🔳弥富の史跡巡りと自然散策(2024-04-05)
編/さくら道26
編/さくら道26
弥富地区は佐倉市の南部に位置し、北は佐倉市の和田地区と根郷地区、東は八街市、南は千葉市、西は四街道市に接し、中央を鹿島川とその支流弥富川が流れ、広い田園地帯と森林を有している豊潤な土地である。
中世になると、岩富に城が出来(以前にも有力者がいたと思われ、弘安10年(1287)の板碑が出土している)原氏が入って来た。原氏も初めて岩富に来た時は、長福寺の隣の殿山(小字)に砦を作ったのではないかと言われており、今も城の地形が残っている。しかし原氏も小田原の北条氏が滅亡した時一緒に滅びている。
豊臣秀吉に敗れた相模国甘縄城の北条氏勝は、家康の計らいで、岩富一万石をもって封ぜられた。氏勝が岩富に入ったのが天正18年(1590)、養子の氏重が下野富田に所替になったのが慶長19年(1614)でわずか24年だった。その後、弥富は佐倉藩領になり、江戸時代は戦の無い平和な時代であった。
明治に入り17年に岩富町(武士が住んでいた所は町と呼ぶ)岩富村、七曲村、西御門村、宮内村、飯塚村、内田村、坂戸村(八村)が連合し、役場を岩富町に置くことにした。しかし各村は財力がなかったので、明治22年に協議合併して弥富村が誕生した。
昭和29年3月30日付けで弥富村の名称を解消し岩富町・岩富・飯塚・内田・坂戸・七曲・西御門・宮内は佐倉市に合併した。
①旧弥富小学校校舎
千葉県に残る数少ない木造校舎で昭和28年又は30年に落成し、70年の歴史がある立派な文化財である。
現在、校舎は佐倉市文化財関連の倉庫として活用されている。
②「弥富聖人」の顕彰碑
中世から伝わる佐倉藩外不出の立見流武術が今も岩富の第22代皆伝加藤氏に継承されている。
第19代皆伝加藤久氏は人格者で、関東震災時、佐倉で虐殺の危機に瀕した朝鮮人6名をただ一人で庇護し内務大臣より表彰されている。数々の功績を讃えて地元では「弥富聖人」と呼び、教蔵寺境内に顕彰碑が建てられている。
③京隆山教蔵寺
日蓮宗寺院本土寺末で、享徳元年(1452)平賀本土寺9世日意上人の開山とされる。天文年間(1532~1554)以前、原左衛門尉朗純による再建開基説が有力とされる。日意上人は当山を拠点に下総・上総の各地に教線を張ったとされる。
後世の本土寺30世日迅は子弟を集め当寺の本堂で教育を始め、明治5年学制発布と共にそのまま弥富小學校の前身・飯塚分教場となった。
④岩富八幡神社
岩富八幡神社は領主となった北條氏勝が鶴岡八幡宮を勧請して慶長14年(1609)に創建したとされる。
社格は村社で、明治43年道祖神社を合祀している。
⑤岩富町の街道と宿場跡
岩富町は江戸時代後半から干鰯などの物流の仲継で繁盛した所で、今も当時の趣が残る街並みが見られる。
今回、親切にも大きな屋敷のご当主に屋敷内を案内して頂き、岩富宿の歴史についてもお聞きすることができた。屋敷奥には城郭の土塁が残っており、岩富城測量図によるとⅢ郭の土塁とされる。大変貴重な経験をすることができ、ご当主に感謝したい。
⑥岩富城の登城口
街道の左手に突然、登城口(浅間神社の鳥居)が現れる。ここから真っ直ぐ上り土橋・虎口を抜けると主郭・浅間神社に到達する。
ちなみに街道の右手(登城口の反対側)の細い道を入ると「字下宿」で侍集落があった場所とされる。鍵型の道や陣屋の家など、痕跡が残っているという。
⑦岩富城の主郭土塁
岩富城は、文明年間(1469-1487)に原左衛門尉景広が築城したとされる。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより弥富原氏が滅んだ後、北条氏勝が岩富城主として入城、氏勝の養子氏重が慶長18年(1613)に下野国富田へ転封され、岩富城はわずか24年で廃城となった。
鹿島川に面する台地端に主郭跡、周囲の土塁、空堀および虎口などが今もしっかり残っている。
⑧主郭土塁と浅間神社
主郭の西端土塁に沿って進むと最奥に岩富浅間神社がある。創建年代等は不詳である。明治の社格では無格社とされている。
⑨岩富の自然豊かな田圃道
岩富城から長福寺まで田圃脇の道を歩きながら水鏡や田園風景を楽しむ。
途中、右手に硬式少年野球「佐倉リトルシニア」野球場が現れる。全国優勝8回の名門で今年プロ注目新人DeNA度会選手の出身チームである。
ここを左に行けば弥富川を渡り参道入口に着けるはずが、まさか迷路の畦道で迷子(老人?)になるとは…
⑩長福寺参道と殿山
険しい参道の中腹は「字殿山」と呼ばれ、岩富城築城以前に弥富原氏が一時的に滞在したとか、隠居所があったとか言われるも確たる情報がない。
⑪勝興山長福寺
日蓮宗で平賀本土寺末。岩富城主原景広は本土寺九世日意上人に帰依し、文明2年(1470)当寺を建立して弥富原氏代々の菩提寺としたと云われる。
⑫長福寺梵鐘
台風被害から再建された鐘楼に元禄七年(1694)在銘の梵鐘(佐倉市指定有形文化財)がある。
鐘の池の間(中帯の上)のうち二区に鋳込まれた銘文には「元禄七年十七世日堯の時に、江戸深川の工人田中七右衛門尉藤原重次が鋳造したことや長福寺の由緒」が記されている。
梵鐘は、総高は145センチメートル口径は76センチメートルで駒の爪(鐘の最下部)が太く外に出張る形(江戸時代の梵鐘の特徴)を備えている。
【後記】
岩富城跡は、その歴史的な重要性と美しい景観が印象的でした。
次に、八幡神社、長福寺、教蔵寺など、佐倉市弥富地区の歴史的な社寺を訪れることで、地域の信仰と伝統を感じることができました。これらの場所は、地元の人々の生活と信仰が深く結びついていることを示しています。
また、谷津田や里山を巡る風景は、自然と歴史が調和していることを示しており、非常に落ち着いた雰囲気を感じることができました。
全体として、佐倉市弥冨の史跡めぐりは、地域の歴史と文化を深く理解するための素晴らしい体験ができ、とても良かったです。 (Y.T.)