fragile cradle


 ーー潤の母親が死んだ。


 そう聞いたのは、俺が覚醒世界に来て数日後のことだった。茅と浅碁に連れられて、浅碁のレストランまで連れてこられた潤の笑顔は、ひび割れた小瓶から溢れる星砂のように、脆くキラキラと輝いていた。




fragile cradle




 ぱりん、と音を立てて食器が落下し、砕ける。


「あ、ごめんね。落としちゃった〜。」


 そう困ったように笑う潤は、数日前の痛々しい笑顔が嘘のようにいつも通りだ。厨房の奥からは浅碁が「大丈夫か〜?」と声を掛け、茅は潤の指が切れたのを気にしてか絆創膏と消毒液を取り出し治療を施してやっている。

 休日の夕食時を過ぎた頃。定期的に開催されるこの食事会の片付けをしながら、何気ない会話を楽しんでいた。


「そういや、エスケルは今どうなってるんだ?上層部の司令塔を失ったとなっちゃ、多少の混乱もあったんじゃねえか?」


 浅碁が食後の紅茶を並べながら、おどけたように茅を見ると、それはそれは大きな溜息が聞こえた。


「はあああぁ……当然忙しいに決まってるだろう。内部は混乱も混乱、社内の体制から何から見直す所が沢山あるし、不作を訴えている土地が以前より増加していってるからね。仕事は絶えない。」


「わ〜、聞いてるだけで大変そうだね…。」


 そんな話を聞きながら、紅茶を一口すする。その香りにハッとして浅碁を見ると、浅碁はわざとらしくウインクしてみせた。……ローズティーのようだ。横ではハルが幸せそうに砂糖入りのそれを喉に流し込んでいる。


 穏やかな時間。そう、穏やかな時間だ。その筈なのに、胸は何故かざわついて落ち着かなかった。



「……あ、そろそろ帰らないと〜。」



 不意に、潤が時計を見て立ち上がる。……もう夜の10時か。


「一人で大丈夫か?」


「も〜、茅ってば、俺子供じゃないんだから大丈夫だよ〜。」


 それに俺こう見えて強いんだよ〜?と言って拳を作る潤に、茅は「いやでも最近治安が悪いからな……。」と渋っている。素直じゃない。本当は先日のこともあって、茅なりに気にかけているのだろう。


「大丈夫大丈夫〜!それじゃあみんなまた一緒にご飯食べようね〜。」


 潤はそう言うと、にこにこと笑いながら手を振り、部屋を立ち去っていった。


「心配だな……。なんだか空元気のように見えた。」


 茅は入口の方をじっと見つめ、気がかりだと言わんばかりの表情をしていた。その気持ちを汲んでか、浅碁が茅の肩に手を置く。そして俺の方に視線を向けてこう言ってきた。


「そうだ、ピーター。潤もまだ遠くまで行っていないだろうし、追いかけて駅まで送ってやったらどうだ?」


「な、何で俺が……。茅が行ってきたらいいんじゃないか。気にしてるみたいだし。」


「俺様を欺けると思ったのか?夕食中、時折心配そうに潤の方を見ていただろう。」


 訝し気に見返せば、「食ってる様子見りゃ分かる。」と続けた浅碁に、心を見透かされているような居心地の悪さを感じる。そんなに態度に出ていただろうか。


「何だ、ピーターも気になっていたんじゃないか。僕は残りの食器片づけておくから行ってやってくれ。きっと一緒に話しながら帰ってくれる人がいた方が嬉しいだろうしな。」


 少しニヤニヤとした含みのある笑みの茅によってトントン拍子に話が進み、押し出されるようにしてレストランを出る。確か駅は此方の方角だったか……。そう考えながら近道である路地裏へ歩を進めると、案外すぐにその姿は見つかった。


「潤!ここにいた、のか……。」



 ーーきらり。


 何か小さなものが月明かりに照らされ、反射する。驚いたように振り返り、見開かれたその大きな瞳には、エメラルドグリーンの宝玉が嵌め込まれ、透明な雫が頬を伝っていた。


「あ、あれ?どうしたのピーター。オレ、忘れ物とかしちゃった?」


 慌てて目を擦り、誤魔化すように形作られたその笑顔は、誰がどう見ても不格好で、ぐちゃぐちゃで。バラバラに砕け散った破片を無理やりガムテープで修復したガラス皿のように歪だった。そしてその顔が、俺はどうしようもなく綺麗だと思った。


