半世紀ぶりの仙巌園

明治日本の産業革命遺産の舞台となった磯地区

子供達から湯宿宿泊券(金婚記念)をプレゼントされたので,小旅に出た.極寒の中,行くとすれば南の方角しかない,鹿児島市はNHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」ブームで盛り上がっていることもあり,指宿に宿をとった.1月17日,二十数年ぶりの鹿児島への道中は様変わりしていた.熊本以南の新幹線に乗るのは今回が初めてであったが,八代を過ぎると69%がトンネルとのこと,海岸線を通る在来線のイメージとはまったく異なるものであった.旧西鹿児島駅は鹿児島中央駅となり九州新幹線の終着駅にふさわしい佇まいを呈していた.指宿線は観光特急「指宿のたまて箱」を利用したが,「おもてなし作戦」にはビックリした.中でも,沿線にある市役所の職員が昼休みを利用して,揃いのハッピを着て,旗を振っている様は熊本の「くまモン」を利用した「おもてなし」と似たようなものではあるが.何となく「涙ぐましい努力」と感じたというのが正直なところである.参考画像(市職員の歓迎)動画

17,18日は前日とはうって変わって20℃を超える陽気のため,防寒着がお荷物になった.


特急指宿たまて箱3号車窓から見た鹿児島湾(指宿まで10km地点,31°17'49.5"N 130°35'32.7"E)

指宿駅前の歓迎門「竜宮伝説の指宿へようこそ」

指宿で見たイプシロンロケット3号機の航跡と夜光雲

詳細は前回のブログで独立して紹介した.

次の日は,鹿児島市へ戻り,50年ぶりに磯庭園へ行ってみた.市内の主な観光スポットを一巡する乗り降り自由の「まち巡りバス」を利用した.途中.平成30年1月11日にリニューアルオープンした維新ふるさと館に寄ってみた.

幕末・維新の偉人を生んだ加治屋町

維新ふるさと館は,幕末から明治維新に活躍した西郷隆盛や大久保利通などの出身地である加治屋町に建てられている(両脇に,西郷隆盛誕生地と大久保利通誕生地の碑がある).歴史小説家の司馬遼太郎は,加治屋町について「 いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである。 」と述べている.薩摩藩独自の青少年教育「郷中教育」を子ども達に分かりやすく伝えるため,9年ぶりに1億1500万円かけてリニューアルしたとのことである.幕末の薩摩と明治維新の全てが一目で分かる歴史学習施設である.展示資料は大河ドラマ「篤姫」のセット以外は撮影禁止であった.

維新ふるさと館に通じる橋から見た桜島と甲突川歴史ロード維新ふるさとの道は「明治維新150年」,「西郷どん 大河ドラマ館」の旗で埋め尽くされていた.(撮影ポイント 31°35'03.0"N 130°32'52.0"E)

仙巌園(磯庭園)

「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が,第39回世界遺産委員会において「世界遺産一覧表」へ記載されたのに伴い,仙巌園内にある反射炉跡を中心とした『旧集成館』および『旧集成館機械工場(現尚古集成館 本館)』についても,世界遺産になった.その中で『旧集成館』には,仙巌園の一部も含まれており,大名庭園として,初めて世界遺産に登録された[仙巌園ホームページ(島津興業)].

50年前,家内の案内で初めて訪れた時は,お殿様の別荘の庭から桜島を見物したという印象が強く残っているが,今回はその位置付けを世界文化遺産として捉えざるを得なかった.

Googleの航空写真を利用(千尋巌の位置を追加)

錫門から桜島を望む場所に.奇妙な造形物がある.大石灯籠に乗った逆さ獅子(地面に這いつくばり下半身は空中に残った飛び獅子)である.最初に見た時は何らかの動物が立ち上がって桜島の方に顔を向けているのかと思ったが,実際は尻を向けた獅子であった.

岩壁に刻まれた千尋巌(長さ11m)の文字,文化11(1814)年 第27代島津斉興によって造られた.手前の樹木の成長で見難くなっている.

水天渕発電所記念碑

案内板の説明:水天渕発電所は明治40年(1907年)に,島津家が経営していた山ヶ野金山(横川町・薩摩町)に電力を供給するため,姶良郡(現霧島市)隼人町に建てられた発電所です.ヨーロッパ風の石造りの建物は当時としては珍しく,昭和58年(1983年)まで使用されていました.その後,九州電力株式会社のご好意により,ここに記念碑として譲りうけたものです.

当然のことながら,以前訪れた時はこの記念碑は存在しなかった.説明文の「山ヶ野金山」を見て,びっくりした.横川町山ヶ野は家内の先祖が代々住み,金山関連のなりわいをしていたところであり,今も親類が住んでいる.

発電所旧館に残っていた島津家の家紋(丸に十文字)

電気史によると,1882年(明治15年)に東京・銀座にアーク灯が灯され,市民が初めて電灯を見たと記されている.同年,米国では世界初の水力発電がニューヨークで始まっている.一方,時を同じくして,幕末に薩摩藩主島津斉彬が作った「集成館工場」では,自家発電用のダムを作り.隣接する島津家の別邸(磯御殿)に明かりを灯していたという.25年後の明治40年(1907年)には島津家が経営していた山ヶ野金山に電力を供給するため「水天渕発電所」を建造している.その間,水力発電の技術を培っていたものと考えられる.明治41年に旧薩摩藩主の島津家が建設し,今も現役として稼働しているものとして,大田発電所(鹿児島県日置市伊集院町)がある.

島津斉彬は,西欧諸国のアジア進出に対応するため,いち早く富国強兵策を実行した.それらの事業の中心となったのが,慶応元年(1865年)に竣工した「集成館」の工場群である.

斉彬が試みた事業は,造船.製鉄,造砲,蒸気機関,紡績,電気通信,陶磁器,ガラスの製造(薩摩切子),洋式銃・火薬・雷管の製造,アルコールの製造,出版(金属活字製造),ガス灯,水車動力の改良,農機具・農産物の改良増産,洋式製油・製塩,製薬,写真など多岐にわたっていて,これらの工場群では千名を越す人達が働いていたと伝えられている.

集成館の機械工場は,現在重要文化財となっており,島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」として親しまれている.

帰路,鹿児島中央駅のエスカレータを上りながら桜島を見たら,ちょうど噴火したところだった(15時17分の噴火,噴煙の高さは1500m 南日本新聞).勤王の志士福岡藩士・平野国臣が薩摩を訪れたときの詠歌「わが胸の 燃ゆる思いにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」を思い出した.

追記

50年の間に,磯山へのロープウエイは老朽化[1959(昭和34)年 ー 1993(平成5)年]のため廃止され,売店やレストランが増えていた.『仙巌園ブランドショップ』,「土産処 島津のれん」,「薩摩のれん」,「島津薩摩切子ギャラリーショップ 磯工芸館」,「尚古集成館ミュージアムショップ」,「御膳所 桜華亭」,「 レストラン松風軒」,「磯名物ぢゃんぼ餅」,「仙巌園茶寮」等など

詳細は,逆さ獅子の全体像を紹介したブログ「爺・散歩~時空への戯言~」をご覧ください.