万有引力は少し趣向を変えて、歴史をなぞりながら説明していこうと思います。
紀元前のギリシア人は人間が宇宙の中心にいると考えていました。そのため、人の住むこの地球もまた宇宙の中心にあると考えていました。この太陽や月などが地球の周りを回っている考えを天動説と言います。今では、地球が太陽の周りを回っていることは周知の事実ですが、500年くらい前までは天動説が主流でした。ちなみに、地球が回っている説を地動説と言います。
古代ギリシア人は円や球こそが完全な形だと信じており、地球や太陽などの星はすべて球、その軌道も完全な円で描いていました。また、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に回っていることにしました。
現在、太陽の周りを回っている星(水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星)は惑星と呼ばれています。惑星の「惑」という字は、地球から見た水星や金星が同じ方向に進み続けるのではなく、進んだり戻ったりまるで惑うように進むことから名前がつけられています。古代ギリシア人も惑星を上図のように配置したのはよかったのですが、このモデルだと惑星の運動を正しく説明することができませんでした。
紀元後150年頃、そこに一人の天文学者が現れます。彼の名をプトレマイオス・クラウディオスといい、当時観測できた星の動きを正確に表す理論を導きました。また、キリスト教も天動説を押しており、キリスト教公認の理論となりました。その結果、異論を唱えるものは死刑に処される時代を迎えることになります。プトレマイオスは単純な円運動をしているのではなく、下図ような動きをしてるためだと主張しました。また、そのことを「アルマゲスト」という本にまとめました。
それから約1400年後、ポーランドの物理学者ニコラウス・コペルニクスは一冊の本を著作します。その本のタイトルを「天球の回転について」といい、内容は地動説について述べているものでした。しかし、コペルニクスは罰せられることはありませんでした。理由は2つあり、1つは本の序文に「これはあくまで計算の利便性のための一種の思考実験であり、これが現実の宇宙の姿を現しているのではない」という文章が記述されていたということ、もう1つは本が校正刷りされた日に脳卒中で亡くなったということです。序文の内容はコペルニクスが書いたものではなく、編集者の一人がコペルニクスの身を案じて書き入れたものだそうです。そのおかげで禁書処分を受けることなく本を出版することができました。
このコペルニクスの論述が大きな賛同を得られることはありませんでした。それほど、天動説の考えが強固だったのです。また、コペルニクスの地動説が間違っていることを証明しようとする人もたくさん現れました。その一人に、デンマークの天文学者ティコ・ブラーエがいます。ティコは、プトレマイオスのモデルをうまく変形すれば天動説の正しさが証明できると考えていました。そのために、彼は膨大な観測データを誰よりも正確に記録することから始めます。ティコの素晴らしかったところは誤差を全て修正しようとしたところです。器械誤差、人為的誤差、自然現象による誤差を全て修正しており、現在の技術と変わらないほどの正確な値を叩き出しました。また、新しい器具の開発も行っており、その正確さへのこだわりによって発注先の加工技術が1世紀進んだともいわれています。皮肉なことにティコの研究は、やればやるほど天動説が間違っていることを浮き彫りにするばかりでした。
ティコの観測データを受け継いだのが弟子の一人であったヨハネス・ケプラーです。ケプラーはドイツの天文学者であり、天動説では惑星の運動を説明することができないと早々に悟っていました。そこで、師の遺した観測データを元に新しいモデルの構築に乗り出しました。ケプラーは数ヶ月かけて計算した理論が観測データと少しでもずれているとその理論を破り捨てていました。それほどまでにティコの観測データを信用していました。その結果、5年の歳月を経て以下の結論を導き出しました。
①ケプラーの第一法則:「惑星は太陽を一つの焦点とする楕円状を運動する。」
地動説こそが正しく、地球を含む惑星は太陽を中心に楕円を描くように回転運動していることを示しています。
②ケプラーの第二法則:「惑星と太陽を結ぶ線分が一定時間に通過する面積は一定である。」
惑星が太陽に近いとき速度は大きく、遠いとき速度は小さくなり、また、そのときにできる面積は常に一定であるということ示しています。ケプラーの第二法則は面積速度一定の法則とも呼ばれており、角運動量保存の法則を表しています。角運動量保存の法則についてはまた別ページで解説するとします。
③ケプラーの第三法則:「惑星の公転周期Tの2乗は、軌道楕円の長径aの3乗に比例する。」
惑星の軌道は楕円を描くために長径と短径が存在しています。この長径を3乗したものが公転周期の2乗に比例するということです。
このとき、kは比例定数 [s2/m3]、aは半長軸の長さ [m] です。