「……泣いていたのか。」


 その言葉にびくりと小さく震え、必死に取り繕おうとするも、ダムが決壊してしまったかのように溢れる涙が止まることは無かった。


「あ、ご、ごめんね。おかしいなぁ。さっきまで皆と沢山お話できて、楽しくて、幸せで仕方なかったはずなのに。ゴミでも入っちゃったのかなぁ。」


「……母親のことか。」


 思いのほか上ずった声が出た。脈が速い。急いている?何に。


 自分の感情に整理がつかないまま、とめどなく流れ続けるそれを手袋越しで拭う。潤はといえばいよいよ誤魔化しきれないと思ったのか小さくこくりと頷いた。その姿を見て、俺は胸に巣食うどす黒い何かに突き動かされるように潤の手をとり、駅とは逆方向に歩き出していた。


「えっえっ、ピーター?え、駅こっちじゃないよぉ。ど、どこに行くの?」


 それには答えず、近場のホテルのロビーへ入り、受付の人間に手早く魅惑をかけ、カギを受け取る。そして受け取った鍵の番号が書かれた部屋の扉を開けると潤をベットの方へ放り、そのまま押し倒した。突然のことに潤は目を見開き、戸惑っている様子だ。


「ピ、ピーター。どうしたの。こ、こんな……。そ、それにさっき!ダメだよお、受付の人にあんなことしちゃ……んっ!?」


 抵抗しようとする腕を抑え、唇を奪う。柔らかな唇を割り開くように舌をねじ込み、怯えたように奥に引っ込んだ潤のものを絡めとった。


 ーー甘い。


 それは、紅茶に入っていた砂糖の味だったのかもしれないし、錯覚だったのかもしれない。しかし、確かに甘い。毒のある花の蜜を吸ったときのような、背徳感のある味がした。

 見開かれた瞳を見据え、無防備な口内に少しずつ抵抗ができないよう唾液とともに自身の力を送り込む。初めは驚ろきで強張っていた潤の身体も徐々に力が抜け、腕はだらりとベットに重さが預けられた。そうして数分に渡り口腔を蹂躙した頃には、潤の瞳からは光が消え、小さく声を漏らすことしかできなくなっていた。


「ぁ、ピー…ター……?」


「泣くほど辛いなら、母親のことなんて忘れてしまえばいい。できるな?」


 赤色の髪を優しく撫ぜ、反対側の耳を塞ぎながら低く甘く、言葉を吹き込む。潤はぼんやりとしたまま、「お母さんのことを……忘れる……。」と言葉を反芻し、その瞳から一筋雫を零した。その雫を舐めとり、できる限り丁寧に、割れ物でも扱うような手つきで頬を手の甲で擽る。そして毒を孕んだ声で優しく、優しく。彼の一番欲しているであろう言葉を紡いだ。



「ほら、俺が’’愛’’してやるから。ーー’’愛’’してるぜ、潤。」


  その時胸で渦巻いていた真っ黒で醜悪な感情は、支配欲か、独占欲か、愛か。それとも俺という化け物の本性か。そんなことはもはやどうでも良かった。



 閉じ込めてしまおう。この脆く甘い揺り籠に。俺だけの可愛い「家族」として。



ーーーーーーーーーーーーーー


「ん、ぁ、あ……あ……」


 断続的に、ぐちゅりぐちゅりと、水音のようなものが聞こえる。ぼんやりとした視界の中、おれよりも少し細くて、すらりと長い指が下腹部のものを上下に擦り上げ、時折先端を艶かしく這うのが見えた。何でかは分からないけど、その度にからだは痙攣して、声が漏れる。

 打ち上げられた魚みたいに、身体の自由が効かなくて、こわいことのはずなのに。背後から抱きしめられているような体温と、時折聞こえる優しい「声」になんだか嬉しくなって、わずかに残った力を振り絞って胸に頬を擦り寄せる。すると、指が胸の突起をくるくると撫でた。パチパチと痺れるような刺激が胸の辺りを対流しているようで、もどかしくて、心地いい。


