🔳佐倉市 井野地区の散策(2025-10-10)
編/ さくら道26
編/ さくら道26
江戸時代初めから享保年間に上座・志津・井野の新田が開発されるまで、佐倉道(以後、元佐倉道と呼ぶ)は現佐倉道より北の方を通っていた云われています。今回の散策は「ユーカリが丘イオンタウン」東側に在ったとされる井野一里塚跡から元佐倉道に沿って井野・加賀清水を目指し、そして井野の佐倉道・常夜燈までを歩きます。
井野地区は大和田宿と臼井宿の中間に位置し、当時は起伏の多い野原が広がる土地でした。現在は大型住宅開発により当時の遺跡は少なく、また当時を知る資料も乏しいのが実情です。
ここから出発しました。
地元では、この辺に元佐倉道が通じていたと伝わる。
イオンタウンの東側に造成された「一里塚公園」がある。この辺りの地名「字一里塚」は元佐倉道の一里塚に因んで付けられたと伝わる。残念ながら、現在は一里塚の遺跡は残っていない。
イオンタウンを過ぎて元佐倉道を西に向かって進む。写真の右前方へ曲がる道は中世の江戸~下総を結んだ道とも云われる(諸説あり)。
元佐倉道は、志津中学校の中を貫いていたとされる。
加賀清水へ向かう道端に並ぶハロウィンの飾りもの。
住宅地の真ん中に緑地が突然出現する。
加賀清水は現在公園として保存されている。ここの湧水は高野川、上小竹川、井野川、手繰川を経て印旛沼に注ぐ。
公園の中央に建つ赤い鳥居の厳島神社。由緒は不詳。
鳥居の裏に2基の石塔が建てられている。
この湧水地は元佐倉道沿いにあり、もとは井野清水と呼ばれていたが、佐倉藩主大久保加賀守忠朝(1661年~1683年)が愛飲し、江戸へ往来の折に必ず立ち寄ったことから加賀清水とも呼ばれるようになったと云われる。
後に、佐倉道脇の茶屋「林家」がこの湧水を客に振舞って繁盛したと云う。
加賀清水は平成30年に日本遺産に指定されている。
ただ、最近、周辺地域は都市化が進み、湧水の量が減ってきている。現在、湧水が涸れないように、行政と地元の方々が協力して雨水浸透マスを設置したり、歩道の透水性舗装整備を実施している。
加賀清水の西側に建ち、文化年間(1804~1817)に創立と伝わる。祭神は五穀豊穣の神・蒼稲魂命(うがのみたまのみこと)である。
新本殿は昭和63年に建て替えられたものである。
由緒ある旧本殿は新本殿の裏に建っており見落としがちである。
加賀清水から160mほど南方向に進むと佐倉道(R296)に出る。そこに大きな常夜燈と道標群が建っている。
昭和になって、道路整備のため佐倉道は南側へ付け替えられ現国道296号となったが、常夜燈だけは当時と同じ位置に建てたまま保存されている。
3基の道標は佐倉道を挟んで茶屋「林家」の対面に在った母屋の前に建てられていたが、のちにこの場所に移設された。当時の写真と比較すると3基の道標の位置関係が左右逆に建てられている(理由は不明)。
中央の常夜燈(春日灯籠と呼ばれる)は、明治4年の『三峰山道中記図絵』に茶屋「林家」と一緒に描かれている。文政10年(1827)に造立されたものである。
右側の大きい成田山道標は七代目市川團十郎が天保2年(1831)に建てたものである。正面に「成田山道 是より北ェ半町清水原中有」、右側面に「天はちゝ、地はかゝさまの清水可那」と刻銘がある。
中央の成田山道標は明治27年に信集講社の岩田長兵衛が成田街道沿いに建てた道標である。右側面に「大和田□里井野新田」左側面に「うす井□里いの新田」との刻銘がある。
左側の道標は天保11年(1840)に日本橋小網町の豪商・鈴木金兵衛(俳号:古帳庵)が建てたものである。古帳庵夫妻の俳句と共に、正面に「舟橋へ四里」、「成田山五里半」と刻銘がある。