🔳宿場町の馬渡から坂戸まで歩く(2024-05-24)
編/さくら道26
編/さくら道26
馬渡・坂戸は佐倉市の南部地区である。印旛沼に注ぐ鹿島川の中流域に位置し、南側は四街道市・千葉市と境界を接している。
この地域の歴史は古く、中世には幕府内の勢力争いに巻き込まれて鹿島川流域でも幾度も勢力争いが繰り広げられる。軍事的に天然の堀として使われた鹿島川沿いには城・城館・塁などと呼ばれる遺跡が数多く残っている。
また、この地域は古くより交通の要衝であった。古代には律令政府が東征のため常陸国府に至る官道・古東海道を整備したが、この地域を通過していたとする説が有力である。江戸時代になると古東海道は佐倉藩により佐倉城下と千葉湊を結ぶ佐倉道として整備され、その中間地点にある馬渡は藩の継立場(馬渡宿)として明治時代まで繁栄した。
時代が変わり総武鉄道や国道51号線が開通すると旧街道の交通量は激減したが、馬渡全域が市街化調整区域に指定され宅地の新規開発が制限されたため今でも宿場の遺跡や趣が残されている。
一方、坂戸も古くより九十九里浜・上総国から千葉や船橋方面へ通じる街道の継立場であった。18世紀後半になると九十九里浜から〆粕や干鰯などの運送が増加して街道は干鰯道とも呼ばれた。今も街道沿いに「新宿」や「西宿」などの地名が残っている。
今回の散策は、馬渡宿を巡った後、鹿島川流域の早苗田や新緑の自然を楽しみながら辺田道を歩いて干鰯道の継場・坂戸まで訪れた。
八坂神社入口バス停
バスを降りると目の前が「松の下の墓地」の入口。 今日の散策の出発地点である。
①新堂の虚空蔵菩薩
入口付近の新堂に真言宗の代表的な虚空蔵菩薩(石像)が祀られている。この菩薩の由緒は不詳である。
①六地蔵
墓地の右手奥に等身大の六地蔵が立ち並ぶ。馬渡橋近くで問屋・名主を務めた実川清右門が、この墓地を寄付時に地蔵も造立と云われる。
紀年銘から、六地蔵は天正21年((文禄2年?)1593)~延宝4年(1676)、六角塔は延宝4年(1676)の造立と推定する。使用石材は四国から船で取り寄せたと云われる。
②まわたし百観音の参拝路
公園内の参拝路に入ると左右にそれぞれ秩父三十四観音と坂東三十三観音、中腹より最奥まで西国三十三観音の合計百観音が立ち並ぶ。
②板東三十三観音
②最上部の大日如来像
②秩父三十四観音
②中腹から大日如来像への参拝路
百観音参拝路を登ると最上部にヒラドツツジの植栽で囲われた大日如来像の社がある。紀年銘から元治元年(1864)の造立で、馬渡百観音も同じ頃の構築とされる。
②中腹に建つ子規の歌碑
「つき寒し 宿とり外す ひとり旅」
正岡子規の歌碑は参拝路の中腹から八坂神社へ向かう踊り場に建っている。馬渡に投宿時に詠んだ句とされる。他にも同じ意趣の句があり子規は宿探しで難渋したようだ。
③八坂神社境内社の山王神社と稲荷神社
百観音の中腹から八坂神社の裏に下りていくと境内社の小さい山王神社・稲荷神社がある。
③八坂神社拝殿
更に下りていくと八坂神社正面に出る。八坂神社の祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)。本殿は享保19年(1734)の創建で京都の八坂神社を本社とする。
③境内社の三峯神社・天神社 と御神木の杉
境内右手に、御神木の巨木杉(樹齢250年以上、市指定文化財)がある。また境内社の小さい三峯神社・天神社もある。
③八坂神社鳥居と参道階段