「ぁ、!?ぁ、はぅ……あ……」


「……素直に甘えられて偉いな、潤。良い子だ。」


 そうして顎を掴まれ、再び唇を奪われる。情愛に乾き切った身体は、砂漠の中で水を得たように、満たされ、もっと、もっとと貪欲に与えられるそれを求めた。

 プツリと、2人の間に銀糸が紡がれ、途切れる。視界に映るのは、どこか貪婪さを孕んだ金。そして職人が一つ一つ丁寧に誂えたように精巧につくられた、どこまでも美しい顔だった。


「ぁ……ピーター……。だめ、だめ、だよぉ……こんなこと、しちゃ……。」


「駄目、どうして駄目なんだ?俺たちは二人だけの”家族”だろう?おかしなことか?こうして抱きしめて触れ合うのは。」



 ピーターの瞳が細められ、柔らかく微笑まれる。家族……。家族。そうだっけ。オレとピーターは家族?でもオレは、家族には愛されてなくて、それで。

 そこまで考えたところで、ピーターが耳元で低く何かを呟く。すると全身に鳥肌が立つほど、ふわふわとして幸せな気持ちが溢れて、唇から発しようとした言の葉がどろりと蜜のようにとろけてしまった。不意に、ピーターの首筋から爽やかで甘い花の香りがする。香水だろうか。不思議なその香りに酔った蝶のように、そこへ鼻を擦り付ける。するとピーターはオレのことを抱きすくめ、甘やかすように撫でてくれた。


……あったかい。


 とろんとした暖かな温もりに浸っていると、ズプリと少し骨張って長いものが自分の中に入り込んでくる感覚に襲われる。何が起きてしまったのか認識できず、恐怖からかシーツに爪を立てて強く握った。するとピーターは柔らかく解きほぐすようにその手を丁寧に取り、軽く吸い付き、赤い花を散らす。花弁から広がる甘い痺れ。そこから侵食した花の毒は甘やかな波となって全身に行き渡り、遂には恐怖すら快楽へ書き換えてしまった。


「ぁ……?」


 決定的に何かが壊れてしまった感覚。そして目の前の捕食者にとって都合の良い贄として完成してしまった身体。不思議と多幸感に満ち満ちていた。


 ピーターは指でオレの中を慎重に弄り、耳元で小さく息を吐く。その刺激すら喜ばしいものに思えて、オレの身体はバグってしまったように打ち震える。


「……流石にキツいか。潤、今から潤と俺は一つになるんだ。理解できるか?」


「っあ……ひとつ、ひとつに……?」


「ああ、そうだ。……一つになったらずっと一緒にいられる。もう寂しくないだろう?それとも相手が俺じゃあ嫌か?」



 ーーずっと、いっしょ。



 その言葉はぐるぐると脳内で反芻され、シナプスを通じて連鎖的にぶちまけられる。麻薬となったそれは、思考を鈍らせ暴力的なまでに欲望を増幅させた。ずっと、ずっと。一緒に過ごして欲しかった。そばにいて欲しかった。ただ同じ部屋で家族皆が揃って座って、何気ない会話をして。ごく普通の家族のようにご飯を食べて、笑って、喧嘩をして。そんな日々を求めただけだったのに。


 父親はオレたちを捨てて、帰ってこなかった。


 母親はオレを残して、何処か遠くへ行ってしまった。


 ならオレを愛してくれる人はどこにいるんだろう。


 雪の降る真っ白い空間の中でポツンと独り、泣きじゃくる赤髪の少年を、冷ややかな目で他人事のように見下ろす。身体は五臓が締め付けられるほど芯まで冷え切り、足が地に縫いとめられたように動かない。ああオレ、このままひとり凍りついて死んじゃうのかな。そうして全てを諦めたように目を瞑ると、不意に背後から手を取られ抱きすくめられる。指先から少しずつ伝導する熱が、熱くて、あつくて、痛い。浮かされてしまったような心地になりながら虚な目で背後を見上げれば、夜の月光を閉じ込めたような双玉。見知った綺麗な顔があった。


「こんな所にいたら寒いだろう?……さあ、行こうか。」


 熱い吐息。砂糖をグツグツに煮詰めたような甘やかな声。それらに誘因されるように、身を預ける。


 振り返ればそこに、啜り泣くだけの子供はいなくなっていた。




「ぁ……ピーターが、いい。ピーター、ピーター、あいして、愛して、おねが、ぁ……ぅ……ッ。」


 込み上げてきたものが抑えられず、ぼろぼろと際限なく零れ落ちる。否応なしに感情を剥き出しにされ、本能のまま情愛を欲する身体は、自由の効かない腕で必死にピーターに縋りついた。瞬間、眼前に映るピーターの口元が弧を描き、哂う。その時のピーターの顔は、純粋ゆえに小鳥の翼を捥ぎ、自分なしでは生きられなくしてしまうような幼児のように、独善的で残酷で。それでも喜色に富んで満たされた表情をしていた。


