🔳市川市 中山法華経寺の散策(2024-12-13)
編/ さくら道26
編/ さくら道26
今回は、京成中山駅から地元ボランティアガイドの方に案内して頂きながら中山法華経寺を中心に散策しました。
日蓮は文応元年(1260)、幕府に『立正安国論』を提出したため迫害を受けることになりました。これを避けるため、日蓮に帰依していた下総若宮の領主富木常忍(ときじょうにん)と中山の領主太田乗明(おおたじょうみょう)のもとに身を寄せたといいます。この時、常忍は館に持仏堂(後に法華寺となる)を建て、太田氏は館を本妙寺とした。弘安五年(1282)日蓮聖人が入滅後、二つの寺は合体して正中山法華経寺となり、常忍は出家して日常と名を改め初代法華経寺貫主となりました。
法華経寺には日蓮聖人が尊崇する鬼子母神の御親刻尊像が安置されています。法華経行者擁護の守護神、安産・子育ての神様として全国の信者から信仰されています。
境内には数多くの史跡が残っており十分時間をとって散策することをお勧めします。
①京成中山駅
今回の散策の出発・ゴール地点。
②法華経寺黒門(総門)
参道の総門で、全体が黒塗りのため黒門とも呼ばれる。建立時期は明確ではないが江戸時代初期と云われる。
門の形式は高麗門と呼ばれ、柱は四角の本柱二本と丸い控柱二本で構成され、屋根は最上段に細長い切妻屋根、一段下にも直角に二つの小さな切妻屋根を掛けている。
正面中央に掛かる扁額は掛川城主太田資順の揮毫で裏面に寛政五年(1793)の刻銘がある。
③黒門から赤門へ向かう参道
この辺の参道は左右に商店や民家が立ち並び車の往来も多い。
④赤門右手の日蓮聖人像
高村光雲作・日蓮聖人像をモデルにして製作された銅像で、2012年に開眼式が行われた。
⑤法華経寺赤門(仁王門・山門)
仁王門、山門(三門)とも呼ばれ、二重の入母屋造の構造で、左右にそれぞれ仁王像が安置されている。
江戸時代末期の修築された記録があり、江戸名所図会にも掲載されている。
⑤赤門の扁額
法華経寺の山号を表した扁額「正中山(しょうちゅうざん)」は本阿弥光悦の筆である。
⑥赤門から境内へ向かう参道
赤門をくぐった参道の両脇には桜並木と法華経寺ゆかりの寺が続く。春は桜の名所となる。
⑦正中山遠壽院の入口
赤門をくぐり参道を少し進むと左手に、「日蓮宗祈祷相傳荒行道場」と書かれた白い門柱がある。遠壽院(おんじゅいん)の入口である。遠壽院は法華経寺の塔頭(たっちゅう)で、「荒行堂」とも通称されるように、正中山修法の相伝を使命とする加行道場として約400年の伝統と歴史を有する。
⑦遠壽院荒行堂
法華経寺の祈祷秘法は唯授一人の秘法とされ代々直接相伝されてきたが、第十代上人の時に初めて、一門の者から最も相応しい者を選び、その者に秘法相伝を託した。その時、選ばれた当院開基となる経王院日祥上人が天正十九年(1592)に新たな堂宇を建立したのが「荒行堂」の始まりである。
因みに扁額「荒行堂」は越中富山藩主前田利幹(としつよ)の揮毫で裏面に文政二年の刻銘がある。
⑦遠寿院の古木梅
文政年間(1818~1830)、越中富山藩主前田利幹が、前田家古伝に従い世継ぎ誕生を祈願して三植の紅白の梅の木を植樹したと伝わる。
⑧法華経寺境内入口の龍渕橋
この橋は法華経寺の結界とされ、橋の先は法華経寺境内となる。
欄干の擬宝珠(ぎぼし)はザクロの形になっている。ザクロは種が多いことから多産や豊穣の象徴とされ、安産や子育ての神として有名な鬼子母神の持ち物でもある。
⑨蒋介石胸像
1972年の日中国交回復の折、当時の住職が建てたもの。
⑩五重塔(国重文)
元和八年(1622)、本阿弥光室が両親の菩提を弔うために加賀藩主前田利光の援助を受けて建立した。塔の高さは約30mで近世の五重塔としては標準的な規模であるが、軒の出張りが少ないので細長い塔に見える。塔の中心は中空で、そこに長い心柱を天井から吊るしている。
⑪祖師堂(国重文)の正面
日蓮上人を祀る大堂、正中二年(1325)の創建である。現在の祖師堂は延宝六年(1678)に上棟されたものである。
⑫祖師堂の側面
