目木川の南にある高さ419mの篠向山(ささぶきやま)。旭川と目木川がつくった平野を広く一望できます。今から約400年前まで山城として使われていました。
私たちは篠向山の展望を良くし、老若男女が山を楽しみ、城址を大切に保存してゆこうと考えています。
地元だけでなく広く趣旨に賛同いただける多くの方に参加いただきたいと思っています。
定期的に道や要所の刈払いを行い、快適に篠向城址を散策できるようにしています。
令和5(2023)年度、令和6(2024)年度には道標と案内・解説を設置しました。
地元の小中学校などへの登山案内、音楽活動など歴史と文化の啓発に努めています。
講演会・見学会を開き、関連する山城群の跡を訪れ、篠向城との関係を発信しています。
令和7(2025)年8月10日 篠向城址賛歌(水本稲穂さん作詞、内野元嗣さん作曲)
令和7(2025)年7月10日 会報第7号を追加しました
令和6(2024)年12月12日 ホームページを運用開始しました
令和4(2022)年3月27日 会を発足しました
3月30日 講演会・見学会 (真庭いきいきテレビ)
篠向のロゴは岩垣正道さん作
旧出雲街道と旭川、目木川の合流点近くにある篠向城は、古くから交通の要衝として栄えた場所に位置しています。岡山県三大河川の一つである旭川と、目木川の合流点の近くにあり、古代には大庭郡衙があったと推定されています。
岡山県が2013年から7年間かけて実施した、県内の中世城館跡の総合調査について説明します。この調査は、県内の城や館、砦、陣地など1,423ヶ所を対象とし、実際に現地に赴いて調査することで、1,126の城館跡を確認しました。
調査結果: 県内で最も城が密集していたのは、備中高松城の周辺でした。これは、毛利氏と織田氏(宇喜多氏)が激しい戦闘を繰り広げたため、多くの陣城(戦闘のために築かれた城)が築かれたことを示しています。
山城は時代と共に変化してきました。
南北朝時代: 鎌倉幕府軍の騎馬隊に対抗するため、山に籠もる戦術が普及し始め、地形を活かした簡単な山城が築かれました。
戦国時代: 多くの兵を収容するため、尾根筋に曲輪(くるわ、兵を駐屯させる平坦地)を連ねる「連郭式」の山城が増加しました。津山市の矢櫃城などがその例です。
戦国末期: 織田信長の時代になると、曲輪はより平坦で方形になり、防御施設も充実しました。
篠向城は、3つの頂部に平坦面(本丸・二の丸・三の丸)を持つ「複郭式」の山城であり、同時に尾根に沿って曲輪が連なる「連郭式」の性格も併せ持っています。
発掘調査: 篠向城の発掘調査では、掘立柱建物や瓦が発見されており、瓦葺きの建物が存在した可能性が示唆されています。
城下町: 城の北側には「町」や「市」という地名が残っており、ある程度城下町として整備されていたと考えられます。
1579年から6年間続いた毛利氏と宇喜多氏の戦いは、美作国の山城に大きな影響を与えました。多くの山城がこの時期に改築されました。
真庭市の域: 現在の真庭市にかけて両軍の激戦地となり、大規模な陣地として築かれた陣山城のような「陣タイプ」の山城が複数存在しました。これに対し、高田城や月田城、そして篠向城は、より恒久的な「本格的な山城」として機能していたと推測されます。
篠向城は、その縄張り図から2つの異なる性格を持っていたと考えられています。
本拠地としての顔: 広い曲輪と多数の竪堀を備えた、防御力の高い本拠地でした。これは大庭郡を代表する山城であり、高田城や岩屋城のような本格的な山城に似ています。
陣としての顔: 城の西側に延びる曲輪群は、陣山城のような「陣タイプ」の山城に似ています。これは、毛利氏が東の津山方面へ進攻する際に、大軍を駐屯させる場所として利用した可能性を示唆しています。
このように、篠向城は本拠地と陣地という二つの顔を併せ持つ稀な山城だったと考えられています。
篠向城の構造
三の丸の畝状空堀群(竪堀)は防御力と視覚的威圧を兼ね備え、13条が存在します。
谷間や斜面を利用した独自の防御施設が特徴です。
天正七年以降の改造
宇喜多直家が毛利方から織田方に転じ、篠向城を「新普請(大改造)」しました。
三の丸や普門寺跡曲輪、畝状空堀群、ひな壇などの防御・動線整備を実施しました。
大軍勢に対応するため、攻防両面を意識した設計です。
普門寺跡曲輪とひな壇
曲輪は江原親次の祈願所で、防風・水利・居住性を兼ねる城の中心です。
ひな壇は12段の連続帯曲輪群で、防御用施設として敵の侵入を阻止します。
防御・居住・軍事動線の兼用例として全国的にも稀有な構造です。
篠向城の魅力
戦国山城は単純な類型ではなく、戦乱の経験や知恵で作られた工夫が各所に見られます。
水の手やひな壇などの遺構から、戦略・防御・居住・軍事動線を兼ねた高度な築城技術が確認できます。
「機能的なものは、美しい」という理念が体現されています。
注記
全国には戦国期に築かれた山城が約3万、江戸時代や明治維新後に破城・廃城が行われました。
篠向城は織田信長軍vs毛利軍の中国地方の戦いに関わる重要拠点です。
幸運を呼ぶハート形のカズラを探そう(本丸の下の方です)
会の読み方は「ささぶきやまをあいしじょうしをたいせつにするかい」です。
国土地理院の地図には「笹向山」と表記されています。篠向山どちらも読み方は「ささぶきやま」です。