🔳佐倉市 上志津の散策 (2025-06-13)
~謎の志津城跡とその周辺を巡る~
編/さくら道26
~謎の志津城跡とその周辺を巡る~
編/さくら道26
上志津は志津駅の南側に位置する舌状台地です。この地域には古くよりと臼井一族(或いは千葉家系の豪族)が居館を構え地名と同じ志津氏を名乗っていたとされます。
鎌倉時代、千葉一族から分流した臼井氏は臼井城臼井佑胤を中心に大きな勢力を持っていて、弟たちに周囲の志津、師戸、岩戸に支城を築き守り固めさせていました。弟の次郎胤氏は志津郷に入り志津城を築き、それ以来志津次郎胤氏と名乗ります。
今も、この地方には、鎌倉時代末期から室町時代初めにかけて起きた志津胤氏と臼井一族との内訌について有名な伝説が残っています。
「正和3年(1314)、臼井城主臼井佑胤は志津胤氏に3歳の子息竹若丸の後見を託して、25歳の若さで病死しました。 そこで胤氏はこれを機に竹若丸を殺害し自らが城主になることを謀りました。それを女中の多津から聞いた岩戸城主岩戸胤安は山伏の姿に変装して竹若丸を笈に隠して助け出し岩戸に連れて帰りました。さらに鎌倉に走り建長寺の仏国禅師に竹若丸を託しました。竹若丸の逃亡を知った志津胤氏は多津を殺害し、さらに岩戸城も攻撃し胤安と妻子を自害に追いやりました。それから志津胤氏は臼井城に居座り続けます。
時は経ち、鎌倉で元服した竹若丸は行胤と名乗り、暦応元年(1338)足利尊氏に推挙され本領の臼井城を賜り臼井興胤と改名しました。幕府は千葉介貞胤に対して、胤氏を臼井城から退去させ主従の礼を示すように命じます。しかし、その後も胤氏は不遜な態度をとり続けたため、興胤は後顧の憂いを断つため志津城を攻撃し胤氏と妻を自害させました。その後、志津城は廃城となりました。」
この伝説には多分に史実を包含しており、この地域の歴史をこよなく愛する人達にとっては非常に興味深い伝説です。
今回の散策では、歴史的背景から中世の遺跡を期待していたが、意外と江戸時代以降の遺跡がほとんどでした。その空白部分は伝説に思いを馳せて埋めることにしました。
今回はここから出発します。
上志津の新田開発が行われた時期は享保15年(1730)・寛保2年(1742)(「佐倉市史」に拠る)とされるが、ここの石仏の制作時期は全てそれより後年である。石仏群の配置状況からみて別の場所から集められたと推察されるが、その経緯は不明である。
左から二基は二十三夜塔で最古は最も左側の享和元年(1801)である。左から3番目は庚申塔で嘉永6年(1853)の刻銘がある。
右手の8基は馬頭観音で、前列右から4番目が最古で明和3年(1766)の刻銘がある。
豪快な人柄と歯に衣着せぬ物言いから「毒舌和尚」と呼ばれ親しまれた。晩年を妻の出身地志津で過ごし79際で人生を終えた。旧宅は周りを竹林に囲まれた閑静な場所にあり、今でも綺麗に手入れされている様子が窺える。
標高16mの台地上が志津城跡と云われる。周囲に腰曲輪があるのみで明確な遺構は確認されていないが、14世紀前半の館跡と想定されている。志津城は臼井城の支城の一つで臼井昌胤の次男・志津次郎胤氏の居城であったとの伝承がある。長年胤氏と臼井一族には内訌があり、1340年臼井家惣領・臼井興胤は、ついに志津城を攻め胤氏は自刃した。志津城はそのまま廃城となった。現在も志津地区には志津姓を名乗る家が多く残っている。
ケヤキ、アカガシ、スダジイの古木が高台を取り巻く。神社の創建が寛永3年(1626)と云われており、それより200年以上前から、この形状で遺構が存在し続けたことの証左である。
志津城跡は社殿が建つ境内とその奥に数m高い台地の二層から構成されている。城は二郭構造であったと云われるが、現況からは判然としない。
元々妙見菩薩を祀っていたが、創建は寛永3年(1626)と伝わる。明治時代に神仏分離令で天御中主神に祭神が改められた。社殿の彫刻は茨城県稲敷郡の小林寅次郎の作で「来迎雲に翁と姥」。
境内地は二層構造(二郭?)になっている。
昭和63年、志津城跡の境内地にある雑木林に埋納されていた古瀬戸灰釉瓶子が発見された。
出土した古瀬戸灰釉瓶子(写真出典;佐倉市デジタルアーカイブ)は高さ26.4cm、胴部径16.4㎝で内部に火葬骨が充填されていた。制作時期は形態から14世紀前半で、市内では類例がなく貴重な史料とされる。
後で調べてみたらミモザの種と判明し、ミモザの花のようなモヤモヤが晴れてスッキリ!