見過ごしそうだが、参道石段の最上段に小さな石碑が建っている。劣化の為辛うじて「別當・重正寺住亮元」の銘が読める。別当寺の住職が石段・石灯籠・手洗石を奉納したとされる。これは、その記念碑か?重正寺は馬渡宿の北側「字入」にあったが廃寺となり由緒も不明。
参道正面の階段は急なので、右側の緩やかな坂道から降りることをお勧めします。
④佐倉道と酒蔵「旭鶴」
八坂神社の北東側(「コミュニティまわたし」付近)に、善養院の境外仏堂・薬師堂があったが、大正7年に善養院に移し本堂とした。現在跡地に石碑が建てられている。
⑤旧旅籠「蔦屋」
本宿の最も千葉側(消防分署前)に江戸時代の旅籠「蔦谷(つたや)」があった。現在、街道筋に面した二階建は主家で、江戸後期の建物とされ当時の趣が残っている。当時は大きな旅籠で、奥には二階建ての奥座敷があり、さらに屋敷の裏に大きな馬小屋(10頭)もあり、大正末期に興行師が象を連れてきたことがあるという。問屋の機能も持ち、明治期には駅伝取締所であった。
⑥佐倉道と酒蔵「旭鶴」
田中酒造店は天保元年(1830)の創業。八坂神社脇の天然水(まろやかな中軟水)が酒造りの源になっていて馬渡宿の酒蔵として繁盛した。明治22年、町村制施行により馬渡村は合併し「旭村」となり、「旭鶴」の名前の由来となった。
⑦旅籠「上総屋」跡
「旭鶴」の店舗がある街道沿いに元は旅籠「上総屋」があった。大正期に焼失した「上総屋」の土地を「旭鶴」が買い取り現在に至っている。
正岡子規は明治24年3月26日の早朝、船橋を出発して宗吾社、成田山と廻り、漸く馬渡に辿り着き投宿したのが「上総屋」だったという。紀行文『かくれ蓑』に「宿馬渡 蹠(あしうら)多豆」と書いている。その日は長距離歩いた為、足裏に沢山豆ができて痛かったのであろう。
また国木田独歩も上総屋に投宿したことがあるという。
⑧慈光山善養院全福寺(真言宗豊山派 )
地蔵菩薩を本尊とし千葉市若葉区金親町の金光院末である。創建は不詳だが、承応年間(1652~1654)の墓石や延宝年間(1673~1680)に逝った住職の墓石がある。
近年まで、八坂神社周辺に境外堂の虚空蔵堂・阿弥陀堂・薬師堂を擁していた。大正5年の火災で本堂が類焼したため、大正7年八坂神社の北東(「コミュニティまわたし」付近)にあった薬師堂を移築し本堂とした。本堂は江戸時代後期の建造物である。
⑨新旭橋と鹿島川
古くから、この辺りに鹿島川の渡河地点又は橋があったとされ、佐倉風土記に「馬渡橋」と記載されている。現有の旧・新「旭橋」はそれぞれ昭和38・48年に建造されたものである。
また橋の少し下流に河岸があり印旛沼に通じる水上交通路があったという。
⑩馬渡馬場城館跡 西側の土塁と空堀
鹿島川近くまで張り出した低い台地端に構築された半町四方(55m×55m)の館跡である。周囲を土塁で囲われ、西側には空堀と食違い状虎口を有するとされるが、竹藪で覆われ辛うじて形跡を見ることができる状態である。
15世紀後半から16世紀のもので、鹿島川の渡河点を抑えるための城館と比定されている。
⑪馬場城館内の延命山千手院千蔵寺
馬渡馬場城館の中に質素な寺が建っている。臼井実蔵院末で、虚空蔵菩薩を本尊とする。創建年代は不詳だが、裏の古い墓地に寛文年間(1661~1672)の宝篋印塔が4基認められている。
寺では長年、子授け地蔵の行事が行われている。仏像を授かった人は家に持ち帰り、願いが叶うと、その仏像と合わせて二体の仏像を奉納する。年々その数が増えて千躰仏と呼ばれている。
