劇団員コラム

シーン177『感動』 のりか

 先日、HAPPYな映像を放送していた某テレビ番組でのこと。アメリカの6歳の少女が誕生日のプレゼントをもらうホームビデオの一コマ。6歳の彼女は、ディズニーが大好き。ディズニーワールドへは一度も行ったことがありません。日本で言うなら東京から沖縄ほど離れている遠い夢の島へは簡単には行けないことも知っています。両親には、「もう少し大きくならないと行けない。」と言われていました。今年の誕生日プレゼントは、大好きなプリンセスのバッグにドレスやパジャマやおもちゃのアクセサリーがめいっぱい入って彼女は大喜び。プレゼントを順番に開けている彼女の名前を呼び、母は、「ど こに行きたいの? どこでも連れて行ってあげる。」と言いました。彼女は答えません。 「どこでもいいのよ。」と母は言うと、少し考えて彼女は「ディズニー。」と小さな声で答えました。母は、「行くわよ。」と。彼女は、すぐ「いつ?」と聞きました。「今からよ。」と母。自信なさそうに「本当なの?」と母に聞くと「本当よ。」と母が答えると同時に泣き出しました。


 大きな声で嬉しくて号泣する彼女を見て、私も貰い大号泣。何で泣いていたかわからなくなるくらいしばらく涙が止まりませんでした。6歳で一途に願ったことがあっただ ろうか。願いが叶って感極まることがあっただろうか。今までだって、そう願っていた ことが叶うことかもしれないけれど、叶って号泣することなんて私は、受験くらい。外国の 国民性なのかもしれないけれど、6歳の彼女の感受性の豊かさがうらやましい。何でも与えられたり、どこでも連れて行ってもらえたりする日本の世の中では辛抱することなんて 少ないし、感情表現も彼女ほどじゃないし乏しように感じる。


 私は、造り手として喜怒哀楽を普段からいろんな風に持ったり、表出したり、感極まる ほど一途でいられるような大人でいたい。彼女のように、意図的ではなく誰かに幸せを 分け与えられるような、そんな感性を持っていたい。そんな風に思った。