劇団員コラム
シーン186『プライマル。』 しんご
先日、大好きだったバンドがメジャーデビュー20周年の記念日を迎えた。
「大好きだった」と過去形なのは、既に解散してしまっているから。
とにかくよく聴いていた。LIVEにもよく通った。特に、精神的に疲労している時などは、彼らが奏でるマイナー調の楽曲たちを繰り返し聴き続けた。
とは言え、語弊があるかもしれないが、私にとって彼らの楽曲が、生きていくための指標や勇気、明日へ向かう原動力そのものを 与えてくれる訳ではなかった。
ただ、今の自分を受け容れようとする気持ちになるきっかけを与えてくれた。
明日への原動力となるかもしれない“何か”を探してみようという気持ちになる きっかけを与えてくれた。
解散してしまってはいるが、そのバンドの楽曲は今でもよく聴いている。
もちろん、それ以外の解散や活動休止しているミュージシャンの楽曲も聴く。
が、それらの音楽を改めて聴く中で、聴き方が分かれていることに気が付いた。
ひとつは、昔聴いていた頃を思い出させる聴き方。
もうひとつは、今の自分にもダイレクトに響いてくる聴き方。
あるいは、それが混在する聴き方。
そしてどうやら私は、“過去”の自分と“現在”の自分、その両方に作用してくる音楽を無意識のうちに選んで聴き続けているようなのだ。
そこで、更にふと気が付いた。
これはそのバンドに限ったことではない。ましてや、音楽に限ったことでもない。
芝居、映画、書物などは、まさに音楽同様なのだろう、と。
また、誰かによって語られた言葉たちも、やはりそうなのではないか、と。
例えば。
近ブログやツイッターなどを目にする機会が増え、そこに綴られている言葉たちに、リアルタイムに共感することもあれば、自分の中の記憶を追体験するかのようなこともある。
大切な家族や友人と話す中で、今の自分の在り方や課題が明確化されたり、その要因となっている自分でも認識していないような原体験を 想起させられることがある。
それらは、やはり“過去”と“現在”の両方を垣間見せるものたちであり、そして、“未来”への原動力となるかもしれないものたちなのだろう。
そんな大切なものたちに最初に触れた時の想いのカケラを、センチメンタルに昔を懐かしむためだけのモノとしてではなく、明日へのピースとして持ち続けようと思う。
彼らのCDは、これからもいつでも手の届く“場所”に置いておこう。