「ああ、潤が望むならいくらでも。さあ、力を抜いて……俺を受け入れてみようか。今の潤にならできる筈だ。ほら……。」


 太腿を抱え上げられ、内股にキスを落とした後、ゆっくりと熱いものが蕾にあてがわれる。内部はまるでそれによって与えられる質量と快楽を知っているかのように吸い付き、性器からはとろりと先走りが溢れた。その様子を見てピーターは「かわいい」「良い子だ」と額に口付けると、その期待に応えるように、ずぷん、と。一気に奥まで貫いた。


「ぁ、ひ、あぁああぁ……っ!!」

 

 心が、身体が、あらゆる細胞が、与えられた質量に歓喜し、痙攣する。愛を与えられたこと、褒めてもらえること、求められること。それらの全てが媚薬となって全身に行き渡る。

 本来男を受け入れる場所でない排泄器官は、一日にして貪欲な肉壺に作り替えられ、涎を零しながら媚びるようにピーターの剛直を締め付けた。


「っ、ははっ……何だ潤、そんなに俺に愛して欲しかったのか?こんなに夢中で締め付けて……。離れたくないって強請ってるみたいだな?」


「ぅ……っんぁ……ほしい、好き、ピーター、好きだからぁ……おねが、一緒、一緒がいい……もう寂しいの、やだ、やだぁ……。」


 濁流のように押し寄せる孤独への恐怖と、切望し続けたものが手に入るかもしれないという幸福感。それらの間で板挟みになって、愛を強請る。するとピーターはより一層毒を孕んだ笑みを浮かべて溢れる涙を拭い、指の間に指を重ねるようにして、手を握る。そして満足そうに一言、「愛してる」と言って額に口付けた。



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「えへへ、今日も浅碁さんの料理はおいしかったなぁ~。」


「お~、そりゃあ良かった。お粗末さま。」


 テーブルに並べられたイタリアン料理を平らげ、潤が幸せそうに微笑む。その表情には数日前まで見え隠れしていた陰りはなく、心から楽しんでいることが伝わってくる。その様子を見て茅も安心したのか、どこか微笑まし気な表情だ。


「……あっ、そうだ。今日も少し早く帰らなきゃいけないんだった!」


 紅茶を飲み、ハッとした表情をして慌てて片づけをする潤に、茅が不思議そうに問いかける。


「なんだ、何か予定があるのか?それともやはりまだーー。」


「まだ?」


「……いや、何でもない。けど辛いことがあったらすぐに僕たちに相談するんだぞ。これでも……その、僕たちはあの困難を搔い潜った仲間、なんだからな。」


「茅ぁ……。」


「な、なんだそのキラキラした目は。」


「茅がオレのこと心配してくれてるんだなって思ったら嬉しくて……。ありがと~!」


 飛びつくように潤が茅に背後から抱きつくと、茅が「離れろ!」と言って何時ものやり取りが始まる。浅碁が「やれやれ、俺様を忘れてもらっちゃ困るなあ?」とその輪に加わろうとし、茅が折れるところまでがルーティンだ。


 やがて潤は満足したのか荷物を持って手をブンブンと振りながら立ち去る。その間際、ちらりと此方に物欲し気な目線を送ってきた。


「浅碁、俺も少し外に出て買い物に行ってくる。」


「ん?ああ、分かった。あんまり遅くなるなよ~?」


 その言葉に「分かった。」と小さく返し、外に出るとそこでは潤がぼんやりと空を見上げ、壁に寄りかかっていた。そして俺の姿に気づくと、先程までの朗らかな印象とは異なる、闇を湛えたエメラルドの瞳が俺を捉え、花がほころぶような笑みが零れた。


「あ、ピーター!ピーターも何処か出かけるの?」


 その言葉には答えず、腕を掴んで強引に潤を抱き寄せる。そして耳元で甘露を煮詰めたような蠱惑的な声音でこう囁いた。


「……潤、今日もいい子に出来て偉いな。ーーさあ、ご褒美は何がいい?」