劇団員コラム

シーン394晴耕雨読』 森田 リョウジ

 6月になりました。西日本では一足先に梅雨入りし、今週後半には関東甲信越にも前線がやってくるようです。雨季、皆様はいかがお過ごしでしょうか。


 十代の頃から「晴耕雨読」に憧れています。晴れた日には畑を耕し、雨の日には家で本を読む。そんな穏やかで平和な日々が、人間の本来あるべき姿、あるいは目指すべき姿であってほしいな、と思うのです。


 先日、NHKアーカイブスで、児玉清さんのインタビュー番組を観ました。言わずと知れた名優ですが、読書家としても有名だった氏の言葉に、こんなものがありました。

 「現実を際立たせるために、本がある」

 「本を読むということは、他人の人生を知るための行動」

 ARやVRが現実世界に浸透し、「ゴースト・イン・ザ・シェル」な未来がもうすぐそこまで来ている現代において、本の有用性が何なのかをしばしば問われますが、なかなかどうして、児玉さんの言葉は核心をついているように思います。

 今という現実をよりリアルなものしてくれるもの。

 人の生き方・心に想いを寄せることで、自分の表現力や思考力、感受性をより豊かにしてくれるもの。

 デジタル書籍の時代にあっても、この効能がある限り「本」という形をした媒体がなくなることはないのだろうと思います。コロナという雨に打たれていても、私たちには本がある。思考できる。想像できる。家の中にいたとしても、私たちは無限に、疑似的に、行動を起こすことができるのかもしれません。


 先の番組の中で、児玉さんは俳優というものは、勝つことのない職業だと言っていました。その主旨を私は「どんなに演技を追求・追究したとしても終わることがなく、完成することはない。その意味で、役者というものは負けることが決まっているのだ。」と受け取りました。そして、「負けることが決まっている我々はこの世界をどう生き抜けばよいのか」という自問に対し、児玉さんはこう自答していました。

 「美しく、負ける」「負けるのはいつも、美しく」

 なるほど。本を通して、役を通して、多くの人生の儚さを見てきた氏ならではの見解です。


 こんな「雨」続きの日々には、無理に外に出ることなく、家でできることを探す。本の世界に想いを馳せ、思考を深め、想像を広げる。そう。来る「晴れ」の日に思い切り畑を耕すために。美しく、負けるために。その日はもう、すぐそこまで来ているのだから。


 …はあ。小玉スイカ食べたい……。(6月だけにね。児玉さんの旧芸名は、「小玉」さん、だけにね。)