佐倉藩堀田家の配下であった御子孫のお屋敷で、母屋は文政元年(1818)の建築という。
清水山西福寺は真言宗豊山派で、400年ほど前に千手院の隠居寺として建てられたという。寺の東口左側には秩父観世音菩薩供養塔が12基ある。
寺の東口右側には子安観音供養塔が20基立ち並ぶ。
現在の本堂は昭和41年に再建されたものである。本寺は明治時代、井野小学校として使われたことがある。
境内の右奥に建ち高さ190㎝である。左側面に「享保十二年(1727)の刻銘がある。
境内の周りには樹齢400年のイチョウ、カヤ、ケヤキの大樹が保存されている。
寺の山門の左側高台に15基の出羽三山参拝記念碑が建っている。新しそうな記念碑の周りに5本の竹飾りが立っていた。その新しさから最近行われた宗教行事のものと思われる。前にも見たことがある気がするけど何だろう?神秘的で興味をそそられる。
実は、これは梵天と呼ばれ竿竹に藁と3色の垂れ紙で作られているそうだ。西福寺には上志津八日講があり、およそ10年毎に適齢期の同年代の人達で出羽三山に参拝した後、一緒に行った仲間で講を作り代々この行事を引き継いできたという。最古の記念碑は安政7年(1795)で、最新のものは平成21年(2009)である。230年間に15基の石碑が建てられたことになる。地元民の信仰心の厚さに驚いた。
八幡神社の登り口の前にある小さな神社。祭神は天日鷲神と云われる。由緒不明。
十数段の階段を登りきると鳥居がある。
鳥居から先は舗装された参道が伸びる。
舗装された参道を過ぎると飛び石の参道が続く。
社殿が見えるようになると土の参道になる。足跡を付けるのが申し訳ないくらい綺麗に掃き清められている。
創建は天御中主神社と同じ寛永3年(1626)とされる。中の社殿を保護するためにトタン屋根で覆ってある。
茅葺屋根の社殿。4つの壁面には神話を題材とした彫刻が施されている。正面には「母・神功皇后と応仁天皇の誕生」、裏面には「天の岩戸開き」の様子が彫られている。
八幡神社の社殿壁際に置かれたり、周囲の木々に吊るされた竹ひご編みの球体が数個ある。何の目的で置かれているのか謎めいている。
後で地元の方に聞いたところ、志津城跡に建つ「天御中主神社」が2026年に創建400年を迎えることから、記念イベントの一環で竹で編んだ竹ボールを7個製作し、志津駅南口で年末・年始に「竹灯り」を点灯したものと分かった。
帰りは八幡神社の参道途中で右に逸れて「上志津の杜」を下っていくと自然豊かな緑地公園に出る。
「憩のひろば」
(三つの不思議)
西福寺山門左の高台に出羽三山参拝記念碑と碑を囲むように立てられた竿竹、その先端の飾り物。“ん”こりゃなんじゃと思いながら、道の反対側を眺めると木立が続く高台、「あれ、こんな風景あったかな? ここ、上志津?」と首を傾げ。
その先の「八幡神社」では竹ひごで編まれた大玉が木々に吊るされている。何故? 何とも不思議!
数年前に散策した所だけど、リピート散策も面白い。 ( by M. I. /Mr.)