⑫鹿島川沿いの早苗田と辺田道
馬渡から坂戸まで鹿島川沿いの辺田道を歩いた。道中、水を張った早苗田からサギが飛び立ち、新緑の里山からはキジや小鳥たちの鳴き声がしきりに聞こえ一時疲れを癒す。道端でメンバーの一人が偶然四つ葉のクローバーを見つけ、誕生日の人にプレゼントする一幕も。
⑬坂戸追分の巡拝塔(道標)
巡拝塔には
「[梵字]秩父三十四番供養塔::
嘉永3庚戌年(1850)十一月 吉日:
右<むわたし/さくら/なりた>:
左<山なし/うすい/をうわた>::」
と刻まれ、ここが坂戸から馬渡と山梨方面へ行く道の追分であったことが分かる。
⑭坂戸八幡神社
祭神は誉田別命、応永年間(1394~1427)の創建。古来、字尾牛にあった八幡宮を、この地に移住する住民が一緒に遷移させようとしたが、尾牛に残る住民の反対で叶わず、この地(字馬場)に2つ目の八幡神社を建立した。
初代岩富城主原景弘一族の子孫にあたる原近江守胤春の氏神と伝わる。
⑮金剛山願正院西福寺(浄土宗)
良栄上人が応安年間(1368~1374)に開基した。現在知恩院末である。12世紀末頃、千葉介胤正が7体の阿弥陀仏を作り領内7か所に祀り阿弥陀堂を建立したうちの一つと伝わる。
当寺に伝わる「坂戸の念仏踊」(県指定文化財)は良栄上人が創始し伝承されたと伝わる。
⑮西福寺の鐘楼
大きな鐘楼が高さ3m程の土手の上に聳え立っている。寺の周囲に廻らされた高い土手を坂戸馬場城館の「土塁」とする説もあるが確かなことは分からない。
⑮境内の大銀杏
境内に見事な大銀杏がある。推定樹齢650年前後で市指定天然記念物である。
⑮大銀杏の幹の大きさを測ってみた
延享3年(1746)の『坂戸村明細帳』に大銀杏の大きさが記録されている。
「銀杏1本、5抱え(いちやう壱本 五かかえ)」
どれ位大きくなったか、遊び心で手と繋いで輪をつくり幹の大きさを測ってみた。
「銀杏1本、11抱え」
約300年間で約2倍の大きさに成長していた。銀杏の生命力、恐るべし!
⑯DIC川村美術館の休憩施設
散策のゴールDIC川村美術館に到着し美術館の休憩施設でしばし休憩させて頂く。まだ新しい施設で12名全員が囲める大きなテーブルがあり冷房も完備して、なんと無料。DICさん太っ腹!
今日は今年初めての真夏日。小一時間談笑しているうちに汗もすっかり乾いて、さあ家路へ。お疲れ様でした!
【後記】
字松の下の堂に無限の力であらゆるものを全て救うという虚空蔵菩薩や等身大の六地蔵、百観音の観音像や宿さがしに難儀した正岡子規の歌碑など祀られている仏、碑を拝みながら八坂神社に向かう。神社境内に神輿の納められている建物が見える。どうやら行徳から船で運んだと伝わっている。神社をあとにして善養院、千蔵寺へと。この寺では子授け地蔵の行事が行われ、仏像を授かった人は願いが叶ったら二体を奉納し、その数が増えて千体仏と呼ばれている。
次に坂戸八幡神社、西福寺へ巡る。3mの土手の上に大きい鐘楼がある。どうやら坂戸馬場城館の土塁という説もあるが確かではないかと思われる。また境内に推定650年の大銀杏がある。この大銀杏のまわりを11人で手をつないでみた。なんと立派な銀杏だろうか。幼い頃遊んだ友達を思い出し、みんな元気ですか~と故郷を思い出した。
いにしえの佐倉をもっともっと知りたくなりました。(馬渡・坂戸散策を終えて K.H.)