令和7(2025)年8月10日 篠向城址賛歌
令和7(2025)年7月10日 会報第7号を追加しました
令和7(2025)年3月30日 講演会・見学会を開催しました
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令和4(2022)年3月27日 会を発足しました
3月30日 講演会・見学会 (真庭いきいきテレビ)
講演篠向城の構造的特徴について~天正七年からの毛利氏との戦い
篠向城の歴史と立地
篠向城は『太平記』にも登場する古城で、旭川や出雲街道が通る交通の要衝に位置。
戦国時代、城主の交代や改修が繰り返され、織田信長と毛利氏の東西勢力争いの舞台となった。
篠向城の構造
三の丸の畝状空堀群(竪堀)は防御力と視覚的威圧を兼ね備え、13条存在。
谷間や斜面を利用した独自の防御施設が特徴。
天正七年以降の改造
宇喜多直家が毛利方から織田方に転じ、篠向城を「新普請(大改造)」。
三の丸や普門寺跡曲輪、畝状空堀群、ひな壇などの防御・動線整備を実施。
大軍勢に対応するため、攻防両面を意識した設計。
普門寺跡曲輪とひな壇
曲輪は江原親次の祈願所で、防風・水利・居住性を兼ねる城の中心。
ひな壇は12段の連続帯曲輪群で、防御用施設として敵の侵入を阻止。
防御・居住・軍事動線の兼用例として全国的にも稀有な構造。
篠向城の魅力
戦国山城は単純な類型ではなく、戦乱の経験や知恵で作られた工夫が各所に見られる。
水の手やひな壇などの遺構から、戦略・防御・居住・軍事動線を兼ねた高度な築城技術が確認できる。
「機能的なものは、美しい」という理念が体現されている。
注記
全国には戦国期に築かれた山城が約3万、江戸時代や明治維新後に破城・廃城が行われた。
篠向城は織田信長軍vs毛利軍の中国地方の戦いに関わる重要拠点。
幸運を呼ぶハート形のカズラを探そう(本丸の下の方です)
フルート独奏(内野元嗣 演奏)
会の読み方は「ささぶきやまをあいしじょうしをたいせつにするかい」です。
国土地理院の地図には「笹向山」と表記されています、篠向山の読み方は「ささぶきやま」です。
今から約400年前まで山城である「篠向城」が使われていました。