聖金曜日の祈り

2020年4月10日

日本基督教団 富田林教会

兼子洋介牧師

はじめの祈り

子どもを起用してもよい

天の父なる神さま。

わたしたちは毎日、変わらないどころか増えていくばかりの、病気の人がいるのに、何もできずにいます。自分が病気にかからないように、そして人に移すことがないように、気を付けることしかできません。けれども神さまが愛してくださっているこの世界のために、神さまのことを知らされているわたしたちが、まず、できることから始められますように。神さまの愛を受けたわたしたちが、愛に生きる勇気を持てますように。

今日は、イエスさまが世界を、そしてわたしたち人間を、どれほど愛してくださったかを、思い出す日です。イエスさまは、命を捨ててでも、そしてわたしたちの、間違った思いによる憎しみを受けてでも、わたしたちのために、十字架にかかってくださいました。この、イエスさまの愛を知らなければ、わたしたちは何も、世界のため、友だちや家族のために、自分を用いることができません。どうか、イエスさまがわたしたちのため、世界のために、どれだけのことをしてくださったかを、今日は覚えることができますように。そして感謝をすることができますように。

イエスさまのお名前によって、お祈りします。アーメン。

聖書朗読:詩編130編

悔い改めの七つの詩編の一つ

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。

主よ、この声を聞き取ってください。

嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら

主よ、誰が耐ええましょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり

人はあなたを畏れ敬うのです。

わたしは主に望みをおき

わたしの魂は望みをおき

御言葉を待ち望みます。

わたしの魂は主を待ち望みます

見張りが朝を待つにもまして

見張りが朝を待つにもまして。

イスラエルよ、主を待ち望め。

慈しみは主のもとに

豊かな贖いも主のもとに。

主は、イスラエルを

すべての罪から贖ってくださる。

罪の告白と赦しを求める祈り

神さま、わたしたちはみ言葉を待ち望んでいます。わたしたち自身が積み重ねてきた罪の淵の底から、もはやあなたしか見上げることができずに、あなたのみに望みをおき、祈っています。

イエスさまの十字架の日、わたしたち人間の罪と愚かさは、さらけ出されました。恥ずかしくとも、あなたの前に、アダムのように葉っぱで自分を覆い隠すことすらできずに、わたしたち人間は、罪を突き付けられました。

この出来事を思い起こす日に、わたしたちは、ただただ、あなたの前に頭を垂れることしかできません。灰をかぶって悔い改めた、聖書の時代の人たちに倣い、わたしたちも同じ思いで、神さまの前に誠実に進み出ることができますように。

自分が正しいと思い込みながら、人は、イエスさまを十字架につけてしまいました。ここに、わたしが日々繰り返す、罪の姿があります。そんなわたしたちの、心の中でも日々起こす罪を、神さまが目に留められるなら、だれ一人、神さまの前に立ち、生きながらえることはできません。

どうか改めて、罪の赦しのみ言葉を、聞かせてください。イエスさまの、十字架の御業の中に、あなたのわたしたちへの赦しと愛を、確かめさせてください。

イエスさまのお名前によって、お祈りします。アーメン。

とりなしの祈り

わたしたちの主よ、イエスさまが、十字架において、血を流し、肉を裂かれてでも愛し抜かれた世を、わたしたちも愛する者とならせてください。神さまから離れてしまい、神なき、平安なき世としてしまったわたしたちのため、一命をもって罪を償い、神さまとの間をとりなしてくださった、あのイエスさまの思いと業とを、空しくしてしまわないように、わたしたちを導いてください。

毎日祈りながらも、わたしたちをとりまく情勢は、決して良くなったとは言えません。わたしたちは、己の愚かさと、無力を突き付けられるばかりで、情けなくも、気の滅入るような日々を、送っています。しかしこのような時にこそ、あなたにしか希望はない、あなたしか、命のこと、魂のことを与え、保つことのできるお方はいないと、知らせてください。

そして、このことを知らされた者として、わたしたちも、イエスさまにまさるものではありませんが、世と神さまとの間を、とりなす者とならせてください。

今日も、新型コロナウイルスによって、命を脅かされている人がいます。そのことに恐れを抱く、家族がいます。それは、どこかのだれかではなく、わたしたちの隣人、また家族であったりすらします。誰もが、自分の身の安全に、汲々としてしまったり、未知の脅威を前に、根拠のない楽観に逃げてしまったり、そういう弱さと隣り合わせに生きています。だから今こそわたしたちが、神の民として、地上の生涯はもちろん、その先にある永遠の命を知る者として、その平安に生き、これを伝えることができるようにしてください。

日常の生活、社会生活が乱れている人が、神の前にある、揺らぐことのない自分の価値を、見出すことができますように。わたしたち自身がまず、礼拝から始まる人生の価値軸を、生き抜くことができますように。イエスさまのお名前によって、お祈りします。アーメン。

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洗足木曜日、聖金曜日を経て、土曜日、イエスさまは墓に葬られた状態で、時を過ごされました。イエスさまもまた、わたしたちと同じ人として、甦りの朝を「待つ」という時を過ごされたのです。わたしたちもイースターの朝を待ちつつ、主の日の礼拝に備えたいと思います。

今年は予定通りの過ごし方を、イースターすら、こなすことができないことになりました。甦りの朝を覚えて、召天者の家族と共に過ごすことも、十字架と復活の主が、わたしたちのためにご自身を提供してくださっているのを、身をもって知る聖餐にあずかることも、今年は叶いません。

しかし、残されている恵みが、どんなときにも奪われない恵みが、わたしたちの前に、浮かび上がってきます。罪人とされて、いわれなき敵意を受けて死なれた主が、しかし、この者こそが義とされたただ一人の人であるとされて、弟子たちの前に再び姿を現された。その喜ばしき知らせは、今年も告げ知らされるのです。

喜びの知らせの告げ知らされるのを、心待ちにして、4月12日を迎えましょう。


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