祖師堂の造りは七間堂で、正面の横幅は26.5mあり、側面から見ると檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を二つ並べたような比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)の形式をもつのが特徴である。この造りの屋根は全国的にも例が少なく大変珍しい。
⑬銅造釈迦如来坐像
釈迦如来坐像(中山大仏)は青銅の鋳造で総高が4.52m、像高は3.45mである。享和四年(1719)に第五十九代貫首日禅上人を大願主として、江戸神田鍋町の鋳物師・太田駿河守藤原正義によって鋳造された。この大仏は当時、江戸近辺では最も大きい規模であった。
⑭日常聖人の像
日常聖人は元々下総国守護千葉氏の被官で富木常忍(ときじょうにん)と呼ばれ下総若宮に館を構えていた。鎌倉時代中期に日蓮に帰依してその有力な檀越(だんおつ)となり法華寺を建てる。そして日蓮聖人が入滅後、太田氏の本妙寺と合体して法華経寺が誕生すると、常忍は出家して日常と名を改め法華経寺の初代貫主となった。
⑮日蓮宗大荒行堂
日蓮宗の新しい荒行堂で、三大荒行の一つに数えられる大荒行が11月1日から2月10日まで100日間に亘りこの建物内で行われる。今回訪問時は丁度、修行中だったようで道場から経の読誦や床の鳴る音が響いていた。
最近、一般の人も荒行僧から祈祷を受けられるとのこと。
⑯本院(太客殿)
玄関ホールの右側に寺務所があり、左側には休憩できる場所もある。
⑯鬼子母神堂
本殿の奥深くに鬼子母神堂があり、日蓮聖人御親刻の鬼子母神尊像が安置されている。
中山の鬼子母神は法華経行者擁護の守護神、安産・子育ての神として全国の信者に信仰されている。
⑰宇賀神堂
法華経寺の守護である宇賀徳正神の本社である。財福の神として知られる。
⑱法華堂(国重文)
法華堂は法華経寺の本堂で、本尊は釈迦・多宝両尊像である。創建は文永年間(13世紀後半)に富木常忍(ときじょうにん)が若宮に建立し、後にこの中山に移したと伝わる。現在の法華堂は室町時代後期に再建されたものである。もとは祖師堂と同じ地盤に建っていたが江戸時代中期にこの場所に移された。
正面の扁額「妙法花経寺」は本阿弥光悦の作である。
⑲四足門(国重文)
建築形式は四脚門、切妻造、屋根は杮葺き(こけらぶき)で、室町時代後期の建築とされる。元は鎌倉の愛染堂に在ったものを移築して法華堂の正門とした。明治になって現在の場所に移された。
⑳刹堂(せつどう)
刹堂は鬼子母神堂とも呼ばれ、正面に掛けられた扁額には「鬼子母神」と書かれている。将軍家光公の時代に鎌倉に建てられたものを移築したものと云う。優雅な屋根の入母屋造や見事な彫刻などから有名な名匠や名工による建築とも伝えられる。十羅刹女(じゅうらせつにょ)、鬼子母神、大黒様を祀っている。
㉑妙見堂
千葉胤貞の猶子である法華経寺第三代貫主日祐上人は胤貞の庇護を受けて法華経寺の基礎を築いた。日祐上人は胤貞の父の遺骨を安置し、胤貞流千葉氏の氏寺にした。
㉒墓地高台から境内を眺望
境内で一番の眺望が開けた場所だとか。
㉓本阿弥光悦の墓
墓地の最奥(南側)にひっそりと置かれている。
㉔八大龍王堂と龍王池
日蓮聖人開眼の八大龍王を祀る御堂と御池。日蓮が雨乞いをしたと伝わる
㉕参道の茶屋
㉖清華園
参道の黒門近くにある旧邸宅と庭園で平成4年に市に寄贈された。偶々、竹久夢二の作品展を開催していたので鑑賞することに。
㉖清華園の竹久夢二展
散策の最後に夢二の美人画を鑑賞できて満足であった。その後、京成中山駅に戻り解散。
【後記】-市川散策-
四十年ほど前、私は東中山の駅前のアパートで、今は亡き妻と新生活を始めました。その時に屡々散歩したのが中山法華経寺でした。
今回の見学は、久しぶりに境内を巡りながら、自分の思い出と古刹の悠久の歴史を同時に感じながら、時の流れの中に浸ることができました。
往時の「さくら道」を歩いた人々も同じ思いで参拝したのかもしれません。 (H.K.)
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