この法則は天動説のどのモデルよりも正確に惑星の運動を捉えていました。その結果、地動説こそが正しいと唱えるものが出てくるようになります。その一人が、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者であるガリレオ・ガリレイです。ガリレオは、精度のいい望遠鏡を作り出すことにより、それまで神の世界であった月が実は凹凸まみれのいびつな球であることを発見し、カトリック教会から大バッシングを受けます。しかし、ガリレオ・ガリレイも処分されることはありませんでした。というのも、彼が教鞭を振るっていたヴェネチアはカトリック教会から破門を受けていた地域であり、ヴェネチアがカトリック教会からの勧告を無視し続けていたからです。ガリレオはその他にも、太陽には黒点があること、金星は月と同じように満ち欠けすること、木星には4つの衛星(イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト)が存在することなどを発見し、やはり天動説は間違っていると確信していくようになります。そして、ガリレオは「天文対話」という本を出版します。「天文対話」は地動説がいかに理論的で、天動説がいかに愚かな考えかを説いた本であり、一般市民も読むことが出来るようラテン語ではなくイタリア語で書かれていました。このことはカトリック教会の逆鱗に触れ、その結果「天文対話」や「天球の回転について」は禁書処分を受け、ガリレオは異端審問にかけられます。審問のたびに見せられる拷問器具にさすがのガリレオも参ってしまい、公の場で地動説は信じていませんと主張することになりました。帰り道、「それでも地球は回っている」と叫んだという逸話が残っていますが、多分嘘です。この事件は多くの人に知れ渡り、逆に地動説の影響力がかなり強まることになりました。
奇しくもガリレオが没した年のクリスマスに一人の男の子がイングランドのグランサムにて生を受けます。未熟児として生まれ、産婆に長くは持たないだろうと言われた子供の名前はアイザック・ニュートンです。今までの偉人たちは法則を見つけ出すことはできたのですが、何故そうなるのかについて分からず保留されてきたままでした。そこで、ニュートンは自らが見つけたニュートンの運動法則を宇宙にも当てはめてみようと考えました。ニュートンの運動法則については1.4 運動方程式で述べていますので、こちらを参照して下さい。
ニュートンが産まれる以前から物体には引力が働いていると考えられていました。引力とは二つの物体が互いに引きあう力のことであり、ケプラーは月の引力によって潮の満ち引きができるのだと唱えました。ニュートンのすごいところは、リンゴと月は同じ引力を受けているにも関わらず、何故リンゴは地球に落ちてきて、月は落ちてこないのだろうかと考えたことです。兎にも角にも、引力を数式で証明しないことには始まりませんので、ニュートンはケプラーの第三法則と向心力から引力の式を導出しました。
この式は地球がリンゴや月に及ぼす引力を表わしているのですが、作用・反作用の法則によりリンゴや月が地球に及ぼす引力も同じ力でなければいけません。しかし、この式では質量が一つしかないために同じ力にはなりません。そこで次のように改良を加えました。
このとき、Gは万有引力定数 [N・m2/kg2] です。
この式は我々が住む地球と神様が作った宇宙が同じ数式で表わされていることから、万有引力の法則と呼ばれるようになりました。ニュートンはまず万有引力の法則を地球とリンゴに当てはめてみました。地球とリンゴは同じ力で引き合っているのですが、地球は質量が大きいためにそのくらいの力ではびくとも動きません。一方、リンゴは質量が小さいために地球に引き寄せられるよう落下します。このことから、重力の正体は引力であることが分かります。このとき注意してほしいのが、万有引力=重力ではないということです。それは、リンゴは人間と同じように地球の自転による影響、すなわち、わずかながらの遠心力を受けています。そのため、重力は正しく解釈すると万有引力と遠心力の合力であるといえます。
上式から、距離が長くなると引力は小さくなり、遠心力は大きくなることが伺えます。そのため、重力加速度は距離が長くなるほど小さくなります。赤道付近は、地球の半径が最も大きい場所でかつ角度がないので、重力加速度が最も小さくなる場所といえます。
では、万有引力の法則を地球と月に当てはめるとどうなるのでしょうか。実は、月にかかる引力は向心力の働きをしているのです。そのために、月は地球に落ちてこずに周りを回り続けているのです。
ニュートンは偏屈な考えの持ち主であったため、これらの功績をあまり発表しようとはしませんでした。しかし、ニュートンの友人であり良き理解者であったエドモンド・ハレーの勧めにより一冊の本を作り上げます。この本を「プリンキピア」といい、ニュートン力学の礎を築き上げることになります。また、この本の影響力は絶大なるもので、当時ほとんどの知識人が天動説は誤りであったと認めるほどでした。
友人ハレーも地動説の普及活動を行いました。それは、1745年にイギリスで皆既日食(月によって太陽が覆い隠されてしまう現象)が起きることを2週間前に予言し、街中にビラを配ったのです。その結果、皆既日食は誰の目にも明らかな現代科学の黎明を告げることとなりました。ちなみに、ハレーはイギリスの天文学者であり、ハレー彗星を発見したことで有名です。
プトレマイオスに始まり、コペルニクス、ティコ、ケプラー、ガリレオ、そしてニュートンとハレーによって天動説は地動説へと移り変わっていきました。現在、私たちが正しい知識を勉強できているのは彼らの知的探求心のおかげなのです。