🔳佐倉市 臼井城址周辺の散策(2017~25)
編/ さくら道26
編/ さくら道26
臼井は、江戸時代になると臼井城の廃城、佐倉道の整備と経路変更、宿場の移転と繁栄など大きく変容を遂げたため名所旧跡も多く「江戸時代の初期」と「江戸時代の中期以降」の二部に分けて散策を行うことにしました。
今回は、江戸時代初期の佐倉道(推定)や臼井城址周辺に焦点を当ててを散策を行いました。
慶長9年(1604年)酒井氏が高崎に転封となり、臼井城は再建されることがないまま廃城となりました。それを契機に、城割で円能坂が開かれ庶民の旧城郭内の立ち入り・通行・居住が許されるようになると旧家臣の帰農土着、旧城下町からの移住者、他所外部からの転入者により開拓が行われ、”村内”を中心に集落が形成されていきました。その頃の佐倉道も村内を通る経路に移っていったと推察されます。
臼井宿は、寛永11年(1634年)頃に田町で始まったといわれ万治年間(1658年~1660年)頃から人の往来が増え、次第に旅籠・人馬の継立場など駅宿としての設備が整い、臼井は「佐倉道」の宿場町へと変わって行きました。
大名宿の丁字路に建つ文化3年(1806年)の道標には、「右 成田みち」とあり、江戸時代中期以降の佐倉道(成田道)は臼井宿を通る経路に付け替わっている。
今回の散策はここより左折し、道標の「西 さくばみち」の方角に向かい、江戸時代初期の佐倉道の経路周辺を訪ねる。
真言宗豊山派寺院で、大和長谷寺末である。創建時期については不明ながら、同寺に安置の阿弥陀如来像は鎌倉時代後期の作とみられることや当寺の末寺21ヶ寺の中には松虫寺や結縁寺など上代に創建された古刹も含まれていることから、かなりの古刹であることが推察される。
春には庭園いっぱいに牡丹が咲き誇り、地元では臼井八ヶ寺(花)のひとつ「牡丹の寺」と呼ばれている。
不動明王を本尊とする。江戸時代には佐倉藩臼井領の祈願寺でもあった。
当寺には、明治36年から昭和17年まで私立明倫中学が開かれ、その間一千余名の卒業生を送り出し地域教育に貢献した。
星神社や八幡台に通じる道の追分に建てられている。「くすのき道標」とも呼ばれることから、楠木の大木で知られる八幡神社への道しるべとなっていたと推察される。
塔の正面に子安観音像が彫られ、左側面には「安政四丁巳(1857)」などの刻銘がある。
臼井山光照寺は、臼井氏の祖臼井常康の菩提寺として、ここ道場作に創建された。当初は真言宗寺院であったが、後に臼井佑胤が真教上人に帰依し時宗寺院に改宗し、臼井興胤が円応寺を創建するまで臼井氏の庇護を受けていたとされる。
臼井城落城後天正18年(1590)道場作から現在の小笹台に移転した。
実蔵院、道場作から三の丸へ通じる小径で当時の趣が感じられる。
星神社は臼井城三の丸の一角で城の鬼門にあたる場所に建てられている。鳥居の真正面には大手門へ通じる真っ直ぐな道が伸びている。
臼井常胤の三男臼井常康が、永久2年(1114)臼井築城の際に鬼門にあたるこの地に千葉一族が尊崇する妙見神を祀り創建したと伝わる。
文明11年(1479)関東管領扇谷上杉方の江戸城主太田道灌は1万の兵を率いて臼井城を攻め、籠城する臼井城主・俊胤は足利方の千葉孝胤の援軍を得て激しい戦いが繰り広げられた。この激戦の末、上杉方は臼井城を落城させたものの、道灌の弟太田図書助資忠を初め53名が討死した。
太田図書はこの三の丸跡の墓に葬られているとされる。
この神社の由緒はよくわかっていない。地元の人から学業の神として信仰されている。
圓應寺の参道に新しい六地蔵が並び立っている。
圓應寺の広い境内には様々な樹木が植えられ季節ごとに変化する景色を楽しませてくれる。
元禄年間に、当寺から眺望できる印旛沼周辺の中で美しい八ヶ所を境地として選定した「臼井八景」は現代に於いても愛され続けている。
本堂の左手前に樹木で覆われた鐘楼があり、春は桜、秋は紅葉で彩られる。
臼井氏の中興の祖臼井興胤が暦応元年(1338)に創建した臨済宗寺院で、以後臼井氏の菩提寺として尊崇された。寺域には臼井氏歴代の墓所がある。
