま改訂中でないんです」と申し訳なさそうにおっしゃる。
教団がパンフレットを改訂中という理由で配れない、ということがあり得るのだろうか。
教団は、2020年に3代教祖が逝去してから、現在は教主不在である。
そのためであろうか。
勘繰ってしまう。
申し訳なく思ったのか、1階部分にある記念スタンプを紹介してくれたり、おみやげコーナーを紹介してくれたりした。
私は少しでも教団の資料が欲しいので、クリアファイルを購入した(200円)。
また、案内人はかつてのPLが勢いがあった頃の話を「PL花火(教祖祭PL花火芸術)」の写真を見つめながら話してくれた。
かつてこの聖地の広大な土地に「PLランド」と呼ばれるレジャー施設があったなど、一般の人々にとっても憩いの場となっていたそうだ。
しかし、PL花火はコロナ禍を理由に2019年まで行われていたが、現在も再開されていない。
私が教勢の衰えを感じる一方、案内人はかつての教団のにぎやかだった頃を懐かしく思い出しているかのように顔が綻んでいる。
そこに私は哀愁を覚えてしまう。
PL学園野球部が2016年に活動休止になり、「学園の売り」がなくなってしまった。
従来よりPL学園は入学に際し、信者になることが義務付けられていたが、「学園の売り」がない今、入信してまでも入学したい学校と言えるかは疑問である。
「今や共倒れしかねない PL教団とPL学園の混乱と衰亡」『宗教問題』42 (柳川悠二,2023)によれば、
2023年のPL学園高校の国公立コースの競争倍率は0倍―つまり、ただ1人の受験者もいなかったのだ。さらに、理文選修コースも89人の外部募集に対し、専願3人、併願4人の志願者しかおらず、競争倍率は0.08倍と、こちらもまったく目も当てられない数字だった。もちろん、系列のPL学園中学からの内部進学者はいる。だが、その数も雀の涙ほど。
とある。
これら数々の事業の縮小により、教勢は衰退する一方である。
この現状が、教団の方針により敢えて招いたもののようにしか考えられない(※4)。
PLという宗教団体がなくなる前に、この聖地を訪れてみることをお勧めする。
(※4) PLは「コンピューター布教部」を1969年に設立するなど布教の能率化を図ったり、野球・ゴルフ・パソコンなど現代文化を布教に取り入れたりするなど、社会的知名度を高めていた。ゴルフ場経営や学校経営,レストランや遊園地などの多角化路線に対し、亡き3代教祖は生前それを否定し純化政策を行っていた。2代教祖は実弟の子(甥)を後継者に指名していたが、なぜか嗣祖の制度を廃し、2代教祖の妻の弟である養子が新たな後継者に選ばれたという経緯がある。それが2020年に亡くなった3代教祖である。もしかしたら、現在のこの状態はこの時から決まっていたのかもしれない。
(参考)
玉石混淆のPLタワー動画の中で、詳細かつ誠実なルポ動画
https://youtu.be/T_6YwmH2bxE?si=Qg6Bc3jHePAXfn3f
(教団の創立について)
PLの設立は1946年であるが、1924年立教の「徳光大教会(※5)」 (1928年「扶桑教人道徳光教会」と改称、1931年「扶桑教ひとのみち教団」と改称) を引き継いだ形で設立された。設立の背景には、戦前の宗教弾圧(いわゆる「ひとのみち事件(不敬事件)(※6)」) により教団が1937年に解体されたため、教団再建の目的があった。初代教祖は御木徳一で、1936年に長男・御木徳近が2代教祖に就任するが、PLでも前身の「徳光大教会」と同じく初代教祖は御木徳一である。教団の立ち上げには、この父子が強く関わっている。
(※5) もともと徳光大教会は1912年に教祖・金田徳光によって設立された教団である(正式には御嶽教徳光大教会)。御木徳近・徳一父子は金田に出会い、1916年に父子は徳光大教会教師となる。金田の遺言を守り彼の教えを完成させた。1924年に正統な後継者として「徳光大教会」を再建、PLのはじまりとなる。
(※6) 前身教団(当時は「ひとのみち教団」)の幹部であった丸山敏雄、上広哲彦は、この事件を経験して、「宗教性」が排他性につながるという考えから、宗教性を脱した修養団体を設立した。丸山敏雄は「社団法人倫理研究所」(1945年)を、上広哲彦は「社団法人実践倫理宏正会」(1946年)を設立。しかしながら、実践訓戒を掲げたり、早朝集会(朝起会)を行ったりする点は、旧ひとのみち教団の活動を受け継いでいると見られている。