2023年11月某日
大本 梅松苑(綾部祭祀センター)
京都府綾部市本宮町1-1
駐車場あり(無料)
非信徒参拝可能(境内は声掛け必要・建物内は要事前予約)
立教1892年(明治期)
宗教法人大本には、2つの聖地がある。
一つは綾部市にある梅松苑、一つは亀岡市にある天恩郷である。
ともに本部であり、役割が異なる。
亀岡の方は5日間の修行が体験できる道場があったり(内容は座学中心。一般にも開放)、ギャラリーがあったりと、宣伝を主とする施設(亀岡宣教センターと呼ばれる)。
一方、今回訪れた綾部の方は、大本発祥の地であり、主に祭祀を行う施設である(綾部祭祀センターと呼ばれる)。
京都縦貫道で京都市街から約30分経ったところに亀岡市はあるが、先に綾部市の方を訪れる計画であるため、亀岡の街並みを横目にそこから1時間弱、車を走らせ、綾部市に向かった。
門前町 飲食店などはほとんどなく人通りもない
綾部市は、繊維製品メーカーである現在のグンゼ株式会社(当時は郡是製絲株式会社)が1896年(明治29年)に創業した地である。
その4年前の1892年(明治25年)に、この綾部の地で大本は開教した。
近代化の中でグンゼは綾部の町に資本主義とキリスト教をもたらし、大本は富国強兵の波に抗う形で宗教活動を展開した。
グンゼの創業者・波多野鶴吉はキリスト教の洗礼を受けており、教会の建設に寄与している。
現在も綾部には古い教会が点在している(梅松苑の正面に波多野が祈りを捧げたという丹陽教会がある)。
大本では節分大祭として節分の日に和紙の人型を流す行事があるが、その人型を流す由良川(和知川)に掛かる橋を越えると、大本通り商店街と呼ばれる通りがある。
少し行ったところを左に曲がると梅松苑の駐車場である。
境内には観光客と見られる人がちらほらいる。
紅葉は真っ赤に染まり、ちょうど見頃である。
境内に入ってすぐのところに、国登録有形文化財にも登録されている「みろく殿」が聳えている。
みろく殿
みろく殿
扉を開けると大広間、正面には祭壇がある。
受付にて昨日電話した者であると告げるとその女性は「はて?」といった顔。
信徒ではないが見学したい旨告げると、初老の男性が、大広間の左手前の角にある教団の年表などのパネル、展示品などがあるところへ案内してくれた。
「質問があればまた」と立ち去っていった。
パネルには、開祖・出口なおの使用したという石臼・箱膳・水行バケツなどの説明がある。
貧しい出口家の生計を立てるために饅頭づくりに勤しみ、その際になおが用いたという石臼、80年余の生涯を通じ一度も十分に食事が取れなかったことを物語る箱膳、お筆先のご用のとき、また神命が下るたびに行った水行で用いたバケツ。
どれも開祖が貧しさの中において神に忠実であったことを伝える。
この梅松苑の敷地内に元屋敷跡がある。
この聖地は、出口なおの帰神・開教の地として重要視され、現在でも大本の祭祀の中心地とされている。
先ほどの男性を再び訪ね、いくつかの質問を投げかけた。
30分ほど年表パネルを見ながら大本のあゆみについて教えていただいた。
大本は2度の宗教弾圧を受けるが、特に2度目の弾圧(1936年 第二次大本事件)では、この梅松苑は更地にされ、郡設グランドにされていたそうだ。
1945年に無罪解決により綾部町(当時)より大本に土地が返還され、戦後に再建された。
大本は戦前から受け継いだ建造物は一つもなく、すべてが戦後になってからの再建・新築である。
それほどにして大本は国家に睨まれ、徹底的に壊滅状態に追い込まれた(日本近代史上最大の国家による宗教弾圧といわれる)。
第二次大本事件以後、大本は教勢を小さくするが、それまでは知識人・軍人・皇族に至るまで多くの信者を獲得していた。
教団を発展させた、聖師・出口王仁三郎(大本では教祖は二人。なおは開祖、王仁三郎は聖師と呼ばれる)は海外にまで活動を拡大させたために、国家に警戒された。
戦前の大本は国家にとって、脅威であったのである。
男性に別れを告げ、男性が勧めてくれたように、梅松苑をさらに奥に坂を登っていくと長生殿という大きな建物があるからと言うことで、歩みを進める。
金竜海
この池には、世界の縮図として世界の五大州の模形の島々が浮かぶ
後で気づいたのだが、どうやら緑寿館という教主会館に入ってしまったようだ。
玄関を入るとスーツ姿の3,40代の男性に爽やかにお出迎えいただき、祭壇のある小さめの部屋に通された。