臼井興胤は「仏国禅師の撫育・仏真禅師の扶助によるもの」として鎌倉建長寺で受けた厚恩に報いるため当寺を創建し、さらに次男道安を当寺二世にして末寺を増やすことにより教勢と政治勢力の拡大を図っている。
天正19年(1591)に徳川家康から寺領20石の御朱印状を受領している。当寺は文禄2年(1593)臼井城とともに焼失したが、その後再建された。
境内の大きな樹木の木漏れ日に輝く苔の絨毯が美しい。
寺域には臼井家の忠臣岩戸五郎胤安の墓もあります。
【岩戸五郎に纏わる伝説】臼井家惣領臼井佑胤の家督を継いだ幼い竹若丸(3歳、後の興胤)の後見を託された志津次郎胤氏が、自身が惣領になるため竹若丸殺害を企んでいることを乳母阿辰から知った岩戸胤安は、密かに竹若丸を臼井城から脱出させ、鎌倉の建長寺に送り身を預けたという。
そのことを知った志津胤氏は岩戸城を攻め岩戸胤安親子は討死を遂げたと伝わる。
臼井八景は僧侶宋的(円応寺24世住職・玄海)と穏士・臼井信齋(臼井氏第20代、諱は秀胤)が北宋の瀟湘八景に習って元禄11年(1698)円応寺から眺望できる印旛沼周辺の景勝八ヶ所を境地として選定した。当寺に宋的、信齋が臼井八景について想いを詠んだ八景詩が残されている。
円応寺から臼井城の要害に造られた急な階段を登っていくと広く開けた本丸に出る。
臼井氏の始祖臼井常康が臼井に居を構え、その後臼井氏の中興の祖興胤の代に、この城の基礎がおかれたとされる。
現在の遺構は15世紀以降のものと考えられるが、城跡は本丸、二の丸を中心として、空堀、土塁等の遺構をよく残している。
天正18年(1590)、小田原落城により、千葉氏とともに滅びた。 以後、酒井家次三万石の居城となって慶長9年(1604)年の転封まで使用された。
比高18mの台地上に築かれた臼井城からは遠く印旛沼が見渡せる。当時水運は経済・軍事的に重要な交通手段であり、この地は周りに湖沼や河川があり恵まれた立地であったことが分かる。
戦国時代の末期には原氏が城主だったが、主郭部の外に外郭部があり、その周辺に支城や砦が囲む「惣構」が特徴であった。
空堀によって区切られた本丸(写真前方)と手前の二の丸は細い土橋で結ばれていた。土橋の幅を狭くして、一度に多勢の敵が渡れないように作られていた。現在、土橋の遺跡は盛士で覆い保存されている。
二の丸は四方を崖と空堀で囲われ、中央は広い芝の広場で、周囲には河津桜を初め様々な種類の桜、梅、紅葉、柿等が植えられ四季折々の風情を楽しむことができる。現在、市民の憩いの場となっている。
二の丸の三方は空堀が廻らされている。写真は三の丸と二の丸間の空堀で最も深く堀底から大きな樹木が伸びている。
臼井城が廃城となり城割が行われると一般人もこの地域まで立ち入ることが許され、城の南西側に坂(エンノ坂)が整備された。これが江戸時代初期の佐倉道になったと云われる。それに伴い臼井の町並みは臼井城外(石神や臼井屋敷など)から城の南東部(村内)に移ってきて宿駅が作られ始まることになる。
真言宗豊山派寺院で暦応元年(1338)創建とされる。本尊の不動明王は岩戸城主胤安の持仏と伝わる。臼井興胤は、自身が臼井の本領に復帰することができたのは不動明王の加護と胤安の忠節によるものとして、城東字小笹に一宇を創建したと伝わる。後に現在の地に移された。
春には境内の藤棚から花が花火の如く垂れ下がり、地元では臼井八ヶ寺(花)のひとつ「藤の寺」とも呼ばれる。
伝説によると、臼井祐胤亡き後、家督を継いだ幼い竹若丸を志津胤氏が暗殺しようとする企てを察知した乳母の阿辰は密かに竹若丸を助けて鎌倉に逃した。そのため自身は胤氏に追われ印旛沼の畔の芦原に一時隠れたが、咳をしたため捕まり殺害されてしまう。
延享4年(1747)に造立された石祠で、地元では「おたつ様」と呼び咳神として信仰されている。
『成田土産名所尽』の「臼井印旛沼の景」にも描かれている佐倉道沿いの「お猿の松」付近に建てられた庚申塔である。