「どうぞご自由にお参りください」と言われたが、「作法が分からないので、もしよろしければ教えていただけませんか?」と伝えると「よろしいんですか?」と少し嬉しそう。
私こそ、せっかく聖地に来たのだから、宗教体験がしたい!とわくわく。
部屋には私と男性の他に誰もいない。
畳に正座し、その男性は天津祝詞とよばれる祝詞をあげてくださった。
私は拍手や礼などを一緒に行った。
大本では、神や教祖に対しては四拍手、それ以外の礼拝対象に対しては二拍手であるそうだ。
一通り祝詞奏上が終わると、「参拝してくださった方にはお抹茶を点てさせて頂いております」と別の部屋に通された。
お庭を見ていただきたく戸を開けているが寒くないかと聞かれたり、お抹茶をいただいている間は一人にしていただくなど、気遣いが細かい。
「芸術は宗教の母なり」という出口王仁三郎の言葉があるが、大本は文化・芸術を重要視し、それがこうした一般人へのもてなしにまで行き渡っているのであろうか。
教主会館・緑寿館
まさかの宗教体験の後は、いよいよ長生殿へ。
坂をさらに上がったところにデデン!と5棟の建築群からなるという神殿が登場。
御神体の山を拝む形で建てられたもので、大本開教100年の平成4年に完成したという。
それから30年経ったとは思えないほど新しく見える。
ここまで来ると観光客も誰も敷地内にはおらず、ただ「参拝客はこちら」という小さな看板が案内するばかりだ。
心細い気持ちになりながら、案内にしたがって誰もいない玄関、誰もいない階段、誰もいない廊下を通って長生殿の受付へ。
そこに白衣に浅葱色の袴を身につけた神官がおり、そこで電話した者であることを告げる。
お祓いを受け(前の二箇所でも必ず入室の際はお祓いを受けた)、それぞれの大広間を案内してもらいながら歩いた。
曰く、この長生殿は千年残るという建物で、日本の伝統建築技術を総動員して作られたものであるらしい。
一本の桧で作られた長押は圧巻である。
本殿・長生殿
本殿・長生殿
本殿・長生殿
一周し,長生殿の玄関に戻ってきた。
神官はおもむろに振り返り、玄関の外を眺める。
「この更地はもと農研センターが建っておって、このたび大本が買いました。」とぼそり。
驚いていると神官はどこか誇らしげに「美術館を建てるとか。大本の芸術はすごいですから」と。
この情報は一般に公表されたものなのかネットで調べてみたところ、宗教専門紙「文化時報」の記事一件のみで、記事には
「歴代教主が神域と捉え、かねて「綾の郷整備事業」を計画してきた土地であることから、教団は「千載一遇のご神業」と受け止めている。」(「農研センター跡地落札 大本「悲願の神殿」総仕上げへ」文化時報社)
とある。
6億円で入札したそうである。
細かいところまで案内していただき大満足の気持ちで長生殿をあとにする。
境内から農研センター跡地を望む
この綾部の聖地では、「どこから来たか」ということ以外、名前を聞かれることも書かされることも、信徒であるか否かに至るまで何も聞かれなかった。
もちろん勧誘もなく、来るもの拒まずといった姿勢で、丁寧に説明をしていただいた。
初めは亀岡の宣教センターと区別され、主に祭祀を行う施設と聞いていたため、そんな神聖な場所に信徒でないものが行っていいものかと逡巡したが、杞憂に終わった。
もちろん、事前に予約することは必要であろう(ただし,今回それを確認されることはなかったばかりか,電話された?まあいいや,といった感じで緩く対応された)。
梅松苑をあとにし、「大本通り商店街」を歩く。
飲食店はほとんどなく、歩いている人もほとんどいない。
昼食をあてにしていたのだが、車内であらかじめ買っておいた菓子パンを食すことにし、2つ目の聖地・天恩郷(亀岡宣教センター)へ向かう。
木の花庵(このはなあん)
みろく殿の破風(裏手より)
大本 天恩郷(亀岡宣教センター)
京都府亀岡市荒塚町内丸1番地
駐車場あり(無料)
非信徒参拝可能(手続きあり・有料)
立教1892年(明治期)
宗教法人大本の聖地・梅松苑(綾部市)で思ったより長居してしまっていたため、もう一つの聖地・天恩郷(亀岡市)に急ぐ。
電話では15時半までに受付していただければいいと話があったのだが、綾部にいる時点で13時。
ここから亀岡までは約1時間。
急がなければ日が暮れてしまう。
天恩郷(亀岡宣教センター)は、明智光秀の居城であった丹波亀山城の跡地にある。
大本の教祖(聖師)・出口王仁三郎が城址を購入し、大本の聖地を建設した。
JR亀岡駅に程近く、小学校・中学校・高校が隣接する。
亀岡は出口王仁三郎の生まれた地で、綾部の梅松苑が開祖・出口なおにゆかりの聖地であるのに対して、ここ亀岡の天恩郷は聖師・出口王仁三郎にゆかりの聖地である。
聖地が2つあるのは、教祖が2人いるからである。
梅松苑に比べ、天恩郷は人通りの多い街中にあり、商業施設やスタジアム、市役所などがある。
JR亀岡駅から徒歩10分のところに大本の施設がある。
その大本を亀山城のお堀が囲い、緑豊かな城公園となっている。
みろく会館と呼ばれる建物が正面に現れたところが駐車場となっている。
門をくぐり、車をとめ、みろく会館1階の総合受付へ。
亀山城址、大本の神苑を散策するにはチケットが必要となる。
受付の女性は真っ先にお城目当ての観光客と見たのか、お城を散策するための案内ばかりをし、大本については触れない。
お城目当ての観光客なのか、大本目当てなのかをまず峻別することが受付の仕事なのだろう。
「大本と丹波亀山城址」と書かれたパンフレットをいただき、さっそく2階の「ギャラリーおほもと」へ。
みろく会館
みろく会館2階には、信徒のみ利用可能の食堂(閉まっていた)があり、向かいにギャラリーがある。
ギャラリーには、大本の歴代教主らの陶芸作品や書などの作品が展示されている。
受付の男性は、私が入るなり、ビデオルームに案内し、半強制的に映像を流し始めた。
客は私以外に誰もおらず、いくつか映像がある中の、亀山城址に関する映像が選ばれた。
この映像は約15分くらいあるらしく、ギャラリーにあまり時間を割きたくない(しかも暗くなっては神苑が散策できない)私にとって長すぎる時間であった。
せっかく流してくれたのにすぐに帰るのも失礼か、どうせ見るならリストにある「大本のあゆみ」が見たいと思い、受付の男性に「大本のあゆみ」に変えてもらえるよう伝えた。
男性は、「お城ではないのですね?大本に興味があるのですか?そりゃまたぁ」と驚かれた。
宗教に興味があり、さっきまで綾部に行っていたことを告げると「大本には大学の先生がたくさん研究したいと言って来られます」と。
やはりここでも「お城目当ての観光客」と見られていたようだ。
亀山城址を見るためには、大本の聖地に足を踏み入れなければならない。
お城マニアにとっては一つのハードルになっているのか分からないが、信徒以外の一般の人々に大本に訪れてもらう機会にもなっている。
出口王仁三郎が狙ってか否か分からないが、明智光秀という歴史上の人物を大本という宗教団体に取り込むことによって、ある種の権威や信頼性を獲得することに成功しているように思われる。
みろく会館1階には、売店がある。
主に教団の書籍やグッズが並ぶ。
日が暮れ始めた。
暗くなっては建物が見えにくくなってしまう。
エスペラント碑
みろく会館を出て、すぐのところに神教殿と呼ばれる道場がある。
ここは信徒だけでなく一般にも開かれた5日間の修行を行う施設である。
修行者向けの宿泊施設も、みろく会館を挟んだ向こう側にある。
1日だけ参加することもできるらしい。
道場・神教殿
道場・神教殿
さらに奥に行くと、天恩郷の主な礼拝所となる万祥殿。
ここで四拍手でお参りをし、この建物の裏手にある亀山城址へ。
神殿・万祥殿
神殿・万祥殿
明智光秀が築城した亀山城は、明治11年に廃城となり、その後荒廃した姿を憂い、大本が大正8年に購入。
今の石垣は戦後に再築されたものである。
石垣の上は、「聖域」と看板にあり、立ち入りが禁じられている。
これより奥の様々な建物にも、あちこちに「この先観光の方はご遠慮ください」という看板が立てられている。
禁足地や立ち入り禁止エリアが多く、実際に「大本目当て」の者が見られるエリアは綾部の梅松苑に比べかなり限られている。
2つの聖地を巡り、それぞれ雰囲気が異なっていた印象を持った。
片方だけではもったいない。
両方の聖地に行けてよかった。
天恩郷は、チケット代をとって一般に公開しているだけあってか、梅松苑がそうであったように、特別に施設を案内してくれたり、特別に何かを見せてくれる、ということはなかった。
個人的には、梅松苑の方が特別感があり、満足度は高かった。
教歌碑・懐古歌碑 教祖・出口王仁三郎による詠歌
とはいえ、やはりそれでも物足りなさを感じるのは、大本事件以前の大本の施設が全て破壊され、現在はその姿を見ることができないことにある。
戦前の大本の、巨大で奇抜な建築群を、今もなお多くの者が己の眼で見ることを夢見ているであろう。